第8話 切る、悠(kill you)





 -零-


 欲しい物は絶対に離しちゃいけない。誰かが持って行ってしまうから


 -一-


 夢を見ていた。

 目の前には道がある。白く細い道。それはどこまでもどこまでも伸びていて、足元からずっと辿っていって、顔が真下から真正面に戻ってもまだ続いてる。終りの無い道が真っ暗闇の中にあった。唯一の道しるべがそこにあった。

 僕はその上に立っている。もっと正確に言えば、その白い道をまたぐようにして立っていた。足の裏には地面があるのかないのかよく分からない、曖昧な感覚だけが残ってて、確かに僕は立っているのに、急にどこかに落ちてしまいそうな不安を強く感じる。だから僕は白い線の上に足を乗せた。今度は確かな感触があった。

 僕は歩き出す。何も考えずに。白い道の上を歩いて、だけどすぐにそれに飽きてしまう。だから今度はわざと白い線を踏まない様に歩いた。何故か恐怖は無い。黒い地面を歩き、またそれに慣れてしまうと、今度は二つの境界線上を歩く。適当に二つの境目を靴の裏で擦るようにして。

 擦りながら歩いてると、不意にその境目がぼやける。白が黒に混じったのか、それとも黒が白に混じったのか。白は灰色になって黒は灰色になる。足元から広がったそれは瞬く間にして広がっていき、二色刷りの世界はあっという間に一つになった。

世界が壊れた。壊したのは僕か。せっかく美しい景色だったのに。僕はぼんやりとそんな事を思った。

 曖昧な世界を歩き続ける。やがて駆け出す。

 必死じゃない。何となく、という理由に急かされて走り始めて、ゆっくりとジョギングでもするような速度で、でも脚には力がこもり始めて、いつの間にか僕は全力で走り始めていた。

 途切れ途切れの呼吸。絡まる足。走ることをずっと辞めていたから、全力を出すことを諦めていたから思ったように体は動いてくれない。息がツライ。走るのがツライ。歩くのがツライ。でも止めることもツライ。疲れた。いつから僕は疲れた?疲れたからもう走るのを止めていいの?それでも僕は走り続ける。歩くような速度で。

 見つかる出口。だからこそ見つかった出口。何がだからこそなんだろう。走ったからこそなのか、それとも全力を出したからこそか。答えは出ないまま、何となくなままに出口に近づく。それにつれて、灰まみれの向こうにある鮮やかな景色が僕の視界を埋め尽くす。

 出口の入り口。そこに立っている誰か。顔は見えない、光が強過ぎて、輪郭さえぼやかしてしまってる。人ということしか教えてくれないシルエット。だけど僕はそれが誰であるかを知っている。

 力の入らない両脚に力を込めて、そして手を必死に伸ばして僕は触れようとした。

近いのに遠い人。遠いのに近い人。届きそうで届かない、だけど届いて欲しいと切に願う。

 後、三歩。残り、二歩。最後の、一歩。

 眩しい光が溢れてくる。僕を染め上げる。溶かして融かして解かし尽くす。

 伸ばした手が光の中に溶けこんでいって、彼女が僕の方を――


 そこで僕は眼を覚ました。

 ジリジリと容赦無くアパートを照らす太陽。閉めきった窓の向こうからでも聞こえてくる蝉の声。ムン、とした熱気が同情もなく遠慮もなく呵責もなく僕を蒸し焼きにしてしまおうと企んでいるらしい。


「あづい……」


 寝たままの状態で見えるのは天井だけで、かといって天井を眺めていても楽しくなんて一つも無いのは自明の理というにはおこがましいほどに当たり前の事であり、だから僕は体を起こして汗でじっとりと湿った布団の上に座ったまま外を見る。閉め忘れたカーテンのせいで容赦無く西日が差し込んでいて、どうやら太陽は蒸し焼きだけじゃ飽きたらず僕を照り焼きにしたいらしい。


「西…日……?」


 家賃月二万八千円で風呂トイレ付という破格の安さを誇る我が家は、当然ながらそれ相応の欠陥を保持していて、その中の一つが西日しか日が差し込まないというもの。で、太陽は東から上って西へと沈む物。僕は枕元にある時計に眼を遣った。


