STEP7

 動き出した旧式のバスは質の悪い黒煙を撒き散らしながら密度の高い車の群れの中を、それでも思う以上に軽快に泳いでいた。時折現れる停留所にはほとんど人影もなく座る場所にも困らないまま、一旦大通りを外れる。大きな通りにへばりつくかのような背の高いビルを尻目に、遙か遠く青くかすんだ山を正面に据えた。視界をさえぎる建物があっさりとなくなると、平屋のバラックが現れた。広い空き地が目立ち始めると、やがて整然と緑が並ぶ農耕地域へ入っていく。

 駅は大通りの先にあった。バスで移動するのなら、大通りをまっすぐ通り、官庁通りを抜けていくのが最も速い。宵闇に覆われたこの時間であっても、官庁通りを抜けていくバスならそこそこ混雑もしているだろう。

 対してこのバスは、郊外の農耕地域を通り駅の裏側へ向かうものだった。まっすぐに行けば十分で着く距離を三倍もの時間をかける。一日に何本もないが、車に乗れない年寄り子供のため、必要不可欠な路線でもあった。

 狭い道を占拠するかのような微々たる幅寄せを行うと、軽い音で乗降口が開けられた。乗ってきたのは家族連れに、学生風の少女が一人。家族連れは外食でも楽しむのだろう母親がハンドバッグを持つだけの軽装で、少女はイーゼルでも入っていそうな表面積だけが無駄に大きく感じられる薄っぺらいかばんを一つ提げているだけだった。どちらも不必要に重そうには見えず(少女のかばんが呆れるほど軽いとは到底思えなかったが)どちらも手元においていた。

 最後尾近く、非常用出口のすぐ脇で、ぼんやり見るとはなしにそれらを眺めて、ひそかに安堵の息を吐いた。しばらく舗装も危うい道をがたごとと進むと、次のバス停には誰もおらずクラクション一つを鳴らして、迷惑なほども軽快に通り過ぎた。

 遠く地平線まで見えそうなほど続く広大な畑のはるか先では、うすぼけて精彩を欠く月が鈍重そうに上り始めたところだった。官庁通りのあのビル群から見れば、こんな月でさえ神秘がかって見えるものなのにと、弾む尻に苦笑いを浮かべつつ、俺はまた一つため息を漏らした。

 好き好んでこのバスを選んだわけではなかった。いや、もちろん、ちゃんと狙って乗ったのだが。

 大通りは人が多い。官庁通りは要人も多い。この国の治安は無防備でバスに乗れるほど良くはない。……日常通勤通学に通うのならば何よりも時間が大事だから、官庁通りだろうと、事故だろうと、火事だろうと、検問だろうと構いはしないが、今日は特別なのだ。今日だけは。

 どおん。

 鈍い爆発音が聞こえた気がして、顔を上げた。探すでもなく窓の外を視線が彷徨う。バスの中は時折聞こえる子供の歓声の他はいたって静かで、勘違いだと気付いた。(おそらく石切場の火薬の音が山を越えてここまで届いてきたのだろう)

 思わず漏れるのは安堵の溜息。

 あの日の俺は椅子に座ることが出来ずに、中程でつり革にぶら下がっていた。


 *


 駅を降り、大通りをまっすぐ進んだ先には大学があった。だからなのだろう、学生の姿が多かったことを覚えている。

 すっかりコンパクトになったカバンだったが脇に抱えたままでは重いし邪魔で、床にべたりとおいていた。片側三車線の広い道はけれどその時は全く機能しておらず、ブレーキにたたらをふんで、カバンに足を引っかけるような心配もなかった。

 早い話が大渋滞に捕まっていた。

 飛行機の時間は心配だったが、まだバスを降りて走るほども切迫してはいなかった。時計を睨み、丁度良いタイミングでは流れてくれないラジオのニュースを待ちつつ、ネオンを反射する車の屋根を眺めていた。

 始めは学生たちのおしゃべりだった。

 大通りに肩を並べる近代的で画一的で個性のカケラもないビルの一つに、要人が来ているらしいと耳に入ってきた。そのビルはバスがもう十数メートル動きさえすれば、入り口脇に立てられたそっけない案内看板から中央合同庁舎の一つであると知れるだろう。

 渋滞の原因はそれのようだった。相変わらずあくびの出そうなポップスや、BGMのように耳にとまることなく流れていくDJとゲストの掛け合いは続き、道路情報など流れてくる気配もなかった。要人の訪問などさほど珍しいわけではないようで、従って大渋滞もニュースになるような事柄ではないようだった。

 すっかり辟易したような声が聞こえ始めると、ようやくバスは動き出した。といっても、数メートル動いてはとまり、動いてはとまりをくりかえす。動きブレーキを踏む動作が繰り返されるたび、ぼそぼそと声が聞こえてくる。

 幾度目かのブレーキで完全に停車すると、大きく取られたフロントガラスの向こうには、もう渋滞待ちの車は一台もいなかった。ようやく動き出すかと俺は深く溜息をつき、つり革を握りなおした。

 目を戻した先、窓の外を、スクーターが通行人を警備員を跳ねるかと思うほどのスピードで過ぎていく。振り返った警備員は高く警棒を掲げる。――悲鳴を、怒声を、聞いた気がした。

 身体の芯を揺さぶるような大音響。バスが揺れ、つり革につなぎ止められたかのように俺は揺れた。

 学生がぶつかってきた。ごめんなさい、おかまいなく、そんな甘いモンじゃない。重心を駆けて全身で……とばされるように、幾人も。

 目の端に捉えたガラスは白く曇りガラスになったか、さもなければ精密なカッティングでも施したかのような細かさで、拭っても消えない蜘蛛の糸を浮かび上がらせていた。

 一呼吸おいてみれば、うめき声しか、聞こえなかった。

 バスの外からは、文字通り壁を通したくぐもった音で、様々な音が聞こえていた。罵声、悲鳴、泣き声。なおも聞こえる鈍い音。

 顔を上げた。離すこともできず、かといって、助かったかといえば断言しにくい手のひらをつり革からはがした。すっかりこわばり、みしみしと音をたてそうだった。俺の体重、そして、幾人もの体重を受けた肩は、脱臼していないのが奇跡のようだった。とはいえ、引きちぎれそうなほど痛かったし、筋ぐらい伸びているかもしれなかった。

 そして振り返った。蜘蛛の巣どころか、風通りのすっかり良くなってしまったフロントガラスへ。そして、見た。

 重そうなスポーツバッグを、もはや見る影もないフロントから前方へ投げ出す男の背中を――。

 今度は耐えることが出来なかった。

 瓦礫と熱と圧を感じた。背中に当たったのは、座席についた手すりだったか。

 遠く、罵声が耳に入った。

「テロリストだ!」

 翌日の新聞の、犠牲者欄に危うく名が載ってしまうところだった。

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