第2話

 月は夜ごとにふくらみ、満月となった。ユウナはひとり浅瀬で泳いでいた。潮は満ちている。息つぎをするために水面に顔を出せば、ゆらゆらと月のひかりを跳ね返す波の向こうに、小さな島のシルエットが見える。干潮時は波打ち際がぐっと遠のき、海水は足首が浸かるほどの高さになり、あの離れ小島へと歩いて渡ることができるのだ。

――泳いで渡ってみようか。

 ふと思いついた。胸がわくわくして、たっぷり夜の空気を吸い込むと、ふたたびとぷんと沈み込んだ。

 魚になる。腰をくねらせ、水をかき、ひれのように足を動かして。泳ぐ、泳ぐ。

 月あかりはぬるい夏の夜の海のなかばまで届く。水は濁っている。ちらちらと白い粒のようなものがいちめんに舞っているのだ。珊瑚の産卵だ。珊瑚が植物ではなくちいさな生き物の集合体であるということを、島の人間は皆知っている。満月付近の夜に、いっせいに卵を産むことも。

 ユウナはうっとりとその情景に酔いしれる。

――まるで星空のなかを泳いでいるみたい。

 月はいのちをつかさどる。珊瑚も、魚たちも、ユウナのからだも。月と潮のリズムによって生かされている。ユウナは夢中で泳いだ。

 幼い頃、蛇に噛まれて溺れ、死にかけたというのに、ユウナはまったく水をこわがることはなかった。それどころか、また、あのふしぎな「かみさま」に会いたいと夢見るようになった。海のなかにいると、銀色にひかる大きな生き物に包みこまれているような錯覚におちいる。今だってそう。

 息がくるしくなって、いったん浮上する。ゆっくりと息をしながら海上を見回すと、目的の島が遠のいていた。

 ユウナは首をかしげた。少し考えて、どうやら自分がかなり東のほうへ流されていたのだと気づく。今夜はいつもと少し潮の流れが違っているようだと思い、島へ行くのはあきらめて、沖へ戻ることにした。

 意識して西のほうへ泳ぎすすめているつもりだったけど、やはり流されてしまったようで、浮上して見やる灯台のあかりは西にあった。泳ぎ始めたときはからだの東にあった灯りだ。ユウナはあきらめてとなり村の沖へと進んだ。


 真っ白い砂地を踏みしめてすすむ。はじめて降り立つ浜辺だ。ここから歩いて帰るしかないだろう。

 ユウナは浜に座って少し休んだ。しずかな夜だ。繰り返す波の音が泳ぎ疲れたからだに心地よくひびき、眠気を誘う。うとうととまどろみ、ユウナはついに、ころんと横になった。浅い夢のなか、あの、銀色の大きな「かみさま」がユウナを乗せて海の底を這いまわる。小さな子どものようにはしゃいだ声をあげながら、ユウナはあの、光の粒、真珠の群れのなかを通り過ぎる。ああ、なんて美しい。

「……み。きみ。だいじょうぶ?」

 ゆさゆさと肩をゆすられて目を覚ました。

「……かあさま?」

 まだ眠りの浅瀬にいたユウナは、ここが自分の家だと思い込んでいて、ぼんやりとあまえた声をだした。

「よかった、気がついた」

 安堵のため息と、ひとりごちるようなつぶやきはしかし、聞きなれた母のものではない。もっと低い、だけど、父の声でも兄の声でもない、少年、の。

 ユウナはがばっと身を起こした。だれ? ここは? どこ?

