リアル3K~工学部へようこそ~
都路垣 若菜
プロローグ ~白桃~
―――これでもう何度目だ。
額から流れ落ちる汗を腕で拭いながら、俺は相手を見やった。
空手の夏合宿が始まって三日目。組手稽古の度に、目の前のこいつ―――工藤晃に膝をつかせている。
通常、組手稽古ではなるべく多くの人間と組み合った方がいいのだが、師匠曰く「体格と実力差は近い。いい稽古になるだろう」という事で、合宿に入ってからは、ほぼ工藤としか組んでいない。
工藤とは、この夏合宿で初めて顔を合わせた。いや、正確には何度か大会でその姿を見かけたことはあるが、話をするのも稽古をするのも初めてだ。
贔屓目でもなんでもなく、工藤はいいセンスをしていると思う。実際、大きな大会では上位に食い込んでくるほどの実力の持ち主だ。
驚異的な集中力と小さな体からにじみ出る威圧感で敵を圧倒し、切れのある技で己よりも大きい相手を制していく。
師匠の言うとおり、技の威力、切れ、共に俺と同等か、それ以上だ。
工藤の正拳突きをまともに食らえば、きっと立ってはいられないだろう。
ただ―――当たれば、の話だが。
「なんで、当たらねえんだ」
床に膝を付き、肩で荒い息を繰り返しながら、工藤が一人ごちる。
初日は、まだ工藤の攻撃は届いていた。だが、回数を重ねる毎に弱点が見え始め、今日に至っては一撃も当たっていない。
「なにがいけないんだ」
呻く工藤の後頭部を見つめ、そろそろ心が折れる頃合かと思った。とにもかくにも、組手を始めてから、こいつは一度も俺に勝っていない。
工藤の攻撃が当たらない理由。それは、相手をしている俺が一番良く解っている。
だが請われてもいないのに、それを教える道理は無いだろう。
「おい、休憩だ。少し休もう」
朝から休まず動きっぱなしだ。そのスタミナには驚きを隠せないが、昼も近くなり道場の気温は急激に上昇している。体中から吹き出る汗を吸い込んで、道着もぐっしょりと濡れて重たくなっていた。
ゆるりと工藤が顔を上げる。
その瞳と視線がぶつかり、俺は目を見張った。
「もう一回。古村、もう一回だ」
力強い視線と迷いのない言葉。
汗の雫を拭こうともせず、工藤はしっかりと俺を見据えている。
俺は床に膝をついたままの工藤に、心ならずもたじろいでしまった。
「わかった。でも、これが終わったら強制的に休憩だからな」
「古村。工藤の相手はどうだ?なかなか骨が折れるだろう」
快活な笑顔と共に、師匠の大きな掌が力強く肩を叩いてくる。
俺は衝撃に耐え切れず、よろめきながら苦笑を浮かべた。
「どんなに負けても折れませんね。精神的に手強い相手です」
「そうだろう。お前たちは対極にあるからな。技だけなら工藤に分があるかもしれんが、試合で強いのはお前の方だ。お互いに足りないところは吸収して、どんどん強くなりなさい」
師匠はそう言うと、豪快な声で笑いながら道場を出ていく。
お互いに足りないところ……。
言われるまでもなく、この三日間でいやと言うほど解った。どんなに負けてもひたむきに前だけを見続けるなんて、俺には出来ない。もし出来たとしても、それを吸収するにはかなりの時間を要するだろう。
前だけを見続け進んでいく工藤に、俺はいつか負けるかもしれない。
でも、それは今じゃない。
俺はスポーツドリンクを片手に、道場の中を見渡した。休憩に入るや否や、工藤は道場を出て行ってしまったので姿は見えない。
あれだけ負け続ければ、俺の顔を見るのも嫌になるだろう。だた、あいつは俺が今、こんな気持ちでいるなんて露ほども思ってないに違いない。
同門ではあるが、普段は全く別の場所で稽古をしている。友達というほど仲良くなった訳でもないし、残り二日間を乗り切ってしまえば、次に会う機会は来年のこの時期だ。
その時には、お互いに今のことなんてきっと忘れている。
「祐樹。桃があるんだって。早く来ないと全部食っちゃうぞ」
友達に呼ばれて、まあいいや。と俺は道場を後にした。
食堂に入るなり、甘い香りが体中を包み込んだ。
保護者からの差し入れだという桃は、綺麗に皮がむかれ、食べやすいようにくし型に切り分けられていた。
大皿に山のように盛られたそれは、窓から差し込む日の光を受けて眩いばかりに瑞々しく光っている。
誰のものかはわからないが、ごくりと喉を鳴らす音が聞こえた。
桃の乗った大皿は、食堂に設えられた長テーブルにいくつも並んでいる。大勢いる食べ盛りの子供たちを前に、白桃は自らの美を見せつけているようだ。
師匠の号令と共に、門下生たちが我先にと大皿へ群がった。次々に桃を手に取り口へと運んでいく。見る間に山は平らになって行った。
俺も、くし形に切られた桃を一切れ手に取った。
頬張ると、爽やかな香りと共に、口の中で実が柔らかくとけていく。果汁がたっぷりと喉を潤して、いくつでも食べられそうだ。
美味い。
二切れ目に手を伸ばしたとき、何故か俺は、そこに工藤が居ないことに気が付いた。
