第9話

目を開けたとき、ユウナは海の中にいた。珊瑚礁も群れ泳ぐ魚たちもなく、ただただ青くゆらめく水の檻。足元にはやわらかな砂地がどこまでもひろがり、水面ははるか遠くにあるのにどこからか清らかな光が射してあかるい。

 そして、息ができる。

 なつかしい思いがユウナの全身を満たしていた。蛇に噛まれて沈んだ幼き日に見た光景そのもの。

「ここは、あの、群青色した海の果てなの?」

 ちがう、と低い声が返ってくる。

――生きたからだを持った人間は、まず来ることができない海だ。そなたたちのよく知っておる珊瑚の海の底とも、珊瑚礁の外の広い海の底ともちがう。つながってはおるが、ここへの扉は普通の人間には、生き物には、見えないうえに開くこともない。

「でも、あたしは」

――娘よ。儂もかつては、人間だったのだ。

 リュウグウノツカイの声が揺らめきながらユウナのからだじゅうにひびく。

――古い古い時代だ。もう人間の時の尺度を忘れてしまったゆえ、そなたたちのことばであらわすことができないが、とにかく古い時代だ。儂も人間だったころ、そなたのように、この場所へ迷い込んだことがある。ごくまれに、そのようなふしぎな人間が現れることがある。だから儂はそなたのたましいが特別だと思ったのだ。

「あたしが、特別?」

――青年のたましいを救いたければ、取引をしよう。

「取引? なんの?」

 リュグウノツカイの話はあちこちに飛び過ぎて、ユウナにはつながりがつかめない。

 ユウナを取り巻く銀色の大きなものが、ずるりと動いた。

――儂が人間だったころの話をしよう。そなたたちの住んでいるあの島で、儂と仲間たちは穏やかに暮らしていた。高い物見と祈りの塔をつくり、灯台を建てて外国と舟で行き来していた。灯台も島のあちこちにたくさんあったのだ。そなたたちよりよほど栄え、豊かであった。

「星読みの塔……。トキの、灯台……」

――しかし、ある日巨大な大波に島が飲まれ、儂を含め、仲間たちのたましいはここへやってきた。仲間たちのたましいは真珠となり、やがて順繰りに泡のようにのぼっていき、あたらしいいのちを得てもとの世界へ還っていったが、儂だけはいつまでも還れない。気づけばからだに銀色の鱗が生え、たましいの巣を守る異形のものとなっていた。

「その話が、あたしと、なんの関係があるの」

 いい加減焦らすのはやめてほしい。何より、はやくトキのたましいを取り戻したい。

――儂のいのちも限りがあると言うたであろう? じつは、あと少しで寿命が尽きるのだ。やっと、待ち望んでいた時が訪れる。ここに浮遊するたくさんの真珠たちとともに、儂もいずれどこかへのぼっていくのであろう。だからな、娘。そなたに。

「あたし、に?」

 ずるり、と。リュウグウノツカイがからだを動かすと、銀色の渦が起きる。しばしの沈黙のあと、

――儂が死ぬまで、話し相手になってもらいたい。それが青年を救う条件だ。この命尽きるさいごの瞬間を、生あるだれかに看取ってほしいのだ。そしてそれは、おそらくそなたにしかできぬこと。

 リュウグウノツカイは、そう告げた。

「お安いご用よ。トキが助かるならなんだってするわ。それに、あなたのお役にも立てるなら嬉しい。助けてもらった恩も返せる」

 ユウナの声は弾んでいた。

「あなたをお見送りしたあとは……、あたし、もとの暮らしに戻れるのよね?」

 銀色の大きな生き物は、その問には答えなかった。


 幼き日にそうしたように、リュウグウノツカイはユウナを乗せてたましいの浮遊する場所へ泳いでいく。強烈な既視感がユウナを包んでいた。どこかなつかしい、溺れた幼い日よりもはるか昔から知っているような、銀色のひかりの帯。

 水底の国を照らすきよらかな太陽。白くかがやく、無数の真珠の粒。珊瑚のたまごのようにふわふわと水にたゆたいながら、寄り集まって大きなまるい塊をつくっている。

 そのなかに、トキがいた。ユウナは、あっと叫んでしまう。

 無数の真珠の粒たちに包み込まれるようにして、トキが浮かんでいる。目は閉じたまま、手足をだらりと弛緩させて。そのからだは青白く、透き通っている。

「トキ。トキっ」

 いてもたってもいられず、ユウナはリュウグウノツカイのからだから手を離した。両手で水を掻いてすすむ。まっすぐに、まばゆい光の玉のなかへ飛び込む。さながら小さな羽虫のように真珠の粒はちりぢりに飛んだ。

「トキっ」

 いとしい彼のからだに手をのばす。しかしユウナの指先は、彼のからだを素通りした。足で水を蹴って、もっと近づく。両手をのばして彼のからだを抱きしめようとするけど、ユウナの腕のなかには透明な水があるだけ。

