第10話
目を覚ましたとき、トキは、かわいた草のにおいと、焦げた石のにおいに違和感をおぼえた。ついさっきまで、水底のふしぎな揺らめきの中で、ユウナとともにあったというのに。
身を起こすと頭が鈍く痛む。気を失う直前の記憶がよみがえる。雨が降っていた。ばりばりと空が裂け、雷光が灯台と雲とをつないだ。とどろくような雷鳴に、家から外へ飛び出したトキはそのまま倒れ込んだのであった。
目を閉じる。潮騒の音が聞こえる。どうやら耳は無事のようだ。
あれほどまでに荒れ狂っていた空も海も、いまは穏やかに凪ぎ、黒い雲はどこかへ去り、あたたかな陽が海原を照らしている。
トキはユウナのことを思った。
太陽のような娘だ。
黒い雲を、荒れ狂う風を、一瞬にして追い出してしまうあかるい光。
ユウナに口づけたこと、抱きしめたこと。自分の弱いこころがそうさせたと思っていた。悔やんでいた。彼女の純粋な気持ちを利用して、甘えてしまったと。そう思っていた。
なのに、この、やわらかく抱きしめられているような、こころがほこほこ暖まるような心地はなんだろう。
たましいが水底にあったときの記憶はうつろで、ただ、自分の名を呼んでいるユウナの声だけが耳の奥に残っている。それは唯一、トキの深い眠りの世界に届く、やさしくてあたたかい光だった。
目の前にそびえたつ古(いにしえ)の塔は、雷を受けてなお、倒れずにその姿を保っている。火桶のある頂上のあたりは焦げてところどころ崩れているが、しかし、なんという頑健さ。
トキはいままで、壊すことが勇気だと、強さだと思っていた。星読みなどというばかげた慣習を壊し、恋い焦がれた娘を、その宿命から救いたいと思っていた。しかしそれは彼女の望むところではなかった。
岬に吹く、つめたい潮風に吹かれて、トキは考える。
リゼとユウナ、ふたりの娘のことを。考える。自分自身の、これから生きる道を。考える。
やがてまるい陽が赤く燃えて、海へと沈んでいく。まだ、灯台から見える日没の風景を、ユウナに見せていない。今夜は灯台にあかりをともすことは難しいだろう。修復が済んだら、彼女をまた、あのてっぺんまで連れて行って、夕陽を見せてあげよう。かがやく海原を見つめて息をのむユウナの顔が目に浮かんで、トキは少し笑った。
翌日からは、父とともに灯台の修復作業に明け暮れた。その間、ユウナは一度もトキのもとを訪れず、トキは不安になった。感情にまかせてくちびるを重ねてしまったことを怒っているのだろうか。リゼのことを好いているのにもかかわらず、そんなふるまいをしてしまった自分のずるさを許せないのだろうか。そう思うときりきりと胸が軋む。
――甘えればいいじゃない。
ふと、耳の奥に、ユウナのいつくしむような声がよみがえる。
あれは夢だったのだろうか。彼女に許されたいと思う自分のこころが見せたまぼろしか。
トキはしずかに首を振った。ため息がひとつ、こぼれ出た。ユウナはなぜ自分に会いにこないのだろう。
灯台もすべて元どおりとまではいかないものの、ようやく火を焚けるぐらいまでには直った。昼間から家で酒を飲みながら父が愚痴る。
「まったく、村のものは誰も手伝いに来ない。灯台守なんぞ能無しのなる職だと思われてるからな」
「親父は実際、能無しじゃないか」
「でも女にはもてるぞ」
「もてたところで一銭にもならない。金を稼ぐか、作物をつくるかぐらいしてほしいよ」
トキはため息をつく。彼と血のつながりがないことは知っているトキだが、それでも人間としての相性は悪くないような気がしている。変わり者の父はトキにとっては数少ない、気楽にふるまえる相手だ。
――ユウナもそうだな。はじめて話したときから、ごく自然に、あの子はおれの領域に入り込んできた。
トキがユウナのことを考え始めた、ちょうどその折、戸口を叩くものがあった。
ユウナだ、と思った。思った瞬間、心臓が跳ねるような、体温がふわっと上昇するような感覚があってトキは戸惑う。
「どうしたトキ」
