第11話
――また来たのか、懲りないやつだ。
く、く、く、と。なにか大きな笑い声のようなとどろきが世界を揺らす。透き通った、水の色をした、いや、水のなかそのものだ、ここは。目をあけたトキはあわてて宙を掻いた。水の抵抗を感じる。音はしない。まだここは海のなかのようだ。それにしては――息がつづく。いや、陸上とかわらず、普通に息ができている。
――三度目だぞ、若者よ。覚えておるか。さいしょはそなたは赤子であった。それから、間抜けにも雷の衝撃でここに落ちてきた。ひと眠りして目が覚めたと思うたら、また現れおったわ。
銀色のきらめきがトキの目の前を横切った。小魚の巨大な群れかと見まごうほどで、しかしそれはまぎれもなく、一体の「なにか」であった。
「あんたが……神様、か。大蛇か、はたまた竜か」
――神に向かって「あんた」とはな。不遜な若者だ。
「ユウナの神様であって、おれの神じゃない。おれには神はいない」
銀色のかがやきはさも可笑しいとでも言いたげに、こまかく水を揺らす。
――ユウナの神ではない。夫だ。
「なんだって?」
――あの娘は儂の妻となった。やがて人としてのすがたかたちは崩れ、儂と同じ、しろがねの、悠久の時を生きる存在に変化(へんげ)するであろう。
「ユウナに、なにをしたんだ!」
――あの娘はすべてを受け入れた。儂の妻になることも、二度と今の姿で陸の世界へ帰らぬことも、この静寂の海で、かつて愛したひとびとのたましいを守っていくことも。
「そんな……。おまえが、ユウナをだましたんだろう? だまして閉じ込めてるんだろう?」
ふ、は、は。
笑い声はとどろく。
――おろかな若者よ! あの娘がどうして儂との約束を受け入れたか、わからぬのか。
大きなうねりがトキのからだをなぶった。水の渦になぐられて全身が軋む。
「ユウナに会わせろ!」
しゅるりと長いからだをしならせて泳ぎ去ろうとするリュウグウノツカイのからだを、トキはつかんだ。すぐに振り払われる。もう一度。リュウグウノツカイは速度をあげた。トキは必死に水を掻き、「かみさま」の尾っぽを、とらえた。
銀のきらめきが散る。
リュウグウノツカイが左右に大きくからだをしならせ、トキを振り落とそうとするが、トキは食らいついて離れない。
「ユウナ! ユウナ!」
水の中を進むうちに視界があかるい光で満たされていく。既視感をおぼえる。この光を自分は知っている。地上にある、太陽の光、月の光、星の光、そのどれともちがう。
「あの、光の玉は」
たましいの真珠が寄り添い合ってつくる、巨大な光の玉。
ユウナはあの光の中にあるのだと、トキは思った。自分も雷雨の晩、あの光につつまれて浮かんでいた。ユウナが救ってくれたのだ。
ぶん、と。突如、リュウグウノツカイが力を振り絞ってからだを大きくしならせ、光に気を取られていたトキはついに振り落とされてしまう。しかしすぐに水を掻き、光の玉目指して泳いでいく。
銀色の巨大な帯が、光の玉を守るように、そのぐるりに巻き付くように立ちはだかる。さながら巣を守りとぐろを巻く蛇のよう。
トキは腰に巻きつけてあった小刀の紐を解いた。こんなものであの大きな生き物を仕留められるとは思わない。かすり傷ひとつ負わせられないやもしれぬ。しかし、やるしかない。
トキはさやから小刀を引き抜き、大きく振りかぶった。
「――やめてっ!」
女の、声。
聞きたくてたまらなかった、女の。声がこだまする。
「ユウナっ!」
トキは叫んだ。どこにいる。ユウナ、どこにいる。
銀色の帯のむこう、光の玉のなかから、垂直に飛び上がるようにしてユウナはあらわれた。海女が水上に戻ろうとするときのように、天へむかって水を掻き、銀の帯の真上までくると、泳いでそれを乗り越えた。
