第一話 発端
『縁』とは、強大で『時』と共に流れる奔流である。
人はその流れに乗る小さな浮き船で、自らの手で進路を決めたり大きなうねりに飲み込まれたりしながら、短い一生を終えてゆく。
あらゆる生物に等しく与えられるそれは、独りでは生きて行けない地球上のどんな生命体にとっても、運命という名の奇跡である。
春。四月某日。
まだ少し冷たい風に吹かれて、薄青色の空へと桜の花弁が狂ったように舞い踊っていた。陽射しは柔らかく地上へと降り注ぎ、新芽が濡れたように光る芝生では、あちらこちらに蔓延った雑草が小さな花を咲かせている。
構内には人気が無く、植物の呼吸が聞こえてきそうなほど静まり返っていた。それもそのはず、本日はこの学校―――
久我工業高等専門学校、通称、
創立五十周年を超え、土木・建築・機械・電気の四学科を有する五年制の工業専門学校である。
元々は男子校として開校したが、十数年前から女子学生の入学も受け入れ始め、現在では全校生徒の三分の一を女子が占めている。
広大な敷地内には寮も併設されており、県内外を問わず入学希望者は多い。子供の数が少なくなった現在には珍しく、定員に満たなくとも入試で一定の点数を取れなかったものは容赦なく落とされてしまう。
建築デザイナーが各方面で目覚しい活躍をしており、その影響か毎年、建築学科は入試倍率が三倍を越える人気ぶりだ。次いで土木・電気・機械となっているが、意外にどの学科も倍率は二倍を下らない。工業高校にしては高い倍率を誇っているのも、学費の安さとそれ以上にしっかりした学術基盤があるからだった。
時間を経て古びた四階建ての校舎が並ぶ構内。元は白亜の美しい建物であったのだろうが、風雨にさらされてどの校舎も煤けた灰色を帯びている。飾り気のない、ただただ四角いだけの建物が沈黙と共に時の経過を告げていた。
そんな厳かな雰囲気の構内を、
新しい生活、新しい制服。目に写るすべての物が未来を彩るように光輝いて見える。どんなに古ぼけた校舎でも、晃にとっては希望と期待の象徴でしかない。制服には、まだしっかりと糊が効いており少し動きづらいが、心を踊らせる晃にとっては障害にすらならなかった。
晃は今日ここへ入学する生徒の一人だ。昨日学生寮へ移り住み、新しい家族とも言える同年代の子たちとの新生活をスタートさせている。今日の入学式を終えれば、本格的に高校デビューというわけだ。いやが上にも気持ちは高まる。
歩調でリズムを取りながら歩いていた晃の前方に、第一体育館の入口が見えてきた。入口前の道には新入生の人山ができている。最後尾が横一列に揃っているということは、どうやら入場のための整列は終了しているようだ。
晃は立ち止まり、一見無秩序に見える列をやや遠くから眺めた。思いおこせばこの一年、引き出しの少ない脳味噌を酷使し、寸暇を惜しんで勉強してきた。入試対策のテストではいつも判定がB。合格発表で自分の番号を見つけた時は一生分の運を使いきったと思ったほどだ。
感慨深くその光景を見つめていると、列の中程から一人の美少女が転がるように飛び出てきた。長く艶やかな髪を揺らして、彼女はキョロキョロと辺りを見回している。
晃はおもむろに歩き始めると、その少女へ向かって手を降った。
「よう、ハル。出迎えご苦労」
彼女は勢い良く振り向くと慌ててこちらへ駆け寄ってくる。
「あっちゃん、何処まで行っていたの」
「トイレに行くって言っただろ」
「ちがう。何処まで行ったのかって聞いたの。トイレなら見えるところにあるじゃない」
そう言って彼女が指し示す方向には、コンクリート造の小さな小屋が建っている。小屋には扉が二つ付いており、一つは更衣室、もう一つには手洗いのプレートが張り付いていた。
「知ってはいたけど、昨日は学校探検が出来なかったからな、トイレのついでに校舎の中も見ておこうかと思ったんだ。結局、入ったのは建築学科の校舎だったらしくて、成果はいまいちだった」
「点呼が始まってから学校探検なんてしないでよ。一人足りないから、先生が大騒ぎしていたのよ」
「仕方ないだろ。出るもんは出る。生理現象ってやつだ」
「そっちのことを言ってるんじゃないんだけど・・・・・・」
美少女―――
春奈は晃の親友であり幼馴染だ。実家が隣同士で、生まれたときから一緒に育ってきた家族と言ってもいい存在である。
そして、人目を惹くほどの美貌の持ち主でもあった。大きな瞳を長い睫がびっしりと縁取り、肌は透き通るように白い。鼻梁はすっと通っており、形のいい唇が小さな輪郭の顔にバランスよく配置されている。春の日差しに輝く漆黒の髪は、これまで一度も寝癖を味わったことがなさそうなほど真っ直ぐに背中まで垂れていた。
昔から近所でも評判の美人であったが、昨日の入寮の際、周囲の人間がぶしつけなまでに春奈をじろじろ見る姿を目の当たりにして、晃は改めて彼女の美しさを認識するに至った。
晃から見ても春奈は可愛いと思う。が、鏡に映る自分よりも見慣れた顔に、今更美人だとか見惚れるなどと言う単語は出てこない。
四六時中一緒に居ることを羨まれたりしたこともあるが、美人だって結局はただの人だ。春奈のことを天使か女神だと勘違いしている輩は、彼女にも大きな欠点があることを知ったらどんな顔をするだろう。