「……いや」
戸を開けると、そこには、見知らぬ年配の女性が立っていた。細く小柄で、顔色は青白く、今日は良く晴れてそれほど寒くないというのに小刻みにふるえている。
「あの。……どちら様で」
「西の村から参りました。……ユウナの、母です」
どくんと心臓がふるえる。言われてみれば、大きく黒目がちな目や、細いあごのかたちなど、ユウナによく似ているような気がする。
「あなたが、あなたがトキですか? おねがいです、娘を。むすめ、を……」
ユウナの母はトキの腕に取りすがって泣いた。混乱しつつも、トキは彼女を部屋に通し、白湯を出して落ち着くのを待った。父はあわてて酒を仕舞い、着物の衿をただした。彼の恋人の女性以外、滅多に客人などこない家だ。
ユウナの母は赤い目をしている。トキはこの女性がなにを言い出すのか見当がついていた。娘とはもう会わないでほしい、そう言うに決まっている。むかしリゼの姉にも同じことを言われたことがある。人目をしのんでこっそりと会っていたというのに、目ざとい家族は気づくものだ。
ユウナの母は湯気のたつ器を両手で包み込んだまま、ぼうっと虚空を見つめている。やがて、ぽつりと、
「ユウナのゆくえがわからない」
と、言った。一瞬、この女性がなにを言っているのかトキにはわからず、反射的に、え? と、間抜けに聞き返した。
「このあいだの、ひどい雷雨の日。そう、ここの灯台も雷に打たれて……。あの日わたしども夫婦は娘に留守を頼んで用事に出かけていて……。日暮れごろ戻ったらあの子がいない。少し変わったところのある子です。子どものような好奇心を抑えられないところがあって……。雨の中、どこかへ出かけたんだろう、ぐらいにしか。考えてはいなかった。しょうがない子だ、としか」
「だけど、戻ってこない……?」
父が先をうながす。
「戻って、こない」
女性はふたたび嗚咽しはじめる。浜をさがした、林をさがした、洞窟を探した、村じゅう、村の外も。恐ろしくてたまらなかったが、海の岩場や林の崖の下、若い娘のなきがらがないか、村の男衆に頼んで探してもらった。しかし何も出てこない。こつぜんと娘は消えた。そう涙ながらに女性は語る。
「まじないもしてもらったが埒があかない。そしてわたしたち夫婦は星読みのところへ行った。娘は星読みのことを信頼していた。なにか手がかりが得られるかも、と」
「それ、で」
トキの声はふるえていた。手も、肩も。ひざの上でこぶしを握りしめて耐える。若い娘のなきがら、という単語が絶望的な響きを持ってトキに襲い掛かる。
――ユウナ。ユウナ。
嘘だ。戻ってこないだなんて、行方がわからないだなんて。
「灯台守のところへ行け、と。星読みは言った。若い灯台守が、わたしの娘を救うだろうと」
ユウナの母は両手を床について頭をさげた。
「お願いします。勝手な言い分だということはわかっている。わたしは娘に、あんたのことを諦めろと言い聞かせていた。一緒になるのは許さないと言っていた。それなのに娘を助けてくれだなんて、虫がよすぎると、わかっている」
「……お母さん、頭をあげてください」
父が言うが頑として彼女は聞かない。
「命がけの仕事だと星読みは言った。ユウナは海の底、人間のたましいの還る場所に閉じ込められている。死したたましいしか行けぬ場所、そこへ行くには、死ぬか死なぬか、ぎりぎりのところまで追いつめられなければならぬ、と」
「行きます」
トキは答えた。考える間もなく、勝手にことばが口をついて出ていた。
ユウナの母は頭をあげ、トキの腕にとりすがる。
「わかっているのか? わたしはあんたに、娘のために命を賭けろと、そんな無謀なお願いをしているのです。あんたは死ぬかもしれない。よそさまの子にそんな無茶をさせるわけにはいかぬ、でも娘を救うには頼るしかない、できることならわたしが行きたいが、トキでなければならぬと星読みは言った、だからわたしは」
「お母さん。お母さん、落ち着いて」