――ユウナよ。
トキに向けていた声とはうってかわってやさしい響き。
「トキ。このひとは弱っているの。傷つけないで」
「ユウナ。でも、こいつを倒さなければきみは陸へ帰れない」
「このひとはあたしの夫なの。夫を置いて陸へは帰れない」
「なにを……言っているんだ?」
トキはゆっくりとユウナに手をのばす。抱き寄せようとしたが、するりとユウナはかわした。
「迎えに来てくれてありがとう。でも、あたしはここに残る。かあさまたちにも、そう伝えて。海の底の国で、みんなのこと、待ってるからって」
そう言ってほほ笑むユウナの瞳は、銀色のひかりをたたえている。リュウグウノツカイのからだのかがやきを映しこんでいるのか、それとも。
やがて人としてのすがたかたちは崩れ、しろがねの、悠久の時を生きる存在に変化(へんげ)するであろう。そう、リュウグウノツカイは言った。
まさか。もう。
目の前にいるユウナは美しい。しかしその美しさは、もともと彼女が持っていた、はつらつとした輝きではなく、どこかもっと透き通った、この世のものではないような美しさなのだ。
言いようのない不安にかられる。
トキの知っているユウナは、あの太陽の花のような、まばゆいいのちの輝きそのもの。いのちは燃やし尽くせばやがて散る、いずれ散るからこそ輝きをはなつ、力強くも儚いものだ。でも今のユウナは、それとは対極の、そう、永遠を思わせる揺らぎのなかにいる。――夫婦(めおと)の契りのあかしに、儂の、しろがねの鱗のかけらを、ユウナに飲ませた。
銀色の帯がうごめく。身もだえするようにうち震え、ひくい呻きをとどろかせる。
「だいじょうぶ?」
ユウナが銀色の帯に頬を寄せた。
――若者よ。儂はもうすぐ死ぬ。やっとのことでこの寿命も尽きるのだ。
「ならばなぜ、ユウナを」
「トキ」ユウナがリュウグウノツカイの、巨大なからだをいつくしむように撫でる。「あたしは、妻として、彼の最期を看取る約束をしたのよ」
ユウナの瞳が銀のかがやきを放つ。その全身も、清らかな銀のひかりにつつまれている。
飲まされた鱗のせいか?
「ユウナ」
抗えない衝動にかられてトキはユウナの腕を引き、銀色の生き物から引きはがした。とっさのことに、今度はユウナもかわせない。ユウナを強く抱きしめ、半ば無理やりにくちびるを奪う。
「…………んっ」
身をよじって逃れようとするユウナの口のなかに舌をもぐりこませ、さぐる。しろがねの鱗とは、なんだ。もうユウナのからだに溶けてしまっているのか、それとも、まだ間に合うのか。
やがて、もがいていたユウナがふっと全身のちからを抜いた。目を閉じて、両腕をだらりと弛緩させて。トキはその細い腕を、自分の腰に回した。するとユウナは何かを思い出したかのように、ぎゅっと力をこめて抱きしめてくる。
――おれのことだけを考えろ、ユウナ。おれを好きだと言ったユウナに、戻れ。……おれも、ユウナを。ユウナのことを。
トキはそっとくちびるを離すと、ユウナの耳もとに、何かを小さくささやいた。
途端に、ユウナの目から涙が流れ出て、その涙は流れるそばから澄んだ水の中に溶けていく。
「うそつき。……うそつき」
「うそじゃない、おれは、ほんとうに」
「あたしより大事なひとがいるくせに!」
ユウナの心の奥にある固いふたが、はがれた。どろどろとあふれだす感情は、ユウナが見て見ぬふりをしてきた、ほんとうの願い。
「愛して。あたしだけを見て。あたしだけを、あたし、だけを」
こんな身勝手な自分はきらい、みにくい、きらい、とユウナはわめく。
「ユウナ」
