第8話

それから数日後、リゼはいったん自分の村に連れ戻された。彼女は、村のひとびとに、自分の力がまだ発展途上であることを丁寧に説明し、この夏島を襲った多くの災いを予言できなかったことについて、素直に詫びた。

 結果、彼女は審判を受けることも、星読みの職から解かれることもなかった。島の人々も、リゼ本人の、まだあどけなさを残すたたずまいや儚げな風情、自分のいたらなさを真摯に受け止め悔いている姿勢を目にして、冷静さを取り戻したようであった。また、リゼが村へ戻ったのとほぼ同時期に、メヒルギの村にいるという予知能力を持った娘が、いかさまであることが明らかになったのも大きかった。結局、リゼのほかに星読みに適した人間はいないし、どんなに未熟であろうと、彼女の力と犠牲に頼る以外の選択肢はなかったのだ。

「生贄みたいなものさ」

 トキが吐き捨てるように言う。いつもの入り江で、海に向かって石を投げながら。

 浜風はつめたく、ユウナのからだを芯から冷やしてゆく。

「リゼは最初からわかっていたのね」

 トキは、ユウナのつぶやきにはなにも答えない。

 あの日トキはずっと港でリゼを待っていた。決して現れない恋人を、それでも、ひたすらに待ち続けていたのだ。夜中、灯台のあかりが煌々と燃えているのを自分の村から見ていたユウナは、翌朝トキの家を訪れた。トキの父が現れ、自分が一晩中灯台の番をしていたと告げた。あいつが仕事を放りだすなんてはじめてだ、と。

 あれからトキの様子がおかしい。青白い顔をして、始終眉間にしわを寄せ、ため息ばかりこぼし、そんな風にふさぎこんでいたかと思えば、突然いらいらと地を蹴ったり壁に物を投げつけたりする。今だってトキは、水平線の近くの深い色をした海を、まっすぐに睨みつけている。

「……リゼとは、ここで会ってたんだ」

 おもむろに、トキが口を開く。

「ある日、岩陰からひょっこりと現れたんだよ。村の林の中の洞窟を探検していたらここに出たって言ってたな」

 トキの栗色の髪が風になびく。その海色の瞳は冬空をうつしてわずかにかげる。

「おれたちはまだ子どもだった。だけどおれは、自分が厄介者だって知ってたから、あまり彼女に近づかないようにしてた。彼女は彼女で、ひどく無口な子だった。だけど」

「好きに、なったんだね」

 ユウナの声が風にまぎれて儚くひびく。トキはうなずいた。

「今思えばリゼは、もうその頃から自分の未来を視ていたんだろう」

 トキの横顔を見つめる。こんな顔した彼を、かつて見たことがある。ユウナは思い返していた。二年前、リゼが星読みになり、森までの道を送られていったときのことを。トキは、もう去ってしまった彼女のおもかげを、ずっとずっと見つめていた。どうしようもなくたぎる熱を、それでも消さなければならないせつなさ。

「いまも、好き、なのね。これから先も、ずっと」

 胸がきりきりと痛む。最初からわかっていたことなのに。

「腹がたつんだ。この島の慣習も、だれかに犠牲を強いるようなやり方も」

 トキの肩が小刻みにふるえている。

「なにより自分が情けないんだ。どうしても抗えないものがあるということが悔しい。おれには、運命を変える力がない」

 声を殺して涙を飲んでいるトキの頭に手をのばし、ゆっくりと撫でた。小さな子どもにするみたいに。やがてトキが手をのばし、ユウナの腕をとった。

「ごめんなさい、あたし」

「……ユウナ。どうしておれにやさしくする? どうして、いつも」

「それは」

 言えない。言えない、けど。

「あたし。あたし、は……」

 彼をはじめて見たとき胸の奥に灯ったちいさな火が、いま、燃え広がって全身を熱く焦がしていく。ユウナはみずからトキの胸に飛び込み、彼の背中に腕をまわしてしがみついた。じかに感じる彼の鼓動に、熱に、息が止まりそうになる。

「あたし。あたし、リゼのかわりになる。あたしのこと好きになってくれなくてもいい、彼女のかわりでいい、だから」

「ユウナ」

 トキは、そっと、彼女のからだを自分のからだから引き離した。そして、ユウナの目から零れ落ちる涙を、指でぬぐう。

 波の音がする。海色の瞳が自分を見ている。トキの大きな手がユウナの熱く火照ったほおをつつむ。

 ユウナは、ゆっくりと、目を閉じた。


 重ね合わせたくちびるがいつまでも熱を持っていて、ユウナはその晩眠れなかった。口づけのあと、トキは、「ごめん」と。ひとことだけ、ユウナに告げたのだった。

 謝られれば自分はみじめになる。自分から、リゼのかわりになりたいと言ったのだからトキも割り切ればいいのに、そう強がってみても胸のまんなかは疼く。だけどその疼きはどこか甘さを含んでいて、それはトキの海色の瞳がわずかに熱をおびていたこととか、しっとりとやわらかいくちびるの感触だとか、くちびるが離れたあと、ぎゅっと抱きしめてくれた力強い腕だとか。そういったもののせいだ。