「何、にやにや笑っているの?私たちも早く列に並ぼう」
春奈は晃の手を取ると、元居た場所へと列を分け入った。
突然の闖入者に驚いたように人垣が割れ、皆が振り向く。迷惑そうな顔をする人、春奈を見て頬を赤らめる人、反応は様々だがやはり圧倒的に男子が多い。中には繋がれた手元だけをじっと見つめ、暗い情熱を燃やしそうな男子もいた。
しばらく進み、列の前方まで来くると春奈は手を離す。
「はい、ここに並んで。あっちゃんの出席番号は私の後ろね」
「またハルの後ろかよ。たまには間に誰か入って欲しいもんだ」
春奈に続いて列に入ると晃は腕を組んで渋い顔をした。春奈は、こちらを振り向く格好で斜めに列に並んでいる。
「文句を言わないの。それに今日から五年間は、ずっとお隣さんよ」
「家も隣、番号も隣。何でもかんでも隣同士か。セットじゃねえんだから」
「私が隣だったら迷惑?」
「そんなこと言ってねえだろ」
「なら良かった」
言って、春奈は極上の微笑を浮かべる。別に春奈と一緒が嫌だというわけではない。ただ高専入学に当たって、不可解な部分があるのも事実だった。
晃の知っている春奈は、自ら工業高校を目指すようなタイプではない。趣味はピアノと習字。晃が幼少から空手を習っているのと同じく、春奈も受験生になるまではピアノをずっと習っていた。物事は割合はっきりと言う性格だが、特別活発というわけでもない。
中学三年になり、桐の箱入り一人娘が急に高専に進むと言い出したとき、彼女の両親はそれを泣いて止めた。音楽高校に進学すると信じて疑わなかった二人は、ついに愛娘にも反抗期がおとずれたと、よく我が家へ相談しに来ていたのを思い出す。
それでも春奈の硬い意思を感じたのか、冬になる頃には彼女の両親も落ち着いていた。その様子をつぶさに見てきた晃は、内心、自分が進路を先に決めたのがよくなかったのではないかと思っている。
晃はゆっくりと辺りを見回した。ほとんどの学生が初対面であるせいか、会話をしている人は少ない。空は快晴、桜は見事な満開なのに、ここだけ暗い雰囲気が漂っている。
と、見回していて晃はあることに気がついた。雰囲気が暗いのは何も人のせいだけではない。平均身長よりも若干低めではあるが、視界いっぱいに広がった制服の黒が余計に場を暗く見せているのだ。
男子は黒のブレザーに黒のズボン。女子は同じく黒のブレザーに黒のプリーツスカート。シャツやネクタイ、靴下などの小物には色が付いているが、どれも青を基調としている。そして圧倒的に男子が多いため黒の分量が多く見えるのだ。女子特有の華やいだ雰囲気や肌の露出は皆無と言っていい。
今度は女子の人数を数えながら、晃はもう一度ゆっくりと首を巡らせた。低い目線からは人混みの奥まで見通せない。丹念に見ていくが、晃の右側は全滅だった。
「あっちゃん、さっきから何をキョロキョロしているの」
春奈の問いに、晃は視線を外さずに答えた。
「女子の数をかぞえているんだ。知ってはいたが、やっぱり少ないな」
「建築は多いみたいだけどね。うちの学科にも、まだニ、三人いたと思うけど。あ、ほら、あそこ、三列向こう側に一人いる」
春奈は右手の奥を指す。晃は背伸びをしながら、その方を向いた。
「見えねえな、どこだよ。こっちはハルよりも背が低いんだぞ、もっと具体的な指示はねえのかよ」
「そんなふうに言われても困るよ。あっちゃんは低い低いっていつも言ってるけど、まだこれから伸びるかもしれないじゃない」
晃は背伸びを止めると、目を眇めて春奈を見た。
「そういう言い方はよせ。可能性の提示は余計に傷つくんだ。こればっかりは努力で何とかなる問題じゃないからな」
「あっちゃんが諦めモードなんて珍しいこともあるものね」
からかうような春奈の口調に、晃は小さく舌打ちをする。身長の低さは晃が一番気にしているところだ。毎日牛乳を一リットル飲めば、思い通りの身長になるというならばもうやっている。
ざざあっと梢を揺らして、風が吹き抜けてゆく。体育館の周りには背の高い樹木が植えられており、笹の葉に良く似た細長い葉を茂らせている。花は付いていないが植物に疎い晃には、その木の種類はわからなかった。
第一体育館の右手にはアスファルトを敷設した道が平行に走り、道に沿って枝いっぱいに花をつけた桜並木が続いている。桜の奥には煉瓦色をした二階建ての建物が見えており、そこには学生課や図書館が入っているらしい。
制服の裾から入り込む風の冷たさに晃は身を震わせた。
「足元が冷えるな、一体いつまで待たせるんだ。これなら土木棟まで行っても十分間に合ったじゃねえか」
春奈は軽く晃を睨むと「大人しくしていてよ」と釘を刺す。
「それなら……」
一緒に土木棟まで行くか?と言いかけた晃の頭頂部に、突然、鈍痛が走った。
「痛ってえ」
思わず頭に手を伸ばすと、指先に硬いものが触れた。それは晃の肩に当たり、ばさりと音を立てて足元へ落ちる。
同時に良く通る低い声が聴こえた。
「悪い。大丈夫か?」
頭を抑えつつ振り返った晃は眉を
自分の身長が低いことは、嫌々ながらも認識している。だが、思った場所に顔がないというのは、始めての経験だった。
