STEP9

 もう何度、この光景を夢見ただろう。

 鈍行列車を降りると柵の向こうには悠然と飛び去るジャンボジェット。そのまま近くのホテルへチェックインした俺は、睡眠不足に悩まされながらも、今、Air Terminalの文字を過ぎ、混雑するカウンターを抜け、信じられない思いで五十センチメートル四方の小さな空間に腰を落ち着けていた。

 先ほどからざわめきは一層増していた。前方のスクリーンには大きく滑走路が映し出され、高まるエンジン音につられて窓の外、滑走路の脇に生えそろった草はすっかり寝かされてしまっていた。

 ぽんと警告音が鳴り、軽やかなアナウンスが流れ出す。

「……本日は当機をご利用いただき、まことにありがとうございます。フライト予定は四時間となっております……」

 ベルトを締める。客室乗務員たちのきりりと締まった制服姿がてきぱきと通路を行き来する。救急用具のマニュアルに沿ったお決まりの説明、フライトプランの紹介、機長の挨拶。珍しくもないはずの出発前の手順を、染み入るように聞き入った。

 機体中に響き渡っているエンジン音がいよいよ悲鳴のように聞こえ始め、高まった緊張がある一瞬に解放へ向かう。そろりと動き出した外界に、心の中で拍手を送った。

 鈍重そうに動き出した機体は、見ている間に速度を上げる。シートへ押し付けられる体が思いのほか心地いい。

 ぐいとさらなるGを感じると、前方スクリーンは映像を変えた。嘗めるかのようにビルから見上げていった先は、もう蒼しか映ってはいなかった。


 緊張を解いたわけではない。度重なる出来事に、神経は休むことを忘れてしまったかのようだった。

 それでも顔は緩んだ。国際公用語で流れる機内アナウンスに録画ニュース。二席挟んだその先の小さな枠に縁取られた絵画は、青と白のツートンカラーになってから、もう一時間ほどが経過していた。ここまでくれば、帰ったも同然だろう。この便は直行便で、したがって次に踏みしめる地面は旅立って久しい、懐かしく愛しい母国のものに違いなかった。

 誰もが安心しきっていた。隣の席のスーツ姿のサラリーマンは、帰っても激務が待っているのだろう、まとまった時間を謳歌するように熟睡しているようだった。通路を挟んだ向かいでは、一心不乱に携帯ゲームに励む学生風の青年。青年の向こうには、借り受けた毛布で仕上げられた、不可思議なオブジェのような塊があった。気を使いつつ車内販売車を押す客室乗務員も、大写しのスクリーンの映画に手元のイヤホンで聞き入っている女性も、誰も彼もそれを信じて疑っていないようだった。

 俺だって当然そのうちの一人だった。持ち込み検査も厳重な国際線。ハイジャックなんてテロよりも頻度は少ない。何かが有ればそれはもう数日を無駄にするどころの話ではない。腹をくくったと言っても良かった。

 今はただ、ただ一人の乗客として、空の旅を楽しめばよかった。

 飛行機は庶民の経済力ではエコノミーがいいところで(仕事の出張ではない。ビジネスなんて夢のまた夢だ)、座席の狭さだけは何ともしがたいところがあったが、それ以外は文句の付けようもなかった。店屋物や出来合いの弁当ばかりに慣れた舌には、暖かい機内食は空の上のものとはとうてい思えず、明るいうちから飲むビールも又、格別だった。しかも1人暮らしのアパートメントで寂しく飲むのではない。愛しい妻の格別の笑顔には適わないものの、乗務員の笑顔は上級のつまみだった。……帰っているのだと、実感できる。代わり映えしない窓の外の青よりずっと、それは現実だった。

 ふと、その窓に何かがよぎった気がした。

 遠い外を食い入るように見つめる俺に、居心地が悪くなったのか、窓側の婦人が身じろぎした。

 気のせいだろうか。戻しかけた視界に、再び何かがふれた。

「あ」

 婦人だった。大きな顔で窓を覆い、俺の代わりにかじりつく。

「え」

「は?」

「うそ……」

 動揺は岸辺に石を打ち込んだように広がった。窓辺を伝い、それに気付いた人たちの間で、何があったと声が飛ぶ。

「どうされましたか?」

 近づく乗務員がいる傍ら、あわてたように駆け抜けていく影もある。

 機内の右側はちょっとした騒ぎになっていた。(中央や左側もざわめき始めていたが、窓が限られており、異音がしたり不気味な振動を感じたりと言った変化が何もない以上、ざわめき以上のものにはなり得なかった)

