STEP6
重要な事柄を前にしては、無用な長居はすべきではない。それが、安全と信じている自室であったとしても。
くしゃりとアルミのカンを握りつぶし、俺は未練一つなく立ち上がった。カバンを掴み、慎重にドアを開ける。靴音を響かせるばかりの廊下には誰の姿もなく、切れかけた蛍光灯が時折音をたてて瞬いていた。
慎重に歩を重ねて、アパートメントの階段を下りる。少し時間の進んだ通りはまた違う色を見せ始めていた。
健康的な店は閉まり、いつの間にか屋台がしみ出すように出現している。地下へと伸びる派手な装飾の入り口が入れ替わって主張する。
カラフルで淫靡なネオンが通りを支配していた。それはまるで空の月まで追いやるがごとくに。その反面生まれる暗がりも例外ではない。そこかしこに、うごめくような気配があった。
風の臭いまで変わって感じられた。事実変わっていたのかも知れない。たばこの臭いが変わり、香水のにおいが変わる。珈琲や茶の香ばしい香りの代わりに、アルコールと僅かに火薬の臭いがただよっている気がする。そして、非合法な埃臭さを覚えるのはやはり気のせいだろうか。
アパートメントの狭い出口を出たところで俺は足を止めた。
屋台に、暗がりに経つ客引きの女性に……客引きどころか商談にまで進んでいるコールガールに、群がる人人を少し離れて観察する。
薄汚れたTシャツの現地の若者、べろべろに酔っぱらったホームレス風のオヤジ、目もくれずに通り過ぎていくスーツ野郎。屋台という小さな城を守る城主は誇らしげな笑顔を振りまき、女ははずかしげもなく媚びを売る。崩した派手なスーツ姿は影から現れ客を掴むとすぐさま暗がりへ引っ込んでいく。
明るさと陽気さと澱と闇が混沌と溶け合った夜。見慣れた様子に思わず溜めた息を吐いた。喧噪の中にも『その』響きはなく、そんな兆候も見られない。
ようやく俺は一歩踏み出す。
*
あの時が特別だったのだと言われれば、そうかも知れないと無理矢理納得することも出来た。そして、後日話した誰もがただ『運が悪かったな』と肩を叩いた。
流入する外貨のワリに失業率の高いこの国では、不満はいつも目に見えるカタチとなる一歩手前手でくすぶっていた。ひとたびなにかのきっかけさえあれば、さながら噴火した火山のごとく止めどなく溶岩を押し出すように騒ぎが大きくなるのは目に見えていた。
大きなカバンを片手にアパートを出た俺の前に広がっていたのは、ほんの三十分前とはうってかわった光景で……あっけにとられた俺が事態に気付くまで多少時間が必要だった。
そろいのハチマキを締め、手に手にプラカードを持ち、横断幕を持った人々が通り一杯を占拠し……武装した警官隊とにらみ合っていた。
「この道は予定にはない! 直ちに予定の道へ戻れ!」
時々ハウリングを起こしながらも警官隊はどこまでも高圧的で、対する群衆は命令に反発するように、高々とプラカードを掲げた。
「失業者に職を!」
「国は、失業対策を具体化せよ!」
「外国企業を絞め出せ!」
「外国人労働者を絞め出せ!」
「外国人を絞め出せ!」
誰が合図したわけでもなく、群衆は一斉に手を挙げる。まるでそれは、労働者という名の生き物が具現化したかのようで、思わず一歩足を下げた。
がしゃん。
その時の俺の迂闊さは、一つの見落としと、二つの不注意から知れた。
一つ目は、デモが予定されていたことを知らなかったこと。(新聞、ニュース、立て看板……知る手段はあったはずだった)
二つ目は、出る前に外界の変化を確認しなかったこと。(窓を一度でものぞけば、確認できたのに)
そして三つ目は……今不用意な音をたててしまったことだろう。
出てきた扉は閉まっていて、だから、下がれば当たるのは当然だった。タイミングも悪かった。このときは丁度、言い合いの合間の奇妙に凪いだ瞬間で……早い話があたりに甲高い金属音が響き渡ってしまっていた。
一斉に、集団の目が向かってきた。奇妙なオブジェでもあるかのごとく、無遠慮に上から下までほつれた糸の一本さえも数え上げるように観察された。
コンプレックスさえ抱きそうな程しかない身長、現地の男より下手をすれば女よりもずっと華奢な肩、昼間はオフィスに閉じこもりっきりの日焼け一つない顔、行進する彼らより多少小綺麗なシャツにパンツ、ブランドものの腕時計、そして、巨大なカバン。
外国人の排斥を謳う彼らに、俺はどう映ったというのだろう?
がしゃん。背後がまた音をたてた。彼らの手が、ゆっくりと俺に伸びてきた。
反射的に俺は駆けだしていた。大通りを目指して……駅行きのバスを目指して。
あっけにとられた最前部を突破。腕を避け、袖の下をくぐり、広大なグラウンドを駆け抜けるラガーマンのように、カバンを抱えて左に右に相手を攪乱しながら、懸命に足を運ぶ。
しかし、俺はラガーマンなどではなく、運動不足もはなはだしい一介のサラリーマンでしかなかった。
突き出された手にぶつかった。差し出された足に躓いた。顔を強打するかと思うほどの勢いで転がった。その俺の頭に、背に、ベルトに、足に、手に、伸びてくる無数の手。
なすすべもなく引き起こされると、もう足は地面にはつかなかった。じたばた動かすも全て徒労に終わった。襟首をつままれたまま、向かう方を、目指すバスが悠然と現れたのを真正面に捉えながら、乗り込む人々の姿が少しずつ少しずつ小さくなっていくのを絶望する思いで見つめていた。
やがてぐいと振られたかと思えば、ごんと後頭部がいやな音を立て、目の前に火花が散った。顔形も肌の色も体格も何もかもが違う人たちが作る輪の隙間から、晴れているのにどこかうすぼんやりとした空が見えた。
「やめろ! 傷害の現行犯になるぞ!」
ハウリングの隙間から、現地の言葉が聞こえた。そしてそれは、制止の効果を発揮するどころか、火に油を注いだようだった。火とは、魔女を焼く火かもしれない。幸い、じわりと焼かれていく恐怖を味わうことはなかったが。
ひときわ太い腕が降って沸いたかのように現れ目の前をよぎったことは見たような気がしたが、頬に痛みを感じたかどうかすら俺は覚えていなかった。たった一発で俺のかろうじてあった意識は飛んで、次に目覚めたときには身一つで白い天井を見上げていた。
運が悪かったのだと誰もが言った。ニュースですらこう伝えていた。
『デモ隊から始まった暴動に運悪く巻き込まれた外国人男性一人が病院に運ばれました。男性は全治一ヶ月の重傷で……』
そして職場復帰した俺は、営業先を三つほど、失っていた。
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