晃はゆっくりと視線を上げた。薄いブルーのシャツに黒と青のストライプが入ったネクタイ。そのネクタイの結び目とシャツの襟。程よく筋肉の付いた首の上には、切れ長の目が印象的な顔がのっていた。
黒目がちの瞳には、鋭い光が宿っている。まるで、己以外の存在を否定しているかのようだ。男性にしては幾分色白で、瞳の酷薄そうな印象を除けば優男の部類にはいるだろう。上背は周りよりも頭一つ分抜き出ていた。
朝日を背にして佇む少年が、一瞬、元旦に雲の上へ顔を出した富士山に見えた。壮大で、立っているだけなのに異様な威圧感がある。晃は頭に手を置いたまま、呆然と彼を見つめていた。
やや薄めの唇がゆっくりと開かれ、先ほどと同じ声が漏れた。
「すまない、本を読んでいて気付かなかった。大丈夫か」
少年は少し身を屈めると、晃の頭頂部を観察し始める。頭頂部を凝視された晃は、本が当たったことよりも強い反発心を覚えた。
晃は反射的に目の前にあるネクタイをつかんで引き寄せると、憤怒の表情で少年を見上げた。
「お前、いくつだ」
突然、見ず知らずの人間の顔が間近に迫り、少年は思わず晃の額を押し返す。
「何だ。何について言っている」
額を押さえる手のせいで状況は良くわからないが、少年は明らかに動揺した声を発した。晃は少年の手をゆっくり振り払うと、つかんでいたネクタイを離した。
「身長の話だ。周りと比べても一人だけ飛び出しているだろ。どのくらいあるんだ」
「百八十八センチになるが、それがどうかしたのか」
「ひゃくはちじゅうはち・・・・・・いや、参考までに聞いておきたかっただけだ。ネクタイをひっぱって悪かったな」
少年の身長は晃よりも四十センチは高い。どうして自分の周りには、背の高い人間ばかりが集まるのだろう。
なるべく少年と並ぶのは避けようと思いながら、ちらりと足元へ目をやるとカバーのかけられた文庫本が、表紙を開いた形で落ちている。頭にぶつかったのはこの本か。大きさの割にはしっかりとした厚みがあるではないか。
晃はしゃがみ込むと、汚れを叩き落としながら本を拾い上げた。
「頭の方は大丈夫だ。中身はもともと詰まってないし、外側は他よりも頑丈に出来てる。ほら、これ。下がアルファルトだったから、あんまり汚れなくてよかったな」
笑顔で本を差し出すが、少年は顔に驚きを貼り付けたまま動こうとはしない。変な奴だなと首を傾げていると、春奈が肩を叩いてきた。
「ちょっと、あっちゃん。もうすぐ式が始まるんだから、後ろの人と揉めないでよ」
「おいハル。自動的にこっちが加害者だと思うなよ。今回はほぼ被害者だ。それに、その言い方だといつもこっちが喧嘩をふっかけてるみたいじゃねえか」
「間違いじゃないでしょう。概ねそうじゃない。あの、この子が何かしましたか?」
少年は我に返ったように視線を春奈へ向けると、首を横に振った。
「余所見をしていて、こっちが先にぶつかった。たぶん、俺が加害者だと思う」
ずいぶん含みのある言い方をする。春奈が言葉の裏にある真実に気付かないよう、祈りながら晃は視線を泳がせた。
それにしても―――と、晃は春奈の方を振り返る。
「なあハル。もしかして、こいつ先輩だったりするか?」
短い沈黙の後、春奈は慌てて晃の腕を引き寄せると、小声で耳打ちをしてきた。
「そんな訳無いでしょう。今日は入学式なの。ここに集まっているのは新入生なんだから、同い年に決まってるじゃない」
「ええ?だって、すげえ迫力じゃないか、まるで社会人。同い年にこのオーラは出せないだろ」
声を殺そうともしない晃の口を、春奈は慌てて両の掌で塞いだ。そして少年の顔色を伺いながら、愛想笑いを浮かべる。
「すみません。口の悪い子で」
眉一つ動かすことなく、その様子を見下ろしていた彼の口が小さく開いた。春奈が蒼白になって息を呑んだ瞬間、どこからか風船の空気を一気に抜いたような音が聞こえてきた。
「我慢できなくて、つい噴出しちゃったよ。君、面白いこと言うね」
高身長の彼の後ろに隠れていて今まで見えなかった人物が、ひょこりと顔を出した。
人目を惹く、燃えるような赤い髪の美少年。長年春奈の整った顔立ちを見てきた晃も、彼の美しさには眼を見張った。
『理想の王子様』という絵があるならば、そのモデルは間違いなく彼だろう。顔の造作が整っているのはもちろんの事、体型も細身で手足が長い。
晃の後ろにいる少年の上背がありすぎるせいで並ぶと小さく見えるが、それでも高身長の部類に入る。通常、素行の悪さの象徴にもなり得る赤い髪も、彼がしていると上品に見えるから不思議だ。
赤髪の少年は目に涙を浮かべながら前にいる少年の右肩に手を置いた。
「まったく、ユウキの愛想の無さには驚きだよ。こんな美人を前にして笑顔一つ浮かべないなんてさ」
そう言いながら赤髪の少年は晃たち、主に春奈の方へと手を差し出してきた。
「僕は
小さい、と言う台詞に晃は方眉を上げた。自分で言うのは良いが、他人に指摘されると癪に障る。相手の背が高ければ尚更だ。
手を取ろうともしない晃の横で、春奈も冷めた表情で新を見返していた。その横顔には、はっきりと侮蔑の色が見て取れる。
晃の口元から手を外すと、流れるように春奈は身を引いた。晃の体を前面に押し出して、新との間に壁を築く。
