第5話
強い風がユウナの家をなぶっている。木々はしなり、きしみ、激しい雨が村を容赦なくたたきつける。海は荒れ狂い、だれも近づくことができない。
夏の終わりはいつもこうだ。海の彼方から嵐がやってきて、島じゅうを蹂躙しつくす。
毎年のことだが、今年はとくに、嵐の数も多いし、規模も大きい。
三日三晩吹き荒れた風がようやくしおらしくなり、ぶあつい雨雲の渦も去った。憑き物を落としたかのようにすっきりと晴れた空のもと、ユウナは傷んだ家の修復作業をしていた。
「芋もサトウキビも全滅だな」
畑の様子を見に行っていた父が、戻るなりため息をつく。
「いのちがあるだけましだと思わなきゃ」
母が気丈に父を励ます。今年、つぎつぎに襲った嵐のせいで木々や家が倒れ、下敷きになったものもいるし、山あいの村では、崖くずれに巻き込まれて亡くなったひともいるという。
「なんの予言もなかったな」
母の注いだ水を飲みながら、父がつぶやく。
「こんなに嵐がたくさん来る年ははじめてだ。避けられないまでも、せめて、どのくらいの頻度でくるとか、どれくらいの被害が出るかとか、教えてくれてもよさそうなものなのに」
父の、やり場のない怒りが、なんの予言ももたらさなかった星読みに向かっている。父の口からぶつぶつと噴きだす不満を、ユウナはあわててさえぎった。
「嵐が来るのなんて、わざわざ星読みに聞かなくっても、空の色とか空気のにおいで予想できるじゃない。毎年のことなんだし」
「しかしなあ。先代の星読みはきっかりと告げていたんだぞ。嵐は避けられないが、崖くずれなどは、わかっておれば前もって逃げることもできただろうに」
「だって」
リゼだってきっと歯噛みする思いでいるに違いないのに、亡くなったひとたちのいのちを救いたかったに違いないのに。思いがぐるぐると回って、回りすぎて、「だって」という一言しかユウナの口からは出てこない。
「まだ若い星読みだから未熟なのかもしれんが。しかし不安だ。嵐ならばまだ、ユウナの言うように、前もってしるしがある。島で暮らす人間なら肌で感じることができる。だが大波はべつだ」
母はうつむいた。ユウナもうなだれて黙り込む。島の人間がもっとも恐れているのは、大波だ。ある時突然、なんの前触れもなく波が隆起し、押し寄せる。空の色も空気のにおいも関係ない、ほんとうに唐突に、海が暴れるのだ。規模はさまざまだが、数十年に一度、海沿いの村々を流し去る大きさの波が襲うらしい。さらに村の長老の話によれば、かれの祖母は一度、村どころか島じゅうを飲みこむような大波を経験したという。
「まだユウナが生まれる前だったが、先代の星読みがな、大波を予言したことがある。この村も水浸しになったほどの大きな波だったが、予言のおかげでいのちを落とすものはなかった。あのときほど、星読みの力を、その存在を、尊いと思ったことはない」
「みんな、ガジュマルの森の方角にむかって頭をたれて、おがんでいたね」
懐かしげに母が言う。
「リゼにだってできるわ、そのくらい」
ユウナが拗ねると、父は
「ずいぶんと、あの若い星読みの肩を持つんだな」
とあきれた。両親とちがい、ユウナはリゼのちからを目の当たりにしている。それに、「森のはずれに追いやっておいて、そのくせ自分たちの都合のよいように利用だけはする」という、いつかのトキのことばがひっかかっていたのだ。
――トキの言う通りだわ。わざわいを予言する便利屋さん、悩みを相談できる便利屋さんあつかい。なのに、それができないと悪口を言うだなんて、みんな勝手すぎる。あんなにさびしい暮らしを強いておきながら。家族とも友達とも恋人とも引き裂かれたというのに。
「とにかく、あたしはリゼを信じてるし、リゼの味方だから」
強い口調で告げると、ユウナは作業にもどった。
その日の晩、ユウナの家を訪れるものがあった。いつかユウナに縁談をもちかけた、ライラという青年の父だった。
