海の底に沈む真珠

夜野せせり

第1話

 夢なのか現なのかわからない、幼い頃の記憶。時おりそれはあぶくのように浮き上がり、ユウナを包み込む。

――あたしはあのとき、たしかに死んでいた。

 夕暮れの浜で、白い砂を蹴って歩きながらユウナは思い返していた。彼女は今年で十四になる。耳横でばっさり切った黒髪はつややかで、小柄でやわらかなふくらみのない、うすっぺらなからだつきのせいか、少女というより少年のようである。アコウの木に登り、浜を駆け、海に潜って貝や魚を獲る毎日だ。

 太陽は赤く燃え、水平線の向こうへ沈もうとしていた。島を照らし、いのちをはぐくむ太陽は神そのもの。いのちをつかさどる月も、運命をうごかす星も、そして、すべてが還る海も。神だ。

 ユウナは海の底の、「かみさま」に会ったことがある。彼はみずからを神だとは告げなかったが、幼いユウナは彼こそを「かみさま」だと信じた。そして、今も。

――あたしのいのちを救ってくれた、あの、大きななにか。

 目を閉じる。波の音がユウナを記憶の底へいざなう。

 七つほどの時だったろうか。エメラルドグリーンのあかるい海でユウナは遊んでいた。

 ユウナの住む島をとり囲む珊瑚礁の浅瀬は美しくゆたかで、明度の高い澄んだみずいろの世界に、天井からさしこむひかりがゆらめき、青いスズメダイや黄色いクマノミが群れをなしてひらひらと珊瑚の森で遊んでいる。ひとたび潜ればとりこになる、おとぎの国の世界だ。

 ユウナは泳ぎの得意な子どもだった。島の子どもたちは皆泳ぎが達者だが、ユウナはなかでも別格だった。人魚のように腰をくねらせどこまでも深く潜り、魚たちと遊んだ。ときおり浮上して肺いっぱいに空気を吸い、ふたたび海へ。いつまでも飽きることはない。

 その日もユウナは潜っていた。大きな影がユウナをすっぽりと包み、見上げるとイトマキエイが泳いでいた。空を飛ぶ大きな生き物のようだ。ふだんは礁の外側の深い海を渡っているイトマキエイに遭遇することはまれだ。嬉しくなって、彼の影を追いかけるようにユウナは泳ぐ。夢中だった。

 びり、と、突然ふくらはぎに電流のような痛みがはしる。まさか、とユウナは思った。足元を見やると、なにかひょろ長いものがからだをくねらせながら底のほうへと去っていく。

 噛まれたと気づいたときには、もう海蛇の毒がユウナの全身にまわっていた。視界からひかりが消え、肢体をだらりと弛緩させ、ユウナは海の底へ沈んでいく。

 底へ、底へ。

 渦に巻き込まれ、どこかへ運ばれていくような感覚だけが、ユウナを包んでいた。それだけが、まだかろうじてユウナが生きているという証だった。

 否、あわいにいたのだ。

 生と、死の。あわい。

 やわらかい砂地のうえで目を覚ます。ユウナのまわりにはみずいろの水が輝きながらたゆたっていて、まだここは海の中なんだ、とユウナは思った。それにしては変だ。陸上にいるときと同じように息ができるのだ。

「目を覚ましたか」

 頭のうらっかわに直接ひびくような、低い声。だれ? とあたりを見回すも、だれもいない。ただ、みょうにまぶしい。太陽のひかりならば上から差し込んでゆらめくが、どうもちがう。

 なにかが動く気配がする。ユウナの真横で、ずるり、と。銀色の光沢を持つそれは生き物のからだであった。

「蛇?」

 ユウナは身構えた。そうだ、自分は蛇に噛まれた。そこからの記憶がない。

「ひょっとして、ここは海の底の国?」

 自分は召されたのだと思った。蛇に噛まれて無事に帰ってきたものはいない。みな、海の底の国へ召されていく。

 島に古くからある言い伝え。海の底には、死者のたましいの還る国がある。悪人も善人も、老いて死したものも幼くして命を落としたものも、みな。海へ還る。

 ふしぎと怖くはなかった。どこまでもつづく真っ白い砂地、その果てに、ひかりの塊が見える。まるで地平線からのぼる太陽のように丸い。あれが、この空間に満ちている、あたたかな輝きの正体だと気づく。

 ふ、ふ、ふ、と。低い地響きのような笑い声が、こだまになってユウナを包んだ。ずるり、と。ふたたび銀色のなにかが動く。

「だれ?」

「リュウグウノ、ツカイ」

 うねりが起き、あおられてよろめくユウナは、銀色の、ぬめる大きななにかにしがみついていた。あまりに大きすぎて全容はわからない。かみさまかしら、と思った。海の底の国をまもる、かみさま。

