流民

第1話

 晴れ渡る青空から、純白の大きな一枚の羽根が私の目の前に舞い降りてくる。

 その羽根は軽やかに、青空をバックにゆっくり、ゆっくりと舞い降りてくる。

俺はその天から舞い降りてくる羽根を見つめ、掌を差し出し、両手でそっと受けとめる。

 手の中に納まった羽根は確かに目の前に存在する。しかし重さも感じず儚いほど淡いその触感はまるで幻のようで、意識していなければそこに羽根がある事すら忘れてしまいそうになるほどだ。

 しかし、確実に俺のこの両掌の中にはその羽根は存在し、その眩いほどの白さを俺の両方の瞳に映し出していた。

 そう、その羽根は忘れていた大切な何かを思い出させてくれるようで、俺の心を掻き乱す。


 病的なほど白く透き通った肌、黒く長い髪を後ろで一つに束ねる。

 同じクラスの彼女、海山沙紀は身体が弱いのか学校も休みがちだった。

 最初はたまにしか学校に登校する事の無い彼女の事を、俺はそれほど意識していたわけでは無かった。

彼女はかなりの美形で目鼻立ちの整った顔は、学校の中でもかなり美人と言われるほどであったが、悪い噂も少なからず耳に入った。

 その殆どは、女子たちの嫉妬の様なものだろうと思っていたが、彼女をたまたま街で見かけたという友達は、彼女が明らかに学生とは思えないような年上の男と歩いているのを何度か見ているようだ。

 その男の方もかなりの男前だったようだが、どうもいろんな友達の話を総合すると男と言うのはどうやら一人では無い様だった。

 俺はぼんやりとその話を聞きながら窓の外を見ていた。

 晴れ渡る空に一羽の白い鳥が飛んでいく。

 それをただぼんやりと眺めながら午後からの授業を受け、いつの間にか学校の終業時間を迎える。

 辺りは鞄を持って教室を出ていくものばかりだが、俺はいつもしばらくの間は窓から見える景色を眺めている。

 別に何が有る訳でもないのだが、いつも少しの間そうして過ごすことが癖になっていた。

 暫くすると運動部の準備体操をする声などが校庭に響き渡る。

 その声を聴きながら更に空をぼんやりと見ていると、誰もいないと思っていた俺は突然後ろから声を掛けられる。

「安山君」

 突然声を掛けられた事に驚き体をびくりとさせ声のする方に振り向く。

 するとそこには海山が俺の方を見下ろす形で立っていた。

「な、なんかあった?」

 少し詰まりながら俺は返事を返す。

「私もうそろそろ行くけど、教室の戸締りやっておいてね」

「あ、ああ。わかったよ」

 俺はやっとのことでそれだけの言葉を口にしたが、よく考えると俺が海山と言葉を交わすのはこれが初めてかもしれないと思いだし、少しもったいないと思うと俺の口から突然言葉が出てきた。

「海山さん」

 海山は教室の出入り口に手を掛け今出ていこうとしている所だった。

 声を掛けられた海山は俺の方を振り返る。

「何?」

 自分でもどうして言葉が出て来たかも分からないまま俺は言葉を繋ぐ。

「明日は学校に来る?」

 俺のその質問に海山は少し考えるような表情を浮かべ徐に言葉を紡ぐ。

「そうね……たぶん……」

 海山はそう言うと教室の引き戸をガラガラと開け、教室を出ていった。

 暫くの間俺は海山が今までそこにいた場所を見つめ、海山が遠ざかって行く足音を聞きながらただ茫然としていた。

 開け放たれた窓と出入り口の間を、金木犀の香りを乗せた風が通り過ぎる。

 その心地よい香りで俺は意識を取り戻し、自分も帰り支度を始め教室を出ていく。

 校舎の外に出ると、空は高く小さな雲の塊が群れを作り、青い空を彩っていた。

 無意識に俺はその空を見上げた。



 次の日、学校に海山は来ていなかった。

 やはり体調が悪いのだろうか?少し心配ではあったが、俺はいつもの通り窓から外を見つめて一日を過ごし、いつものように学校を後にした。

 学校を出て駅に向かう。

 駅までは歩いて行ってもそれ程時間がかかるわけではない、俺はいつもの道を駅へ向かって歩いて行く。

 そして駅に着き、改札を通りいつもの下り線のホームに向かう為階段を昇る。

 まだ時間は早いのでホームにはそれ程人影は無い。

 暫くすると上り線のホームに電車が来るアナウンスが聞こえ、その少し後に電車はホームに滑らかに滑り込み、停車する。

 電車の扉が開かれ、ホームで待つ人と、電車の中にいる人とを入れ替え、降りる人と乗る人でホームは人が行きかう。

 駅の周辺には何もない所なので、街に出かけていた主婦や俺と同じように家路につく学生服が目立つ。

 そんな人の流れをぼんやりと見つめていると、ふとどこかで見覚えのある人物を俺の眼は捕えた。

「あれ?」

 俺は思わず声を出した後、無意識のうちに上り線のホームに向かう為に階段を昇りだしていた。

 俺が見つけた姿は今日学校を休んでいた海山だった。

 なぜか海山は制服を着ており、まるで今から学校に登校するかのようにその長い髪を揺らしながら改札口に向かっていた。

 何をどうしようとか、そう言う事など全く考えずに俺は海山の後を追うように走る。

 改札を出て学校とは違う方向に歩みを進める海山。

 俺は自動改札に定期を通して出ようとするが、入った駅で出るには駅員に処理をしてもらわなければいけない。

 駅員に定期券を渡し、定期券の処理をしてもらう間にも海山は駅から少しずつ離れていき、交差点を曲がり姿が見えなくなってしまう。

 そこでようやく駅員は定期を俺に渡し、俺は改札を出て海山の向かった方に走り出す。

 海山の曲がった交差点まで走り、海山の向かった方を見渡すが、彼女の姿はもうそこには見当たらず、俺は交差点の辺りをきょろきょろと探してみたがもうどこにも海山の痕跡を見つける事は出来なかった。