「あー……」


 デジタルの時計はすでに午後三時を示していて、今日は平日。なれば当然学校があったわけだけど完全にサボってしまってた。


「しゃーないな……」


 僕にとってはあるまじき失態ではあるけれど、いつまでも失態に頭を悩ませていても全く意味が無い。ボーッとした頭を覚まそうと冷蔵庫に向かう。未だにまぶたは重くて体はどういう訳か節々が痛い。変な寝方をしたかな、と思いながら布団から降りて畳に足を踏み入れた瞬間ジメッとした感触がした。視線を下に向ければ、どうやら濡れていたらしくて一部が変色してた。なんでだろう、と疑問に思いながらも冷蔵庫を開けて炭酸飲料を取り出す。ラッパ飲みをして胃の中に冷たい感触とシュワーとした炭酸の弾ける刺激が喉と胃を殴りつける。僕は大きく息を吐き出した。そして不意に思い出す。


(彼女が会いに行くって言ってるからな)


 思い出した瞬間、僕は勢い良く部屋の方に振り向いた。


(ヤッホー、お邪魔してるよー)


 そんな声が聞こえた気がした。だけどそれは幻聴でしか無くて、部屋の中にはさっきまで僕が寝ていた布団と、何も置かれていないテーブルがあるだけだ。他に何があるわけでも、誰がいるわけでもない。

 それでも僕はそれが信じられなくて、いつの間にかペットボトルを置いて部屋の中へと戻って彼女の姿を探し始めていた。

 押入れの中に隠れていないだろうか。開く。いない。

 ベランダに隠れていないだろうか。開く。見回す。いない。

 トイレ。いない。風呂場。いない。どこにもいない。

 もしかしたらココに来たんだけど、僕が眼を覚まさないから帰ったのかもしれない。ならばどこかに書置きがあるかもしれない。そう思ってテーブルを見るけど何も無い。郵便受けを開いてみるけどやっぱり何も無い。

 どれくらい探したんだろう。一通り彼女がいた痕跡を探ったけれど、何一つとして手掛かりは見つからなかった。

 当然だ。水城さんがこの部屋に来たことなんて数えるほどしか無いのだから。

 壁にもたれかかって、だけども足は僕を支えきれなくてその場に座り込む。そう、目が覚めて彼女がいたのだって、たった一回きりだ。何十回とこの部屋で眼を覚ましたけれど、起きた時に誰かがいたのだって最初の一回きりしか無い。だから、今のこの状態が当たり前なんだ。水城さんがいたあの時こそが異常だったんだ。

 だというのに。僕は体を丸めて、自分の胸を強く掻きむしった。汗で湿ったシャツの上から爪が皮膚に食い込む。

 どうして、こんなにも不安なんだろう。

 不安で、怖くて、僕を構成する全てが消えていってしまいそうで、暑いはずの部屋の中で体が震える。

 まだだ。

 頭を振って考え直す。まだ、三時じゃないか。今日という日が終わるまでまだ九時間も残ってる。気まぐれなあの人の事だから、この後すぐ来るかもしれないし、日付が変わる前に来るかもしれない。もしかしたら日付が変わった後に来るかもしれない。どうせ学校もサボったんだ。だから、のんびりと僕は彼女を待てばいいだけだ。

 立ち上がって部屋に戻り、枕元に置いてあったタバコに火を点ける。ライターから伸びた小さな火炎が小刻みに震えて、それが僕の手が震えているせいだという事実を押し殺して時計を見る。一秒毎に点滅を繰り返すデジタル表示がやけに遅く感じて、僕はタバコと時計の間の往復を繰り返した。


 水城さんは来なかった。


 そうしてまた日常が始まる。

 どれだけ寝不足でも僕の体はいつも通りに朝の決まった時間に眼が覚めて、シャワーを浴び、ヒゲを沿って飯を食べる。ルーチンワークを一通りこなした後は、タバコを一本吸って自転車に乗り、狭いキャンパスの大学に到着。歳はそう変わらないはずの大学生を見て若々しく感じ、僕と同じく冴えないヤツを見かけると同類に親近感を感じ、そしてすぐにどうでもいい思考を切り捨てて教室に入って、だいたい決まってきた席に着いて筆記用具とノートを取り出す。授業が始まれば熱心な学生の振りをして板書を何も考えずにただ写し込んでいく。