友好のゆの字も浮かばない拒絶を前にして、新は悲しそうな表情を浮かべると、空中に取り残された自分の右手を軽く左右に振った。
「なるほど。美人ちゃんには、可愛らしいナイトが付いているってわけだ。お近づきのチャンスだと思ったんだけどな」
晃の頭上を通り越して、新の視線と微笑が春奈に注がれる。行動も言動もいちいち鬱陶しい奴だ。あの赤い髪が示すのは素行の悪さではなく、頭の沸騰具合なのかもしれない。
晃は新を睨みつけながら、その視線を遮るように文庫本を持ち上げた。春奈にとっての脅威であるならば、それを
「ナンパしたけりゃ別のところでやれよ。学内のそれも入学式直前にやることじゃねえだろ」
「ナンパだなんて心外だな。これはれっきとした初対面の挨拶じゃないか。その証拠に僕はちゃんと自己紹介をしているよ。非礼があるとしたら、君たちのほうでしょ」
してやったり、とでも言いたそうな顔をして、新は斜めに晃を見下ろした。
美形という人種は陰険な表情をしても美しいが、それ故に無駄にエッジの効いた顔になる。他人に与える心理的な不快感も増すというものだ。
返す言葉も無く黙りこむ晃に向かって、新は畳み掛けるように言った。
「僕は運がいいから、初めて挨拶を交わす女子が美人ちゃんだったっていうだけだよ。考えてもみてよ、僕がナンパしなくちゃいけないほど女の子に困っていると思う?」
不快を通り越して呆れるレベルの話になってきている。晃は「はあ?」と返した。
「お前のこれまでの女関係なんか知るかよ。いくら美形だって中身が駄目なら、モテるもんもモテないだろ」
晃からしてみれば、遠まわしに非難したつもりだった。だが、この一言を聞いて新は思いがけず顔を綻ばせる。
「そう、ありがたい事に僕は美形なんだ。昔から女友達には事欠かなくてね、だからナンパなんて単語は僕の辞書には書いてないんだよ。ただね、そのことで男友達には色々とやっかまれてさあ。ほら思春期に入るとお互い色々と気にする部分も出てくるじゃない。やっぱり外見がいいと同姓に嫌われちゃうよね」
新は物憂げな顔で深々とため息をつく。またもや話は違う方向へずれてゆき、新はいかに男友達の友情が薄いかを切々と語り出した。
思わず晃は春奈と目を合わせた。春奈も怪訝そうな顔をしている。先ほどの晃の返答の何処に焦点を当てれば、こういった話題に転じるのだろうか。
「工藤。本を返してもらってもいいか」
横手から低い声がした。首を大きく傾けて上を見ると、ユウキと呼ばれた少年が無表情でこちらを見下ろしている。
「おっと、そうだった。悪い」
再び謝罪を口にして、晃は手元の本を改めた。
紺の布地で出来たカバーには、幸い特に汚れは見当たらなかった。手の当たる部分がすれて、やや色落ちしている。中に収められている本に日焼けはなく新品に見えたが、ぱらぱらと捲ってみると紙の角が丸みを帯びていた。
「これ、ずいぶん読み込んでいるんだな。こんな場所で本を読んでいるとは、よっぽど読書が好きなのか?」
「好きと言うか、佳境に入ったところだったんだ。続きが気になってな。それに」
ユウキは新の方に視線を走らせる。
「あいつの話は長い上に、話題がどんどん飛んでいく。本を読みながら聞いているくらいがちょうど良いんだ」
ユウキは、晃が差し出した本を受け取ると大事そうに表紙を撫でた。
「初日から呼び捨てなんて、あのチャラい赤髪とは同じ中学出身なのか?」
「いいや。新とは寮の同室だ。昨日からずっとあの調子だから、俺は二日目にしてあいつの家族構成や中学の時の出席番号まで知っている」
ユウキは事も無げに言うが、晃は心底同情した。噂の新は、まだ虚空へ向かってしゃべり続けている。こいつの相手を一人でしていたとは、想像するだけで疲れが押し寄せてくる。
春奈が近寄ってきて、気遣わしげな視線をユウキに注いだ。
「それは・・・・・・大変だったね」
待て、過去形ではなく現在進行形だ。寮の部屋割りは、一年生の間は二人部屋と定められている。つまり、ユウキはこれから一年間、新のマシンガントークに付き合わなければならないのだ。
ユウキは淡々とした表情で本に栞を挟み込み、ポケットへ仕舞った。普段は活字を全く読まない晃だったが、彼の様子を見てその本に興味を持った。
「なあ、その本って……」
「ミステリだ。本格推理小説ではないが、設定が変わっていて内容も技巧を凝らしてある。読み始めたら時間を忘れるくらい面白い」
晃は口を開いたままユウキの横顔を凝視した。『どんな内容なんだ?』と問いかけるつもりだったのに、先手を取られてしまった。
やや口の端を持ち上げてユウキがこちらを向く。自信に満ちた笑顔を前にして、晃は心の澱がふわりと舞い上がるような気持ちになった。
「お前・・・・・・どうして質問が本の内容だって解ったんだ?」
「今ある手がかりを元に、相手からなるべく多くの情報を引き出すのが、初対面の会話というものだ。俺の手元には本がある。多くの場合、ここから会話を広げるのが有効かつ自然な流れだろう。質問をする直前の工藤の視線は、本へと向けられていた。相手の行動を観察していれば、ある程度の予測は付く」