「UFO!?」

「どれどれ?」

「円盤!」

「Wonderful!」

「は……?」

 さほど待つこともなく、『それ』には具体的な名が与えられた。UFO。Undefined Flying Object――認められたからには、Undefinedではないのだが――とされた。俺が気付いたものは単なる黒い点でしかなかったから、本当にそれなのかどうかは分からない(なにせご婦人の覆う窓からは、わずかに外光がもれるだけだったから、景色を見る事なんて到底できそうになかった)。

 しかし、すでに尋常でないことになってはいるようだった。……済ました客室乗務員が涼しい笑顔をかなぐり捨てていたのだから。まだ幼ささえ残していそうな可愛らしい笑顔を振りまいて機内販売ワゴンを押していた彼女など、髪を振り乱して受話器に何事か言い続けている。怒鳴らないのは責任感か最後の理性か。

 俺はもう、祈るしかなかった。知らず、拝んだこともない八百万の神へ祈る言葉を転がしていた。俺は一介のサラリーマンでしかなく、空の上でできることなど何もないに等しく、だからただ、祈るしかできなかった。

 ――天の神よ、地の神よ、大いなる海神よ。人間を正すお釈迦様よ、父と精霊と神の子イエス・キリストよ、目には目をのムハンマドよ、おおいなる創造神ビシュヌよ、彼方より見下ろす宇宙意志よ、大地母神マーファよ、大和の大仏様よ、成田の大仏様よ、大船の観音様よ、恐山のイタコ様よ、天満宮の道真様よ、実家の近所のお稲荷様よ、今度こそ、何事もなく愛しい妻と息子の元へと、俺を運び賜え――。

 やがて、その尋常でない事態は具体的な形になった。

 別に、攻撃されたわけでも、UFOが複数になったわけでも、分裂したわけでもない。マジェスティックトゥエルヴからアメリカ空軍が編隊を組んで飛んできたわけでも、我らがゴジラが迎え撃ったわけでもない。

 悲鳴のような声を聞いて、しばらくは静かだった。とす、と、気の抜けたボールがリノリウムの床に落ちるような音を聞いた気がした。やがてそれは悪夢のように外側から開けられた中央の扉から、客室業務員の悲鳴と共に現れた。

 頭が異様にでかく、その中でもひときわ存在感を放つ巨大な目には白目がなかった。全長は子供の身長程度。手足は細く長くのび、指の一本を人を指すかのように差し出していた。全身をつつむ銀色に輝く皮膚(?)の上には一糸もまとわぬ姿で、かといって淫靡な雰囲気などかけらもあるはずもなかった。銀色のそれが全身を包むスーツだと、説明された方が幾分か納得しやすかったかも知れない。けれど、俺から見る限りつなぎ目など何処にもなく生物と言うよりはむしろ機械を思わせた。流れるような動作と相まってそれは不気味な嫌悪感をかき立てる。

「あ……あぁっ」

 意地も誇りもかなぐり捨てたかのような悲鳴が、機内を満たしいたある種の緊張を解放した。

 あふれ出した悲鳴、歓声、怒声に乗務員の制止の声が混じる。

 フラッシュ、いつ聞いても間抜けなシャッター音『おっけー♪』にサービスのように機内を見回す銀色のソレ。

 しかしそのにわか騒ぎは始まりも突然なら終わりも突然だった。

 スピーカーの故障のようなノイズから始まり、すっかり静寂を取り戻した機内に機械的な音が響いた。音はスピーカから出ていたから、ここからは見えないどこかで、アナウンス用のマイクを使っているのか、さもなければ、どこからか回線を乗っ取ったのだろう(といっても、どうやっているかなど想像もできなかった。SFは好きだが、俺は技術の人間じゃあない) 次第にノイズは聞き取りにくいながらも国際共通語の音を取り始めた。再びどよめく機内。聞き取れた内容は、その反応でも甘すぎるくらいのものだった。