 それはいつも通りの日常に過ぎなくて、歳を取り、姿形が変わって、場所も変わって、でも繰り返してきた作業は一緒で。

 慣れ親しんだはずの、退屈な毎日。なのに違和感が残る。そしてそれはもう拭えない。

 ここが、僕の日常だっただろうか。客観的な事実としてそれは真実のはずなのに、頭を働かせれば、いつの間にかそんな思考が僕の中を占める。

 あの夜の事を僕は誰にも話さなかった。事件の事はどうしようもないから課長に連絡したけれど、水城さんの事は話さなかった。あの男は僕が殺したことにして、そしてその通りに事件は処理された。だから、書類上初めて僕が人を殺したことになる。そしてそれは僕と、彼女だけが知る事実と真実を押し隠して対外的な事実となった。駆けつけた八雲さんや佳人さんに何か声を掛けられたけれど、デタラメでとりとめもない思考が続いたままになるのが嫌で、曖昧な返事だけをした。疲れたから、とだけ二人に告げて僕はすぐにその場を辞して、帰り着くと濡れたシャツやズボンを脱ぎ、そのまま何も考えずに眠った。

 そして水城さんが来なかった日が終わり、僕は課長に電話を掛けて水城さんの事を尋ねた。今日は、仕事に来てるか、と。

 そこにいて欲しい、と願ったけれども残念ながら彼女はいなくて、代わりに電話があったらしい。しばらく旅行に行くんで休みます、だそうだ。

 おかしい。そう思ったんだろう。課長は僕を問い詰めて、そして僕は応えた。何もありません、彼女の様子も極普通でしたって。至って普通に、何のためらいもよどみも無く、頭は全くと言っていいほど働いてはいなかったけどそんな言葉がつらつらと出てきて、そして僕は一方的にならないよう自然に電話を切った。

 気がつけば三日が経って、あの日の事を確かめることさえできないままいつも通りの毎日を送る。頭の中でグルグルと否定と肯定を巡らせながら。

 授業の終わりを知らせるチャイムが鳴る。聞き慣れた当たり前の音がして、なのにどういう訳だかそれすらもいつもと違って聞こえてきてしまう。

 いや、これが僕の日常だ。僕は頭を小さく振って言い聞かせる。

 昼間は学校に行って、週に何回かS.T.E.A.Rにバイトに行く。適当に正祐の相手をしながら笑って、夜に事務仕事に苦しんだり、時々死にかけたりなんかする。一般的な普通とはもうすっかり違ってしまってるけどそこまでをひっくるめて僕の日常だ。違和感なんてあるはずがない。生きていれば時が流れて人も変わる。巡り逢う人もいれば一時的に別れる人もいて、別れたきりそれが今生の最後となってしまう人もいる。水城さんだって所詮その中の一人でしか無かったというだけの話だ。

 そこまで考えて、僕は自分がもう彼女と会えないのだと決めつけていることに気づいて、つい笑いがこみ上げてくる。たった三日だというのに。


(それに……)


 例え彼女が僕と会う気が無いのだとしても、縁があればまた出会うだろう。彼女が能力者である限りS.T.E.A.Rに僕がいればまた会えるだろう。悲観することは無い。別れがあんな別れ方だったから少し衝撃を受け過ぎてしまっただけだ。

 それに、慣れるのが早い僕の事だから、きっとまた後三日もすれば彼女のいない生活にも慣れる。違和感も何も感じず、彼女は薄れていく記憶の中だけの住人となって日々の記録の中に埋もれていく。それは僕という存在にとって既定路線であり予定調和だ。疑う余地なんて無い。


「チーッス、鏡ちん。今日暇か?」


――だから少しだけ早く忘れてしまおう。彼女の事を。


「暇といえばそうだけど、今日の夜はバイトだからさ。もう帰って一回寝てしまおうと思ってる」

「よし、んじゃ行こうか?」

「……だからお前は人の話を聞けと何度も……」

「いや、だからよ、寝るまで遊ぼうぜ、と俺は言ってるわけだ、鏡ちん」


 ニコニコと、いやニヤニヤと笑いながら誘ってくる正祐を見てわざとらしいため息をついてみせる。S.T.E.A.Rにいる間は寝る暇は無いわけだし、仕事の事を考えれば今のうちに六時間くらいは寝ておきたいんだけど、ちょっと僕は迷った。

 迷ったことは迷ったけど、こういった時に長々と悩むのはメンドクサくて、何より今は頭を使いたくない。だから正祐の期待に応えて、思考を放棄してしまって「いいよ」と応えてやる。


「……え? いいのか?」

「ああ、別に行かなくていいなら帰って寝る。お疲れっしたーおやすみー」

「ちょちょちょちょい待った! ジョーダン、冗談、な、な?オーケーオーケー、ノープロブレム。俺らはこれから遊びに行く。これで問題ないよな?」


 まあ期待を裏切ったのは分かるけど、ちょっと慌て過ぎじゃないだろうか。そんなに僕って付き合いが悪かったっけ、と自分の過去の所業を思い出してみて、ああ、やっぱり付き合いは良くないよなぁ、と自分で納得してしまった。