たくさんの畑を持って裕福なライラの家は、作物も全滅はまぬがれたらしく、また蓄えも豊富で、親類や親しい者の家にいくばくかの食糧を配り歩いているらしい。ユウナの家にも、米や芋や干物を持ってきたという。
「わずかばかりで申し訳ないが」
部屋に通されたライラの父はそう言ったが、ユウナたちにとってはありがたく、家族三人で何度も礼を言った。
ユウナの父がライラの父と酒を酌み交わす。父が大事にちびちびと飲んでいた秘蔵の酒だ。
「ユウナ」
父に呼ばれて、ライラの父の杯に酒を注ぐ。ライラの父は上機嫌で、「ユウナちゃんもべっぴんになったなあ」とか、「ほんとうにいい娘だ」などと繰り返す。
「そんなことないさ、この子はいくつになってもお転婆で。畑の仕事を抜け出して、どこかへふらりと遊びに行くんだから、ほんとうにしょうのない子だよ」
母の視線がちくりとユウナに刺さる。夏のあいだ、毎日のようにトキのもとへ行っていたのを、母はうすうす感づいていたらしい。
「泳いでいたのよ。あまりに暑くて」
言い訳すると、ライラの父は豪快にわらった。
「うちのせがれも、ユウナちゃんの泳ぐすがたに一目ぼれしたらしい。いまだにうわごとのように言うからな、美しい娘だと」
そんなことを、本人ではなくその父親から告げられても、ユウナにはどうしようもない。
「ほんとうに、せがれの嫁にならんか、ユウナちゃん。大事にするぞ」
「ありがとうございます。でも、あたしなんかにはもったいない話だわ。……それに」
角がたたないようにやんわりと断ろうとしたが、またしても豪快なわらい声でさえぎられる。酔いがまわっているのだろう。
「星読みの予言だろう? そんなもの信用できるか。あんな小娘、崖くずれひとつ当てられん能無しだ」
「そんな」
「や、言いすぎた。先代の立派な星読みさまのじきじきの命だもんな、あれが跡継ぎに決まったのも」
ライラの父はそう言って頭を掻いた。まあまあ、と父がさらに酒をすすめる。
酒宴は深夜まで続いた。ユウナは不快でしょうがなかった。それに、それだけじゃない、なにか不穏な予感が胸の奥で渦巻いて、その晩はよく眠れなかった。
予感は当たった。
すっかり夏の気配が遠のき、嵐の痛手もいくぶんかやわらぎ、心地よい浜風がほおを撫でるころ。それは起こった。
大波だ。
といっても、小規模のものだ。先代の星読みが予見したという、村が水浸しになるほどの大波にくらべたら小さい波で、ちょうどその時ユウナは灯台に登らせてもらって海を眺めていたが、おや、と首をかしげるぐらいだった。ちょっとばかり海面が不安定に揺れたような気がする、と。しかし実際に海に出ていた者たちは肝を冷やしたという。舟を出している者がいなかったのは幸いであった。もし舟を浮かべていれば、転覆し海へ投げ出されていたかもしれない。
「泳いでいる子どもも、誰もいなくてよかった。これがもし夏の盛りだったら」
父はそう言って憂えた。
「もしこれが、もっと大きな波の前触れだったら……」
母の瞳が不安げに揺れる。父は母の肩に手を置き、
「神に祈りをささげるしかないだろう」
と言った。
嵐も、大波も、海の底の国の守り神の怒りのあらわれだと、島の人間はみな考えている。海の神に、わざわいを避け恵みをもたらしてくれるよう、夏至の日に祈祷や祭りを行うのがならわしだ。春分には太陽の神を拝む祭りがあるし、秋分には月、冬至には星の祭りがある。
「ことしのお祭り、もう終わったわ」
ユウナが言うと、父は苦笑して、
「祭りのときだけ祈りをささげればよいという考えだから怒りを招くのだ。最近の若いものはこれだからいかん」
とため息をつく。
――嵐も大波もかみさまが怒っているせいだなんて、トキはきっとばかげた考えだと鼻で笑うわ。
いくぶん白けたきもちで父を見やる。自然を神とあがめ畏れる、父のような村人たちの思いは尊いと思う。思うがしかし、それならば何事もすべて「神を怒らせた人間」のせいになってしまう。それはちがうと思うのだ。もっと昔の、村の長老が幼かったころには、災害のあとは、神の怒りをしずめるため、生贄として乙女を崖から投げ落とす風習が生きていたという。