「ワレワレハ、にんげんヲけんきゅうシテイル。きみタチニハ、ぜひきょうりょくシテほシイ」

 くらりとした。ソレがなにかやったわけではなく、あまりの内容にめまいに似た症状を覚えた。似たような感性の持ち主は少なくなったようで、目を閉じていてさえ、数人が倒れ込んだらしいとわかった。どさ、とか、きゃーとか、ゴン、とか、効果音がついていたから。

 協力する。それは一体どんな内容だというのだ。研究しているといっている。ならば、生きたまま切り刻まれて全身どころか遺伝子まで徹底的に解析すると言うことか。いや、研究途中で素直に殺されるのならば、まだマシかも知れない。研究が生活全般に及んだらどうだ? 二四時間見張られて、ただただ一人でぼんやりといきるのか。もしかしたら、生殖活動をみたいと言い出すかも知れない。生殖活動! 愛しい妻と会うこともできないまま、見知らぬ女と子供を作れと命じられるのか!

 生まれた子供はすぐに取り上げられるだろう。何人も産んだベテランならまだしも、初産の女が何もないところで子供を育てられるとは到底思えない。俺だって、出産に立ち会うことすらできなかった。子育てなんて、全く知らない。そうして子供を取り上げられて、見知らぬ女とそのまま何十年先になるとも知れない命果てるその瞬間まで生き続けなければならないのか!?

 立ち上がったまま前の座席に突っ伏して、浮かんでくるのはやはり愛しい妻が優しく微笑みかける様だった。

 課長の攻撃にも耐え、電話に捕まることもなく、一歩一歩に気を配りながら街を歩き、慎重に慎重を重ねてバス・列車を選んだのは、人類代表で見せ物になるためなんかじゃない。写真立ての中の妻のほほえみを胸に、盆暮れ正月の休暇だけを楽しみに一生懸命仕事もし、失った得意先も復活させ、一年ごとに売り上げもUPさせたのは、ただひたすらに、帰るためだけだったというのに。金の心配など何もなく、ただ息子を慈しみ、いい幼稚園、小学校へ通わせて、立派な大人にしたいという、その願いのためだけなのに。

 毎朝届く電子メール。二言三言の内容ながら、その向こうに見え隠れする愛情を思い、元気な朝はより一層がんばろうと心に誓い、落ち込んでいるときには復活のための特効薬になり、ただ会える日を、この腕でただ抱きしめることを夢見てきたというのに。

 すぐ側まで、指がかかるほどまで近づいてきた願いが、ふいと遠のいた気がした……。

「すうじつダ。タッタすうじつ。せいめいハほしょうシヨウ。こういしょうモナイトやくそくシヨウ。コノほしノつうかモよういシタ。コレハとりひきダ。わるイヨウニハシナイ」

 楽しいことを言う。数日。たった数日。たった数日で特典つきのクルージングだとのたまう。確かに、遙か遠いどこかの星から来たような連中なら、そうじゃなくとも、ちょっとした有給休暇ですむ暇を持て余すサラリーマンや、長い旅行の最後にスパイスを添えたい大学生なら、大した時間でもないだろう。

 しかし、その中に俺は入れないでくれ!

 たった数日の休暇。たった数日の帰国。君たちがこともなげに言う『たった』の、なんと途方もないことか!

 俯き、突っ伏した俺の耳に、がさりと耳障りな音が聞こえた。


――紺色のスーツはプロテクター。

――200Kg/m2を超える厚さの名刺は武器。

――それが、サラリーマンの正式武装。


「お客様っ!」

 俺はふらりとよろめくままに、通路へ出た。

 それは静止だったか、驚きのままにあげられた歓声だったのか。

 ざわりと周囲が音を立てた。声ではない。その多くはおそらく衣擦れで……頭の後ろに目があってしっかり周囲を観察することができるくらいはっきりと、視線を感じた。

 あれは入社式の言葉だった。配属先の上長が営業の心得としてそう説いた。軍人は銃とナイフで戦う。文人なら言葉で、作家ならペンで。ならば、サラリーマンはどうするか。――名刺で戦えと。