「トキ。どうして?」

 ユウナの涙は流れ落ちた瞬間から青い水とまじりあって消えていく。銀色の帯がユウナとトキのまぼろしを包み込むように巻き取った。

――これはたましいだ。まだ、からだのほうは生きておるゆえ、たましいはからだのかたちをとっておる。いずれ肉体が朽ち、たましいがからだの記憶を失えば、小さな白い粒となるであろう。

「トキ。……トキ」

――儂はこの青年にも見覚えがある。人間の時計の針はめまぐるしくまわるのじゃな、儂がここで拾ったときはまだ赤子だったのに、もう大人の体躯をしておるわ。

「あなたが、トキをたすけたの?」

 思い出していた。赤子のとき浜に打ち上げられていたのを拾われたという噂話。あれは本当のことだったのか?

――落ちてきたのだ。どこかの船が難破して、投げ出されたのであろう。たましいは、今のように、透き通った人間のかたちをしておった。時おりそのような姿のたましいが沈むことがある。半分死んで、半分生きている状態だ。

「生き返らせてくれたの? あなたが?」

 ちがう、と銀色の帯は水を揺らめかせた。

――こやつのたましいが目を覚まして泣き叫んだのだ。それで儂は、海中を沈みゆく赤子のからだをさがし、波打ち際まで運んだ。なに、造作もないこと。一瞬のうちに済む。娘よ、半分死んで半分生きた状態のものが、生へ転ぶか死へ転ぶかは本人次第なのだ。ひとのかたちをしてここへ沈んでも目を覚まさず、そのまま真珠の粒となるものもおる。そのようなときは、儂も手出しはできぬ。

「じゃあ。じゃあトキも、いま目を覚ませば、自分の体に戻れるのね?」

――左様。

 水の檻が揺れた。ユウナたちを巻き取っていた光の帯がずるりと這い、うねりながら泳ぎ去っていく。

――疲れたので儂はしばらく寝る。娘、くれぐれも約束を忘れるでないぞ。

「ええ。もちろん」

 銀色の大きなうねりが消えた。ユウナはトキの透き通ったからだをかき抱くように、水のなかをたゆたう。ほおに手をのばしても、やはり触れられない。

「トキ。トキ、聞こえる?」

 やさしく語りかける。

「あたしよ。ユウナ。むかえに来たわ。一緒に帰りましょう」

 真珠の粒たちが、ふたたびふわふわと寄り集まり、ふたりのまわりを取り囲んでいく。

「きれいね、光る虫みたい」

 目を閉じたままのトキに、ユウナはそれでも語りかけた。

「ふしぎね。たましいって、自然と、みんなで寄り集まろうとするのね。たったひと粒で浮かんでられないのかしら」

 トキはきっと、たったひと粒で生きていこうとするたましい。リゼもそう。運命が彼女をそうさせている。だからふたりは惹かれあった。

「じゃあ、あたしはどうなのかしら」

 トキの長いまつ毛がさやかに水にそよぐ。栗色の髪も。

「あたしは、ずっとトキのそばにいたい。ねえ、もう一度あたしを見て。触れて」

 ユウナは目を閉じて、彼が溶けている水ごと包むように、やわらかく抱いた。無数の気泡がたちのぼり、真珠たちのきよらかなひかりに照らされてきらめく。ユウナのなみだは海に溶け、トキのたましいに届く。

「トキが好き。好きよ」

 報われぬ思いをかかえた彼を、無力感に打ちひしがれる彼を、孤独な彼を。すべて包んで守りたい。

「…………ユウ、ナ」

 ゆっくりと、トキが目を開ける。ユウナが焦がれた、あの、みずいろの瞳。いま、ふたりをつつむ海の底の世界の色そのもの。

 トキがのばした手はユウナの頬を突きぬけていく。

「おれ、は、一体」

「帰ろう、トキ。陽のあたる世界へ、一緒に帰ろう」

「ユウナ。おれはずるい男だ。きみのやさしさに甘えた」

「甘えればいいわ。あたし、愛なんていらないもん」

 ユウナはいたずらっぽくほほえんでみせる。

「あたしはトキに生きてほしい。存分に、生きてほしいの」

 ――愛ならあたしがあげる。たくさんたくさん、あなたにあげる。

「ユウナ」

 トキがユウナの名を呼んだ瞬間、彼の透き通ったたましいは、ぱあっと光を放ち、やがて泡となって消えた。

「トキ? トキ?」

 水の中を見回し、真珠の粒をかき分けて彼のすがたを探すユウナのもとへ、ふたたび銀色の大きな生き物があらわれた。

――娘よ。案ずるでない。あやつは生を取り戻した。今頃目覚めておるところだ。

「トキのたましい、帰れたのね」

――そうだ。

「ありがとう。ありがとう、リュウグウノツカイ、さん」

 嬉しさのあまり、大きなからだに身をすりよせてユウナは笑んだ。くくく、とリュウグウノツカイは笑う。

――くすぐったいぞ。儂にそのようなふるまいをする人間など、はじめてだ。

「人間だった時代は、どうだったのかしら?」

――もう忘れた。娘、よ。

「ユウナよ」

―ーでは、ユウナ。約束通り、そなたは儂のそばに。

「ええ。……聞きにくいんだけど、その、どのぐらいの時間かしら」

――人間からすれば、永遠に近い時間に思えるかもしれぬ。

「え?」ユウナは耳を疑った。「どういうこと?」

 永遠に近い時間?

