STEP3
トゥルルル。トゥルルル。
ベルは鳴り続けている。あの時と同じ音で。こんな微妙に外したタイミングはやはり本社だろう。連中、いつまで経っても時差を計算しやがらない。早く……早く、諦めてくれ。いっそ願いが空を飛び、お高くとまった高層ビルの小綺麗な本社にまで届けば良いのにと思いつつ。
そうしている間に、見切りの早い現地採用者たちは、一人、また一人と連れだって去っていく。狭い出入り口の小さなドアは、滅多に見れない混雑に見舞われている。今行かなくては目立つだろう。
俺は想像する。
丁度今、手が離せない。たった一人出て行く見知った背中。鳴りやまない電話。『おい、電話に出てくれ!』
俺に、それを無視出来るのか? それを無視して、扉を閉めることが出来るのか?
だから、だめだ。今、行かなくては。みんなが群れる今、紛れるしか方法は無い。
……そうさ、思い出せ。掲げた教訓を今活かせ。電話は取るな。取ったら終わりだ! 課長にも捕まるな。捕まったら最後だ!
俺は思いきって一歩、踏み出した。鳴りやまない電話のベルが引いてくる後ろ髪を、ざっくりハサミで刈り取るくらいの意気込みで。
「はい」
後ろから僅かに声が聞こえた。ほっと胸をなで下ろした。もう大丈夫。ベルは止んだ。こんどこそ、思い残すことなど何もない。
一回りも二回りも体の大きな同僚たちにもまれるように、昼間の居場所を後にする。冷えて乾いた無慈悲な空調の空気の代わりに熱気の残った屋外の空気に触れて、俺は思わず溜息をついた。
……当然、安堵の。
俺の溜息を余所に、太陽を隠したばかりの街は、まだまだこれからといわんばかりに浮き足立って見えた。同僚たちに片手を上げて挨拶し、早足にオフィスビルの前を離れる。
流れる人の波は不規則で、さながら俺は、ラガーマンのようだった。挙動不審に見えないように気を配りながら、縫うようにして動く障害物の間を抜けていく。周りを気にし、周りをよく見……いや、怯えきった仔猫のようだったかもしれない。
ビルの暗がり、街路樹の影、曲がり角のその向こう、道行く人々の視線の先。いちいち怯え、そのたびに大丈夫だと言い聞かせ、深呼吸して目を開ければ、再び同じ事を繰り返してしまう。
ビルを出れば安心というわけではなかった。ビルの外にも、罠は張り巡らされている。それを思い知ったから、妻の顔をただ思い浮かべてにやにやとなんて歩けない。
この国では全てが敵で、それを忘れるわけにはいかなかった。
*
たとえば、今別れたばかりの同僚が肩を叩いたとしたら。
「よぅ、今日、給料日だったよな?」
たとえば、同僚に気を取られている隙に、気が付けば姿を消していた先輩が、ヘッドロックを掛けて来たとしたら。
「メンツが一人足りない。来い」
たとえば、断りあぐねて立ち話状態になっている時に、今日休んだ同僚がぐしょぐしょになった顔で歩み寄って来たとしたら。
「ヤケ酒につきあってくれよう」
たとえば、それを断りなだめ愚痴にまで発展し逃げる機会を探しながら歩き出した途端に、聖職者が顔をしかめそうな露出度の服を着たとびきりの美貌の女が、声を掛けてきたら。
「ねぇ、ちょっと遊んでいかない?」
たとえば、鳴いたカラスよりも真っ先に笑顔になった同僚と共に、その女にいい顔をしたとたん、二の腕にタトゥーを彫り込んだごつい現地の男が低い声で言ったとしたら。
「ワレ、わいの女になにするんや!」
たとえば、とっとと逃げ出した同僚を追うように慌てて逃げ出した俺の前に、変わる信号を待ちきれずにアクセルを全開にしたトラックがつっこんで来たとしたら。「あぶないっ」
たとえば、それを片目に収めつつ、運転手の恐怖と絶望と、道行く人々の悲鳴を聞きながら、どこか冷静にぼんやりと考えるしかなかったとしたら。
「どれだけ薄ぼんやりとしていても、やっぱり空は青いんだ……」
笑い話なんかじゃない。……それで休暇をフイにしたこともある。
遠い異国の病院の蛍光色でも使っていそうな病的な白さのシーツにくるまれ、まだ色あせていない写真の妻はすこし気遣わしげに俺を見下ろしていた。
妻の写真の向こう、閉め忘れたカーテンの先に飛行機の影を見つけ、やがて追ってきた音を聞いた。何も考えられずに週末二日をベッドの上で過ごした俺は、ギブス付きで退院し、月曜日には何ごともなかったかのように出社したのだった。
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