STEP8

 何ごともなくのどかな農耕地帯を抜けたバスは、渋滞でダイヤを狂わせされることもなく、ほぼ定刻通りに駅前ロータリーへ滑り込んだ。

 バス待ちの行列を横目に熱気の中に降り立つ。大通りの方向はごく日常の喧噪にあふれ、結局今日は何も起きなかったようだと知れた。

 悔しいとか、安堵とか、そんな特別な気持ちは起こらなかった。俺は用心を重ねただけで、それは結果ではなかった。

 大量に改札口からはき出される帰宅客の隙間を縫って、進んでいく。誰も彼もが何処に焦点を合わせるでもなく、ただ前へと足を出す。多分、俺も同じで、買ってあった切符をさしだし機械的に切られると、そのままホームへ流れていった。

 空港方面行き上りのホームは閑散としていた。対面の下りホームは、列車が入るたびに沈みそうなほどの数の客に埋まっていた。

 駅員の怒声、ひっきりなしに流されるアナウンス、発車を告げるベルの音。しゃべる者などいないのに何となく常にざわついているようなホームの上の、階段へ群れていく人の波は、そのどれもが人形のように無表情だった。

 空港行きのホームに急行列車が入り込み、視界は遮られた。一歩下がってそれを見送る。誰もいなくなったホームにぽつんと残されてしまったが、駅員も、無表情な顔の乗客も、誰も俺を見ることはなかった。

 多分、何かが起こっても……普段とは違うドラマの中でしか起きえない出来事があったとしても、ホームを違えた、列車を違えた彼らの目には映らないだろう。

 非難するわけでも残念に思うわけでもなく、多分それが事実で、それが社会の正しい姿なのだろう。あの時の俺がまさにそれで、多分今も……さほど変わってはいない。変わったことがあったとすれば、それでも周りを見る癖がついたということだけだろう。

 戦いは、周りを見ることから始まる。

 遅れて入ってきた鈍行列車に足をかけた。ざっと見回した車内は案の定閑散としていて、高校生風の四人が長い座席を占領し、旅行にでも出るような大荷物の初老の婦人が端の席にちょこんと腰掛け、派手な服装の若い男女がはずかしげもなく手を握りあっているだけだった。

 車両の中心付近の座席に落ち着いた俺は、若い男女を視界に収めないように苦労しつつ、流れ出した夜の街を眺めていた。

 あの時は急行に乗ったのだ。四人で囲めるボックス型の座席の一つに縮こまるように収まり、今と同じように窓の外ばかり眺めていた。周囲を見ないのがルールであるかのように、動く障害物のことなど気にも止めなかった。

 あと数時間で飛行機が出る。そうすれば、半日もせずに懐かしい国の土をふむ。そうすれば、あとは半日とかからずに。そうすれば、そうすれば……。

 甘くて淡い思考を遮ったのは、障害物が発する声だった。


 *


「お隣ハ空いてましテ?」

 甲高い声だった。急行とはいえ料金は普通で全車自由席だ。聞かれる事自体珍しいなと思ったが、さして考えるでもなく隣席に無造作に置いた鞄を膝の上へ移動した。後から思えば、イントネーションが少し違って聞こえた。スラングが混じれば、気のせいよりも気にならない程ではあったが。

「あら、ありがとウ」

 ささやかな衣擦れの音と共に、シートがわずかに沈んだ。車内を反射する窓の向こうには、通り過ぎていくいくつもの明かりと、場違いな少女の端正な横顔があった。

 おおむね、この国の人々は裕福ではない。もっともそれは、懐かしい母国から一方的に流されるニュース番組の街角を映しだした1コーナーと比べてのことだったが。それでも、華美に過ぎる宝石をまとったり、よく分からないデザインの奇妙な服を競うようにまとったりはしなかった。若者は簡素なTシャツにジーンズ、社会人になれば質素なスーツ。年輩の女性なら民族衣装も健在だ。だから、少女の姿は一種異様なものに見えた。

 幅の広いふわりと広がるスカートにはふんだんにレースが使われ、光沢を放つ生地はシルクのようにみえた。(といっても、俺は布地には詳しくはないから、化繊だったかもしれないが)

 やはりレースだらけの上着はこんな季節だというのに長袖で、すっきりとした袖は、無駄な肉などないかのような、ついでに、必要な筋肉まで置き去りにしたような細い腕をつつんでいた。

 長い髪を彩るのは(見事なウェーブを結ばずふわりとおろしているのもなかなかお目にかかれるものではなかった)上着と併せたような小さな帽子で、やはりたっぷりとしたレースを蓄えていた。