ユウナは身震いする。
――かみさまのせいでも、だれのせいでもないと、考えることはできないのかしら。大切なひとを失ったときは、だれかのせいにしたほうが救われるのかしら、それとも。
つぎの日。村の長老の妻であるおばば様が、浜へ出て祈祷をし、海へ酒をささげた。みな、男も女も老いも若きも幼いものも、白い着物を着て頭(こうべ)を垂れ、祈祷を見守った。
おばば様は巫女である。がしかし、星読みのような特殊能力はない。その村でいちばん年長の女がいちばん霊力が高いとされているのだ。島では、神事にたずさわるのはすべて女、それも年かさのいった女だ。巫女はあらゆる祭事にかかわり、日常ではまじないを施すこともある。病を治したり、けがや精神的な衝撃から、抜け殻になってしまったもののたましいを呼び戻したりするのだ。
儀式が終わると、長老の宅で村の者たちに酒や魚料理がふるまわれた。広いとはいえない屋敷に村中の人間が収まるわけもなく、みなめいめいに外へ出てむしろを敷き、そこで飲み食いし、騒ぐ。夕闇が訪れるころには、大人たちの酔いがまわり、歌い踊るものもあった。
島の若い娘たちとともに炊き出しを手伝っていたユウナは、ひさびさにサリエと話した。赤子はずいぶん大きくなっている。
「かわいい。抱っこさせて」
「いいわよ、そのかわり、重いよ」
愛くるしい赤ん坊を胸に抱き、その目をみつめて、ばあ、とあやして遊ぶ。きゃっきゃっと声をたててサリエの赤ん坊がわらった。
「ユウナのこと好きみたい、この子」
「そうならうれしい」
「ユウナもきっと、いいお母さんになるわ」
「やだ、サリエったら」赤ん坊のふくふくした小さな手をやさしく握りながら、ユウナは笑った。「まだまだ先だよ、お母さんになるだなんて」
「あら? だって、縁談がまとまりそうなんでしょ?」
「は?」
目をぱちくりとしばたいて、きょとんとするユウナに、サリエはさらにたたみかける。
「とぼけたってむだよ。ライラが、あんたのこと嫁にするって言いまわっているらしいじゃない」
「何それ、知らない」
「……ほんとに?」
「うん。あたし、そもそもライラと話したこともないし、顔だってよく覚えてないんだよ。それに、一度、縁談を断って、彼の家も納得してくれたの」
「でも」
あばば、と赤ん坊がユウナの顔に手をのばす。よしよし、とサリエがユウナから我が子を受け取った。
大きなアコウの木の根元で、酔って赤い顔をした大柄な男が豪快な笑い声をあげている。あれがライラよ、とサリエはささやいた。
「……笑いかた、お父さんにそっくり」
「え?」
「お父さんのことは知ってるの。気さくで飾らない感じの人だけど」
……だけど。
「ふうん。ま、息子のほうは、いかにも強引に女を手籠めにしそうな感じにみえるわね」
「ええ? まさか。だって、ライラ本人からは何も言われてないんだよ、あたし。お父さんのほうがね、息子があたしのこと、その、気に入ってる、とか言ってくるんだけど……本当なのかどうか」
「そうなの? ふうん。じゃあ普段はおとなしいのかしら。酒が入ると気が大きくなるのかもね」
ひそひそとささやき合う。赤子が泣いたので、サリエは乳を飲ませに長老宅の中へ戻った。ユウナがひとりになるのを待ち構えていたかのように、近寄るものがあった。ライラと一緒に飲んでいた若者だ。
「ユウナさん、でしょう。ほら、こちらへ来て一緒に飲みましょう。恋人がお待ちかねだよ」
「はあ? 何言ってるんですか?」
若者はひどく酒臭い。ユウナの手を強引に引いて、アコウの木のもとへ無理やり連れて行く。
「はなしてっ」
「やだなあユウナちゃん。おれが悪いことしてるみたいじゃないかあ」
へらへらと赤い顔をして笑う男に、鳥肌がたちそうになる。むしろの上にどっかりとあぐらをかいていたライラが、ユウナを見るとぱっと目をかがやかせ、こっちに来いよと言った。
――なに、その言い方。まるで恋人気取り。はじめてことばを交わすというのに!
