STEP2
かち、かち、かち。ミミズが進むほどもゆっくりと、けれど思う以上に確実に秒針は進んでいた。
写真の妻の笑顔は、ほんの少し色あせ始めていた。百年プリントなんて謳っていても、わかりゃしないと思っていた。
けれど、この写真も後僅かだ。
今度見るときには、自分の足で立ち上がる息子と、きっともっと落ち着いて、ずっと幸せそうな妻が、そこにはいるだろう。これは予感ではなく、確信だった。
……3、2、1。
心の中のカウントがゼロを示すと、ついに涼やかな音がフロアに響き渡った。がたりがらりとあちらこちらから音が響き始め、一気にざわめきが増していく。
それもそうだ。明日は休日。大型休暇でなかったとしても、5日間の奉公を終えてみんな羽根を延ばす日だ。
……まだオフィスにいるというのに、数少ない本社社員はまだ机にかじりついてるというのに、飛び交うのは現地のスラング、明るく弾む楽しげな声ばかり。
やれ、どこの女の尻がいいだの、やれ、明日のキャンプは8時集合だだの、やれ、だれそれのカミさんが浮気したらしいだの、やれ、あの路地は抜け穴だの……表の話題から口に出すのも憚れるような内容まで、縦横無尽に飛び交い始める。
いつもなら耳栓でも探すところだったが、今日は違う。書類を手早く片づけると、ノートパソコンの電源が落ちるのも待ちきれない。カバンを片手に、腰を浮かせる。と。
トゥルルル。トゥルルル。
ぴくんとカバンを持つ手がふるえた。返しかけた踵が止まる。いやいや、もう業務は終わった。これは俺の仕事じゃない。……これは罠だ。罠にはまるわけにはいかない。
浮かんでくるのは第二の記憶。振り払うべく頭を振っても、決して消えない記憶の一つ。
罠にはまった自分への後悔。
*
あの時はすっかり準備を整えてから会社に来た。荷物はコインロッカーで、抱えていた仕事は全てその日に片つく算段だった。
そう、課長もデスクにはいなかった。無事に最後の書類に判を押して、『Close』の棚へ放り込んだ時だった。ほっとして、終業までの数分をコーヒーでも飲もうと立ち上がった。
コールは休憩所で聞いた。あの時もやっぱり俺はぺーぺーで、電話番はまだ、俺の仕事だった。まだ熱いコーヒーを呷り、自席へ急いだ。厳かにチャイムが鳴るも、電話は執念深くなりやまない。
内心舌打ちした。こんなに諦めない電話は本社のモノに違いなく、だからといって無視するわけにもいかなかった。相手には通じなくとも精一杯の反抗のつもりで、仏頂面で受話器を取った。
……取らなければよかったと、心底思った。
「クレームだ。先方は直接話したいと言っている」
はっと俺は息を呑んだ。見渡せば同僚たちはみな、パソコンの電源を落としていた。すがるような俺の視線になんて気づくことなく、一人また一人と小さなドアをすり抜けていく。
最後に視線を向けた先、先輩など最悪だった。俺の視線に唯一気付き、無表情のままデスクに歩み寄ったかと思えば、にやりと笑い、街で配っているような派手なポケットティッシュ一つおいて、ついでに頭を小突いてから悠然と出て行った。
わかっていたに違いない。全てわかっていて、ティッシュをおいたに違いない。
数分後、誰も居なくなったオフィスで、肩に受話器を挟みつつ、ティッシュを乱暴にどかしてパソコンに向かっていた。数時間後、飛行機が飛び立つ幻の音を聞きながら、まだ俺は席を立てずにいた。
ティッシュは安いクラブのもので、キーボードの脇から安っぽい化粧の現地の女があざ笑うように俺を見ていた。
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