第7話 理解、乖離



 -零-


 ――足元を蹴飛ばしてやれば、人は簡単に転ぶんだ


 -一-


 二週間という時間がどれほどの時間なのかは僕にはよく分からない。分からない事が僕には多すぎて、そして理解が及ばない事があまりにもこの世には溢れているのだけど、時間というのは本当に度し難い事の一つであると言わざるを得ないと考えるのは僕だけだろうか。

 「神はサイコロ遊びを好まない」と言ったとある物理学者の理論によれば、時間は不変でもなければ普遍でもない。観測者が光速に近い速度で移動していれば、静止している観測者との時間の進み方が違うというのは、どうやら二十一世紀初頭の現代においてはこの上なく真実に近い事実であるらしく、だからと言ってそんな小難しい理屈を聞かせられたところで「で、何?」で片付いてしまう。

 いくらそんな特殊相対性理論の恩恵を知らず知らずの間に享受しているしても、今生きている人の大多数の中でそんな情報は全く意味を成さず、意味を成して更に僕が理解をすることができないのは物理現象では無くて主観としての時間の進み方だ。光速で活動する人間なんているわけが無いから時間の進み方は万人で同等。なのに人によっては時間経過を速く感じたり遅く感じたり、はたまた同じ人間でもシチュエーションによって違いが現れるのは誰だって知っている。とにかく違う。長い時は果てしなく限りなくどこまでも長い。なのに短い時は極端なまでに一瞬。

 僕が僕という人間の在り方を自覚して以来、僕の中で時間が経つのは遅くて遅くて、耐え難いとは言わないまでも苦痛だった。

 だけど。

 ここ数カ月はとんでもなく速い月日だったと言い切れる。雨の夜、傘の下で明々と輝く携帯のカレンダーを見ながらつくづく思った。

 魔法だか超能力だか分からないけど摩訶不思議な世界に巻き込まれて、何故か死んで、何故か生き返って、死ねない体になって。

 水城さんに出会って、課長に出会って、佳人さんやら七海さんやら八雲さんやらS.T.E.A.Rの連中に出会って、僕の時間は加速し始めた。そしてそれは今現在目下進行形で加速中だ。

 最近二週間は極力S.T.E.A.Rに顔を出すようにしていた。目的は水城さんの監視。

課長は課長が水城さんの近くにいない時だけでいい、と言ってたけど例の事件のおかげで元々の忙しさは更に増加してるみたいで、S.T.E.A.Rに行っても課長がいない事が多い。

 だから特に他に目的もやる事も無い僕としてはできるだけS.T.E.A.Rにいて水城さんの近くにいるように心掛けていた。

 で、だ。監視が目的と言っても、行動自体にこれまでと大きな差が生まれるわけもなくて、やってることは変わらずいつもと同じ。

 いつも通り話して、いつも通りに仕事して、その時に少し注意を払うだけ。

 だというのに。

 彼女はやはり異常だった。そう結論付ける事はしたくはないけれど、観察の結果、そんな結論以外を導くのも不可能だと思える。

 何が異常か、と問われれば僕は間違いなく答えに窮する。傍から見ても、どの角度からどの時間にどのタイミングで彼女を見ても彼女自身に変化は無い。一緒。当たり前だ、彼女は一人なのだから。

 だけども、何かが違う。決定的な、何かが。

 それを感じる様になったのは、四人で突入して、結局は課長一人で解決してしまったあの事件以来。

 水城さんだけ部屋に残って、僕は雨に打たれながら待っていた。けれどそれもたいした時間じゃなくて、程なく彼女も外へ出てきた。「濡れてるよ?」「そんな気分なんです」「アタシもおんなじ気分なんだっ」と、そんな会話をして二人で濡れながら帰ったあの日。

 別れ際に水城さんは笑った。「それじゃあ風邪ひかないようにっ!」なんて言いながら笑ったその時の笑顔。見慣れたはずの笑顔が何だかひどく純粋で、なのにひどく歪な物に僕は感じてしまった。何もおかしな事なんてないはずなのに。

 そう、おかしくなんて無いのだ。だから、恐らくは僕よりも水城さんの事を知っているだろう課長でさえ、課長のキャラに似合わない曖昧な表現しかできなかったのだ。ぽっと出の僕が少々頭を捻ったところでより適切な表現なんてできるはずがない。残念ながら「何か違う」としか言えない。


「それはそうとしてもさ……」


 家へと帰る道すがら、独りごちる。

 おかしいのは分かった。それで監視を続けたは良いけど、それがどう今後に繋がっていくのかが見えない。本人が自分自身の異変を自覚してるのかどうかも怪しいし、またその異変が誰かに悪影響を及ぼしてるかといえばそうでもない。彼女は彼女の中にしか変革をもたらしていないのだから、第三者が口を出すのもおかしいし、そもそも何に対して口を出せばいいんだか。