あぜんとしていると、取り巻きの男たちに背中を押され、ライラのとなりへ強引に座らされた。ライラはずいっとユウナへ自分の顔を近づけた。反射的に身をよじり、そらす。
「ほんとにかわいいなあ、おれのユウナは」
などと言う。あんたのものになったおぼえなんかないと、はねつけようとしたが、一瞬躊躇してしまう。怖かったのだ。ライラの顔は赤く、目もすわっている。酒のにおいがきつい。相当酔っているようだ。サリエの言うように、酔って人格が変わるたぐいの人間なのかもしれない。とても、恋の告白を親まかせにした男とは思えない。
「婚儀はいつにする」
「は、はあ? あたし、一度、ちゃんと断ってますよね?」
つとめて冷静に告げようとこころみるも、どうしても怒りが湧き上がってくる。
「あんな星読みの言うことなんか真に受けるな。あれは力がないんじゃないかとみんな疑ってるぞ。先代の星読みにどうやって取り入ったのか知らないが、見てろ。そのうち森から引きずり出して化けの皮をはぎとってやるからな」
ライラの目が蛇のようにぬめって、ユウナはぞくりと冷えた。硬直したからだに、武骨な大きな手が伸びてくる。その手はユウナの太ももを這いまわった。
「いやあっ!」
ユウナは叫んで、ぱしんと手を払いのける。立ち上がり、ライラを睨みつけた。
「ごめんなユウナ、急ぎすぎたな。まだ男女のことは何も知らないのだろうに。夫婦になってから、おれがゆっくり教えてやるから、な」
下卑たうす笑いをうかべながら、なおもユウナのほうへ手を伸ばす男のことを、心底気持ち悪いと思った。怒りにからだはわななき、頭は沸騰し、気づいたら、酒を。海へ捧げられた神聖な酒と同じ、長老さまからふるまわれた、酒を。ライラの頭のうえに、どぼどぼと流していた。
「ユウ、ナ?」
「気持ち悪い。あたしの名前呼ばないでよ」
さあっと潮が引くように、まわりの若者たちが静まり返っていく。
「あんたの嫁になるくらいなら、舌を噛み切って死んだ方がましだわ!」
大声で叫ぶと、ユウナは一目散に駆けだした。
集落を出て、林を抜ける。細い糸のような月が追いかけてくる。夢中で駆ける。海へ出る。湿った砂浜を蹴って駆け、勢いはそのままに、夜の海へと身を投げ出した。
秋の海は冷たかった。着物が濡れ、髪も濡れ、じんじんとからだが冷えて行く。
洗い流したい。あの男が触れた場所を、洗い清めたい。
つめたい波にもまれ、ユウナは泣いた。あの男の家は豊かで力がある。父親も息子に甘いようだ。強引に推し進められるだろう結婚の話を、両親がはたして断り切れるだろうか。
このままどこか遠い場所へ流されてしまいたい。あの、やさしい銀色のかみさまがいるところへ行きたい。
波の音がひびいている。この海の果てを自分は知らないし、これから知ることもない。つまらない男のもとへ嫁がされ、つまらない一生を終えるだけ。
ふと、視界のはじに、小さなひかりがともった。顔をあげると、岬の端で、灯台のひかりがふわふわと浮かんでいる。
――トキ。
ユウナはまた、泣いた。自分の胸にいつの間にかともってしまった、消せない火のことを思って、涙を流した。
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