トキは混乱しているユウナごと、まるごと、やさしく、だけど熱のこもったまなざしで包み込む。
「ユウナだけだ」
「トキ。……トキ」
振り絞るようにユウナはトキの名を呼ぶと、かはっ、と何かを吐いた。
銀色にきらめく、小さなかけら。
夜光貝のかけらのような光沢。
――ああ。
巨大な生き物が呻く。呻きながらそのからだはのた打ち回り、ふたりを叩きつけようとする。
トキはユウナを抱きしめ、必死にかばった。静かにたゆたっていた水が、リュウグウノツカイのうねりに巻き込まれ、大きな渦となる。ふたりは必死に足掻いて逃れようとする。少しでも、上へ。次第に激しさを増していく渦の奥から、銀色の細長い蛸の足のようなものが伸び、ユウナの足にからみついた。それは変化したリュウグウノツカイの尾びれであった。容赦なくユウナのからだを引き込もうとする。
トキのからだからユウナのからだが離れた。その一瞬のすきに、蛸の足は力を強め、ユウナを引きずり込む。
「ユウナっ」
トキはユウナの手をつかんだ。間に合った。ごうごうと音をたてて水がうねり、ユウナを引き込む強い力に、伸ばした腕が千切れそうに痛む。トキ自身も、ユウナとともに渦に飲みこまれていく。
ユウナにからみつく銀色の尾びれがふたつに枝分かれし、そのうちのひとつがトキのほうへ伸びてくる。ふたりを引き離そうと、トキのからだを持ち上げる。
「トキ。手を、手を離して。彼がほしいのはあたしだけ。手を離せば、あなたは、陸の世界へ戻れる」
「いやだ」
トキは叫んだ。切れ切れに息をしながら、それでも。
「絶対にユウナを連れ戻す。一緒に帰るんだ。そして、そして、ふたりで」
濁流にもまれ、蛸足のごとく強い力で締め上げられ、からだじゅうが軋む。息ができない。あきらめてなるものか。光をうしなってなるものか。誰よりもたいせつな女を。
――ああああっ
轟くような呻きとともに、渦の奥の尾びれが鞭のようにしなる。トキのからだも、ユウナのからだも激しくあおられ、トキは離してなるものかと手に力をこめる。
「トキっ。トキっ」
ふと、蛸の足が力をゆるめる瞬間があった。その隙をのがさず、もがくユウナの手を、一気に引き寄せる。しっかりとその胸に抱き留める。
銀色の蛸の足は、リュウグウノツカイの尾は、まだ、のたうち暴れている。抱き合ったままふたりは荒ぶる海水にもまれ、それでも、もう決して離れるまいと、たがいのからだに回した腕に力をこめる。
あおられる。上下に、左右に。リュウグウノツカイ自身でさえもももう、みずからのからだの制御がきかないのだ。
「……苦しいんだわ」
ユウナが言った。瞬間、リュウグウノツカイの動きが、止まった。
「痛いのね」
ユウナはトキのからだに巻き付いた銀色の尾びれの成れの果てを、撫でた。やさしく、いたわるように。
ごふっ、と。苦しげに水を吐くような音がひびき、ふたりのからだから尾びれが解かれた。そのままリュウグウノツカイは力尽き、それとともに水の渦は消えて、もとの穏やかなたゆたいへと戻っていく。
どこからか無数の光の粒がふわふわと浮遊してきて、寄り集まり、大きな海の太陽となる。そのしずかな輝きは、ちいさな蛇のような生き物へとすがたを変えたリュウグウノツカイへと降りそそぎ、包み込んだ。
ユウナとトキは、そっと、白い砂地にからだを横たえた彼のそばへ、泳いでいく。
「あなた、蛇だったのね」
白っぽい光沢を持った海蛇。
「蛇ではない。リュウグウノツカイだ」
「ほんとに?」
「ほんとうだ。昔、島にいたころ、そのような生き物の言い伝えを、聞いたことがある。まさか自分が成るとはな」
ふ、ふ、と自嘲気味にわらうその声も弱弱しく、もうちいさなさざ波すらもたたない。