ユウキの一言に、晃は耳を疑った。今の台詞には晃の短い人生の中で、一番衝撃を与えた言葉が含まれていた。奇しくも、初めて会った人物から同じ台詞を聞かされるとは思ってもみなかった。
「何だ?」
視線に気づいてユウキが不思議そうに首を捻る。晃は小さく被りを振ると「なんでもない」と告げて正面を向いた。
整然と並んでいた生徒の列が前方からゆっくり解れ、体育館の入口へと吸い込まれてゆく。館内からは吹奏楽部の演奏が漏れ聞こえてきた。
『相手の行動を観察していれば、ある程度の予測は付く』
当たり前で晃に欠けているもの。それを指摘されたのは三年前の夏だった。
晃と変わらない体格の眼光鋭い男の子は、自信に満ちた笑顔でそう言うと、大きく手を振って晃を見送ってくれた。
あの時の少年とは未だ再会を果たしていない。だが、晃は必ず会えると心から信じていた。二年経とうが三年経とうが諦めなければ必ず会える。
と、考えてふとあることに気が付いた。
後ろに並ぶ高身長の彼はユウキと呼ばれていた。切れ長の眼光鋭い目。身長が異様に高いのを除けば、特徴が晃の知っている少年と合致する部分がある。
あり得なくはないが、奇跡にも近い可能性に晃の胸は高鳴った。
「なあ、お前、苗字はなんていうんだ?」
晃は堪らず振り返り、ユウキに問いかけた。
「後でいいだろう。もう入場が始まっているんだ」
「教えてくれ、頼むよ。大事なことなんだ」
「前を向け、工藤。列が途切れるぞ」
晃は舌打ちをして後ろ向きに歩き出した。
「そっちは名前を知っているんだろ。不公平じゃねえか」
「どうせこれから飽きるほど名前を言わされるんだ、直ぐにわかるだろう。危ないから前を向け」
「今、今がいいんだ。頼む」
晃が両手を合わせて拝むと、春奈が襟足を軽く引っ張ってくる。
「あっちゃん、先生がこっちを見てる。前を向いてよ」
ちらりと横を見ると、なるほど、教師らしい年配の男性が難しそうな顔でこちらを見ていた。
「工藤、階段がある。もう中に入るんだから前を向け。式が終わったら言うから」
晃は構うことなく後ろ向きのまま、ひょいと階段を飛び越えるともう一度両手を合わせた。
「苗字だけ。時間なんかいくらもかからないだろ」
「お前なあ・・・・・・」
「頼む。このとおり」
ユウキは嘆息すると、小さな声で自分の苗字を口にした。
目を丸くして顔を上げる晃に、春奈とユウキの声が重なる。
『前見ろ。前!』
緊迫した声に釣られて、晃は身を翻した。
ガアン!
吹奏楽部の勇壮な音楽よりも、さらに大きな音が体育館内に轟いた。
館内にいる生徒・保護者が何事かと振り返り、吹奏楽部も演奏をぴたりと止める。
晃は―――両手で顔面を押さえると、くぐもったうめき声と共に、数歩後ろへよろめいた。
「何やってるの、あっちゃん」
「おい大丈夫か、工藤」
悲鳴にも似た春奈の声と、駆けつけてくる複数の足音が聞こえる。晃は、ゆっくりと顔から手を離した。額と鼻が痺れて感覚が無い。
涙で滲む視界には鉄の扉が立ちはだかっていた。観音開きの扉が片側だけ開かれており、晃は閉められた方へぶつかったらしい。
「ら、らいひょうふ」
何とか返事をすると、足元でぱたぱたと軽い音がした。嫌な予感を覚えて音のした方を見下ろすと、案の定、赤い水滴が落ちている。
素早く片手で鼻を押さえると、春奈がすかさずティッシュを取り出して、数枚晃へ押し付けてきた。
か、かっこ悪りい。
晃は居た堪れなくて俯いた。ユウキのこと、扉にぶつかったこと、鼻血を流していること全てが脳を駆け巡り、処理が全く追いつかない。
頬が熱を持ち、目の前にある血の滴がふいに歪んで見えなくなる。視界が暗転すると同時に、平衡感覚を失って晃は大きく体制を崩した。
「しっかりしろ、晃」
肩を支えてくれる手の温もりと低く耳に残る声を最後に、晃の意識は途切れた。
「結局、まるまる一週間、一度も勝てなかった」
晃は目を眇めながら、目の前の小さな少年を見つめた。
切れ長の目を綻ばせて少年は涼やかに笑うと、手にしていたペットボトルをこちらへ放る。ボトルは夏の空へ高く舞い上がり、日差しを反射してキラリと輝いた。
真っ青な空に小さく千切ったような白い雲が浮いている。体を包む蝉の声が耳鳴りのように鼓膜を震わせ、額から流れる汗は頬を伝って顎へと落ちていく。
「勝てなかったということは、攻撃が当たらない理由が解らなかったってことだな」
空に浮かぶ雲にも負けないくらい、真っ白な道着に身を包んだ少年は、晃に放ったのと同じ銘柄のペットボトルを開封すると、一気に半分までを喉に流し込んだ。
太陽は一日で一番高いところへ位置している。真夏の日差しを直接浴びながら、二人は合宿中の稽古を振り返っていた。
「さっぱりだ。一週間もあったのに、祐樹はヒントの一つも教えちゃくれない。徹底しているというか、頑固というか、友達概の無い奴だな」
「簡単に教えたらつまらないだろう。それに、晃自身が考えるってところが重要なんだ」
「何を言ってるんだ、祐樹。攻撃の順序や間合いを考えるのは普通のことだろう。こう相手を誘い込んで体制を崩してから、得意技で仕留める、とかな」
晃は身振り手振りを加えて話す。右の拳が熱気を裂いて唸りを上げた。
そんな晃の姿を見て祐樹は軽くため息を付く。