「おっかしーな……」

 俺は誰に聞かせるでもなく一人呟き、その場を離れる事が少しの間出来ずただ茫然とその場に立ち尽くした。

 少しの間そこに立ち尽くしていたが、諦め今走って来た道を戻り再び駅に向かって歩き始める。

 そして駅に辿り着いた俺は、また階段を昇り下り線のホームに向かう。

 しばらくしてホームに滑り込んでくる電車に乗り込み俺は海山を追いかけた駅を出て家路をたどる。



 最後に話したあの日から海山は学校を休んでいた。

 あの日から何日かたった晴れた日の休日、俺はする事もなく面倒な家にもいたくない気持ちで街に出てどこに行くともなくただ街をふらついていた。

 街を当てもなく、しばらくぶらぶらと歩いていたが、少し疲れ、近くの喫茶店に入りカフェオレをたのみ、少し混み合う店の中で空いている席を見つけそこに座る。

 カフェオレを一口飲み、ポケットの中からタバコを一本取り出しそれに火をつける。

 一口煙を吸い込み、身体の中に取り込みゆっくりと煙を吐き出す。

 今まで街中でタバコを吸っていても止められたことが無いほど俺は少し老けているようで、今日も俺がタバコを吸う事には誰も疑問を抱いていないようだ。

 一本目のタバコを吸い終わり、俺はコーヒーカップを見つめる。

 するとどこかで突然大きな声が聞こえ、少しざわついた店が一瞬静まり返り店の誰もがその声のした方に顔を向ける。

 俺も周りの人達と同じようにその声のする方を振り返と、三十を過ぎたくらいの男の前で女の子が何かをわめいている。

 声に聞き覚えがあったように思え俺はその女の子の方をじっと見る。

 その声は最近学校を休んでいる海山だと気づくのにそれほどの時間はかからなかった。

 海山だと解った瞬間また俺は身体が勝手に動いてしまい、俺は海山の方に歩きだし彼女の手を取る。

 手を取られた海山は少し驚いたような表情を見せたが、俺が手を引いて店を出ようとしてもそれに抵抗する事もなくすんなりと俺の手の引く方に導かれるかのように付き従った。

 その光景を呆気にとられて見ている男を無視して、俺は海山を連れて店を後にした。

 店を出てしばらく歩いていると、いつの間にか手を引いていた俺の手は海山に引かれているかっこになり、今度は俺が黙って見山に手を引かれて付き従う事になった。

 しばらく海山に手を引かれ歩いて行くと少し大きな公園に辿り着く。

 その公園は休日の昼間にしては人気なく、どこか寂しく感じる。

 公園に辿り着いた海山はようやく俺の手を離し俺に背中を向けたまま肩を震わせている。

 それを見た俺はもしかすると凄く悪い事をしてしまったかもしれないと思い、海山に声を掛けようとしたその時、突然海山が堪えきれなくなったかのように声を上げて笑い出す。

その光景の意味が解らず、俺はしばらく海山の姿を見続ける。

 ひとしきり笑った後、海山はようやく落ち着いたのかこちらの方に向き直り、まだ少し残る笑顔を見せながら俺に声を掛ける。

「あー面白かった」

 何が面白かったのか俺は意味が解らずに複雑な表情をしていると、海山はそれに気づいたのか更に言葉を続ける。

「だって、あの時のあいつの顔見たでしょ?凄く馬鹿面して。なかなかあんな顔見れるもんじゃないよ。面白くなかった?」

 俺には海山の行っている事の意味が解らず、ただその言葉を聞いているだけしかできなかった。

 まだ困惑している俺の表情を見て海山は不思議そうにこちらを見ている。

「面白くなかった?」

 海山の言葉に何と返していいかわからずにただ曖昧に「う、うん」としか俺は返せず海山の顔を見ているだけしかできなかった。

俺のその返事に海山は「何だ、つまんない」と返し近くのベンチまで歩きだし、そこに腰掛け、俺に声を掛ける。

「そんなとこに立ってないでこっち来て座ったら?」

 その声でやっと我に返った俺は海山の座るベンチに向かい海山の横に腰掛け、ようやくまともに話ができそうな所まで気持ちが落ち着き海山に話しかける。

「さっきの人だれ?もしかして彼氏とかだった?」

 俺は海山にそう言うと海山は少し怒ったような顔をして否定する。

「そんなわけないでしょ?あんなダサい奴彼氏な訳ないじゃん」

 そう否定する海山の言葉になぜか俺は少し安心すると、海山はそれが解ったのか悪戯っぽく笑う。

「嫉妬してたの?あれは……そう、ただの知り合い。ただのね」

「べ、別に嫉妬なんてしてないよ。ただちょっと気になっただけだよ」

 俺は海山の言葉を慌てて否定した。

 その言葉を聞いた海山はただ「ふーん、そうなんだ」とそっけなく答え何気ないしぐさで空を見上げる。

 海山につられ俺も空を見上げると、まだ太陽は真上と言っていいほどの位置にいる、空を見上げながら横に座る海山の様子を横目で伺う。

 海山の顔はさっき笑っていた時とは違って、どこか悲しそうな表情を浮かべていた。

「ねぇ……どっか連れて行ってよ」

 海山のいきなりの言葉に俺はまた驚く。

「安山君が連れ出して来たんだから今からの時間面倒見てよ」

 海山はそう言うと素早く立ち上がりまた俺の手を引いて歩き出す。

手を引かれながら俺は海山に声を掛ける。

「連れて行けって、何処に?どこか行きたい所でもあるの?」

 海山はその言葉で少し立ち止まり考える。

「うーん……そうね……そうだ!今年は海に行けなかったから海に連れてって」

「う、海?今から?これから行ったら何時になるか……」

 解らないよ。と言い終わる前に海山は再び、俺の手を引き駅の方に向かって歩き出す。



 海山に手を引かれ俺は駅に向かいそのまま電車に乗り込む。

 電車に中では特に何かを話すでもなく海山はずっと窓の外の景色を見ていた。

 俺も同じように窓の外を眺める。

 電車は次第に大きなビルが林立する街を離れ、住宅街を抜けて景色が段々と寂しくなってくる。

 するとやがて車窓からは一面の海が広がる。

 どれくらいの時間電車に乗っていたのか、秋の光は次第に弱くなりだす。

 ようやく目的の駅に辿り着いた頃には黄昏色に染まった海からの反射で俺と海山は包まれた。

 海山は海に着くなり靴を脱ぎ海の中に駆け出していく。

 無邪気にはしゃぐ海山の姿を見て俺は海に来てよかったと思い、その光景をしばらく眺め続けた。

 しばらくは一人ではしゃいでいた海山だが、俺が何もせずにいるとこちらの方に歩み寄り、さっきと同じように俺の手を取り波打ち際まで連れて行く。

 するとまた公園で見せたような悪戯っぽい笑顔を見せたかと思うと、少し屈みこみ両手いっぱいに掬った海水を俺の方にめがけて浴びせかける。

 突然の事に何が起こったか解らないでいる俺に海山はまた同じことを繰り返す。

 まるでドラマのような光景が、まさか自分の身に起こるなどとは思ってもいなかった俺はまたしばらく呆然としていたが、三度海山が同じ事を繰り返そうとした時ようやく俺も海山のそれに習い海水を両手いっぱいに掬い海山に浴びせかける。

