STEP4

 それでも、あの時は俺のほうにも油断があったといえるだろう。女は悪魔の遣いで、いやちがう、女は真っ先に悪魔の遣いにだまされて、いつも男を陥れる。学生時代の彼女も、同期のあいつも、みんなみんなそうだった。違うのは妻だけだ。いとしい妻。天使のような笑顔の、菩薩のような妻――。あぁ、会いたい。この手で今すぐ抱きしめたい。神が遣わした俺たちの正真正銘の天使と共に、この腕で力いっぱい抱きしめたい。

 そのためにも、俺は悪魔の遣いになんてだまされてはいけないのだ。

 では、危険なのは悪魔の手先と化した女ばかりかというと、そうでもない。神の存在を疑って止まない善良そうな老人でさえ油断できない。やつらは人の善意を引き出す哀れっぽい仮面の下で、いつも虎視眈々と狙っているのだ。俺のようなエモノが見事計画を頓挫させてしまうことを。

 点字ブロックの上をそろそろ歩くあの老婆も、信号の変わり目に気づかず車道へ進んでいく老人も――あぁ、本当に危ない! 思わず爺さんの手を引くと同時に、クラクションが響き渡った……運転手、良く見やがれ! すぐに手を離してその場を離れる。御礼なんて言われたら、またあの悪夢が再現されてしまうではないか! ――歩道の端の段差を越えられず右往左往する車椅子の女性も(通りがかりのついでを装って、押してやった)、エモノを誘い込む罠でしかなく、しっかり食いついたが最後、鋭い針は何をしたって顎の奥から外れることはないのだ。

 えさに食いつくなら、そこをしっかり覚えておかなくてはいけない。さもなければ……。


 *


 つられた魚の運命は一つしかなかった。

 あの時老婆は俺に手放しの笑顔を向けて言ったのだ。しわくちゃの顔をさらにくしゃくしゃにゆがめて。

「ついでといっちゃ何だけど、うちまで運んでもらえないかねぇ」

 たいした荷物じゃなかった。もちろん、俺にとっては。

聞けば家の場所はここからさほど遠くもなく、たいした寄り道にはならないはずだった。

時間を確認し、十分余裕があると判断した俺は、老婆のよたよた頼りない足取りについて狭い路地を曲がった。

 老婆の足は言ったとおりさほど奥までは入らずにとまった。小さなさび付いた音を立てるドアをひき開けるとアパートメントの階段を上る。確かにこの階段でこの荷物、この老婆には辛かろうとついていった俺は、続く言葉をなんとしても断るべきだったのだ。

 人の良さそうな笑みを浮かべて、お礼を言うだけじゃ足りないからと言い置いて、言葉を続けた。

「お礼と言えるほどでもないけど、お茶くらいおあがり」

 いや、一度は断った。俺だってそこまで迂闊じゃない。営業先の腹を探り、隠れた要求を探り出すことは必要不可欠な能力の一つ。そんな難しい仕事はまだ扱ったことはなかったが、いわばこれは実地訓練のようなもの。

 柔和そうな目の奥の何とも言えない炎を見た気がして、予定があるからと辞去しようとはした。くるりと背を向け狭い階段を下りようとして、信じられないものを目にするまで。

 枯れ木のように節くれ立っていかにも脆そうであるのに、がっちりと食い込んで離れない指。俺の二の腕をすばらしいスピードで捕まえた手。あれだけ危なっかしい足取りであったのが信じられないほどの力。

 振りほどくには勇気がいった。そっとはずせるような優しいモノではなかった。逆に無理に解けば荷物を持つのも難儀するような老婆など、吹き飛んでしまいそうだった。それでも、跡が残るかとも思えたあの指の感触は、未だに克明に思い出すことが出来た。

 動けないでいる俺から手を離さないばかりか、老婆はここぞとばかりに引き寄せはじめた。

「若いもんがそう急いでどうするね」

 老婆には急行の時間も飛行機の時間も通じなかった。そのまま結局連れ込まれた俺の前には余計なお世話の夕飯と、老婆の孫であるという年頃の娘たちがきれいにそろって並べられた。

 スーツを着た外国人はよほど魅力的に見えるらしい。深夜と呼べる時間帯になってようやく俺は逃げ出すことが出来たのだった。力無い笑みと、すでに名残も残っていない急行の……単なる紙切れとなってしまったチケットをその場に置き去りにして。

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