「ま、そこは課長が考える事かな」


 あっさりと思考を放棄してそう結論付ける。監視の件も課長の指示だし、それが当たり前だ。何か問題があると感じたからこその監視だろうし、ならば異常を発見した時の解答は課長の頭の中に、僕が予想もつかない形で入ってるんだろう。だいたい第三者の監視なんてものを趣味でやるほど僕は酔狂ではない。

 だけども。

 あっという間に過ぎた二週間。それはすなわちこの二週間に僕が充実感を感じていた、ということになるのだろうか。課長の状態も落ち着いてきて、僕は僕でまた明日から以前の状態に戻る事が決定したけれど、それはそれでどこか残念な気もしている。

 嫌なこと程時間が経つのは遅く感じて、楽しい時間はあっという間に過ぎ去ってしまう。これはきっと世界中どの人種、どの国の人であっても共通な事だと思うし、僕もその例からは漏れることは無かった。

 だからもう断言してしまおう。僕、雨水鏡は今この時間を楽しんでしまっているのだ。

 非日常と日常が接する境界線上のスリルを楽しんでいるのでは無くて、最低だ何だと散々こき下ろして毛嫌いしてきたこの世界そのものを楽しんでしまっているのだ。非日常は僕の中でとっくに日常へとその居場所を移してしまっているし、それでもなお僕は日常を楽しめている。

 大学での授業も、正祐とのアホ臭い会話も、寝不足の毎日も、危険な仕事も、事務所での事務仕事も、S.T.E.A.Rのみんなとの会話も、課長の暴言も、そして水城さんとの一日も、全てが僕に満足感を与えているんだ。

 モチロン全てが楽しいことばかりじゃない。有り得ないことに死んだりもしたし、講義は退屈だし、事件現場を見た時なんかは陰鬱な気持ちにだってなる。最近も能力者同士の衝突が増えてるみたいで切り刻まれた敗者の姿をよく見かけていた。その後処理はメンドクサイし、気持ち的にも疲れて何もしたくなかったりもする。

 だけどそれらを全部ひっくるめて「生きる」事を楽しめてる。少なくとも、このまま生きていても悪くない、と思える程度には。


「まったく、どういう心境の変化なんだろうな……」


 ホント、ワケが分からない。あれだけ生きることを嫌がっていた僕が今、正反対の事を考えている。梅雨のこの季節は天気がコロコロと変わりやすいけれど、それに負けないくらいあっさりと変わった。例えるなら乙女心と秋の空。なんか違うな。まあ我ながら気持ち悪くもあるけど、少なくとも健全な変化であることは変わりない。死にたい死にたいとそればかり考えながら生きるよりかは良いはずだ。

 ピシャピシャと歩く度に足元で水が跳ねて、だけども気がついたら傘と地面を打つ雨音は消えていた。傘をどかせて夜空の下に体を晒すけれど、冷たい感触は無い。いつの間にか雨も上がっていたらしい。

 傘を折りたたんで、雨の止んだ夜道を歩く。何となくだけど今日はいい夜になりそうだ。


 …って思ったんだけど、やっぱり現実は厳しいらしい。もしくは神様は僕が嫌いなのか。そうなのか。そうに決まってる。まあ僕も嫌いだから文句は言わないけれど。

 夜中だから辺りはメッチャ静かだし、静かだということは当然昼間なら聞こえないような小さな物音でも聞こえてくると言う事で。

 異変、というか異音はすぐそばの公園からだった。暗い茂みの方からガサガサと何かが動いて擦れる音が聞こえて、それだけならモノ好きなカップルがイチャついてるくらいにしか思わなくて僕もスルーして行ったと思う。そんな現場に居合わせて観察するほどモノ好きでも無いし、むしろ気まずい。

 だけども物音はそれだけで終わらなくて、続いて男の押し殺した怒鳴り声と殴るような打撃音が聞こえてきた。

 どうしようか。僕は迷った。男の叫びの中身はよく聞き取れなくて分からないけど、声の調子から言ってまずい感じが強くした。まるで、理性と本能の狭間のギリギリを綱渡ってるみたいに。