 ユウナをのせたまま、リュウグウノツカイは泳ぐ。泳いで、いるのだろう。胎内のようにぬるい海水を裂き、砂地の果てで輝く丸いひかりのもとへ。

「童よ。いかにもここは、人間のたましいの還る場所。わたしの巣だ」

「じゃあ、やっぱり、あたしは」

 ふ、ふ。リュウグウノツカイが笑うたびにユウナは振り落とされそうになる。

「たましいを、見せてやろう」

 まばゆい光がユウナの瞳を刺す。一瞬、眩んで、ふたたび目を開けるとそれは無数のひかりの粒であった。こまかな粒が寄り集まって、遠くからはまるでひとつの恒星のように見えたのだ。

「すご……い」

 ひかりの粒は寄り集まりながら、ふわふわと上下左右に揺れている。目を凝らしてみれば、完全な球体ではなく、ひとつひとつかたちが違う。いびつなものも、大ぶりなものも小ぶりなものもある。そのどれもが白く清らかな光沢をもっている。

「これ、真珠?」

 いちどだけユウナは真珠を見たことがある。遠く海の向こうの国からわたってきた真珠という美しい丸い粒。貝のからだのなかで作られる宝の石だという。

「童よ」リュウグウノツカイが告げる。厳かでありながら、どこかぬくもりのある声。

「これがいのちなのだ。たましいなのだ」

「かみさ、ま」

 ユウナがつぶやくと同時に、銀色の大きなからだは垂直に向きを変え、海上へ向かってのぼりはじめた。ぐんぐんと、すごい勢いでのぼっていく。必死でしがみつくユウナの耳元で濁流のような耳鳴りがとどろき、からだじゅうが締め付けられるような圧を感じた。息が苦しく、目も開けていられない。遠のく意識のなかで、かみさまの声を聞いた。

「そなたのたましいは、まだ、」

 まだ、の続きは聞き取れなかった。

 目を覚ますと、そこは自分の粗末な住まいで、むしろの上に横たわったユウナを、父母やきょうだいたちが心配そうに取り囲んでいた。

――たしかにあたしは、死んでいた。

 足もとで何かがきらりと光る。心臓を氷で撫でられたみたいに、ひやりとする。そっとひろい上げてみると、夜光貝のかけらであった。

 ユウナはほっと息をつき、笑んだ。浜に真珠が落ちているわけがない。

 それはいのちなのだと彼は言った。

 それはたましいなのだと彼は言った。

「あたしのたましいは、まだ」

 つぶやくユウナは、続きのことばを持たない。

 水平線のむこうへ、まるい陽が落ちていく。島を、世界のすべてを照らすひかりのすべてが海の裏側へ沈み、うすむらさきの黄昏のあと、夜のとばりが降りてくる。

 

 太陽が沈めばかわりに現れるのは月である。満ち欠けを繰りかえしながら夜を照らす月のやさしい光は、今夜は、ない。新月なのだ。

 夕餉を終え、外で夜風に当たっていると、幼なじみのサリエに会った。

「あたらしい星読みが決まったそうよ」

 ユウナの耳元で、サリエがささやく。その話は、家族からも聞いていた。

「となり村のね、リゼっていう娘よ。十六ですって」

 へえ、とユウナは気のない返事をする。先日、先代の星読みが齢五十で亡くなった。そのあとを継ぐのは、たった十六の娘。

「かわいそう」

 サリエが声を潜める。ユウナはあいまいに笑みを返した。

 星読み。星に選ばれた娘。一生誰とも契らず、新月の晩、めぐる星々に祈りをささげる娘。未来を視る不思議なちからを持つという。

 月の光のない夜、星はひときわ強くまたたき、天球をめぐる。人々の、島の、いや、この島すらもくるんでいる、もっと大きな世界ごと動かしているのは星々である。すべての生き物にはさだめがある。運命は決まっている。ただ、それを知ることができるのは星と、星に選ばれたものだけである。

 今夜はあたらしい星読みの娘がはじめて天に祈りをささげる夜である。島の中心にある、ガジュマルの森へ彼女は向かう。その近くに居をかまえ、ひとりで暮らし、二度と生まれ育った村へは帰らない。

 すっかり藍色の闇にくるまれてしまった島の、神聖な森へつづく一本道を、いくつものたいまつが揺れながらあたらしい星読みを送る。村のものも皆彼女を拝みに行った。ユウナとサリエもまた、自分とさして年のかわらぬ、その「気の毒」な娘の姿を見にいくことにした。灯台のある岬をはさんで西側がユウナの村、東側がリゼの村である。ユウナがアコウの木にのぼって見渡すと、岬のほうから、いくつものたいまつがゆらめきながら近づいてくるのが見えた。するりと木から降り、サリエとともに一本道へと向かう。脇に生い茂るビロウの木の陰にかくれて、行列がやってくるのを待った。