 それからしばらくは海山と海水を掛け合っていたが、二人ともずぶ濡れになった頃ようやく海から上り砂浜に腰を掛ける。

 秋の風は冷たく、二人の身体を包み込む。

「寒くなってきたね」

 海山はそう言うと、俺の身体に自分の身体を人懐っこい猫のように擦り付けて来た。

 女の子に身体を寄せられるのが初めての俺は、あんなにも濡れて冷たくなっているはずの身体が熱くなる感覚を覚え、気が動転してしまう。

「そろそろ帰ろう、着替えも持ってきてないし、このままここに居たら風邪ひいちまう」

 俺は照れ隠しにそう言って立ち上がり、海山の手を取って引き上げようとする。

 しかし、海山は思いのほか強情に立とうとしない。

 海山の姿はまるで駄々をこねる子供の様で少し可愛くもあったが、日が沈みかける浜辺でこのまま濡れた服のままでいると本当に風邪をひいてしまう。

 ただでさえ海山は身体が弱いはずなのに、なぜここを動こうとしないのだろう。

 俺は不思議に思い、また海山の横に屈み少し優しく話しかける。

「そろそろ帰らないと本当に風邪ひいちゃうよ」

 俺はそう言うと、海山は俯いたまま黙って首を横に振る。

 その仕草は本当に子供の様で、俺はただ宥めすかすしかなかった。

「そんなこと言わずに帰ろ、もう日も暮れて来たし」

 俺は子供を諭すように話しかけると、ようやくただ一言、海山は口を開く。

「……帰りたくない」

 彼女のその言葉に俺は少し困ったが、思い直し海山の横に腰を掛けて話しかける。

「解った、じゃあもう少しここにいよう。でも日が沈むまでの間だけそれ以上は本当に帰ろう」

 俺がそう言うと海山は満面の笑みで俺の方を見て、それからまた俺の身体に冷えた自分の身体を摺り寄せる。

 海山の身体の熱が俺に少し伝わり、また身体が強張ったように緊張する。

 緊張をほぐそうと、俺はポケットの中からタバコを取り出し、濡れずに残っていたタバコに火をつける。

 タバコの煙をゆっくりと吸い、肺の奥底までその紫煙を入り込ませ、そしてまたゆっくりと煙を吐き出す。

 タバコを吸う俺の姿を不思議そうに海山が見ている。

「タバコなんか吸うんだ、なんか意外。安山君真面目なのかと思ってた」

 海山のその言葉に俺は反応する。

「真面目だよ。真面目だけが取り柄だからね」

「真面目な人は未成年なのにタバコなんか吸わないよ」

 海山はそう言って微笑み海の方に視線を向ける。

 またしばらく辺りには波が打ち寄せる音だけが響く。

 風は少し強く、太陽はその色をオレンジから赤に、そして朱色にその色を変えその姿を海の向こうに隠してしまう。

 そして太陽の残照も消え、空は濃紺から黒へと色を変え、空本来の色を取り戻す頃ようやく海山は口を開いた。

「ねぇ安山君……ホテル……いこっか」

 全く言葉の意味が理解できずに聞き返す。

「え?」

 俺の返事が聞こえたのか聞こえないのか海山は立ち上がり、また俺の手を引き浜辺から連れ出す。

 海沿いの国道に出るとそこには何軒かのホテルがあり、その一つに海山は俺を連れて入る。



 自分の置かれた状況が理解できないまま、俺は海山に連れられホテルの一室に身を置く事になる。

 気が付くと海山は服を脱ぎ、そしてシャワー室に入っていく。

 まだ何が起こっているのかさっぱり解らず、海山がシャワーを浴びている間俺は、ソファーに座り海水で濡れ、湿気たタバコに火をつける。

 シャワーが海山の身体にあたる音が聞こえる、その音が聞こえている間俺は自分の身に何が起こっているか改めて考え直してみるが、さっぱり解らず混乱するばかりだった。

 しばらくすると、蛇口を捻る音と共に水を弾く音が弱くなり終いには浴室から水を弾く音が止まる。

 しばらくして、水に濡れた髪もそのままに海山が浴室からバスタオル一枚を身体に纏っただけの姿で出てくる。

 タオルを身体ピッタリに纏った海山の姿は細身だが胸はでており、腰はしまっている。

 病的なまでの白い肌と相まってまるでその姿は美術館から抜け出してきた彫刻のようにも思えた。

まだ目の前の光景が信じられないでいる俺の方に海山は歩み寄り、俺に声を掛ける。

「安山君もシャワー浴びたら?身体冷えてるでしょ」

 海山はそう言って浴室から出て、俺の座っている横に腰掛ける。

 まともに海山の姿が見れないでいる俺は、その場を逃げるかのように「そ、そうだな。じゃ、じゃあ俺もシャワー浴びてこようかな」そう言い残し急いで浴室に向かう。

 浴室に入り、服を脱ぎ捨て今まで海山がシャワーを浴びていた浴室に踏み入れる。

そこはまだ湿気が籠り微かにシャンプーの匂いが残っている。

 俺は蛇口を捻り、シャワーからお湯を湧き出させ、冷え切った身体を熱いお湯で温めなおす。

 熱いお湯を頭からかぶり続け、頭の中が空っぽの状態に近付きシャワーから流れるお湯と一緒に混乱とかその他いろいろな物を排水溝に流しきってしまうとようやく浴室を出る事が出来た。

 浴室を出て寝室に向かうと部屋は薄暗くなっており、海山はベッドの中に潜り込んでいた。

 寝ているのだろうか?そう思い俺は海山の潜り込んでいるベッドに近付き、そっと海山の表情を覗き込もうと顔を海山に近づけた。

 すると、まるでそのタイミングを狙っていたかのように海山の両手が俺の身体を引き寄せ、それに抵抗する間も無く、俺はベッドの中に引きこまれる。

 海山は俺の身体に跨り、身体の自由を半ば奪い取ると海山の顔が俺の顔に近付きそのまま俺の唇に彼女の唇を重ね、ヌラりとしたその舌を俺の口の中に押し込んでくる。

 初めてのキスに俺は頭の中が真っ白になり、唇の感覚も解らないまま、ただなすがままに海山の舌を受け入れる。

 しばらく濃厚なキスをした後、唇から首筋と、その舌先を俺の下半身に滑らせる。

 キスをしてから俺の頭の中は真っ白で、この状況が現実に起こっている事なのか解らないまま混乱していると、突然俺の身体を今まで味わったことが無いような感覚が、全身を痺れさせるように下半身から身体全体に響き渡る。

 初めてのその甘いような感覚に思わず俺は声を漏らしてしまう。

 そして海山の方を見ると、海山も淫らな笑みを浮かべ俺の顔を見ている。

 海山のその淫らな微笑みは俺の気持ちを昂らせ、そのまま俺も快楽の渦の中に引きこまれていく。

 それからしばらくの間、海山は俺の身体を求め、そして俺も海山の身体を貪る様に求めた。

 少し暗い部屋の中で、海山は俺の上に跨った状態で快楽に溺れ、恍惚とした表情でその長く黒い、まだ渇ききらない髪を振り乱しながら永遠とも思えるくらい長い時間、俺と海山はお互いの身体を求め続けた。