 そこまで窓から眺めて、俺は向きをただして目を閉じた。どんな格好でも関係はなく、単なる行きずりの……動く障害物の一つに過ぎなかった。

 障害物が生きている隣人に変わったのは、程なく隣駅に列車が滑り込んだ時だった。

「こちらハ何駅になるんですノ?」

 目を閉じた俺の上を滑った言葉に返す言葉はいくら待ってもなかった。たとえそれが耳に届いてしまうだけであっても、会話の一方通行はどうにも具合が良くない。そろりと伺った目は、人形のような少女の目と、合ってしまった。

「え?」

「空港までハどれほどかかりますノ? あなたハどちらまでお乗りニ?」

 不必要なほど大きな黒目で、青みがかって見えるほど綺麗な白目だった。星さえもたたえていそうな目が、まっすぐに俺を見ていた。思わず俺は周囲を見回してしまった……少女の連れが、すぐ側にいるような気がして。しかし期待はあっさりと裏切られた。いや、勝手に期待したのは俺だから、裏切られたなんて表現はおこがましいだろう。期待は叶わなかった。

 そう多くはない乗客の誰も彼もが、俯き、書籍に視線を落とし、ある者はいびきをかいていた。聞き耳を立てているものもいるのだろうが、そんなこと判るわけもなく。そして変わらず、少女は俺を追っていた。

「あラ、まだまだ先デスのネ。どちラかラお乗りニなりましたノ?」

「……」

 駅名を言った。少女はきょとんと見返したから、多分知らないのだろう。少女の乗ってきた駅は四本の路線が乗り入れるターミナル駅だったから、これとは違う路線から乗り換えてきたのだろうと想像した。そういえば、そのうちの一本は隣国までのびていたか。

「わたくシ、ずっト西から来ましたノ。この国とてモ広いですワ。あなタ、肌が白イ。外国ノ方ネ? この国は長いですノ?」

 適当に答えていた。少女はターゲットを俺に定めたようで、どうせ空港までの二十分だと割り切った。話していても列車は動く。そう不都合があるわけでもない。

 俺の回答は少女の気に入るところだったようだ。さらに饒舌に、車両一杯に響きわたるほども元気良く、一人で勝手に話し始める。

 曰く、空港に行きたいこと、曰く、空港には幼なじみが今夜着くはずであること、曰く、それを止められ反抗して一人で飛び乗ってしまったこと、曰く、列車の旅行は初めてであること、曰く、俺のような親切な人に会えて良かったこと……。

 俺が親切かどうかはなんとも言えないところではあるが(俺でなくとも、おそらくこういう状況にならざる得なかっただろう。少女のオシはそれほどまでに強いものだった)、話の途中から嫌な雲を感じ初めていた。

 もし彼女が……もし彼女をつれて空港に向かう姿を彼女を引き止めていた側に見つけられてしまったら、俺はどうなるというのだろう?

 けれど、少女の言葉は止まらない。おそらく、そんなこと彼女は思いつきもしないのだろう。あとたった二十分かそこらで、目的地に着く。どれほどの時間初めての一人旅をしていたのか俺には知る由もなかったが、はっきりしていることは一つあった。どんな結果が待っていても、彼女はもう、目的地に着くまで、俺を離しはしないだろう。

 嫌な予感はさほど時を置かずに的中した。

 おつきあいで少女の方、通路側へ向いていた俺の視界に、やはり場違いな姿が入ってきた。

 スーツ姿。しかし、色と、中身が良くない。漆黒のスーツには埃一つなく、中の白いYシャツは漂白洗浄したかのように真っ白だった。現地の男達よりさらに二周りほど大きな体躯に、少女の腰よりも太いのではないかと思われるYシャツを引きちぎっていそうな二の腕。極めつけは、容貌を覆い隠すサングラス。

 そんな姿が、四人。あ、と声をあげるまもなく、ボックスシートは囲まれてしまっていた。

 俺はあわてて視線を窓に移した。男達のダークスーツは窓に空いた穴のようで、別世界のように平和な外界を綺麗に透かして見せていた。

 少女は俺の視線に気付いたのか一度後ろを振り返ると、ばっと腕をつかんできた。つかむだけならまだしも、レースに覆われこれからふくらむ予感を感じさせる柔らかい胸元にしっかり抱え込んでしまった。振り払おうと動かせば、おもちゃを取り上げられまいと余計にしっかり抱え込む子供のように、意固地に爪を立ててきた。

「お前か? 姫君をそそのかしたのは」

「誰の手先だ。大臣か、それとも王弟殿下か?」

「この国の人間ではないな? まさかスパイか?」

「……ゆっくり話を聞かせてもらおうか」

 列車は音を違えながら、トンネルにさしかかった。男達が迫ってきた。窓の外へと向けた俺の視界は、真っ暗になっていった……。

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