トキの父がユウナの母の背中をさすってなだめる。彼女の呼吸が落ち着くのを待つあいだ、トキは思い出していた。
海の底の国。たましいの眠る場所。ユウナは自分を救ってくれた。一緒に帰ろうと、陽のあたる世界へ帰ろうと、そうトキに言ったのだ。
自分はその場所を知っている。ユウナの「かみさま」の守る聖域。雷の衝撃で、自分はあそこに沈んだのだ。夢ではなかった。
「ユウナを取り戻すためなら、何だってする」
トキは言った。迷いはない。
「かならず助ける」
――ユウナはおれの、光だ。
ユウナの母が顔をあげる。トキの目をまっすぐに見つめて問うている。本気か、と。トキはうなずいた。いつも貝細工を作るときに使っている小刀をひも付きのさやにおさめ、しっかりと腰に巻きつけた。万一の備えだ。何もないよりはましだろう。
「ユウナをあそこから連れ戻す。そして……。一緒に、生きていく」
トキは戸を開けた。透明で清潔な冬の日の光が差し込み、灯台守親子の、せまい家を満たしていく。
「……しっかりやれよ」
父の声を、背中で聞いた。
林の中の小道を駆け下りる。子どものころからの遊び場である、慣れ親しんだ入り江へと向かう。ある日ひょっこりと、運命の女たちがこの浜辺にあらわれる。岩陰のむこうからとことこと歩いてきた、幼い日のリゼ。満月の夜の砂浜で、倒れ込むようにして眠っていた少女、ユウナ。
潮騒が近づく。木々が途切れて、ちょうど入り江とのさかい目になるあたりの、ごろごろと岩の転がる空間に、鮮やかな黄色を見つけた。目を細めて見上げれば、それは、美しい花たちであった。
――ユウナの花だ。こんな時期に咲いているなんて。それも、こんなにたくさん。
檸檬を思わせる、まぶしい黄色の花びらを揺らし、青空を背にトキを見下ろすように咲き誇っている。真昼の太陽のようにあかるい、ユウナの花。
しかしその花は、夕暮れが近づくと、色を変える。ほんとうに太陽のようだとトキは思う。花弁は恥じらうような朱に染まるのだ。散ってもなおうつくしい。
ユウナの、トキをまっすぐに見つめる無邪気な笑顔と、口づけたあとの、頬を染めてうつむく彼女のすがたが、この太陽の花に重なる。トキの胸はせつなく高鳴る。はやく会いたい。散らしてなるものか。一刻も早く、ユウナのもとへ。
浜へ出て、まっすぐに渚へと駆ける。つめたい波しぶきを蹴り、着物が濡れるのもいとわず、進んでいく。腰まで水に浸かる。波がトキを浜へ押し戻し、かと思えばふたたび強い力で引き込まれる。トキは泳いだ。しびれるほどに冷たい海も、もぐっているうちにからだが慣れて何も感じなくなっていく。ひたすらに水を掻き、足を蹴り、水平線のほうへと泳いでいく。珊瑚礁に守られた、エメラルドグリーンの、いのち豊かな海の、その向こうへ。行かなければならない。トキは必死だった。息を継ぎ、ふたたび潜り、両足をひれのように動かしながら、トキはユウナのことだけを想う。
海の神よ。ユウナを返してくれ。
もといた入り江がはるか向こうへ遠のき、トキは、珊瑚礁の海と、群青色の外洋との境界へ近づいていた。群青の海は未知の世界。船で渡ったものはいても、泳いで渡ったものはいまだいない。いや、いるのかもしれないが、二度と陸に帰ってこないのでわからないのだ。
太古の昔からある珊瑚礁が島をまるく取り囲む、その壁の隙間から、外洋のつめたい海水が流れ込み、渦となっている場所がある。波にもまれてからだの力を抜き、潮の流れに身をまかせれば、トキのからだは自然と激しい渦のなかへ引き込まれ、飲まれていく。
恐ろしい轟音がひびき、トキのからだはちっぽけな小枝のようにもみくちゃにされ、流され、生きものとしての本能でもがくものの、からだはまったく言うことをきかない。海水を飲み、激しい痛みとともに、トキの意識は遠のいていく。
沈みゆくその一瞬、あかるい黄色い花の残像が、まぶたの裏に浮かんだ。
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