企業戦士サラリーマン~いつか、キミの隣に~

森村直也

First Step

 仕事は全てケリをつけた。クレーム処理は引き継いである。

 メーラーを落とし、携帯電話をひそかに切る。

 ちらりと課長に目をやった。向こうの島で書類の山を一心不乱に減らしている。何か悩むようなものでもあったのだろうか、うつむいたまま、白髪がめっきり増えた頭をがしがしかきむしっている。

 よしよし。俺のことなど眼中にない。

 秒針が時を刻む。はやる心臓に周りが不審な目を向けないかにだけ注意する。

 あと少し。もう少し。後一周。後半周。それで俺は自由の身だ。やはり荷物を持ってくるべきだったか。いやいや、あの反省を思い出せ。このまま何事もなく、ただ帰るのが一番だ。

 最初の失敗。思い出して寒気がした。大きな荷物は目立ったのだ。同僚たちの軽口が増えたのを覚えている。


 *


 同僚の軽口に答えながら、すっかりかたついたデスクに俺は手持ちぶさただった。あと三十分で終業で、残りの時間をどう過ごそうか悩んでいた。ホワイトボードのスケジュールは俺をのぞいて真っ黒に見えるほどいろいろ書き込まれていて、残り時間でできる仕事などなさそうだった。

 今思えば、俺をのぞいて、修羅場の最中だった。

 デスクの上で油を売っていても周囲の顰蹙を買うだけに思えて、リフレッシュコーナーで時間をつぶそうと立ち上がった。課長と目があったのはその時だった。軽い様子で呼ばれて、疑問も持たずに足を運んだ。

 嫌な予感がないわけじゃなかった。落ちくぼみ、すっかり濁った磨りガラスのような目で、生気もなく見上げてきた。三日は帰ってないと言われるフケだらけのスーツだった。デスクの脇の書類に埋もれそうな位置にあるのは、コーヒー染みが地色のようにこびりついたカップで、裾をまくったズボンの下では、靴下がすり切れていたかもしれない。

 そんな様子を頓着するでもなく、課長は言った。厳かに、何の感動もなく、当たり前のように。

「暇なら、これを頼む。緊急だ」

 ちらりと大きな荷物へ視線をやったことを、俺は一生忘れない。目の前が真っ暗になるような、足下に突然穴が空いて、どこともしれぬ底をめがけて真っ逆様に落ちていくような、あのときの絶望をどうすれば表す事ができるのだろう?

 渡された仕事は、一日で終わるものではなかった。緊急と言われたからには、休暇の後だなんて悠長な事は言えなかった。

 断るすべを持たないぺーぺーでしかなかった俺は帰るに帰れない状況になってしまった。

 ……呪いもタロットカードもわら人形も何の心得もない俺が穴の底から恨んだところで、仕事の量は減りもせず、課長はかえって調子を良くした。

 デスクへ戻ると、泣きそうな俺を優しく見つめる妻と妻の手に抱かれて笑っている息子の前に、書類が山と積まれていた。それは周りと同じくらいの高さになって、ようやくとまったかのようだった。水が高いところから低いところへ流れてついに凪いだように見えた。

 うきうきとした態度も、今から行きますといわんばかりの大きな荷物も『当面仕事ありませんよ♪』の印でしかなかった。絶対に休みたいと思っているときは、さりげなく気付かれないよういつの間にか空気に溶けるかのように仕事を減らすしかないのだ。

 さながら俺は、下界の未練を断ち切らねばならない修行僧のようだったろう。いや、執行直前に目を覚ましてしまった生贄の気分だろうか?

 そんな俺へ女神のような妻は笑いかけ続けた。時空を越えて、いつまでもいつまでも。

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