 どれくらいの間、俺と海山は交わっていたのか、俺は疲れ果て少し眠ってしまったようで、ふと目覚めて時計を見ると時計はもう深夜に近い時間を指していた。

 終電に間に合うかどうかという時間だろう、俺は家に帰らない事もしばしばあるが海山はそうもいかないだろう。

 そう思った俺は疲れ果て、横で眠る海山の身体を揺り動かし声を掛ける。

「海山、海山。帰らなくてもいいのか?もう終電がなくなるぞ」

 しかし疲れ切っているのか、海山は寝ぼけたように返事をするだけで起きようとしない。

 俺は海山を起こすのを諦め、彼女の眠るベッドからそっと抜け出しソファーに腰掛けテーブルの上に置いたあるタバコを取り、そこから一本取り出し火をつける。

 一日に一、二本吸うだけのタバコが今日はやけに減るのが早い。

 しばらくはソファーに座ってタバコを吸っていたが、海山は起きる気配を見せない、仕方ないので俺は海山の眠るベッドにもう一度潜り込み俺も眠りについた。



 朝起きると隣に寝ていたはずの海山の姿は無く、俺は夢でも見ていたのかと思ったが、いつも朝起きて見ている天井とは違う天井に、俺は昨日の事は夢ではなかったのだと改めて実感した。

 しかし海山の姿が見えない、俺は少し不安を覚えたが、やがて完全に眼が覚めると浴室から水の流れる音が聞こえる。

 どうやら海山はシャワーを浴びているようだった。

 俺は安心し、ベッドの下に落ちていたタオルを腰に纏い、立ち上がるとテーブルまで行き、テーブルの上に置いてあるタバコを取り、その一本に火をつける。

 タバコを吸いながら、部屋の中をいろいろ物色しているとインスタントコーヒが眼に入った。

 その隣には電気ケトルも置いてあり、それに水を入れてお湯を沸かしコーヒを淹れる。

 タバコを吸いながらコーヒーを一口すする。

 すると水の流れる音が止まり、浴室の扉が開く音が聞こえたので俺は海山に声を掛けた。

「海山」

 海山は俺がまだ寝ていると思ったらしく、少し驚いていたように返事を返す。

「おこしちゃった?ごめんね。」

「海山もコーヒー飲む?」

「うん、飲む」

 海山の言葉に俺は「了解」と短く返事をしてコーヒーをもう一杯入れる為にソファーを立ち、電気ケトルのある方に行き、残っていたお湯で海山の分のコーヒーを淹れる。

 またタオル一枚の姿で出てくる海山、しかし昨日の夜ほど俺はその姿に緊張する事も無く、俺は海山の為に淹れたコーヒーを手渡す。

 それを受け取り海山もソファーに腰掛けカップに口をつけ一口飲むと海山はびっくりしたように「苦!」と言ってカップの中をみる。

 海山のその顔を見て、「ああ、ごめん海山はブラック飲めないんだ?」

 俺はそう言って、コーヒーと一緒に置いてあった砂糖とミルクを海山に手渡す。

 それを両方ともたっぷりと入れると、ようやくコーヒーをすすりだす。

「やっぱりコーヒーは甘くないとね」

 海山はそう言うとまたコーヒーに口をつける。

 その姿は全く昨日の海山とは別人で、本当に同一人物なのだろうかと疑うほどの変わりようだった。

 いや、改めて考え直すと学校でも友達と話をしている所をあまり見た事が無い。

 そう思うと、俺は殆ど海山の事を知らなかった事に今更ながら気付かされた。

 もちろん、海山も俺の事をあまり知らないだろう、学校にもほとんど登校しておらず、まともに話をしたのも昨日が初めて……

 とても海山が俺に対して恋愛感情があったとは到底思えない、じゃあなんで俺と海山はこんな所でお互いタオル一枚の姿でソファーに座ってコーヒーなんか飲んでいるんだろう?

 俺がそんな事を考えているのが解ったのか彼女はその疑問に答えるように話し出した。

「なんで俺は今こんな所でこんな事をしているんだろうって、そう思ってるでしょ?」

 俺はだまって頷き海山の話の続きを聞く。

「これが私の仕事なの」

 昨日から混乱しっぱなしの俺の頭の中にまた混乱の種を海山は植えつけ、更に話を続ける。

「大丈夫、安山君からお金なんか取らないから。小学生になった頃かな……私の両親事故で死んじゃったの。それからは親戚の家に引き取られて暮らしてた。もともと親戚付き合いなんか殆どなかった私の両親だったから、その親戚の人も迷惑だったんでしょうね、ここから先は昔のドラマで有ったようなパターン。いろいろ辛い事もあった。けど……」

 そこで海山は言葉を切ると、今にも泣きだしそうな表情で黙り込んでしまう。

 俺は海山に何と言えば良いか解らずに、ただ黙っているしかできないでいる。

 海山はそれ以上言葉を繋ぐことが出来なくなってしまったようで、部屋を静寂が包む。

 俺はその静寂に耐えかねてソファーから立ち上がり、少し大きな声で話す。

「よし、今日は日曜日だし何処か遊びに行こう!どこでも海山の行きたい所に」

 俺がそう言うと今まで辛そうな表情をしていた海山の顔は一瞬で輝く様な笑顔になり「ほんとに?」と、今にも飛び上がりそうなほど喜び、急いで準備を始めた。

 その姿を見つつ俺も準備を始める。

 今の海山の姿と、昨日の海山の姿。どちらが本当の海山なのか、俺には解らないがとにかく今、海山は楽しそうにしている。

 それで今は良い、俺はそう思い海山の準備が整うのをソファーに座り待っていた。



 ホテルを出て、俺と海山は駅に向かう。

 海沿いの国道は少し交通量が多いが、海水浴シーズンからずれているからだろう、ほとんどの車は通過するだけで海に行くために止まる車はなかった。

「所で、どこか行きたい所は決まった?」

 先ほどからずっと考え込んでいる海山は、まだ考えているようでなかなか目的地が決まらなかった。

「うーん……ほとんど遊びに行ったこととか無いからこんな時どうするか考えた事も無かった」

 海山は嬉しそうにしながらも少し困ったような表情をしていた。

「じゃあ、遊園地にでも行く?」

 我ながら子供っぽいかとも思ったが、俺自身もこういう時にどうしていいか解らなかったのもあり、なんとなく海山にそう言ってみると、思いのほか海山は遊園地と言う言葉に食いついた。