「おぼれたの?」

 ユウナの目の前にあるのは、空のような、海のような色をしたふたつの瞳。

 おぼれてない、寝てたの、とユウナはこたえた。

「寝てた? こんなところで?」

 海の色の瞳がまんまるく見開かれる。とたんにユウナは恥ずかしくなり、

「泳いでてっ、疲れちゃったからっ」

 と、むきになって言い返した。くすりと、少年が笑んだ。真上から月のひかりが射して、少年の顔を照らす。栗色のみじかい髪が潮風にそよぎ、瞳はやさしげで、すっと通ったかたちのいい鼻の、あたまのところがわずかに赤い。

 頬には、涙のあとがある。

 ユウナは気づいた。このひと、この間、森へつづく道で、星読みの少女を見送っていた――。

「あたし、あたしっ」

 ユウナは叫んで立ち上がった。

「となり村から来たんですっ。はやく戻らないと夜が明けちゃう。だから、そのっ」

 さいごには自分がなにをしゃべっているのかわからなくなってしまった。うやむやにことばをにごし、濡れた着物の裾をぎゅっと握りしめ、ユウナは一瞬だけ、少年を見つめた。

 あっけにとられた顔をしている。むしょうに恥ずかしくて、ユウナはもう何も言わずに駆けだした。さらさらの白砂を蹴って、浜をあとにして、西へ。自分の村へ。

 うしろは振り返らなかった。どうしてこんなに自分の胸がどきどきしているのか、わからなかった。


――あの夜、あの浜で。あの子はきっと、ひとりで泣いていたんだ。

 あれから幾日か過ぎたが、少年のおもかげはユウナのまぶたのうらにぴったりと貼りついて、目を閉じれば勝手に浮かんでくる。ユウナのことを、溺れて打ち上げられたと思って心配してくれていた。それなのに、あんな態度をとって悪かった。謝らなくちゃ、お礼を言わなきゃ。そう思うのに、ふたたび、となり村のあの浜へ行ってみようという気持ちにはなれなかった。あの少年がなにを思って涙を流していたのか、ユウナはなんとなくわかっていたから。

 潮の引いた海で、小魚をとらえ、貝を拾う。手にしたざるいっぱいに海の恵みをいただき、ユウナは顔をあげた。

 どこまでも澄んだエメラルドグリーンの海。水平線の際の色は深い群青。ふたつの色はくっきりとしたコントラストを描いて、島をぐるりと囲む珊瑚礁の内と外とを分かっている。礁の外の群青の海は、ユウナも泳いだことのない、未知の世界だ。さらに遠く水平線のかなたにはこの島が何十個も入ってしまうような、いや、それよりもっと大きな大陸があるという。

 視線をついっと西にずらせば、人間の鼻のようなかたちをしたちいさな岬が目に入る。その先端には石造りの灯台がすっと建っている。いにしえの人間がつくったものらしい。灯台守が夜ごと薪を燃やし、ユウナの知らない、おそらくこの先一生知ることのない、群青の海を、水平線の彼方を照らす。

 あの岬を超えればとなり村だ。照りつける日差しのなか、流れる汗をぬぐう。と、ユウナの名を呼ぶ声がする。サリエだ。ぬるい水を蹴って、ユウナは走り出す。

 小さいころからの遊び場だった、林の奥の洞穴のそばで、ふたりして大きな石に腰かける。洞穴から冷たい空気が流れてきて、すずしいのだ。神聖な場所だから近づくなと大人には言われているが、ユウナたちは気にしない。見つかったら大目玉をくらうことだろう。