誰も呼びに行かなかったのだろうか。
手にした桃を咀嚼しながら、他の奴に聞くと外の水道で顔を洗っているらしい。
「後で行くって言ってたんだけど、来てないみたいだね」
そうしている間にも、桃はどんどん減っている。すでにいくつかの皿は、底が見え始めていた。
そうしようと思った理由は、よく解らない。
でも気が付いたら、俺は小皿の上に何切れかの桃を載せて、外へ出ていた。
「おい。桃、全部食べられちゃうぞ」
頭からザブザブと水をかぶっていた工藤が、弾かれたように顔を上げた。髪から水を滴らせ、目を丸くして俺を凝視している。
「何だよ、その顔」
「いや。お前が呼びに来るとは思っても無かったから」
俺はフェンスにかけてあったタオルを、工藤へ向かって放った。
「俺に負け負けで、いじけてるんじゃないかと思って。そのせいで桃を食べられなかったとか言われても……腹立つし」
タオルを受け取った工藤は無言で視線を逸らすと、荒々しく頭を拭き始めた。
沈黙の上に、蝉の大合唱が降ってくる。水道のあるこの場所は、ちょうど木陰になっていて、蝉が耳元で鳴いているかのようだ。
あまりにも大きすぎるその声に鼓膜が麻痺する。眼に見えない箱に自分が入れられたような気にさえなってくる。
頭を拭き終わった工藤が、タオルの間から顔を出した。
少し色素の薄い柔らかな髪が、夏の熱風にそよいでいる。
俺を振り返る大きな瞳は深く澄んで、夏空の青や木々の緑が写しだされていた。
「んなこと、言うわけないじゃん。ってか、それ、わざわざ持って来てくれたんだろ?お前、案外いい奴だな」
軽い足取りで近づいてくると、工藤は小皿の上から桃を一切れ取って頬張った。
「うまっ。祐樹も食えよ」
「俺は、さっき食べてきた。これはお前の分だ」
工藤は、手にしていた桃を全て口の中へ押し込むと、人懐こい笑顔を向けた。
「いいじゃん。一人で食べるより、一緒の方が美味いだろ」
ほれ、ほれほれと、俺の手から小皿を奪い取ると、桃を口元に近づけてくる。
「やめろよ。お前の取り分減るだけだろ。ってか、どさくさに紛れて呼び捨てにするな」
「ちっちぇーなあ。じゃあ、そっちも晃って呼べばいいだろ」
工藤は突然、桃攻撃を止めると、にやりと不敵に笑った。
俺は、本当に今更ながら、三日間、ただひたすらにぶつかり合っていただけで、工藤とまともに話もしていなかったことに気付いた。
こいつが、こんな顔で笑うなんて知らなかった。
工藤は右手で桃を摘んだまま、踏ん反り返って俺を指差した。
「合宿終了まで後二日だ。見てろよ、祐樹。それまでに絶対勝ってやる」
瞬間、俺は思わず目を眇めた。
自分の弱点も分かっていないようなやつに言われたくない。
俺は工藤の手にある皿から桃を一切れ奪い取ると、大きくかぶりついた。
甘くて、美味い。
夏の刺すような日差しが木陰を地面に縫いつけ、上がってきた気温は容赦なく体中から水分を抜いてゆく。
でも、桃の甘みと水分が喉を通り抜けて、体の隅々まで染み渡るようだ。
「攻撃が当たらない理由が解ったのか?当たらなきゃ俺は倒せないぞ」
俺のきつい声音に、最後の一切れを摘み上げる工藤の手が止まった。手の甲を伝って落ちる桃の果汁が、甘やかに艶めいて見える。
工藤は、勢いよく二口で頬張ると、殆ど咀嚼もせずに飲み込んだ。そして、バツが悪そうに横を向く。
「それは……まだ……。でも、これから解るようになる予定です!」
振り返る工藤の目には、先ほどと変わらない強い光が宿っている。
俺は、声を上げて笑った。
「いいぜ、晃。気の済むまで付き合ってやるよ」
結局、合宿最終日になっても俺の膝が床につくことは無かった。
別れ際にその理由を話すと、晃は唇をかみ締めて悔しがった。
『次は勝つ』
そう言い残して晃は、振り返りもせずに地元へと帰っていった。
あれから―――晃には一度も会っていない。
合宿でも大会で顔を合わせることも無く、もう二年が経つ。
―――そして、俺は今日、高校生になった。
空手は、随分前に辞めてしまったが、俺はあの日々を鮮明に覚えている。
道場の蒸し暑さ、押しつぶされそうな程の蝉の声と空の青。
何度膝をつこうとも、再び立ち上がる晃の瞳と畳の緑が脳裏に焼きついて離れない。
その瞳には『諦め』の色は一度も浮かばなかった。それどころか、この壁を越えた先にはっきりと道が見えているかのようだった。
晃の言う『次』は、もう二度と来ないのかもしれない。もしも、あの日々を晃が覚えているのならば、今頃あいつは俺を恨んでいるだろう。
俺は、これから新しい世界に進んでゆく。
だが、この道の先はまるで見えない。
光も差さない闇の中を、ただ時間に押し流されて歩き続けるだけだ。
ふと空を見上げると、薄く透明に近い青空に桜の花びらが舞っていた。
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