「遊園地?一回も言った事が無い!行こう行こう!」

 そう言ってまたはしゃぐと、嬉しくて仕方ないといった表情で海山は駅に向かって駆け出していく。

「早く行こうよ、遊園地!」

 駅の少し手前まで走り、こちらの方を振り返り海山はそう言って立ち止まる。

 それほど遊園地が嬉しかったのだろう、俺は海山の所まで走り、切符を買って海山と並んでホームで電車を待つ。

 その間中海山はかなりご機嫌で、鼻歌を歌いながら電車を待っていた。

 そのメロディーに聞き覚えがあり何だったかなと考えている時ホームにアナウンスが響く。

 到着した電車に乗り込み、空いている席に座る。

 日曜日の朝早い電車はまだそれほど人も乗っておらず、各車両に一人か二人ぐらいだ。

 海山かなりご機嫌のようで、さっきからずっと鼻歌を歌っている。

 ようやく海山の鼻歌のタイトルを思い出した俺はそのタイトルを言葉にする。

「『翼をください』だっけ?」

 俺のその言葉に微笑みを返す海山。

「うん。私なんかこの歌凄く好きなんだよね」

「俺も小学校の頃よく歌ってた気がする。俺もその歌好きだよ」

 俺のその言葉に海山は頷き、言葉を続ける。

「ちっさな頃、この歌を良く口ずさんで、いつか鳥みたいに空を飛べたらって、いつも考えてた。真っ白な鳥になって空から地上を見下ろすの、そしたら嫌な事なんか全部忘れられるんじゃないかって、いつも思ってた。今でも時々考えるけどね」

 海山はそう話すとまた鼻歌を続け、窓の外に視線を移す。

 俺はそんな海山の横顔をただ見つめていた。

 電車は海沿いを離れ、住宅街の中を走るようになりやがては高層ビルの立ち並ぶ街中を走るようになる。

 昨日電車に乗った駅を通りすぎ、街から少し離れた所の駅で電車を乗り換える。

 その間も海山はウキウキした感じで、乗り換えの為に階段を昇る時もまるで背中に翼が生えて来たかのように軽やかに階段を昇っていく。

「本当に遊園地楽しみなんだね」

 俺は海山にそう声を掛けると、海山は嬉しそうに返事をする。

「うん!だって初めて行くんだもん遊園地」

 乗り換えのホームに立つ俺と海山、海山は独り言のように「早く電車来ないかな」と呟き嬉しそうにしていた。

 幾つかあるホームにもだんだんと電車を待つ人も増え出し、俺たちのいるホームにも少しずつ人が増え出した。

 ようやく俺たちのいるホームにアナウンスが響き、電車が到着する。

 到着した電車の中の人が駅で降りようとドアの前に立っている。

 そのドアの前に立っている人を見て海山が小さく声を出す。

「あっ!」

 俺は海山の方に顔を向ける。

「どうかした?」

 海山の視線の先の人物はどこかで見覚えのある人物で、俺はどこかで会ったことのある男の記憶を手繰り寄せる。

 そして俺も小さく声を上げる。

 電車に乗っていた人物は昨日喫茶店で海山と一緒にいた男だった。

 ドアが開き、中の人がホームに降りてくる、男はドアを潜ると俺と海山の前に立ち、海山に声を掛ける。

「何だ沙紀、今日はこいつが客なのか?」

 そう言うと男は俺の方をじろじろ見てくる。

 男は昨日会った俺のことなどはすっかり忘れているようだ。

「そんなわけないよな?どう見てもこいつ金なさそうだもんな。まあいいや、帰るぞ」

 男はそう言うと無理やり海山の手を取って連れて行こうとする。

 俺はその手を抑えてその男に怒鳴りつける。

「おい、あんたなんだよ?これから俺は海山と遊園地に行く所なんだ!邪魔しないでくれ」

 俺の言葉にその男は意味が解らないというような表情で言う。

「遊園地だぁ~?沙紀本当か?お前そんなとこ行くのか?」

 男はその一言ずつに怒りの感情をこめて海山に向かって怒鳴りつける。

「まぁいい、悪いな兄ちゃん、こいつはそんな所に行ってる暇なんてないんだ。誰か他の奴と行ってくれ」

 そう言うと海山を無理やり連れ去ろうとする。

 いつもの俺ならここで引いていただろうが、海山のあんなに楽しみにしていた遊園地をこんなどこの誰とも解らない奴に邪魔されたくない。

 俺はそう思い目の前の男に怒鳴りつける。

「勝手に海山を連れて行くな、嫌がってるじゃないか!どこの誰か知らないけどその手を海山から離せよ!」

 するとその男は俺に向かって吐き捨てるように言う。

「お前みたいなガキに家の事を口出しされるいわれはねーな」

 その言葉の意味を少し考えて俺は驚き海山の顔を見る。

 俯いた海山は黙って頷く。

「解ったかガキ」

 そう言って男に連れ去られていく海山を、俺は黙って見ている事しかできなかった。

 男に手を引かれて行く海山は最後にこちらの方を見て何か呟いたように見えたが、周りの雑音にかき消され、何と言っていたのか聞こえないまま海山の姿を見送った。



 海山が連れ去られた後、何処をどうやって歩いたのか解らないが、眼が覚めた時には家のベッドで眼が覚めた。

 いつもの見慣れた天井に何処かほっとした気持ちになり、もしかすると昨日起こった事は全部夢だったのではないだろうか?

俺はそう思ったが海山の手を取って店から連れ出したこと、ホテルで一夜を過ごしたこと、そのすべてがいまだに身体の中にはっきりとした感覚として残っている。

 あれは夢ではない、あの連れ去られる時の海山の悲痛に満ちたあの表情も最後に聞き取れなかった海山の言葉も……

それらすべて現実のものだ。

 俺はとにかく学校に急いだ、もしかすると海山が今日は学校に来ているかもしれない。

 そう思うと、いてもたってもいられず、半ば走るように俺は学校に急いだ。

 いつもより早い電車に乗り学校への道を急ぐ、いつもならもっとゆっくり走ればいいのにと思う電車も今日はもどかしいほど遅く感じ、早く学校に行って海山が学校に来ているかどうかを確かめたくて仕方なかった。