「技の組立てじゃない。晃は組手の途中、ちゃんと俺を見ていたか?」
「見ているに決まっているだろ。じゃないと技、かけられない」
「そうじゃなくて、俺が次にどういう技で仕掛けてくるかを、ちゃんと読んでいたのかって聞いてるんだ」
晃は無言で首を横に振る。祐樹はもう一度深いため息を付くと、道場の外壁に寄りかかった。
「さっきも言ったが、自分の技を組み立てるだけでは半分だ。晃が何故、俺に勝てないのか。それはな」
「それは・・・・・・?」
「癖が丸出しだからだ」
「は?」
晃はぽかんと口を開けて祐樹を見た。
「お前は自分の得意技に持ち込もうとするとき、いつも同じ行動をとっている。初対戦の相手になら十分通じるだろうが、上位にくい込むほど再戦率は高くなる。何度も戦う内に相手はお前の癖を見抜いて、それに合わせた戦い方をしてくるんだ。俺が今回の合宿でやっていたのもそれだ」
「おう、それと攻撃が当たらないのは関係があるのか?」
「大ありだろ。次にどんな攻撃が来るのか解っていれば、避けるのもカウンターを食らわすのも自由自在だ。晃は当てようという気持ちが強すぎて、冷静に俺の動きを見る力に欠けていた。それが敗因だ」
祐樹の鋭い視線が晃を射抜く。肌は焦げる様に熱いが、晃は悪寒を感じて小さく震えた。
祐樹の言っていることは正しい。これまでの戦いを振り返ると思い当たることばかりだ。自分と大きさも変わらない、この小さな少年は冷静にそんなことを考えながら戦っていたのか。
負け続け、屈辱にまみれた一週間だったが、不思議と諦める気にはなれなかった。だからこそ充実していたとも言えるが、晃は今になって自分が戦っていた相手の実力を改めて思い知った。
「対戦相手をただ見るのではなく良く観察しろ。相手の行動を観察していれば、ある程度の予測は付くようになる」
「そういうもん?」
晃の問いかけに、祐樹は笑顔で力強く頷いた。
「そういうもんだ」
石膏ボードの天井が視界いっぱいに広がっている。
状況を把握しきれない晃は、仰向けのまま何度か瞬きを繰り返した。
確か、体育館に居た筈。これから入学式が始まるところで、入場の列に並んでいた。体育館に入る直前、扉で顔面を殴打して―――。
晃は掛け布団を跳ね上げると勢い良く体を起こした。足元で小さな悲鳴が上がり、布団の小山がもぞもぞと動いている。
「ハルか?入学式はどうなった?」
布団を剥ぎ取ると、中から髪をくしゃくしゃにした春奈が出てきた。手櫛で荒々しく髪型を整えながら、悲しそうな瞳で晃を見る。
「あっちゃん抜きで終わっちゃったよ」
ベッドの上で胡座をかいた晃は、あちゃあ、と呟いて額に手を当てた。この出来事が家にばれたら強制送還ものだ。
「なあハル。このことは内緒にしておいてくれないか」
「わかってる。
充兄とは、今年大学の四回生になる工藤家の長男だ。工藤家では現在父が海外に赴任中で、代わりに兄の充が家を守っている。おっとりとした放任主義の母とは正反対で何かと細かく、晃を工藤家の問題児と公言してはばからない。
実のところ、今日の入学式には兄が出席する予定になっていた。母は三歳年下の弟の入学式へいっている。ならばこちらには充が、と話がまとまっていたところへ、突然の就職説明会で来られなくなってしまったのだ。
電話口で兄は残念がったが、むしろ晃としては幸運だ。顔を見れば小言を言う充兄の事だから、これから本格的に寮生活を送る晃に長い訓示を垂れるに決まっている。それを回避できたのだから、説明会様々だ。
「悪いな、恩に着るよ。ところで、ここは保健室か?」
「そうよ。今は保健の先生は少し席を外しているけど。それより、体は大丈夫なの?」
「ああ、もう何ともない」
晃は首を巡らせて、辺りを見回す。
長方形の広い教室。晃の左手にはベッドが二台並んでおり、右手は壁一面が窓になっていた。窓の外には綺麗な青空が広がっており、学食のテラスと第二体育館の赤い屋根が見える。風景から察するに、ここは寮の食堂の二階部分に当たるようだ。
晃の正面、長方形の短い辺に相当する壁には薬品棚や手洗い場が設えられ、灰色の大きな事務机が教室の中央よりやや窓際に置かれている。机の上には鉛筆立てと小型のレターケースだけが乗っていた。
閑散とした部屋だった。室内が広いせいもあるだろうが、無駄な物が一切なく、まるで空き部屋のような部屋だ。
「扉にぶつかったの、覚えている?後ろ向きに歩かなければいけないほど、あの男の子と大事な話をしていたの?」
「まあな。ぶつからなければ確認が取れたのに、失敗したよ」
「失敗の一言で片付けないでよ。先生に言い訳をするの大変だったんだからね。で、確認って何よ」
「それは、もう一度あいつに会ってからだ。別に隠すつもりはねえよ。心配すんな」
春奈は頬を膨らませてベッドの上へうつ伏せに倒れた。手間を取らせたのに、その理由がはっきりしなくて
言葉通り春奈に隠すつもりは毛頭ない。予想外の出来事だったので、まだ晃の中で整理がつかないのだ。
窓とは反対側の壁にあるドアが静かに開いて、白衣を来た年配の女性が入ってきた。
「あら、目が覚めたのね。気分はどう?吐き気やめまいはしない?」
保健医だと思われるその女性は、晃に近づくと両手で下瞼を引っ張った。