 近づくべきか、それとも聞こえなかったふりをしてこの場から遠ざかるべきか。倫理を考えるならば当然様子を伺うべきで、そうじゃないにしても警察に通報する方が良いに決まっている。でも面倒事に巻き込まれたくないのも事実で、このまま立ち去るのが僕にとっての一番の平和。厄介事に慣れたとは言え進んで関わりたくは無いし、怖いお兄さんと面と向き合うには、僕には勇気が足りない。大声で怒鳴られればきっとすぐにビビって謝ってしまう。喧嘩だって小学生以来したことは無いし、ここ最近の荒事でも相手を殴った事は一度も無い。だから本当に何もしないで、耳を塞いで眼を閉じ、早足でかつ足音を立てないようにしながらいなくなるのが一番なんだ。

 なのに半端な反発心が僕を縛る。

 命のやり取りをしてきたのにこの程度で尻込みするのか、と考えれば情けなくなってくるし、ソレ以上に厄介なのが今の僕の立場。バイトで、公にできない身分であっても僕は一応警察官であって、それなのに犯罪から眼を逸らしていいのか、と役に立たない義務感が僕を急き立てる。

 人生が楽しくなってきて調子に乗ってるのだろうか。後押しする声が僕の中で次第に強くなる。せっかく変わってきたのにこれまでと同じ道を歩むのが、心のどこかで嫌なのかもしれない。


「……行ってみる、か」


 そんな自分の決断にため息をつき、誰に見られてるわけでも無いのに勝手に体は「嫌々やってます」という言い訳をする。そして「行く」と決めたのに、「どうか何もありませんように、自分の勘違いでありますように」と願っている自分の姑息さに深いため息をつく。変化を嫌ってきた人間に、急な変化はやはり無理らしい。


「誰か……いるんですか?」


 公園の方に近づき、恐る恐る声を掛ける。だけど、予想していた通り返事は返ってこない。ガサガサというざわめきも消えて、そして風が代わりに木々を揺らす。


「誰か、いるんですね」


 公園の中に入り、フェンス近くの幅広い植え込みの方を見て断定的に僕はもう一度声を掛けた。別にハッタリでもなんでも無くて、確信が僕にはあった。

 見られている。

 それに気づくことは、僕にとって火事を見て煙が出ているというくらいに至極当然な事で、毎日生きる中で自信を感じる事が無くても、誰かの視線に気づくことに関しては最大級の自信を持っている。

 誰もいない静かな公園の中で一人、茂みを見つめる。僕は一言もしゃべらない。相手もしゃべらない。

 やがて茂みが動きを見せた。一人、二人、そして三人目。それぞれが舌打ちをしながら立ち上がって、個性のあるようで無い似た服を晒した。


「っんだよぉ、テメーは?」

「何か俺らに用でもあんのかよ? ああ!?」


 実に頭の悪そうな話し方をしてくれる。頭は悪そうだけど、僕に対してはひどく効果的だ。突然怒鳴られたせいで一瞬ビクっと体が反応してしまった。震える体。それを見て男たちが笑う。