 駅に着き、俺は急ぎ足で改札を出て学校へ急ぐ。

 いつもよりもかなり早い時間に教室に入る。

 もちろんまだ海山どころか他のクラスメートも来ていなかった。

 自分の席に座り、海山が来るのを待つ。

 教室のドアがガラガラと音を立てて開く、その音を聞いてそちらの方を向くが、海山ではない事を確認してがっかりする。

 始業ベルが鳴るまで何度も俺はそれを繰り返し、海山が学校に来ない事を俺は知る。

 その日一日俺はいつも以上に授業に身が入らずに、海山の事ばかりを考えていた。

 授業が終わると俺は教室を一番に出て職員室に行く。

 めったに職員室に行くことが無い俺が職員室に現れたことに担任は驚いた。

「どうした安山?珍しいなお前が職員室に来るなんて」

 担任にどう説明したものか迷ったが、とにかく俺は海山の住所を担任から聞き出したかった。

「先生、最近海山さん学校に来てませんよね?」

「おお、ちょっと身体の調子が悪いみたいでな、親御さんからしばらく休むって前に電話があった。それがどうかしたか?」

 担任は不思議そうに俺の顔を見る。

「いや、前に学校に来た時に本を貸したんですけど、それが急に必要になったんで返してもらいたくて……先生住所教えてくれませんか?」

 口から出まかせを俺は担任に言が、お前が本をねー。担任はそう言いながらも怪しむ様子もなく住所をメモ用紙に書き俺に手渡す。

 それを受け取ると俺は急いで職員室を出ようとするが、扉の前に立ってドアに手を掛けようとした時担任が俺に向かって声を掛ける。

「海山の様子、明日教えてくれ。それとみんな心配してるって伝えておいてくれ」

 わかりました、俺は担任にそう言うと俺は急いで職員室を出て、メモに書かれている住所に急いだ。

 メモに書かれた住所は学校のすぐ近くで、俺が前に海山を見失った交差点の近くだった。

 その住所の場所に着き、俺はインターフォンのボタンを押す、しかし何の反応もない。

 何度か俺はインターフォンを押すが、何の反応もない、俺は門を開けて中の様子を伺う為に庭の方に行き、窓からそっと中の様子を伺う。

 すると前に海山の家族と言っていた男が裸で海山の上に覆いかぶさり、ぐったりとしていた。

 俺は見てはいけない物を見てしまったと思いその場から離れようとしたが、何か違和感を感じもう一度じっくりとその様子を伺う。

 男はじっとしたまま動かず、男の背中に回された海山の手は何か白い物を握ったまま動かないでいる。

 よく見るとその海山の手には白い柄の物が握られており、その柄から延びる金属は男の背中に突き刺さってそこから赤い液体が流れ、その赤は床に溜まり辺りは真っ赤に染まっていた。

 俺はようやくその状況を理解し、今まで中の様子を伺っていた窓を開け中に押し入る。

「海山、大丈夫か?」

 海山も男の血を浴びた海山の透けるような白い肌が所々赤く染まり、その手に握ったナイフを離さず放心状態でどこか遠くを見ているような眼をしていた。

「海山、海山!」

 俺は海山の身体を何度もゆさぶりようやく海山が意識を取り戻す。

「安山君……どうしてここに?」

 まだ完全に放心状態が抜け出せていないのか、海山は不思議そうにこちらの方を見ている。

 そしてようやく自分の置かれた状況を理解し、手に持ったナイフを手放し、男から身体を離す。

 男は背中に刺さったナイフが刺さったまま、どさりと床に音を立てて落ちる。

今までナイフを握っていた海山の手は口元を覆うように顔を隠す。

「な、なにこれ?どうして?何があったの?」

 その状況を改めて見て、状況を理解すると共に混乱していく海山、俺は混乱する彼女を引き寄せ、頭を撫でて落ち着かせる。

「落ち着け!とにかく警察に電話しよう」

 そう言って海山をいったん座らせて俺は警察に電話しようと携帯を取り出す。

「待って安山君、お願い警察には電話しないで!」

「でも」

「お願い」そう言って海山はこちらの方を見つめる。

「解った、でもどうするんだ?」

 俺は携帯を鞄の中に押し込め、海山を見つめ返す。

 しばらく海山は考えていたが何も思いつかないのかそのまま黙り込む。

「解った、とにかく海山はシャワーでも浴びて身体を流してこいよ」

 俺は海山にそう言うと海山は解ったと言って浴室のある方に歩いて行く。

 どうしたものかと頭を悩ませ、俺は鞄の中に入れてあるタバコを取り出しそれに火をつける。

 海山がシャワーを浴びている間、俺は目の前の状況をもう一度再確認するようにその動かなくなった男を見つめる。

 男は何度も背中を刺されたようで、いくつもの刺し傷が背中中にあったが、一番酷い傷は心臓の近くにあり、それが致命傷になったのだろう。

 男のその姿を観察していると、いつの間にかタバコは根元まで灰になり、その白くなった灰は床に音もなく落ちる。

 フィルターまで来たタバコを口に咥えこれからの事を考えていると、ようやく海山がシャワーを終わり浴室から出てくる。

「海山、やっぱり警察に電話しよう」

「ダメよ!絶対にダメ!こんなやつの為に私は警察に捕まるのは絶対にいや!」

 感情むき出しの海山の眼は、その男だった塊を死しても尚恨むように憎悪の籠った瞳で見つめる。

 その瞳を見て俺は海山が今までどれほどの目にあっていたかの一端を知った。

「お願い安山君、こいつをどこかに隠したいの。手伝って」

 懇願するような瞳で俺は海山の気持ちを理解し、「解った」と俺は短く返事をする。

 それから俺と海山は男の死体を埋めるための作業に入った。

 まず死体を浴室に運び、床にはビニールシートを張りシャワーを浴びせ続ける。

 死体にシャワーを浴びせ続け、海山が倉庫から持ってきた鉈や鋸といった道具を使い、ほんの数時間前まで生きていた男の姿を、ばらばらに切り刻んでいく。

 最初の頃は肉に鋸や鉈を食い込ませていく度に俺は目の前の光景に吐き気を起こし、胃の中の物を吐き出していたが、胃の中にもう吐き出すものが無くなりだした頃にはもう、その行為自体に何の感情も抱かなくなり、作業のペースも上がってくる。

