STEP5

 街中を慎重に歩くようになったのはいつからだろう?

 行きすぎる人波にもまれないよう道を選び、数々の罠に深入りせず、ようやく唯一の安全エリアである三十平方メートルの城にたどり着く。

 鍵を取り出すのももどかしく玄関を開け、薄く開けた扉から逃げるように入り込むと、間髪入れずに鍵を掛けた。

 熱気のこもった空気は動くたびに腕に足に顔にまとわりつき、十秒と経たず乾かぬ汗が噴き出した。けれど、そのうっとうしささえ、心地よく感じずにはいられない。

 すっかり汗のしみ込んだ上着を脱いだ。染みになりそうだが、今日ばかりはどうでもいい。エアコンのスイッチは入れなかった。着替えたらすぐに出て行く。冷えるまで居るわけではない。

 寝室の奥から抱える程度の荷物を引っ張り出した。最愛の妻への土産と、元気な盛りの息子への土産、そして幾ばくかの現金と明日の日付の入ったチケット。それが荷物の全てだった。

 重いスーツと張り付くYシャツを脱衣所へ放り込み、軽いTシャツと薄くて軽い半袖ジャケットを引っ張り出した。カバンを掴んで出ようとし、思いたってキッチンまで戻る。冷蔵庫をあけて、最後に残ったビールを祈りと共に呷った。

 本当のことを言えば、緊張した身体をゆっくりと休めたいところだった。土産を最後にもう一度確認し、両手に一杯の紙袋を抱えて飛行機に乗り込みたいところだった。

 けれど、安全地帯である小さなアパートメントも、100%の保証はしてくれないことを、俺は経験上熟知していた。

 唯一一杯だけの休憩と決めたビールの苦みは、嫌でもあの時の記憶を誘いだす。


 *


 あの日も疲れ果てていた。チケットは翌日の昼間のもので、週末の今日はゆっくりと、妻と息子への土産話をあれこれと整理しながら過ごすつもりだった。

 夕飯代わりのビールのプルタブを引いた。冷え始めた部屋の、エアコンの下に陣取って、深くソファにもたれ込んだ。

 僅かな作動音と、壁に濾過された微かな騒音と、ホップが消える儚い音だけがその場にあった。

 穏やかな一時だった。多分、無事に帰り着いたことを誰にともなく感謝し、心の底から安堵していた。

 翌朝は遅くはなかったが、逆にどうしても人通りの多い夜に集中する街のキケンはほとんどないはずだった。気を抜くことはまだ出来なかったが、この一時だけは休息をむさぼることが出来る……はずだった。

 その日ポストにつっこまれた新聞を広げてはいなかった。帰りに配られていたらしい号外は受け取ってはいなかった。

 TVもつけず、ラジオもなく、意味の取れない喧噪はそもそも聞こうと思わなくとも入ってくる母国語ではない。

 チャイムは唐突に鳴った。新聞代は引き落としだし、その他の料金についても集金の制度などなかった。宅急便には心当たりはなく、部屋にまで押しかける知人の一人もいなかった。……先輩はこの時分飲み歩いているだろうし、課長はまだ書類に埋もれているだろう。

 リンゴンリンゴンリンゴーン。

 対応すべきか迷っている間に、急かすようにチャイムは何度も押された。疑問を顔に出したまま、仕方がなく俺は玄関に向かった。

 のぞき窓もレンズもない扉は、とにかく開けるしかない。ここにいると主張した上でようやく鳴りやんだチャイムの下で薄く開けた扉は、次の瞬間全開させられていた。

 手帳を突きつけられた。

 一瞬、本当に、何が起きたか判らなかった。

 外にいたのはガタイのいい現地の男で、二人。珍しくスーツを着ていた。片方が手帳を突きつけ、もう片方はこちらが何を言う前に、俺を押しのけ入ってきた。

 早口の現地の言葉がただただ耳を掠めていく。

 手帳を突きつけたもう一人までもが部屋に足を踏み入れて、ようやく意味を掴むことが出来た。

 最初から連中はただ一つのことを繰り返していただけだった。

「隣の部屋で殺人事件が起きた。部屋を探索させてもらう」

 散らかった部屋に見向きもせずに一直線に奥へ向かう同僚の背を気にしながら、片割れは刑事だと名乗った。その日の午後、隣の部屋で殺人事件が発生し、その捜査をしていると告げた。

 当然、関係ないと俺は主張した。告げられた時間は丁度書類の山に埋もれていた時間だった。その日就業間近に一斉に仕事が終わるよう、細心の注意を払って進めていたから、午後、遊んでいるヒマなど欠片もなかった。それに明日からの自分を思うと……愛しい妻と息子に囲まれた自分を思うと、多少の無理でもやり通そうと思うモノだ。俺ももちろん、例外ではなかった。

 そんな時間に部屋が開いているわけがないし、ましてや、疑われる余地などあるはずもない。

 俺の言い分に警官はこう返した。絶望的な回答だった。

「それはこれからゆっくり調べることだ。事件は隣室のベランダで起きていて、この部屋を通るのが一番近い方法なんだよ。あぁ、疑っているわけじゃないが、キミの昼間の行動がはっきりするまで、ここにいて欲しい。……なんなら警察署でも良いが」

 何の意味もなさない疑いが手続きのようにかけられ、完全に晴れて自由の身となったのは、翌日の陽が地平線に落ちていく頃だった。

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