 ゆらゆらと、赤いほのおの気配が近づく。ユウナたちのいる木陰のすぐそばを通り過ぎる。下草の茂みに埋もれるようにして息をひそめた。白い着物を着た女たちに囲まれて、同じく白い着物を着たきゃしゃな少女が、うつむいて歩いているのが見える。たいまつに照らされたその顔は白く美しく、腰まで届きそうなつややかな髪は耳横で編まれ、プルメリアの花で飾られている。その、はかなげな、澄んだ瞳にひかりが宿っていた。

「なんて美しい。だけど……まるで、生贄よね」

 サリエがひっそりとささやく。すぐそばにいるユウナにしか聞き取れないような、か細い声であったというのに、すぐさま、星読みの娘はユウナたちのいる木の陰のほうへ顔を向けた。

 どきりとした。こちらの姿は彼女からは見えないはずなのに、なぜか、心のなかすべてを見透かされているような気持ちになったのだ。

 茂みのあいだからのぞいたユウナのふたつの目を。星読みのリゼは、しかと見つめた。それは一瞬で、なのに、ユウナは彼女にとらえられて動けなくなる。

――泣いてる? あの子、泣いてる、の?

 どうして。ユウナは思った。彼女は涙など流していないばかりか、口元にはほんのりと笑みをたたえていたというのに、ユウナには泣いているように見えた。

 リゼたちの行列が過ぎ去ったあとも、しばらくふたりは茂みの中で息をひそめていた。なぜだか、すぐに立ち去る気にはなれなかったのだ。

「そろそろ帰ろう」

 と、サリエの手をひいて立ち上がろうとしたとき。ふいに、足音が聞こえた。目の前にある葉のあいだから、土を蹴る裸足が見える。荒い吐息も、耳に届く。すぐそばに、だれかがいるのだ。

 目をこらして見つめる。星明りの下、たたずんでいるのは少年だった。あかるい栗色の髪に、白い肌に、海の色をした目。やわらかい星のひかりのもとでも、その瞳の色は、ユウナにもはっきりとわかった。

――だれ? あんな色の目をしたひと、うちの村にはいない。ううん、この島じゅう探したって、きっと、ひとりも、いない。

 少年はずっと、森へ続く道の果てを、星読みの行列のたいまつが進んでいくその先を、見つめていた。

 サリエがユウナの着物の袖を引く。ふたりはそっと、その場をあとにした。

 村まで帰る道すがら、サリエはずっと沈んでいる。

「あの子、恋人もつくれないのよ。当然、結婚もできないのよ」

 苦しげに眉を寄せてサリエはささやく。こんな話、村の大人に聞かれたら一大事だ。古くから続く島のしきたりを、ひとびとの信仰を、ないがしろにしているとみなされる。だけどサリエの不満は溢れ出してとまらない。

「あたしだったらいやだわ。ぜったいに、星に一生をささげるなんて、勘弁」

「だってサリエには恋人がいるもんね」

 からかうような調子でユウナが言うと、サリエは頬を赤らめてうなずいた。彼女はユウナよりひとつ年上だ。だけどそれ以上に年の差があるように感じるときがユウナにはある。サリエは早熟なのだ。三つ年上の青年と逢瀬をかさねている。十六になってもたがいの気持ちが冷めていなければ、結婚するつもりだという。

 島の人間はみな、恋には奔放だ。ひとたび生涯の伴侶を決めて結婚すれば不貞は許されないが、それまでは、未婚の男女が自由に恋を楽しむのはむしろ当然のこととみなされていて、ユウナも、月のしるしをはじめて迎えたときには、母に「これで正真正銘『むすめ』になったのだから、だれか立派な殿方にはやく見つけてもらわないとね」などと茶化されたぐらいだ。

 だけどユウナにはまだ、サリエのように男と恋に落ちるなど考えられない。想像もできない。海で貝を獲り、父の畑を手伝い、森でヤシガニや木の実を獲る。その合間に、子どものように駆け、泳ぎ、魚と遊ぶ。そんな毎日がいつまでも続けばいいと考えていた。

――あの子もそうだったのかな。

 星読みの娘のことを思う。ささやかな日常のいとなみを奪われ、これから彼女は、神聖な森のはずれでひとりで暮らし、島のひとびとの運命を占い、ひらすらに星へ祈りをささげることになる。家族とも村の人々とも別れて、たったひとりで。

 それとも。

 あの、ふしぎな色の瞳をもった少年のすがたをユウナは思い返していた。

――あんなに綺麗な子だもの、こころに決めたひとがいたのかもしれない。そしてそれは、きっと。あの男の子なんだ。

 少しだけ、胸が痛んだ。まだ恋を知らないユウナも、その切なさを、どこかからだの奥深くで覚えているような気がしたのだ。

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