「なんだよ、ビビッてんのか? ダッセ」


 僕は笑われるのが一番嫌いだ。何よりも大っキライだ。プライドが妙に高くて、自分が嫌いなクセに貶められるのは耐えられない難儀な性格。

 醜態を見られたせいで頭に血が上って顔が赤くなるのが自分でも分かる。握った拳に勝手に力が入って体が強張る。でもそれが功を奏して、足の震えは止まった。


「オラ、さっさとどっか行けよ。殴られてーのか? あ?」

「女の人の悲鳴が聞こえましたよね?」


 上がった血液は落ちていくだけ。まだ少しだけ早口だけど、ゆっくり呼吸をして自分を落ち着けながらそう問いかける。

 一瞬、男たちの動きが止まる。


「何言ってんだよ、テメー。ツマンネー事言ってんじゃねえぞ、コラ」

「コッチの方から聞こえましたんで来てみたんですけど……ちょっとここら辺を探してみてもいいですか?」


 返事も待たずに僕は植え込みを越えて男たちの足元を覗き込もうとしたけど、それを一人が肩をつかんで抑える。


「離してください」


 体をひねって、少しだけ力を込めて男の手を払った。それだけのつもりだったのに、男の体は大きく揺れてたたらを踏んだ。


「てめっ! 何しやがる!」


 怒鳴り声を無視。一度目はともかく、二度目はもうビビらない。

 果たして、覗き込んだ先には上半身裸で女の人が倒れていた。服は切り裂かれてて顔には殴られた痕があって、痛々しい。気を失ってるみたいで、ぐったりとしたまま動かない。


「オラッ!」


 頬に突然衝撃が走って、不十分な姿勢だったこともあって僕は地面を転がった。女の人に気を取られすぎってしまったらしい。

 頬を抑えながら体を起こすと、三人ともどこからかナイフを取り出してこれ見よがしに街灯のライトに反射させる。


「余計な事しなけりゃ良かったのにヨォ」


 一人がこっちに向かって近づいてくる。カチャカチャと折りたたみ式のナイフを出したり入れたりさせながら、侮蔑の表情で僕を見下す。


「黙ってビビっときゃ無事に帰してやったのによ、俺らの優しさをダメにしやがってさぁ」

「そうそう、せっかく慈悲深く見逃してやろうと思ったのになぁ」

「何せ俺らお釈迦様より優しかったからな。ギャハハハハ!」


 僕は黙って立ち上がる。そして彼らと正対する。

 威圧してるつもりなのか、人を小馬鹿にした笑いを浮かべて、僕が逆にそれを鼻で笑ってやると途端に不機嫌そうに睨んでくる。


「テメェ……」


 刃物を見て怯むのは怖いから。痛いのは嫌で、ケガをするのも嫌だ。もしかしたら後遺症が残るかもしれない。長い間痛い思いをするかもしれない。誰でも何かしら抱えてるものがあるから死ぬのは嫌だ。傷付いた自分の姿を想像して、それを恐怖するんだ。

 だけど僕には当てはまらない。想像の中でしか死ねない。どれだけ傷ついてもすぐに治って痛みも取れる。痛いのが嫌なのは抜けないけど、死ぬような痛みを何度も経験してる。それ以前に、痛みは僕にとって恐怖の対象にはならない。


「ホンっ気でブッ殺すぞ」

「できるものなら」


 それは僕の願いで、僕からしてみれば何の偽りも無い本心。でも、向こうにしてみればただの挑発にしか過ぎないな、と言った後で気がついた。

ギリ、と歯軋りの後、一人がナイフを突き出す。視力の悪い僕には、暗い中でナイフの位置は正確には見えない。ただ何となく体をひねる。

 着ていたシャツが少しだけ引っ張られて、あっけなくナイフに切り裂かれる。そして振り向いた先には無防備な背中。これだけ大きければ外し様が無い。

 握りこんだ拳を思い切り叩きつける。決して太くは無い僕の腕。だけど男はそのまま地面を転がった。

 ナイフが手から離れ、コンクリートの上を滑ってシャリシャリと擦れる。

 静まり返る公園。転がったままの男を呆然と眺める残り二人。そして僕もまた同じ。

断言する。僕は非力だ。いや、非力だった。だからこんなに自分のパンチに威力があるとは思ってもみなかった。想像の埒外。能力を手に入れてからの自分の状態をすっかり忘れていた。

 ジャリ、と地面を踏みしめる音が足元からする。その音をきっかけに残り二人が同時に襲いかかってきた。

 僕は後ろ向きに逃げ出した。通り過ぎ際に転がった男の背中をキチンと踏んで。

 体の調子は重畳にもいつも通り。結界の中ほど自由には動けないけど、少なくとも彼らに捕まるほどノロい動きではない。

 だけどわざと彼らと同じ程度の速さで走る。そして急停止。土埃が夜空に舞う。

 今度は全力で彼らに跳びかかる。ただし相手は一人。いくら前と比べて僕の身体能力が上がっているとはいっても、二人を同時に相手できるほどに僕は自分に自信を持ってない。

 肩に重い衝撃。胃の中身がひっくり返りそうな感覚がするけど、ぶつかった彼に比べればなんて事はないだろう。相手を担ぐような格好になりながらもそのまま男を吹っ飛ばす。

 そこまではいいけど、僕の方も勢い余って転んでしまい、その時に相手の顔にひざをいれてしまって「ッゴ!」というくぐもった声が寝転がった耳に届いた。ゴメン、今のはわざとじゃない。

 心のこもってない謝罪を口の中だけでして地面を一回転。すぐ起き上がる。グルン、と下から上へと視界が振れる。灯りに照らされた深緑の葉が輝く。そしてそれよりも鋭い光が僕の目の前に迫っていた。

 ナイフが僕を切り裂く。鋭く、深く頬を切り裂く。間一髪で避けて、それでもよく研ぎ澄まされていた鋼が遠慮無くためらいなく頬肉を抉り取っていく。


「いっ……!!」


 脳へと届く鋭い痛み。激痛の部類。生きている証。だけどそんなもの邪魔でしか無い。生きているのを知るために痛みを感じなければならないのなら、痛みなんて要らない。


「ってぇなぁっ!!!」


 痛みを怒りに変換して思いっきり、全身全霊を込めて全力で遠慮無く手加減なく右ストレートでぶっ飛ばす!

