第五話 予兆
「森に入ったな、イラ」
家に帰って早々に聞こえてきた父の声に、イラは「そ、そんなことないょ……」と目を泳がせ、人差し指を唇に当てた。バレバレだった。
「お隣のアンさんが言っていた。お前が森に入っていくのを見たって」
お隣のアンさんは、健康的なまんまるおばさんだった。おせっかい焼きで、イラも度々「あなたは痩せすぎよ、もっとお肉をつけなくちゃ」と食べ物をもらったことがある。美味しかった。
そのアンおばさんに、〈太陽のない森〉に入っていく姿を目撃されたらしい。
そして、父にも当然そのことは伝わったのだろう。
「……」
父は無言だ。なにも言わないが、怒っている。とても、怒っている。
本当に、彼はイラのことを心配し、気が気ではなかったのだ。
妻を、その〈太陽のない森〉で失っていたものだから。
娘までそうなってしまえば、きっと彼は狂気に蝕まれてしまうことだろう。
「ごめんなさい……」
そこで素直に謝れるほどには、イラは父親想いだった。少女は父に心配をかけてしまったことを、心から申し訳なく思った。
「もう、入ったりはするな」
「うん……」
粛々と頷くイラへ、「お腹が空いただろう」と父がテーブルに座るように促す。
確かに、イラはお腹ペコペコだった。半日以上、なにも口にしていないのだ。
キッチンから運ばれてくる、見慣れた料理の数々。
ぐうう、と腹の虫が「早く食べ物を」と急かしている。
ほどなくして料理が出そろい、父もまたイラの対面に着座する。
「それじゃあ、いただきます」
少女と父親というたった二人の家族は、今日も昨日と同じ光景で食事を摂ることができた。そして明日も明後日も、きっと今日と同じ日々。この平穏な繰り返しを、少女の父は強く望んでいた。
外は真っ暗で、夜だった。
◇
夕闇が迫る空は、イラに焦燥を覚えさせた。
少女には帰る家がある。待つ家族がいる。帰らなくちゃ、と彼女は考え、ひとつの不安が鎌首をもたげた。
帰られるのだろうか。
「今日はもう、帰らなきゃ。お父さんが心配しちゃうから。またね、グンカ」
相変わらず佇み続けるグンカにそう挨拶をして、イラはとりあえず野原の切れ目、森への入口へと向かう。どこをどう歩けば村に辿り着くのかを分からぬままに。
また、あの異形に遭ってしまえば……。
そんな不安が、イラの中で主張を強め始める。今度は、助からないかもしれないのだ。彼女の瞳が、少しだけ潤んだ。それは恐怖だった。
すると、いつの間にかグンカが動き、少女の前に立ち塞がっていた。
「え、ど、どうしたの……?」
ただでさえ不安で泣きそうなのに、意図の知れない枯木の行動にイラはいよいよ泣きそうになった。もしかして、帰さないつもりなのだろうか。いや、グンカに限ってそんなことは────「……」なかった。
枯木は、樹枝のような腕を、まるで少女の進むべき方向を指し示すように地面と水平に伸ばしたのだ。こちらではなく、あちらに進めと。
「こ、こっちに行けばいいんだね……?」
グンカはひとつ頷き、イラの前に立って歩き始めた。
ついてこい、ということだろう。
イラは慌てて走り、グンカの横に並び、歩いた。枯木の歩幅はせまく、少女に合わせているだろうことが窺える。ゆっくりと、しかし確実に、枯木と少女は森の入口へと向かった。
西日の紅蓮が、〈枯木の野原〉の直上の空をも焼き始めた。
森の入口に着いてすぐ、グンカは抜き身の刀を構えた。
その突然の行動にイラはぎょっとし、少し後退りをして枯木の行動を眺めはじめた。そしてグンカは、野原の切れ目と森の入口の、そのちょうど境目を斬ろうとでもするかのように、刀を振り下ろす。
パリィンという、なにかが割れる音が辺りに響いた。
刀を納め、グンカは森をまっすぐに指さした。
「まっすぐに進め、ってこと……?」
イラの問いに、グンカは強くうなずく。
とにかく、まっすぐに歩けということらしい。決して脇道に逸れたりしてはいけないということだ。逸れてしまえば、おそらく恐ろしい目に遭う。
「分かった、ありがとうグンカっ」
礼を述べ、イラは鬱蒼とした森の入口に足を踏み入れる。グンカの指示通り、ひたすら直進した。前と思う方向へ歩き続けた。森は相変わらず真っ暗で、孤独だった。心細さを打ち消すように、無心に彼女は歩みを進める。
あっけなく、それこそ数分もしないうちに森は途切れた。
そんなこんなで、イラは無事に帰宅した。家に帰りつくころには、もうすっかり夜である。村の家々には灯りがともっていた。
そして、一日が終わる。
◇
イラは寝具の中で、今日一日を思い返してた。
お母さんを飲み込んだ〈太陽のない森〉に、自分もまた足を踏み入れたこと。
真っ白な異形に出遭い、ひたすら逃げたこと。
枯木のような人に助けられたこと。
森の中に、幻想のような野原が広がっていたこと。
枯木の怪物さんに、グンカという名前をつけたこと。
いろいろなことがあった。
とてもくたびれていた。
いつしかイラは、夢の中へと墜ちていった。
そして見たのは、鍵の夢。
夢の中のイラは、ひとつの鍵を握りしめている。
目の前には、イラを縦に数人積み重ねてなおも届かないほどの大きな扉があった。
視線の高さに、扉の鍵穴が六つあった。
イラはその鍵穴の一つへと鍵を差し込み、くるりと回した。
ガチャリという、開錠の音。次いで、その音に連動するように、ガチャガチャガチャガチャガチャと音が五回、鳴り響く。
すると扉はひとりでに開き始め、その奥には、ヒトに終焉を齎した"────「っ……!」鋭い痛みが、イラを現実へと引き戻した。ずきりずきりと、胸元が熱を生んでいる。
胸元を見ると、そこには鍵の紋様が赤黒く刻まれていた。
夜が、明ける。
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