作業を繰り返し、男は元あった人の姿からかけは離れた物になっていった。

 浴室は血にまみれたが、シャワーがすぐに血を洗い流す。

 しかし切断された男の身体からはこの世に留まりたいと思い続ける執念のように血が流れ出す。

 滴り落ちる血をシャワーで流す。

 それを一時間ほど繰り返し、ようやく男の身体からは血が抜けきったのか、ようやく血が止まった。

 その切り刻まれた男の部品を一つずつビニール袋に二人で詰めていく。

 男の身体の中に収まっていたものは、黒いビニール袋五つ分に分けられた。

「今更だけど……海山。本当にいいんだな?」

 俺は海山にそう声を掛ける。

 その言葉に海山は黙って頷く。

 俺は海山の気持ちを再確認して、また声を掛ける。

「解った、今はまだ時間が早い、夜遅くなったらこれを二人で山に埋めに行こう」

 俺の言葉に海山はまた黙って頷く。



 それからの時間、俺と海山はただ黙って夜が更けるのを待った。

 部屋の中には秒針を刻む時計の音だけがただ響き渡る。

 いつの間にか日は暮れ、周りの家からは夜の光が漏れ出し、その光すらも消えた頃海山が話しかける。

「安山君、そろそろ行こうか」

 海山のその言葉に俺は解った。とだけ返し、ビニール袋を大きな旅行用のカバンの中に詰める。

 二人でそのかばんを一つずつ車の中に運び込む。

 俺は免許は持っていなかったが、海山は免許を持っていたのでカバンをトランクに押し込めると海山は運転席に座り車のエンジンをかけた。

 静まり返った街の中に、色々と改造された車の派手なエンジン音が響く。

「こんなバカみたいな車が役に立つときが来るなんてね……」

 ぼそりと海山は呟き、車を走らせる。

 夜の街を俺と海山は山の方に向かって車を走らせる。

 しばらくは街の中を走らせていたが、やがて民家も見当たらなくなり、上り坂が始まる。道はどんどんと狭く曲がりくねり暗闇が支配するようになっていく。

 山の頂上より少し手前で海山は車を止める。

「安山君。この辺で」

 海山はそう言うと車を降りトランクの方に歩き去る。

 俺も彼女に少し遅れて車を降り海山の後を追う。

 俺と海山は無言でトランクの中の荷物を取り出し、山の中をかき分けていく。

 暗い坂道を懐中電灯で照らしながら進むと、荷物を埋めるにはちょうど良い少し開けた所に出る。

 俺は海山に手渡されたスコップで土を掘り、鞄を二つ埋められるくらいの穴を掘りそこに二つの鞄を投げ入れる。

 そして投げ入れたカバンの上に今掘り起こしたばかりの土をかぶせる。

 海山は黙ったまま、少しずつ土を被せられ姿を見えなくしていく鞄を見つめている。

 その表情はどこか穏やかで、今までの暗い過去からようやく解き放たれるという開放感のようなものも含んでいた。

 ようやく俺が土をかぶせ終わり手にしていたスコップをほり投げ座り込む。

「これで私と安山君は共犯だね。これは私と安山君だけの秘密、安山君が黙っていてくれるのなら……」

 海山はそういて疲れ果て今埋めたばかり穴の所にへたり込む俺のとなりに座ってこちらの方を見る。

「私は安山君の物になるよ」

 海山はそう言って俺にキスをし、俺は海山のキスを無防備に受け入る。

 それから海山は立ち上がり、車の方に引き返す。

 海山の後に続き車に向かい、助手席の扉を開け席に座ると海山はエンジンをかけて今来た道を戻り始める。

 海山の家に着いたころにはうっすらと夜は明けだしていた。

 精神的にも体力的にも疲れた俺はその日海山の家に泊まり、二人でベッドに潜り込み泥のように眠り続けた。



 それから暫くは俺も海山も学校には行かず、ほとんどの時間を海山の家で過ごした。

 たまに家に帰っても海山は「寝れないの」と、言っては俺に電話をして朝までベッドで過ごす。

 自分の家と海山の家を何度も往復するようになり、気が付くと季節は秋から冬に向かい、もうすぐ今年も終わろうとしていた。

 そんな事を繰り返すある日、俺と海山は些細な事で喧嘩をした。

 今となっては理由を思い出せない位些細な事だった。すぐに仲直りはしたものの、その後から海山の様子が少しずつ変わりだしたように俺には思えてきた。

 何がどう変わったと言うのは難しいが、どこか海山の様子は前とは微妙に変わってきていた。

 どこか俺の事を監視しているような、そんな気が俺はしてきたのだ。

 俺がそう思いだした時から海山は必要以上に俺を求めるような行動を行うようになってきた。

 海山のその行為は、秘密を共有している二人にしかわからない物なのかもしれない。

 ベッドで眠っている時、ふと眼が覚めると隣にいる海山の眼は見開かれており、俺が寝ている時でも俺の事を監視するかのように俺の顔を見続けていた。

 海山のその行動に俺は少しずつ海山から距離を置き、会わない時間を増やそうと試みたが海山はそれを許さず、執拗に連絡を繰り返して俺の行動の自由を奪って行った。

 そして俺の行動で疑心暗鬼に囚われた海山が壊れてしまう前に俺は先に手を打つことにした。

「なあ、今度海にでも行かないか?」

 あくまでさりげなく、今までの雑談の流れで海山にそう話しかけた。

 俺の言葉に海山は何も疑う様子もなく返事をする。

「いいよ、じゃあ前に行った海に行こうよ」

 俺は海山がそう言うであろうと思いこの話に持ち込んだ。

「そうだな、じゃあ今から行こう」

 俺の突然の提案にも海山は何の疑いもなかった。

「じゃあ、車で行こう」

 海山と俺は支度を済ませ、車に乗り込んで海山と初めて電車で行った海へと今度は車で走り出した。

 平日の真冬の午後の海に人は殆どいなかった。

 前に行った海はもう少し先に行くと砂浜から少しずつその姿を変え、砂浜は無くなり、やがて崖が続く道へとなっていく。

 崖沿いの道を走り、もうそろそろ夕暮れもせまり、車も殆ど通らなくなった頃合いを見計らって海山に車を止めるように言う。

 車を止めて、俺は崖の方に歩いて行く。

 途中海山に怪しまれないように自然に、海山の手を取り岩で足場の悪い道を歩き道が途切れる所まで歩いて行く。

 その場所に着いたちょうどその頃には夕日が海に沈みかけており、夜の暗闇が辺りを支配しようとしていた。

 そこで俺は近くの岩に腰を下ろし、海山にも隣に座るように促す。

 もう後一歩踏み出せば崖から海に向かって落ちてしまいそうな場所に俺と海山は腰掛ける。

 沈みかけた夕日を二人で見続け、夕日が沈みきった後も少しの間何の意味もない会話を二人で話し続けた。

 その間も俺はこれから起こそうとしている行動の手順をずっと考え、殆ど海山の話などは聞いてもなかった。

 二人の会話が途切れた頃、ついに俺は計画を実行に移す事にした。

「海山、日も暮れたしそろそろ帰ろうか」

 そう言って俺は海山よりも先に立ち上がり、海山の手を取り海山を引き起こす。

 手を引かれ立ち上がった海山は俺に背中を向けるように立ち、夕日の消えていった海の方を見ながら話し出した。

