第六話 鍵の紋

「イラ、それは……」 


 寝具と服には血がついていた。

 胸の付近にべったりと滲んだ血は、真っ赤。


「っ……!?」


 イラの紋様を見た父は、目を丸く見開いていた。ソレは、彼の知る限りで最も不吉で、忌まわしき証だった。そして実際に見たのは初めてではない。二度目なのだ。

 ソレとは鍵の形をした印である。暗く赤い血の色で、イラの小さな胸元に烙印のように刻まれ、落涙のように血を流している。


「なんてことだ……どうしてイラまでが、この子までが……」


 搾り出すように言う父親の顔は絶望に染まり切っている。


「お父さん……?」


 イラの言葉に、父親ははっとしたように息を呑んだ。そうしてすぐに首を振り、イラへ言った。


「ウルスラさんのところへ行く。ゆっくりでいいから、支度をしておきなさい」


 その後、二人は朝食を摂った。食事中の父親は、朝の鍵の紋のことなど忘れてしまったかのように、イラへと尋ね、会話した。学舎のこと、友人のこと、勉学のこと、将来のこと……それが虚勢であることは、イラは理解していた。

 イラと会話している間中、父親の瞳が深い悲しみに沈み、ときおり悲痛に耐えるかのように拳を強く握りしめていたからだ。

 だから、イラは分かっていた。

 これから聞かされることはよくないことで、今起こっているこの変化は、もう手遅れにあるんだということを。


 ◇

 

「これは……」


 ううんと首を傾げて唸ったため、男の顔に掛かった眼鏡が光の加減で白く光った。


「どうなんでしょうか……」


 不安げにイラの父は言う。彼とイラは今、村唯一の医術士である眼鏡──ウルスラの家に来ていた。


「イラちゃん。いや、僕としてもあり得ないことだとは思うけど……その、さいきん、魔王の幹部に会ったりしたかい?」


「それっぽいのでもいいから」とウルスラ。対してイラは、きょとんとした風に「私、魔王の幹部は名前しか分かんないし……」と不満そうに首を傾げた。学舎で習うのは、魔王幹部の名前だけなのだ。というのも、魔王はもとより、一部の幹部の姿すらもその画像データは人々の間に回っていない。その脅威ばかりが語り継がれて、その具体的な像というのは全くの不明であり人類の未知だった。人々を脅かすのは、もっぱら下位の魔物なのである。


「護竜……は、違うな。アレは北にある魔王の居城付近を護っているだろうから、ここらには出張ってこないはずだ」


 護竜。魔王幹部の中で最も有名な魔物だ。その実際の姿が教科書に載っているほどに。名の通り、魔王の城付近を只管に護り続ける竜であり、未だ人類が一度の勝利もできずにいる相手。イラも、その画像を見たことがある。二翼の巨大な翼を広げ、鱗に覆われた恐ろしい化け物。私ならぷちっと潰されて終わりそうだな、と思ったのを憶えている。


「うん。違う、と思う」


 イラは首を振る。ウルスラもそうだよね、と頷いた。


「なら、双極かなあ。イラちゃん。二人組の、なんだかとてもスラッとしたスタイルの良い女の人と会ったりしたかい?」


 思い出す限りはない。双極と呼ばれる二人組は、その姿が護竜と同様に周知されている。二人とも女性で、顔をなにか布のようなもので隠している。片方には太陽、片方には月。だから、陽と陰で双極。撃退したという話は聞かないから、多分誰も勝ててない。人って弱いな。イラはなんとなくそう思った。


「ううん」

「違うかあ……。姿の知られている幹部はそれだけだしなあ。あとは、キョケンにコウザイ、でぃーいーえむに、コシュ……それらがなにか悪事を為したという話も聞かないし、残っていない」


 ウルスラは頼りなさげに唸っている。挙げられた名前のどれにも、イラは心当たりがなかった。


「イラ。〈太陽のない森〉に入った時に、なにかに出会ったりしたか?」


 父親がふと、そう尋ねた。


「え……」


 会ったのは、会った。

 教科書でも見たことがないような白い異形に、──枯木さんグンカ

 言うべきだろうか。イラは悩んだ。ちょっとだけ視線が泳ぎ、唇に人差し指を当てた。


「な、なんだか真っ白な、大きな口の魔物にあったよ。なんとか、逃げ出せたけど」


 悩んだ結果、白い異形との邂逅だけを明かすことにした。


「真っ白? 大きな口? というよりもイラちゃん、森に入ったの? 度胸あるねえ。僕は無理だな。怖いもん。なんか嫌な噂も」「ウルスラ先生」

 ウルスラの間の抜けた感想を、イラの父親の声が遮った。


「イラに刻まれたこの紋様、妻の、アイラに出たものと一緒なのですか」


 父親の声は震えている。聞きたくないけれど、聞かなければならないことだった。


「……そう、だね。一緒だよ」


 神妙に、ウルスラは肯定した。


「そうですか」


 既に答えは分かっていたのだろう。父親はがっくりと肩を落とし、それでも娘の傍ら、毅然であるように努めていた。


「お母さんにも、この、鍵が?」

「ああ……!」


 肯定する父親は、自らの両大腿を強く握りしめている。イラの母親は死んでいる。それが答えなのだ。決して避け得ないだろう結末を明確に指し示している。

 その気持ちを察して、ウルスラは目を伏せ、真剣な声色で聞いた。


「イラちゃん。その紋様については、なにか知っているかい」

「いえ」


 鍵の紋様のことは、一文字も教科書に載っていない。だからイラは知らない。教科書に載っていることがイラの知識の全てだった。


「それは、正式には、国が定めた名称は〈凪に至りし六つの鍵〉と言うんだ。凪に至りし、とは世界平和の意だね」


 六つの鍵。奇しくもそれは、魔王幹部の数と一致している。


「その模様は、魔王のしるしなんだよ。見た目通りの鍵。魔王に至る、ね。ここからは伝承になるから、真偽は分からないよ……だから、本気にしないでくれると有り難い。いや、本気にしちゃ、ダメなことなんだ」


 まるで自分に言い聞かせるように言い、ウルスラは続ける。


「本当ならこの魔王の六幹部を消滅させなければ魔王のところに行けないけど、その鍵の持ち主で代替することができる」


 それはつまり、強大な魔王幹部を倒すよりももっと簡単に、魔王のもとへ行けるということ。凪に至りし、とは世界平和の意。世界の平和とは、魔王の打倒。魔王を打倒するためには、そこへの道を開かねばならない。それができるのだ。ただ……


「そしてイラちゃん。君のお母さんのアイラさんも、その鍵の紋様が出た」


 どうしてお母さんはいなくなったの? とイラは父に聞くことができなかった。お母さんはずっと前にいなくなった。〈太陽のない森〉に食べられてしまった。だが、その理由を少女は知らず、聞こうとすることもなかった。

 父は、幼いイラに云っていた。


「イラ。お前のお母さんは、高潔な正義感を持った、強い人だった。立派な、それは立派な……人、だったんだ」


 その内容とは裏腹に、父親の顔はどこか苦渋に満ちていた。自らを無理に納得させるように云っているように、幼いイラには見えていた。

 

 母親は、正義の人だった。

 母親は、その体に〈凪に至りし六つの鍵〉が現れていた。

 ウルスラは、鍵が魔王幹部討伐の代替となれると語る。

 魔王討伐は、世界が平和になれる正義の行い。

 イラは、同年代の子に比べて、いくぶんか物分かりの良い子供だった。ゆえに、解ってしまった。

 そう。そうなのである。

 母の身体には鍵の紋が刻まれていた。

 

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