「別に問題は無いけど、あんまり遠いトコ無しな。できれば近場で宜しく」

「っしゃ! ならさっさと行こーぜっ!」


 何というワガママ。だけども正祐は気にした風も無くて、僕と横並びで歩き出した。こんな僕と遊んで何が楽しいのか自分じゃよく分からないけど、たぶん僕と正祐の波長が合って、得てしてそういう相手とは何をしても楽しいものだ。僕も悪くない、と思ってるし、正祐が楽しいならそれでいいだろう。そして今日は僕も愉しめばいい。今を楽しんで、頭を空っぽにしてしまおう。そうしてまたいつもの僕へと戻る。こんなに女の人のことで悩むなんて僕らしくない。さっさと忘れてしまうんだ。

しつこく頭の隅でチラつく彼女の顔。僕はそれを追い出した。



 -ニ-



 ピピピピピピピピピピピ――

 ガチャン。

 力の入らない腕が重力に従って目覚まし時計に落ちて、時計が壊れそうな音を立てた。痛いはずだけど寝起きで鈍い腕の感覚がいつもよりも遥かに遅い速度で頭に届いて、そこでようやく僕の頭が覚めてくる。

 時刻は午後十時。正祐と別れて部屋に戻ったのが六時前だったから、都合四時間は寝た計算か。夏布団を跳ね除けて大きく背伸び。寝汗で濡れたシャツを洗濯機に放りこんでシャワーを浴びる。

 今が十時なら、あんまりゆっくりできないな。熱めのお湯のおかげで少しずつ血の巡ってきた頭でそんな事を考える。十一時には向こうについて、この三日で溜まってるだろうメールをチェックして、ああ、あの書類も書き上げてしまわないといけないな。いやいや、第二班の事だ。きっと机の上には書類が乱雑に捨てられててその整理から始めないといけないだろうな。事務所についてからの自分の仕事を頭の中だけで整理し、スケジュールを立てていく。

 さて、今日は書類仕事だけで終わるだろうか。それともまた現場仕事に駆り出されるのかな。そういえば他の県に出張に行ってた人たちが今日帰ってくるはずだから、人手は足りてるか。なら今日は平和に過ごせそうだ。平和が一番。何事も無いのが重畳。

 シャワーを止めて乱雑に体を拭く。適当に髪の水分を吸い取って、乾かさないままに着替える。その足で色落ちした黒のジーンズに足を通し、同じく黒のシャツに袖を通した。長袖のシャツの袖を巻きあげて七分にするお気に入りのスタイルを作り上げる。

 敷きっぱなしの布団に腰を下ろしてタバコに火を点けた。最近本数が増えてきてるのは良くない兆候だと思う。バイトのおかげで金銭的には余裕はあるけど、あまりタバコに精神安定を求めるのは褒められたものじゃないな。

 時計を見る。時間は午後十時半。そろそろ出る時間か。夜だから自転車は通りやすいし時間は掛からないけど、飛ばして汗を掻くのも嫌だし早めに出るのがいいだろう、と僕はタバコを半分くらい吸ったところでもみ消して電気を消そうと立ち上がった。

 ピンポーン。

 というところで来客を知らせるチャイムが鳴る。僕にとってはまだ生活時間だけど、世間一般的にはもう非常識の範囲に入る時間だ。こんな時間にくるのは……正祐か?他に思いつかない。

 居留守を使うことも考えたけど、電気のせいでそれも不可。軽く鼻から息を吐き出して玄関へ向かう。そして非常識な相手を確認するために、覗き穴から外をうかがった。

歪んで広がるアパートの廊下。切れかけの電気がチカチカと目に悪い明滅を繰り返してた。

 ドクン、と一度心臓が鳴る。覗き穴から見えた相手は、なるほど、確かに非常識な人だった。出てこない事にしびれを切らしたのか、ドアの向こうの相手はもう一度チャイムを鳴らす。一度、二度、三度四度五度六度七度。ピポポポポポポポ!