 サリエがユウナに島みかんを投げてよこした。ありがと、と言ってまだ青いその皮に爪をたてると、ぷしっ、とすっぱい果汁が飛んだ。

「あ。目にはいった。いたい……っ」

「もお、ユウナってば」

 サリエが苦笑する。ひとつしか歳がちがわないのに、ユウナのことを、まるで小さな妹に向けるようなまなざしで包む。

「きょうのサリエ、なんか、うきうきしてる」

「うきうき?」

「うきうきっていうか、きらきらっていうか」

 サリエは終始笑みを絶やさず、瞳は潤み、羽でも生えているかのようにふわふわとはずんでいる。

「わたしお嫁にいくんだ」

 だいじな秘密をうちあけるみたいに、サリエはユウナの耳元でささやいた。ええっ、とユウナは目を丸くした。

「十六になるまで待つんじゃなかったの?」

「待てないもん」

 サリエは長い足を交互にばたつかせた。拗ねたようにふくらませたほお。子どもじみた仕草なのに、みょうに、艶っぽい。ユウナはどきどきしていた。

「待てない。彼も待てないって。あたし、お嫁さんになる。彼と一生添い遂げる」

 十五で結婚することは、この島ではめずらしいことではない。ユウナの母は十七で父に嫁いだが、サリエの母は十四、いまのユウナと同じ年で結婚した。ユウナの一番上の姉も、二番目の姉も、まだ十代のうちに、つぎつぎに嫁いで行った。たがいに好き合ったもの同士が家の許しを得て結婚する場合もあれば、親が選んだ相手のところへ嫁がされる場合もある。

「でも、でも」

 ユウナはそれでも、サリエを引き止めたくてたまらない。ユウナはまだまだ子どもの領域にいるけれど、サリエはもうとっくにそんな場所からは巣だっている。わかっていたのに、男のもとへ嫁いでしまったら、もう二度とこんな風に彼女と風に吹かれて酸っぱいみかんを食べることなどかなわないような気がした。

「わたしね、星読みのところへ行ってきたのよ」

 サリエがやわらかくほほ笑む。

「星読み? この前見送った、あの、十六の」

「そう。となり村のリゼ」サリエはうなずく。「背中を押してもらったわ。彼がわたしにとってたったひとりの運命のひとなのか、聞きたくてたずねて行ったんだけど」

「運命のひとだって、リゼ、さん、は、言ったの?」

「ううん、なんにも」

「それならどうして」

「彼女に彼の話をしているうちに、星読みに聞くまでもなく、わたしには彼しかいないってわかったの。たとえ星読みに、結婚はやめなさいって言われてもわたしは意志を曲げないって」

「そんなの」ユウナはくちびるをかんだ。

「そんなの、占いでもなんでもないじゃない」

 星読みの仕事は、新月の晩に、ガジュマルの森の中央にある石積みの塔へのぼり祈りをささげること、そして、そのふしぎな力を持って、災いを予言し、島の悩めるひとびとの未来を占い、在るべきほうへ導くことだ。だけど彼女は、ただ単にサリエの話を聞いただけじゃないか。

 ふふ、とサリエは笑った。いままで一緒に過ごしてきた彼女の、いちばん美しい、だけどいちばんユウナから遠い、大人の顔だった。

 サリエの恋人は同じ村の青年で、家同士も親しく、婚礼の儀はとどこおりなく行われた。といっても、儀式めいたものではない。宴だ。村の男衆がこの日のために総出で獲ってきた魚や貝を花婿の家で村じゅうの者にふるまい、歌い踊り、夫婦になるふたりが杯をかわす。サリエは美しかった。髪を高く結い上げ、ハイビスカスの花で飾っている。あでやかな朱の着物を着て、頬を染めて夫となる男性のそばで笑んでいる。

 夜通し宴はつづき、若い夫婦を祝福する歌がひびきわたる。ユウナは幸せそうなサリエのすがたを、なぜか、まっすぐに見つめることができなかった。

 ユウナは十四。そう遠くない未来、サリエのように男とつがう日がやってくる。だけど、まだ。まだユウナはぬるい浅瀬でたゆたっていたいのだ。

 そっとサリエの家を出て、夜空を見上げた。満天の星々が天球に貼りついて、きらめいている。星のひかり。幼い日にみた、海の底に沈む、真珠の粒たちのかがやき。

 空にあるのは運命のひかり。海の底には、たましいの、かがやき。

 あの夜の浜辺で泣いていた少年の瞳と、星へ一生をささげる少女の、ふわりと揺れた長い髪が交互によぎった。ユウナはひとり、しずかに泣いた。

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