――もう戻れない。あたし、トキが、好き。

 雲の隙間から弱い朝日がこぼれ、灯台の灯は消え、亜熱帯の島の、短い冬の一日がはじまる。泉で水汲みをする手はかじかみ、ユウナは何度も自分の両手に息を吹きかけた。空は鉛色の雲に覆われ、午後からは天気が崩れそうだとユウナは思った。

 予想通り昼過ぎからぽつぽつと雨が降り始め、ユウナは家にこもって機を織った。機織りも、むしろや籠を編む作業も、ユウナはあまり得意ではない。よく、母や姉たちにあきれられていたものだ。トキはじょうずに出来そうなのに、と思う。貝の飾りを売り物にできるぐらいだから、きっと機織りだって器用にこなすだろう。そんな風にユウナはつい、トキのことばかり思い浮かべてしまう。

 ため息がこぼれて、ユウナは作業の手を止めて立ち上がった。雨が家をたたく音がする。父と母は村の会合へ出かけて、今日は遅くなるという。遠くから、ごろごろと雷鳴が聞こえる。雷はだんだん近づいてきている。ユウナは不安になった。みょうな胸騒ぎがするのだ。

 稲光。重い黒い空がばりばりと裂け、大地に落ちる音がする。雷のあまりの大きさに、ユウナはするどい悲鳴をあげ、身をすくめた。

 トキに会いたい。彼がだれを思っていようが構わない。会いたい。会いたい。

 ふらりと外へ出てみれば、空から落ちる雨のつぶが銀色に光っている。ユウナは自分が濡れるのも忘れて、銀色の雨のなか、ひとり、たたずんでいた。

 これは、なに? どうしてこんなに雨が光るの?

 ぼうぜんと立ちすくむユウナの目の前がぱっと光り、次いで、つんざくような雷鳴が響きわたる。ユウナはとっさに両耳を覆った。こんな時期に激しい雷雨が降るなど、めずらしい。不安はますます大きくなり、飲みこまれてしまいそうだ。

 トキに会いたい。

 彼のぬくもりを思い出す。雨に打たれるがままのユウナは濡れそぼって、しかし熱を帯びたからだは冷えない。銀色の雨は激しさを増し、雨粒は光りかがやきながら次第に寄り集まり、やがてひとつの渦となった。

 長く大きく、きらきら光ってうごめくなにか。幼い日の記憶。夢か現かわからない、海の底の記憶。

「…………あなた、は」

――左様。

 頭の裏側に直接ひびく、低い声。

――ひさしぶりであるな、娘よ。

「かみさま、ね?」

――神ではないと言うておろうが。

 く、く、く、と押し殺したような笑い声が頭蓋の内側でひびく。

――儂はリュウグウノツカイ。たましいを守る存在だ。そなたたち人間よりもはるかに長いいのちを持ってはいるが、いずれは朽ちる身。決して神などではない。

「生き物、なの?」

――左様。そなたが今まみえているのは儂の分身だ。儂のからだは今も海の底にある。

「……よくわからないけど、どうしてわざわざ、あたしのところに」

――そなたに教えてやろうと思ってな。そなたの思い人の青年がいま、たましいを海に落とした。

「トキ、が……?」

 今しがた耳にしたことばの意味がうまく受け止められない。たましいを落としたということは、つまり。

「死、死ん、だ……? の……?」

 かちかちと歯が鳴る。まさか。昨日自分を抱きしめた腕のちからは若くたくましい青年のそれで、苦悶にゆがむその顔も、熱く速まる鼓動も、ぜんぶ、ユウナはありありと思い返すことができる。トキの、いのちの、ぬくもり。

――まだ死んではおらぬ。今しがたの雷が灯台に落ちたのだ。そばにいた青年は轟音に気を失い、その拍子にたましいが抜け出て海に落ちた。肉体はまだいのちを持っておるが、危険だ。たましいの抜け出たからだは、そのうち熱を失っていく。たましいも、からだの記憶を失い、戻れなくなる。

 たましいを落とした人々の話は、ユウナも聞いたことがある。事故や精神的な衝撃からたましいが抜け落ち、ぬけがらになってしまうことが時々あるのだという。

――もともとあの青年のたましいは揺れておった。みずから海に身を投げ出しかねないくらいにふらふらと揺れておった。そこにあの衝撃だ、無理もない。

「……そんな。早く、おばば様に、まじないで戻してもらわないと」

 村で一番霊力の高いものがまじないをほどこし、たましいを呼び戻す。そうしないと一生抜け殻のまま目を覚ますことはないだろう。

――あれのたましいは海へ落ちた。儂のまもる場所へと来たのだ。そなたもかつて来たことがあるな。

 美しく光り輝く、真珠たちのきらめき。ユウナの脳裏にあざやかによみがえる。この世の生が尽きたもののたましいが還る場所。

――そなたが取り戻しに来い。青年を恋うておるのであろう?

「もちろん行くわ。連れて行ってくれるのね?」

 ごう、と風が吹き木々が揺れる。リュウグウノツカイがうなずいたのだ。

「でも。どうしてあたしに教えてくれたの? 昔も、あたしのこと助けてくれたし、それからもずっと、守られているような気がするの」

――それは。そなたのたましいが、適していると思ったからだ。

 何に? と聞く間もなく、ユウナは銀色の渦に巻き込まれた。滝のような水音がうなり、ユウナは息を止める。濁流がユウナをどこかへ押し流していく。ユウナは全身の力を抜き、流れに身をまかせた。

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