「あら、真っ白。軽い貧血ね。脳震盪は起こしていないみたいだから、異常が無ければ戻ってもいいわ」
晃はベッドに座ったまま上体を動かしてみた。特に体に異変は感じない。が、鈍い痛みが額を襲った。
「おでこが痛い」
晃は額をそっと撫でた。指先に小さいが確かな高低差を感じる。
「たんこぶよ。鉄の扉にぶつかったのだからニ、三日は仕方ないわね。今晩は良く冷やして寝なさい」
女性はそう言いながら慈母のような笑みを浮かべる。晃は居住まいを正すと頭を下げた。
「ありがとうございました」
「あら。お礼なら私より、ここへあなたを運んできてくれた男の子に言うべきね。すごく背の高い男の子だけど、分かるかしら」
晃が頷くと同時にノックの音が響いた。三人が一斉にそちらを振り向くと、ドアが薄く開き、赤い髪の少年が顔を覗かせた。
「あらあら。噂をすればね」
晃を見止めた少年がドアを大きく開いた。彼の後ろから、背の高い少年が部屋へと入ってくる。
その姿を見て、晃は自然と笑みがこぼれた。
「びっくりしたよ。ドアにぶつかったかと思ったら急に倒れちゃうんだもの。音楽は止まるし先生は集まってくるし、見ものだったな。こんなに楽しい入学式は生まれて初めてだよ。で、何で倒れちゃったの?貧血?鼻血のせいで?」
赤髪の少年―――言うまでも無く斉藤新は、返事も待たずに一気にまくし立てる。
晃にしてみれば全ては終わった話で、特に興味もない。鼻血の後片付けをしてくれた人には申し訳ないとは思うが、今さら悔やんだところで詮ない事だった。
新の後ろに付いてきたユウキは、ベッドから少し離れた場所に立つと窓の外へと目を向けた。その横顔に感情は見えず、雲がゆっくりと流れて行く様をぼんやりと見つめているようでもあった。
「ここまで運んでくれたんだってな。ありがとう」
新の話を完全に置き去りにして、晃はその淡々とした横顔に語りかけた。ユウキの視線が僅かに揺らめき、「ああ」とも「うん」とも言えない声が漏れる。
「改めて、久しぶり。まさかこんなところで会うとはな。見た目もかなり・・・・・・つうか、めちゃくちゃでかくなっていて本気でわからなかったよ。お前の事だから会った時から、こっちのことには気づいていたんだろ」
ユウキは視線を外したまま首を縦に降った。このまま目も合わせず無言を通すつもりなのだろうか。
「だったら、一言くらいあっても良かったんじゃねえか。どれだけ会話したと思ってるんだ。もしかして、気づかなかった事への当て付けか?」
「晃が俺のことを覚えているという確証がなかった。たった一週間を共に過ごしただけで、もう三年も経っているんだ。覚えて無くても当然だ。それなら初対面から初めても何の問題も無いだろう」
ユウキの言葉を晃は鼻で笑った。一週間も負け続けた方が覚えてないなんて普通は考えられない。ユウキにしてはやや思慮に欠ける考え方だ。
それも晃の知る限りのユウキでは、という条件付きだが。
「あの、お二人さん。話している途中で申し訳ないけれど、聞き捨てならない台詞がいくつかあるんだよね。説明してもらえる?」
横からのんびりとした新の声が挟まれた。ユウキと晃が同時に彼の方を振り向くと、新だけではなく春奈もきょとんとした顔でこちらを見ている。
晃はユウキと目を合わせた。沈黙の会話の後、先に口を開いたのはユウキの方だった。
「俺と晃は空手の同門だ。中学一年の時に、その空手の夏合宿で会った」
「そう、今の姿からは想像出来ないだろうけど、当時はユウキも背が低くてな。異例のことだが、師匠の命令で一週間ずっと、こいつと組手稽古だ」
晃はその光景を思い出して苦い顔をした。あの夏の日々は、空手家人生の中でも最大の黒歴史と言っていい。そして同時に価値観が変わるほどの出来事でもあった。
晃の横で春奈が小さく声を上げる。
「その話、なんとなく覚えている。すごく強い子と練習して全然勝てなかったって。あっちゃん、長いことその話ばかりしてたよね」
「へえ。二人とも空手をね。言われてみればユウキは体もしっかりしているし、立っているだけで威圧的だよね。で、そこで工藤に出会って、それから?」
瞳を輝かせる新に向かって、晃は眉根を寄せた。
「それからも何も、それだけだ。」
「へ?何か、こうロマンスを感じさせる展開は?」
「お前、そういう話に持っていくのが好きだなあ。あるわけないだろ」
そんなあ、と新は情けない顔をする。
「会ったときとか、三年前とか、一週間を共に過ごしたとか言っておいて、何も無し?僕の期待を裏切らないでよ」
「別にお前に関係ないだろうが。て言うか、勝手に期待して勝手に裏切られてんじゃねえ。うざいぞ」
「会った時から思っていたけど、工藤って思ったこと口に出しすぎだよね。今のは、さすがに僕もちょっと傷ついた」
落ち込んだそぶりを見せながら新が俯く。それで少しは大人しくなるなら願ったり叶ったりだと思ったが、口には出さなかった。
「とにかく、期間は短いけど友達なんだよ」
「トモダチ・・・・・・」
「へえ・・・・・・」
春奈と新の視線がユウキへ集まる。居心地の悪さを感じたのか、ユウキはまた窓へと顔を背けた。
「次に会うのは畳の上だと思い込んでいたからな。まさか入学式で後ろに並んでるとは思わないだろ」