彼のいのちは、今まさに、尽きようとしている。
「あたしたちの島にかつて住んでいた、いにしえの人間なんじゃなかったの?」
「最初は、な」
ユウナは、銀色のかがやきを失った彼のからだを、そっと撫でる。
「この時を待ち望んでいた。仲間が皆死に絶えても、儂だけ死ねなかった。皆のたましいが真珠の粒となっていくのに、儂はこんな姿になり、時を経るうちに大きく太っていった」
ふう、と息を吐く。
「孤独が儂を太らせた。孤独が儂を……」
「苦しい、の?」
リュウグウノツカイは身をよじり、トキへ話しかけた。
「若者よ。そなたにほんとうの孤独がわかるか?」
トキはなにも答えられない。
「そなたには育ての父親もおる。会えなくとも、いつもそなたの幸せを祈ってくれる者もいる」
リゼのことだ、とふたりは思った。
「それに」リュウグウノツカイはユウナのほうを見やる。「この、娘は。そなたを助けるために海の底に住まう決意をしたのだぞ」
トキは息をのんだ。ユウナはきゅっと口を引き結んでうつむいている。
「儂は疎まれることすらない。誰も儂を知らんのだからな」
ふ、ふ、ふ、と。それでも、かつてのように小さな生き物は笑った。
「だから、はじめて、ユウナが儂の前にあらわれたとき、儂は」
三人を包み込むように照らしていた光の粒たちが、ふわふわと揺れ、明滅する。
それが合図であったのか。リュウグウノツカイのからだは透き通り、やがて、ひと粒の真珠へと変わった。真珠はまあたらしいかがやきを放ち、仲間たちと呼応するかのように二、三度明滅すると、そのまま光の群れへ混じっていった。
ユウナはしずかに泣いた。
トキは彼女の手を握った。
真珠の粒たちは、身を寄せ合いながら、このひっそりとした世界で浮遊している。つぎの生を得るまでの、つかの間の静寂。
「あれが、たましいなんだな」
と。トキがつぶやく。ユウナはうなずく。
「おれの本当の両親も、もしかしたら、ここに」
ユウナがぐっと、つないだ手に力をこめる。
生きているぬくもりが、そこにはあった。
手をつないだまま、ふたりは泳ぐ。水面へ向かって。ひたすらに光をもとめて。ほんものの、太陽のひかりをもとめて。ひたむきに求め続ければ、足を掻いていれば、きっと戻れる。生きているものにはこの世界への入口は開かぬと、かつてリュウグウノツカイは言った。ここは死んだものが還る場所。
だけどふたりは生きている。ならば、戻れる。
ざあんと、ふたりを波が洗った。
ふたりは渚に倒れていた。海と陸の境界。波が寄せ、返す場所。
頬に、つめたい砂の感触。手は、まだしっかりとつながれたままで。
先に目を覚ましたのはトキだった。夜だ。ふたりを迎えたのは、太陽のひかりではなく、満月のやわらかいひかり。すぐそばに横たわるユウナの頬を、指でちょんとつつく。
ユウナのまぶたがぴくんと動く。そして、ゆっくりと目を開けた。
「またユウナは、こんな場所で眠って」
トキは笑った。
波の音だけがひびく、しずかな浜辺。ふたりが出会った浜辺。
ゆっくりと身を起こすと、ふたりは、吸い寄せられるように抱き合った。
「おかえり」
と。トキが言った。ユウナはしばらく、トキの胸にほおを当てて、その鼓動を感じた。そして、彼の海色の瞳を見つめる。
「トキ。海のなかであたしに言ってくれたことば、だけど」
「うん」
「もう一度、言って?」
「…………ユウナ」
耳もとにくちびるを寄せる。熱を帯びたトキのことばを受けると、ユウナは悦びにうちふるえた。
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