「ねぇ安山君、私ね、あかちゃ……」

 そう言って振り返ろうとした海山の背中を俺は力いっぱい押した。

 海山は最後の言葉を言い終わる前に足を踏み外し、崖の下の岩に叩き付けられ、そのまま波にさらわれていった。

 海山が落ちて行く時、崖を巣にしていたのか、白い鳥が一斉に羽ばたき暗い空に飛び立っていく。

 そして、鳥が飛び立っていった後には白い羽が辺りに舞い、海風に乗り俺の周りゆらゆらとふりそそぐ。

 俺は海山の最後の言葉など殆ど聞こえていなかった。

 自分の命を守る為に俺は仕方なく海山をこの手にかけた。

 そして俺は自己弁護をするかのように海山の消えた海に向かって叫ぶ。

「海山が俺の事を殺そうとしなければ俺はこんな事はしなかった、全部海山が招いた事だ!恨むなら俺を殺そうと考えた自分を恨め!」

 しばらくの間俺は気が狂ったように笑い続けた、いや実際俺は気が狂っていたのだろう。

 そう海山と二人であの男をばらばらにして山の奥に埋めた時にはもう……

 最後に俺は辺りに散らばる白い大きな羽を一つ拾い上げ、海山の消えた海へ投げ入れる。

「最後に鳥になれてよかったな海山」

 俺はその言葉を最後にその場所を離れた。



 あれから数日たっても海山の死体は発見されず、そのまま行方不明で処理されたようだ。

 もちろんその間、俺の所にも何度も警察が来て事情を聴かれたが、あくまで俺は彼女をなくしてしまった可愛そうな恋人の役を演じ続けた。

 もちろん、海山の親代わりであった男の事も聞かれたが、それについても俺は知らないの一言で片づけた。

 テレビでも一時取り上げられ、マスコミの取材も何度か俺の家に来たようだが、全て受け付けなかった。

 そして何日かが経ち、海山が失踪した事件よりも大きな事件が起こるとマスコミはこぞってそちらの取材に駆け回るようになったようで、俺の所には一切取材には訪れなくなった。

 その間にも警察は俺の所にも来ていたが、失踪と言う事で片づけられたことでそれすらも殆ど来なくなった。

 俺はその後無事に学校を卒業し、希望には届かなかったが進学をし、無事大学も卒業して働きだした。

 毎日の仕事に追われ、海山の事など思い出す事も無く忙しい日々を送っていた。

 いや、海山の事を思い出す事もなく、というよりむしろ俺の中の記憶が海山の部分を抑え込み想い出さえも消してしまっていたのかもしれない。

 そんなある日、俺は外回りの営業中昼飯を食べる為に公園に立ち寄り、ベンチに腰掛けコンビニで買った菓子パンを食べていた。

 弁当を食べ終わり、内ポケットからタバコを取り出しそれに火をつける。

 ゆっくりとタバコの煙を灰の中に満たし、そして煙を吐き出す。

 吐き出された煙はゆっくりと漂うように消えていく。

 それを何度か繰り返し、一本吸い切り短くなった吸殻を投げ捨てる。

 すると公園にいた鳩が餌と間違え寄ってくる、それがなんとなく面白く、さっきのコンビニで買った菓子パンの残りを鳩に投げると、瞬く間に俺の周りには鳩でいっぱいになった。

 鳩の中には身体の殆どが白い羽毛で覆われた物も何羽かいて、その白い羽を見て俺は何か大事な事を思い出しそうになったが、それが何かを思い出せずにもどかしく思っていた。

 そんな事を考えながら鳩に菓子パンをちぎって投げ与えていると、公園に子供がやってきて、俺が餌をやっている鳩に向かって走り出してくる。

 子供が走って向かってくる足音に驚いた鳩は一斉に飛び立ち、鳩が飛び立った後何羽か混じっていた白い鳩の羽根がゆらゆらと舞い降りてくる。

 その羽根に両手を差し伸べ、その一枚を受けとめる。

 白い大きな羽を受け取った時、俺は更に先ほど感じていたもどかしさが深まったが、それ以上考える事もせずに、その公園を後にした。



 白い羽を掌で受け取った日の夜、俺は疲れ果ててアパートに帰り着き、そのままベッドに倒れ込み眠りについた。

 夢の中で誰か知らない、長い黒髪を後ろで縛り、透き通るような肌の少女が夢の中に出てきて俺に語りかける。

『ねぇ安山君、私あかちゃ……』

 少女がそう言いながらだんだんと体中のあちこちから血がだらだらと流れ出していく。

「うわぁぁぁぁぁ!」

 そこで俺はひどく寝汗を書きながら眼が覚める。

「何だ……夢か……」

 ぜぇぜぇと肩で呼吸をし、近くに置いてあったタオルで汗を拭う。

 最初の内は一週間に一度くらいだったが、それが五日に一回、そして三日に一回、やがて俺は毎日同じ夢を見るようになった。

 そしてその時になってようやく俺は海山の事を思い出した。

「海山……そうか、俺は……」

 俺はそれからしばらくして仕事を辞め、毎日をアパートの部屋で過ごした。

 寝ても覚めても海山の事を思い出す毎日、だんだんと俺の精神は病んでいった。

 いつも気が付くと俺は海山のよく歌っていた鼻歌を歌っている事が多くなった。

 海山のよく口ずさんでいたあの歌、『翼をください』を。

 自分がそれを歌っているのか、海山が歌っているのか解らなくなってくるくらい頭の中でその歌が壊れたレコードのように何度も何度も繰り返し流され、いつしか俺の頭の中は海山の口ずさんでいたメロディーでいっぱいになり、そしていよいよ俺はどうしようもできないほどに身も心もボロボロになり、自分が死ぬことを望むようになっていった。

 そして俺は自分でも気が付かないうちに、海山をこの手で突き落としたあの場所に来ていた。

 その場所はまるで時が止まっていたかのようにあの時と姿を変えていなかった。

 白い大きな鳥は青空を自由に飛び回る、その一羽から大きな白い羽根が一枚風に乗り、俺の方に向かって舞い降りてくる。

 舞い降りてくる一枚の羽根を俺はいつかしたように両手で受けとめ、それを海に向かって投げ入れる。

「海山、今行くよ……」

 俺は最後にそう言って、海山を突き落とした場所から今度は自分自身を海にめがけて突き落とした。

 海に向かって落ちる瞬間、俺は確かに俺の背中に海山がいる気配を感じ少し振りかえった。

 そして、振り返った一瞬俺はその姿は小さな子供を抱いて、いつものようにあの歌を歌っている海山の姿を確かに見た。

 海山は嬉しそうに、久しぶりの再会を喜ぶような笑顔で歌っていた。

 彼女の歌うその歌は俺が岩に叩き付けられ、意識が途切れるまで耳の中で反響していた。

海山を突き落とした時のように白い鳥は一斉に飛び立ち、その白い羽を舞い散らせその何枚もの白い羽根が俺の動かなくなった身体の上に降り注ぎ、俺の姿は白い羽で覆われまるで天に昇る天使のようになっていた……




『今私の願い事がかなうならば翼が欲しい、この大空に翼を広げ飛んでいきたいよ。悲しみの無い自由な空へ翼はためかせ行きたい……』

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

流民 @ruminn

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