第3話 同居と痕跡

 ない、ない、ない――。

 潔彦が仕事で家にいない時、馨は独りぼっちだった。他に都内に知り合いはおらず、特に行く場所もなく、することもない。

 だから、馨はこっそり潔彦の部屋に入って時間を潰すしかなかった。罪悪感はあったが、それより潔彦の部屋で潔彦の普段の生活を想像して潔彦と一緒にいる気分を味わいたい気持ちが勝った。

 潔彦の部屋はシンプルそのものだった。必要なもの以外は置かないタイプではなかったと思うが、また一年の隔絶を感じる。実家の潔彦の部屋はサッカーに関するものがいっぱいあって、馨は遊びに行く度に潔彦の母が出してくれるお菓子を食べながら、雑誌を読んだり、有名な選手のプレイを分析したりした。

 潔彦は馨のサッカー部の先輩だった。サッカー経験がなく、運動部自体初めての馨をほとんどの先輩は無視した。プレイどころか礼儀もなってない馨に潔彦が一から色々なことを教えた。できるようになったことは少なかったが。

 この部屋でキョウくんは何してるんだろう。

 あまりにも何もなさすぎる部屋にぽつんと座って馨は考える。潔彦は仕事から帰ってくると、時間によっては家で夕飯を食べるが、多くの場合、外で食べてきて、帰ってきたらすぐ寝仕度だ。たまに一緒にテレビを見てくれるが、うとうとしたり、話を聞いていなかったりする。

 どうしてこうなっちゃったんだろう。どうしてこうなっちゃったんだろう。

 何かないの? キョウくんが今どんな風にしているのかわかるもの!

 そもそも、なんでこんなにキョウくんに固執しているんだろう。

 東京に他に頼れる人がいないから? 違うよね。

 馨は脳内で自問自答する振りをしている。本当はわかっている。自分がどうして潔彦にこだわるのか、潔彦がどうして変わったのか。

 初めはサッカーをしている時の潔彦が大好きだった。相手からボールを奪う足の爪先の最小限の動き、無駄も隙も無いドリブル、見とれていると、潔彦から大きい声で馨を叱る声が聞こえてきて……。

 部活の先輩が後輩を下の名前で呼ぶことは別に珍しいことではないらしかった。でも、馨を下の名前で呼んでくれる先輩は潔彦だけだった。サッカー部に入部したのは、運動音痴の馨を親が心配して勧めたからだった。フィールドが広くてポジションが決まっているサッカーなら自分のペースで練習できると思った。そんなのは初心者の思うことで、実際は一人ひとりが自分の役割を果たすために絶えず動き続け、反射神経と平衡感覚が試されるハードなスポーツだった。潔彦は何もできずに立っている馨をいつも見ていた。バテているとすぐに気付かれた。励ましてくれることもあったけど、いつも怒声だった。だけど、馨は潔彦に下の名前を叫ばれると、その後に何を言われても平気だった。他の先輩の陰口に比べれば、飴と鞭みたいなものだった。

 潔彦は馨を鍛えようとジョギングに誘ったり、筋トレのメニューを考えたりしてくれた。馨がやり遂げられたものは一つもない。それでも潔彦は諦めなかった。二年間で少しずつ基礎メニューの難易度は下がり、それはもう文化部の女子が軽いダイエットでやるくらいのレベルになっていた。腕立て伏せ三回で馨が弱音を吐くと、潔彦は笑って馨の浮き上がった背中を片手で地面に向けて押して、無理やり続けさせた。それでもダメで馨が倒れこむと、潔彦は笑って「じゃあ次は腹筋十回な」と言った。

 潔彦との思い出はそれだけじゃなかった。馨が潔彦をキョウくんと呼ぶようになったきっかけがあるのだ。それはいつも通りの練習をしている時に何の前触れもなく訪れた。

 ちょっとした運動だけで汗をかいて倒れそうになった馨を潔彦が抱き留めた。それだけならよかった。その時、二人は人目につかない田舎の細道にいた。馨は熱中症だった。潔彦は馨の頭に水をかけて、残りを飲ませた。そして、担いで潔彦の家に連れ帰った。

 あの時、潔彦は馨の何を見たのだろう。潔彦のベッドに寝かされていた馨は頭が痛くて吐き気がして、周囲の状況に配慮する余裕などなかったが、潔彦の目が急に変わったのはわかった。

 あの目が見たくて、自分は潔彦先輩をキョウくんと呼ぶんだ。

 馨は思い出す。暑くて苦しくて痛い記憶を。だけど、あれはいい思い出だった。

 キョウくんに会いたい。

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