――しかし、儂のいのちが尽きるのはもうじきだ。それまでそなたは儂の妻となるのだ。

「妻? え、あなたの?」

 相変わらず話があちこちに飛ぶ。それに、妻だなどと。話し相手になるという約束ではなかったか。

――儂はそなたが欲しい。はじめてそなたがこの世界に現れたとき、儂はそなたに心奪われた。

「だって。あたしはあのとき、まだ小さな子どもで」

――たましいの輝きに、年齢など関係ない。ましてや儂のような存在にとっては、童も娘も老婆もおなじだ。

「……妻なんて言われても。あたしはちっぽけな人間よ。それにあなたはもうすぐ」

――死ぬ。しかしそなたに儂のいのちのかけらを与えよう。そなたは銀色の輝きとなり、真珠の巣を守っていくのだ。

「いくのだ、って、そんな、勝手に」

 それで、永遠に近い時間などと言ったのか。そのように果てしない時間をこの水底の世界で過ごすなど、気が遠くなりそうだ。

――許せユウナよ。これは限られた人間にしかできぬこと。そなたは海に選ばれた。かつての儂のように。

「話がちがうわ。あなたの話し相手になって最期を看取る約束はしたけど、でも」

――本来なら、この世界に落ちてきたたましいの存在を生けるものに教えるなど、ましてや救う手助けをするなど、あってはならぬことなのだぞ。

「……ずるいわ」ユウナは銀色の生き物を、かつてユウナが神だと信じてよすがにしていた存在を睨みつける。「トキのいのちと引き換えに、あたしのいのちを差し出せということなのね」

――いのちを奪うのではない。逆だ。永遠に近いいのちを与えると言っておるのだ。

「……いのちを奪われるほうがよっぽど気が楽だわ」

 ふ、ふ、ふ、と。リュウグウノツカイは笑う。

 海が揺れる。

 この水底の世界では、一瞬も永遠に、永遠も一瞬に感じられる。時はとまり、水とともに揺らぎながらたゆたうだけ。

 ユウナはその、一瞬のような永遠のような時間、みずからの心のうちにもぐり込んだ。

 かつてリゼが自分に言ったことば。ユウナには、結ばれるべき相手がほかにいる。ひとにはそれぞれ、与えられたさだめがある。

 自分の運命の相手は、この異形の存在で、自分のさだめとは、はるかなる長い時間、たったひとりで海の底の真珠を守っていくこと。

 それが答えなのだろうか。

「リュウグウノツカイさん」ユウナはしずかに語りかけた。「あたしのたましいは、あなたの目には、どんな風にうつっているのかしら」

――とても、とても、美しい。ここにあるどの真珠よりも、清らかに輝いている。一点のけがれもない。

「いまも?」

――いまも、だ。

 ユウナは、くすくすと笑った。何がおかしい? と、リュウグウノツカイは小さなうねりを起こす。

「あたしは清らかでもなんでもないわ。ほんとうは」

――つづきは、言わずともよい。わかっておる。

「案外あなた、やさしいのね」

 ふ、ふ、とリュウグウノツカイは笑う。強がりの奥に押し込めた自分のほんとうの願いなど。口にしたとたん、どこまでもあふれてきそうで、制御できる気がしなかった。

「ひとつ、聞いてもいい?」

――何だ。

「雨になってあたしのもとに現れたわね、あなた。あたしもあんなふうに、姿を変えて地上に降ることができるかしら」

――できるさ。

 ユウナは笑んだ。もう心は決めた。

「あたし、あなたの妻になります。よろしくお願いします」

 ふかぶかと頭(こうべ)を下げる。

 銀色のひかりが輝きを増す。真珠の守り人が喜んでいるのだ。

 自分はこの海の底の世界で、永遠にもひとしい時間を。精いっぱい強がって生きていこう。

 ユウナはゆっくりと目を閉じた。


 さよなら、かあさま。さよなら、とうさま。

 さよなら、サリエ。さよなら、リゼ。

 みんなのしあわせを、あたしは祈っている。海の底から、祈っている。

 トキ。

 あたしのこころは、ずっとあなたのそばにいる。

 雨になってあなたに降るわ。

 もう、たましいを投げ出したりしないで。

 存分に、生きて。

 愛しています。

 

 やがてリュウグウノツカイが、まるでやさしく抱きしめるかのように、その大きく長いからだをユウナのからだに沿わせた。ユウナはそっと、銀色のうろこを、撫でた。

 

 

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