 振り抜いたパンチはカウンター。気持ち悪い感覚と何かが壊れる音がして、男の体が宙を舞って、そしてボールの様に地面で跳ねた。


「~~っ!」


 痛い。頬も痛いけど、それよりも自分の殴った拳が痛い。これは、骨が逝ったか。でも。


「……何とか成るもんなんだな」


 それが正直な感想だ。武器を持った相手三人に勝てるとは思わなかった。死なないだけの体かとずっと思ってたけど、こうして一般人を相手にすると能力者の異常さがよく分かる。戦闘向きじゃない、喧嘩慣れしてない僕でもこれなのだ。佳人さんや八雲さんみたいな人が敵に回れば、普通の人にとってどれだけの脅威になるか、想像するのも簡単だ。


「っと、忘れてた。あの人を起こさないと……」


 茂みで気を失った女性の事をようやく思い出す。伸びてる三人が眼を覚まさないうちに早く逃げないと、またメンドクサイ事になってしまう。

 すっかり元居た場所から離れてしまい、緊張が解けたせいか急に重く感じる体を動かして女の人の所に向かう。

 茂みの方に近づいた所で僕は足を止めた。寝転がっていた男の姿は無い。

 男はすでに起きていて、だけども膝立ちの状態から立ち上がろうとせず、じっと下を向いて頭を抱えていた。

 ブルブルと小刻みに体が震え、口からは嗚咽ともうめきともつかない声が漏れ続けてる。

 唐突に頭を掻きむしり始めた。咆哮。いや、断末魔の方が近い。深夜の公園に男の叫びが響く。両腕で体を掻き抱いて、荒い呼吸を繰り返しまた叫ぶ。

 男の異常行動を前に僕は立ち尽くす。何がどうなっているのか、全く分からない。理解が及ばない。走ったせいで掻いた汗がシャツにピッタリと貼り付いて気持ちが悪い。

 不意に、本当に不意に「違和感」が襲う。何度と無く感じて、もうすでに違和感と感じなくなっていたあの「違和感」。今それが僕の目の前から感じられた。

 男の断末魔が止み、ゆっくりと状態を起こす。そしてまたゆったりとした動作で立ち上がった。


「アハ……」


 夜空を仰ぎ、両腕を精一杯広げて蒸し暑い梅雨の空気を吸い込む。

 ポツリ、と冷たい雫が僕の頬を撃った。同じ様に男の掌を撃つ。

 ポツリ、ポツリ、ポツ、ポツ、ピチャ、ピチャ、ビシャ、ビシャ、ザア、ザア。

 数分どころか数秒と待たずして雨脚は強くなる。頭から足まで全身をビッショリと濡らしていく。頬の傷がしみてズキズキと痛む。


「アハハハヒャヒャヒャヒャヒャヒャハハヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャッ!!」


 男も全身がずぶ濡れになり、だけども嬉しそうに意味の分からない、甲高い耳障りな笑い声を上げ続ける。


「イィぜぇ……イイゼェイイゼェイイずぇっ! 気持良すぎっぜぇ! ヒャハハッハッハヒャッ!」


 そしてピタリ、と声が止む。と、突然首が折れて横向きの視界で僕の方をギョロとした瞳で見た。


「良いんだヨォ、気持ちイイんだヨォ、イッちまいそうな程に気持良すぎんだヨォ……

でもなぁ、まだ足んねぇんだよ、一つだけ足んねぇんだよ。何か分かるかヨォ、分かってくれっかヨォ……」


 不気味な口調でこっちに向かって尋ねてくる。だけどもそれは質問、というにはあまりにも彼の中で完結していて、確認すら求めてない。あるのは答えの強要。それを証明するかのように、彼は嬉しそうに口を三日月の形に歪ませた。


「てなわけでヨォ……切らせろや」


 言葉と同時にとっさに僕は体を一歩引いた。コンマ数秒前まで体があった場所を鋭い何かが通り過ぎて、だいぶ伸びた前髪が宙を舞った。

 髪を切り裂いたのは剣だった。それまで彼の手の中には何も無かった。なのに突然現れた大振りな両刃刀は彼の手の中にしっかりと握りこまれている。まるで佳人さんの様に。


「っんだよ、避けんな……よォッ!!」


 叫びながらデタラメに剣を振り回す。素人の僕から見ても、基本も何もあったもんじゃない剣筋。ただ力任せに振り回しているだけ。その様子は駄々をこねて暴れる子供みたい。

 だけど、例えどんなに適当だろうとも能力者が操れば、僕みたいな人間にとって最大級の驚異となる。剣筋がどうだって評論できるのだってただ単に彼の構えが適当だということから判断してるだけだ。剣がどこを通り過ぎたかなんて分かりはしない。