 今の俺にはスーツはなかった。しかし、肌身離さぬ名刺なら、今もジャケットの内ポケットに入っていた。

 乗務員の手を払い、狭い通路の隙間をすすんだ。まっすぐ歩けた自信はなかった。時折差し出される手は温かく、けれど、まともに謝る余裕もなかった。

 尻餅をついた乗務員の脇にようやくの思いでたどり着いた。すがりつくかのように見上げる視線を受け止める余裕も、なかった。

 敵意はなくとも、ソレも警戒はしているようだった。掲げた指のその先が、淡く淡く蛍光色の光を放つ。――指と指をくっつけてすべてを理解できたならもっとずっと楽だったろうが、さすがにそれは映画の中だけのことだろう。


 足場を確認した。滑りにくそうなカーペットが、俺のよれたスニーカーを柔らかく受け止めていた。

 手元を確認した。無意識に差し出す方向まで意識した名刺がきちんと収まっていた。

 深呼吸した。深く深く。

 そして覚悟を決めた。


 ついに俺は、顔をあげた。見下すような角度にならないよう、細心の注意を払う。

 ソレの注意は俺に集中していて、おれもまた、ソレの挙動に、読めない感情に集中した。

「研究とは」

 うわずりそうな声に、腹に力を入れ直した。

「研究とは、どのようなものでしょう? この飛行機には、300人程が乗っていますが、昼のフライトですから、当然偏りがあります。その研究とは偏った状態でもサンプルの選定に問題のないものでしょうか?」

 大きな黒目が、じっと俺を見つめている。

 のどが渇く。膝が震える。駄目だ、いや、まだやれる。怖じ気ずく気持ちを、それを上回る感情で押し切る。飛行機の外の物体を指をくわえてみていなければならないわけじゃない。今俺は、同じ土俵に立っている。

「老若男女の比率は問題有りませんか? 人種の別、身長、体重、服用薬物、手術経験、暮らしている環境や職業等という点も考慮されるべきかと思いますが、いかがでしょうか。また、お礼を用意されているとのことですが、それはいかほどの額でしょうか。失礼ですが相場についてはご存知ですか? 失礼ついでにご提案させていただきますと、お客様はこの星にお住まいではないように見受けられます。この星の事は、この星の者に任せてはいただけませんでしょうか。お客様のご要望を実現するため、我々は常に最大限の努力を続けております」

 両手で構え、名刺を差し出した。こんなやり方が通じるだろうかと思いつつ、他の方法が思い浮かばなかった。名刺は取り上げられることはなく、俺は顔を上げることができなかった。早くしやがれと内心毒突き、言葉が分からなかったのではないかとひやりとし、片言だろうと繰る言葉が、全く聞き取れないわけはあるまいと思い直した。

 と、かすかにガラスをひっかくような音がしていることに気付いた。吐き気を催しそうなほどかすかな甲高い音が、ひっきりなしに鼓膜の向こうを震わせる。

 失敗だろうか。エンジンの音は相変わらず、ソレは操縦士には何もしてないようで、一度もふらつくこともなく跳び続ける様子は変わらなかった。しかし、それも今この瞬間に終わるかも知れない。そう、俺の提案を受け入れなくとも、こいつらは困らないかもしれない。そして、逆に俺のことを邪魔に思うかも知れない。邪魔に思い、置いていってくれれば何よりだが、飛行機ごとどこかへ連れ去るという可能性も捨てきれない。

 最悪だ。戦いに負けたばかりか、捕虜にも劣る辱めを、一生受けることになるのか――。

 想像に身を固くした俺の身に異変が起きたのは、姿勢に限界を迎え、一晩どこかで休んだ後という、もっと現実的な心配を始めたときだった。

 指が引かれた。いや、しっかりと握りしめるほどの力で押さえつけていた、名刺が。

「……イイダロウ。そうだんシ、あらたメテれんらくスル」

 え、と思ったのは、一瞬だった。

 俺だってもう、この仕事が短いわけではない。疑問より、感想より先に、することがある。

 ぎちぎちの腕にも腰にもかまいはしなかった。……そんなもの、後でいくらでも存分に味わってやる!

「はいっ! お待ちしております!」

 手から分厚い紙の感触が消え、俺は四五度の敬礼をソレに向けてして見せた。


「大変長らくのフライトお疲れさまでした。当機はまもなく……」

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