「なるほど。その再会が、限りなく低い可能性だということは認めるよ。それで動揺して扉にぶつかったってわけ?」
「半分はな」
晃は頭をかきながら乾いた声で笑った。後ろ向きに歩いていたとはいえ、いつもならぶつかることなど無かっただろう。動揺して注意が疎かになっていたことは否めない。
「この話はもういい。それで、体は大丈夫なのか?」
ユウキがしっかりと晃を見つめて言った。この一言を言う為だけに、わざわざ新を伴ってやってきたのだろう。
「おう。もう大丈夫だ。二人とも心配して来てくれたんだろ。ありがとうな」
晃はベッドの上に立ち上がると、腕を振り回して健全さをアピールした。ベッドの高さ分晃の目線も高くなり、ユウキ、新、春奈を自然と見下ろす形になる。
改めて、間近でユウキの顔を確認する。間違いなくあの時の少年だ。目つきの悪さ、眼光の鋭さに面影がある。
「あの後、工藤の鼻血を拭いたのは僕なんだよ」
造詣の美しい新の顔も良く見える。不満そうな口調に反して表情は穏やかに微笑んでいた。
「そうか、悪かったな。お前、言動はおかしいけど案外いい奴だったんだな」
「案外って何。工藤は、僕をどういう人間だと思っていたの」
新の抗議を無視して、晃はベッドの柵を軽やかに飛び越えた。制服の裾を翻して、ユウキの前にふわりと着地する。
「もう、あっちゃんってば、はしたない」
春奈を片手でいなすと、晃はユウキを見上げて仁王立ちした。視線がぶつかると、ユウキも緊張した面持ちで晃を見下ろす。
「再会したら、なんて言おうかずっと考えていたんだ」
「どうせ再戦の申し込みだろう。『次は勝つ』か?」
「まあな。大会でお前と当たることなんてまずないから、さっさと申し込んでおかないとリベンジできないだろ。・・・・・・あれから一年くらいは本気でそう思ってたんだ」
ユウキは不思議そうに首を傾げる。
ユウキと別れてからしばらく、晃は負けを清算するためにも真っ先に再戦の申し込みをする気でいた。成長した自分を見せ、ユウキに好敵手として認めてもらいたいと願っていたからだ。
「でも止めた。色々考えたんだけど、なんか違うんだよな」
あの後、ぱったりと大会でも合同稽古でも顔を合わせなくなった。それまでは空手と名の付くものの中では頻繁に見かけていたのに、姿どころか噂も聞かなくなっていた。
そんな日々を過ごす内、いつしか目的が『勝つ』ことから『会う』事へと変化していったのも事実だ。
中学三年になり、高校受験のために道場を休んでからは、ユウキの存在がもっと遠くなった。空手という限定された空間の中でなければ、再会する可能性は無いに等しいということに改めて気が付いたのだ。
「空手を抜きにして、お前と話したり笑ったりそういう普通のことがやりたいと思ったんだ。友達・・・・・・は今もだけど・・・・・・なんだ、しっくり来る言葉が浮かばねえ」
晃は顔を
目の前ではユウキが静かに晃の次の言葉を待っていた。形は違うが同じ学校の制服を身に纏っている。
まさに晃が願っていた状況そのものだ。これが運であるならば、自分はかなりの強運の持ち主であり、神の御技ならば粋なはからいだと思う。これからは、どちらかが退学・留年しない限り五年という長い時間を共有できるのだ。
「どうした。気分でも悪いのか。晃」
長い沈黙を心配して、ユウキが身を屈めて顔を覗きこんでくる。澄んだ綺麗な瞳に自分の姿が映っていた。
晃は寸の間目を閉じると、満面の笑みを浮かべて再び目を開けた。
「
『はああ?』
春奈と新の声が、部屋中に響き渡った。
「あ、あっちゃん?それって、それってどういう意味なの?」
「工藤。やっぱり僕の期待に答えてくれる気になったの?嬉しいなあ」
晃は両手で耳を塞ぐと二人を睨み付ける。
「お前ら、うるさいぞ。特に深い意味はねえから、そうギャーギャー喚くな。」
春奈は隣にいた新を突き飛ばして、晃に駆け寄ってくると、両肩をつかんで乱暴に揺さぶった。
「深いも浅いも無いでしょう?頭を打って、どこかおかしくしちゃったんじゃない?病院へ行こう、病院へ」
「貧血だって先生も言っただろ。頭は打ったけど、いたって正常だ」
「じゃあ、どういうことなのよ」
しっくり来る言葉が思い浮かばなかったから、単純に思ったことを言ったまでだが、それを伝えても春奈は納得しそうにない。
揺さぶられながら沈黙する晃に、新が余計な一言を付け加えた。
「つまりそれは、女性として祐樹が好きだってことだよね?」
その一言で完全に春奈の動きが止まった。なるほど、そういう意味にとられたのか。
晃は明後日の方向を見て、「あー」と呟いた。
「そういうのも悪くないな。全くの嘘ってわけでもねえし、じゃあ、そういうことにするか」
「工藤、大事なことなのにずいぶん適当だね。で、祐樹の返事は?」
しん、と室中が静まり返る。
無言で立っている祐樹に、全員の視線が集まった。
ごくり、と誰かが生唾を飲み込む音が聞こえ、祐樹の唇が微かに動く。
「君たち、そういう話は放課後にしなさいね」
返事の代わりに、事務机の向こうから先生の声が、した。
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