「オラオラオラオラオララララララァッヒャアァハァッ!」


 僕はひたすらに避ける。もう避けるなんて大層なもんじゃない。彼がデタラメに剣を振り回しているなら、僕はもっとデタラメにカッコ悪く転げ回りながら逃げて、単に致命傷を負っていないというだけだ。

 それでも傷は増える。そもそもが何度もかわせているのが異常なのであって、ならば薄い切り傷は際限なく増えていくのが道理というもので、シャツは傷だらけ、ズボンもボロボロで血もにじんでる。

 この程度の痛みは痛みの内に入らない。だから動きは阻害されない。阻害されない、なのに僕の動きは鈍ってく。何故か。理由は簡単。

 僕にはスタミナが無い。どれだけパワーとかスピードが強化されたとしてもスタミナだけは大して変わらないらしい。

 ヤバイ。耳障りな息切れ音が満ちた中でそんな思考が頭の中を駆け巡り始める。そもそも僕はこんな戦闘向けの能力者と一対一で対峙したことなんて無いわけで、それをチャラにする武器も無い。デリンジャーは家の棚の上に置いてきた。この男が能力に目覚めたばかりなのだとしたらそこに付け入る隙がある、なんていうのは熟練者が言うセリフであって間違ったって僕が言える言葉じゃない。

 つまりは、だ。こんな状況になった時点で僕の負けは確定。死なない以上敗北と言っていいのかは分からないけど、勝負としては黒星と言わざるを得ない。

 そんな、どうしようもない状況。息切れは加速して体が重くなる。なのに。


「キャアアアアァッ!」


 体が切られるのを防いだせいで腕が深く切りつけられ、雨が赤く染まる。それを見て、眼を覚ました女性が悲鳴を上げるのを僕は聞いた。

 どうしてこのタイミングで……!

 せっかく眼を覚ましてくれたのに、僕の口には彼女に対する悪態だけが溜まっていく。どうして眼を覚ました、どうして声を出すんだ、と助けた相手に罵りたい気持ちが満ちていく。

 男がニヤリと笑う。嫌らしげに舌舐めずりし、口を再度三日月形に変形させる。

 案の定、男は僕から彼女へと標的を変えた。男にとってはきっと相手なんて誰でも構わない。ただ切り裂ければ男でも女でも、老いてても若くても関係ない。

 僕は男に飛びかかった。それは攻撃のためなんかじゃなくて、少しでも相手の動きを阻害するため。


「……アァ?」


 すでに男は女性に向かって走り始めていて、ぬかるんだ地面に寝そべってまで僕がつかめたのは男のズボンの裾だけ。でもそれを僕は必死につかんで離さない。


「分かってるって。テメェは後でじっくりと、な?」


 下から男の顔を見上げる。街灯が逆光となって男の顔は見えない。彼の持つ大剣だけが反射して眩しかった。

 衝撃が背中の中心を貫いた。重いのか軽いのか分からない。ただ何かが僕の体を通り抜けていった感触だけが残って、一拍遅れて形容できない痛みが一気に脳へ走りこんだ。


「……ァっ!!」


 声が出ない。僕の意志に反して体が仰け反り、涙と吐き気が同時に押し寄せてくる。胃から込み上げてくるものを吐き出したい衝動を抑え切れず、僕は真っ赤な血を水溜りへ吐き出した。

 吐くたびに痛みが走って悶える。そして背中を貫通した剣が僕を傷つけまた血を吐き出す。目の前の水溜りが見る見るうちに赤く変わり、雨に流されていく。喉が焼けるように熱くて、痛い。

 動けない。縫いつけられた僕の体はとっくに機能を停止してもいいはずで、僕は苦しみから解放されてもいいはずで、なのに即死とも言えない半端な致命傷は回復と斬撃を交互に繰り返して僕をつかんで離さない。

 痛い、痛くて痛くて痛くて堪らない。気持ちが悪い。吐き出した血が気持ち悪い。まとわりつく雨がなんて不快。喉が熱くて体が寒い。痛い。怖い。終わりのない痛みが、僕は怖かった。

 変な正義感なんて出すんじゃなかった。所詮僕は戦わない人間。そんな人間が誰かを助けようなんておこがましかったんだ。

 この公園に来たことを心底後悔し、自分の浅はかさを恨み、調子に乗ってた自分を責める。傷つけられ続けるなんて、こんな恐怖があるとは思わなかった。耐え切れない痛みなんて一瞬で終わってしまうものだとばかり思ってた。

 後ろ手に剣をつかむ。指の節が傷ついてるんだろうけど、今の僕には感じることができない。

 剣を抜こうと試みるけど、動かない。こんな体勢じゃ力も入らない。

 きっと恨めし気になっているだろう視線を男に向ける。男はもうコッチを見ていなかった。もう一本の剣を作り出して女性を見てる。腰を抜かして恐怖でいっぱいの瞳で男を女性は見上げてた。

 逃げろ、とかいう声は出ない。声さえ出せないし、そんな気もなかった。


「……柔らかそうだなぁ」


 男は舌なめずりをした。手に持った剣を上段に振りかぶる。空が明るく怪しく光る。雨音をかき消す雷鳴が響いた。僕は眼を逸らした。


「……は?」


 閉じたまぶたの向こうから間抜けな声が聞こえた。そっと眼を開けると、一本のナイフが男の左腕に刺さっていた。

 雨と混じりながら血が流れて、それに連動するように男の左腕も力無くダラリと下に落ちた。


「いってぇなぁ……誰だよ、テメェ」


 邪魔されたからか、それとも痛みからかは分からないけど、心底苛立った様にナイフが飛んできた方向を男が見た。痛みを堪えながら僕も何とかそっちを見る。

 そこにいたのは女の人だった。土砂降りの雨の中で傘もささずに雨に打たれて、長い黒髪からも雫が滴り落ちてる。シャツもズボンもビッショリに濡れて、細身のラインを表してる。

 女性がこっちに向かって歩き始める。街灯に近づいて光が彼女を照らし出し始める。

七分丈のズボンと長袖の白いブラウス。表情は貼り付いた髪の毛のせいで見えない。


「まぁいいや……切れる人間が一人増えてくれたんだからヨォ」


 男は左手に刺さったナイフを抜こうと、右手に持っていた剣を左手に持ち替える。はずだったんだろう。


「あぁ?」


 だけども剣は左手からスルリと抜け落ちて地面に転がった。


「力が入んねぇんだけど? どういうこった?」


 つぶやきながら男は掌を握ったり開いたり繰り返す。だけども、次第にソレすらもできなくなったのか、指先はただ下を指すことしかしなくなった。

 バシャ、と水溜りが跳ねる音がした。寝ている僕の隣を通りぬけ、踏みぬいた水溜りの飛沫を僕に掛けながら男へ接近する。

 キン、と金属同士がぶつかった。両手に持ったナイフで男に斬りかかり、男はまた剣を右手に作り出して斬撃を受け止める。それと同時に僕に刺さっていた剣が消えて、ようやく解放された。


「カッ、ゲホッ!!」


 傷が胴体に開いた穴が塞がっていって、痛みからも解放される。口に残った血溜まりを吐き捨てて、未だ口の中に気持ち悪さは残るけれど、やっとひと心地つく事ができた。

 男に切られそうになった女性を見ると、彼女は再び気を失って仰向けに倒れていた。冷たい雨が絶えず体を濡らし続けるけど、もうどうにかしようなんて思ってない。

 僕は興味を戦いの方へ移した。女性は両手に持ったナイフ――もしくは短剣と言えるかもしれない――で絶え間なく斬りつけ、男の方は右手一本でそれを防ぐ。


「っんだよんだよなんだよテメエはっ! さっさと切らせろよ切らせろよ切らせろヨォぉぉっ!!」

「……」


 男が叫ぶけれど、彼女は一切の反応を示さない。与えられた仕事をこなすみたいに淡々と攻撃を加え続ける。

 街灯の光と夜の闇の間で見える彼女の動きは、女性とは思えないほど無骨で、力強く、そして乱暴だった。素人眼で見ても優雅さや洗練さ、女性のしなやかさは無くて、愚直なまでに切れ目の無い攻撃を繰り返した。

 能力者である男と対等以上にやりあってるということは、彼女も能力者なのだろう。それも戦闘用の能力、例えば八雲さんみたいに身体能力向上タイプ。もしかしたら彼女の手にある短剣も彼女が作り出しているのかもしれない。


「なめてんじゃねぇぞコラアアァァっ!!」


 だけど、それでもやっぱり男の方が地力があるということなのか。ひとしきり受けきると、力任せに剣を振り上げて短剣を彼女の体ごと弾き飛ばし、宙に浮いた体を蹴り飛ばした。


「くっ……!」


 初めて彼女の口から声が漏れる。雨音で聞こえづらいけど、女性にしてはかなり低い方か。中性的な印象の声だった。

 開いた間合いを一気に詰めようと男が走った。女の人の方はまだ体勢を立て直せていない。おまけに短剣を一本失っている。男にとってはチャンスで、それも本人も分かっているのか口元を嬉しそうに歪ませていた。

 そして発砲音が雨に混じった。


「あ?」


 男は自分の脚を見た。ということは発砲音にもたらされた異常は彼の脚で起きたということで、それを証明するみたいに左脚から彼の体が崩れ落ちる。

 稲光が一瞬だけ強い光を発して、彼女の手の中にあるシルエットを映しだした。

 小型の銃だろうか。手の先から指みたいに飛び出した銃身があった。たぶん、どこかに隠し持っていたんだろう。


「んな豆鉄砲なんか効かねぇっつーの」


 ニヘラと笑って男は立ち上がろうとするけど、膝立ちの状態から動かない。それどころか体全体が傾いていって、ついには泥水の中に体を沈めてしまった。


「な、なんだよコレ……どうなってんだヨォ……」


 男の声に初めて恐怖が混じった。困惑八割に恐怖が二割。震える声で騒ぎ続けるけど、その二つの割合が次第に逆転していくのが僕にも分かる。

 撃ちぬかれた脚は頑として動かず右手を使って上半身を起こすけど、はいつくばった彼の前に女の人が立ちはだかる。


「くっそぉぉっ!!」


 喚いて右手の剣を振り回す。だけど剣先さえ彼女には届かない。ブンブンと駄々をこねるみたいに、迫り来る大人から逃れようとする子供みたいに左右に振り回すだけ。

 左手に持った短剣で彼の右手を傷つける。たったそれだけで彼の右手からは剣が落ちて、そして彼は抗う手段を失った。

 彼は右足だけで彼女から離れようと地面を蹴る。だけど彼女はそれを許さないのか、今度は右足を切り裂いた。彼は動くことすらできなくなった。

 僕は立ち上がって二人の近くに移動しようとした。何が起こっているのか、それを理解しようと、そして彼女が何者なのかを知るために。更には、彼女が正気なのか判断するために。もし、S.T.E.A.Rの誰も把握していない、新しい能力者なら課長に連絡しないと。

 雨に濡れたからなのか、体が重い。痛みに散々痛めつけられて僕の精神もだいぶ参ってるに違いない。汚れてしまったメガネのレンズを指で拭い、重い足取りで二人の方へ向かう。

 たいして離れてない距離だったけど、僕が到着する前に彼女は短剣を握り直し、そして彼の喉に向かって振り下ろした。一切のためらいなく。

 ズブリ、という音が聞こえてきそうだった。確実に、正確に彼女の剣は男の喉を貫いて、そして血が溢れてくる。赤い血液に空気が混じって泡立つ。口をパクパクとさせて、その動きも緩慢になっていって、やがて彼は死んだ。

 それにあわせて傍らに落ちていた大剣も、まるで初めから無かったみたいに消えていった。残ったのは男の死体と、僕と、そして女の人。


「あの、すみません……」


 僕の今の目的を果たすために、女の人に話しかけた。だけど彼女は僕の方を一瞥だにせず背を向けると、そのまま公園の出口に向かって歩き出す。いつの間にか短剣は仕舞われてて、濡れた髪の毛を邪魔そうに掻き上げ、両手をポケットに突っ込んでる。


「ま、待ってください」

「嫌だね」


 静止の声も即却下。冷たい声と自分の体に貧弱な心が折れそうだ。とはいえ、ここで引くわけにもいかないので、一度深呼吸をして腹に力を入れる。


「そういう訳にもいきません。僕と一緒に来てもらう必要があります。アナタも能力者なんでしょう? たぶん知らないと思いますけど、一応能力者を管理してる組織がありまして……」

「うっさいな」


 苛立った声。その直後、僕の体は地面に叩きつけられていた。強かに背中を打って肺の空気が押し出されて息が詰まる。

「お前も殺すよ?」


 僕の体に覆いかぶさり、彼女はまた短剣を取り出して僕の首に押し当ててきた。吐息が掛かる程に近い距離で彼女はそう囁き、僕は言葉を失った。

 気が済んだのか、それだけで体を起こして僕から離れる。そして独り言みたいになにかをつぶやき始めた。


「……ん? ああ、分かってるよ。いいじゃねえか、どうせ死なねえんだし。……ああ、わぁったよ。

 なあ、お前、明日は一日中家にいろよ? 誰からの誘いも断れ。例え相手が課長でも、だ。彼女が会いに行くって言ってるからな」


 後半部が僕に向けられた言葉だと気づいたのは、もう彼女が立ち去り始めた後だった。

 大の字になって泥の中で寝転び、ライトに反射した雨粒の軌跡を追う。ひたすらにそれだけを続けた。頭の中はデタラメで、何も考えられなかった。


「……水城さん」


 止まない雨に打たれ、立ち去った彼女の名前だけが口から零れた。





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