 まったく、この人は……


「近所迷惑ですから」


 ガチャリ、とドアを開く事で相手の嫌がらせを終了させる。そして狙い通りに相手の手を止めさせる事ができて、僕は彼女と対峙した。


「むーっ。鏡クンがさっさと出てくれないのが悪いんだよっ」

「そいつは失礼しました」


 言葉だけの謝罪をすると、押しかけたチャイムから手を離し、相手はむくれて頬を膨らませる。相変わらずだ。まあ、そもそも三日やそこらで人が変わるとも思えないけど。


「それにしてもお久しぶりです。約束破ってのご旅行は楽しかったですか?」


 挨拶がわりの皮肉を一つ。コッチとしては三日間も悶々とした時間を過ごさざるを得なかったんだ。コレくらいは許して欲しい。


「ホントはちゃんと約束通り来るつもりだったんだよ? でもちょっと予想よりも時間が掛かっちゃってさ……」


そう言いながら僕から眼を逸らす。申し訳なさそうにチラリと僕の方を見て、一度また視線を外し、そして再度僕の方を見る。


「うん、でもやっぱり謝らないといけないよね。

 ゴメンナサイ」


 彼女は深々と頭を下げた。

 こうやって素直に頭を下げられると僕の方も困る。茶化された方が心に優しい。僕は別に怒ってなんかいないのだから。むしろ、また彼女に会えた事がただ純粋に嬉しかった。


「頭を上げてください。別に怒ってませんから。むしろ上げてください」

「……許してくれるの?」

「怒ってないって言ったでしょう? これくらいで怒るほど度量は小さくないつもりですよ」

「嘘だーっ。鏡クンこういうのにうるさそうだし」

「それは否定しませんけどね」


 玄関で待たせて一度部屋に戻る。自転車の鍵を持ってまた玄関に戻って靴を履いた。


「ともかく、一緒にS.T.E.A.Rまで行きましょう。歩きながら話を聞かせてください、水城さん」


 そう、僕には彼女に聞きたいことが山ほどある。この三日間何をしてたのか、あの夜の女性は本当に水城さんなのか、どうしてあんなに戦えたのか、そして――

 彼女がこれからもここにいてくれるのか。


「うーん……それはちょっとムリかな?」


 だけど、少しの逡巡を見せた後、彼女はそう言って断ってきた。


「あ、まだ休みですか、ひょっとして?」

「ううん、そうじゃないんだけどね……」


 どうにも歯切れが悪い。なのに水城さんは少しだけ申し訳なさそうに顔を伏せて、次の瞬間には笑顔を見せて僕に一歩近づいた。そして僕の手を握る。

 悲しそうに笑って。


「水城さん?」

「今日はね、……鏡クンにプレゼントがあるんだ」

「ん?」


 なんだろう――

 尋ねようと口を開きかける。だけどそれに類する言葉は音にならない。

 唇に伝わるぬくもり。柔らかな感触。三日ぶりの彼女の顔が僕の見える世界いっぱいに広がった。

 梅雨の湿った風が彼女の長い黒髪を揺らして僕の鼻をくすぐる。眼を閉じて頬を染めた彼女がすぐそばにいる。そして彼女から心地良い香りが漂ってくる。甘い香りだった。柄にもないけど、突然の事で混乱する頭でそんな事を思って、もっともっとその香りに身を委ねていたかった。

 優しい口づけが終わり、そっと彼女の体が僕から離れていく。唇に残る感触はあまりにも儚くて、切なくて、まるでつかもうとしてもつかめない、陽炎の様で。


「えヘヘっ」


 頬を真っ赤にした彼女が笑う。恥ずかしそうに、でも今度は嬉しそうに。呆気に取られてた僕にもその笑顔が伝染して、思わず笑ってしまう。


「うん、良かった……」


 そうつぶやいて、水城さんは僕の顔を見つめる。

 風が吹いた。赤かった顔が少しずつ元に戻っていく。嬉しそうだった顔も、笑顔も消えてまた憂いを多分に含んだ表情へと変化して、そして彼女は僕に向かって言った。


「鏡クンの事、本気で好きだったのかもしれない」


 トン、と軽い衝撃が僕の胸に突き刺さる。

 僕に向かって伸びる彼女の白い腕。そしてその掌から更に伸びる、見たことのある短剣。公園の灯りに照らされていたソレは今度は僕の部屋の灯りに照らされて光を放つ。それを介して僕と彼女の境目は曖昧に消える。


「みず、き……さん……?」

「さよなら、鏡クン……地獄でも会えたらいいね」


 足から力が抜ける。体から血が抜けていく。止まらない。世界が揺れるのが止まらない。傾いていくのが止まらない。心臓が脈打って、その度にダラダラと傷口から僕が零れ落ちる。

 倒れていく僕。遠ざかる彼女。短剣が心臓から抜かれて、また僕らの境目が明確に引かれていく。

 もう、何も考えられない。心地良い眠りに就く前みたいに、まぶたが自然と視界を閉鎖していく。そして閉じる視界と繋がってるのか、と思うくらいに同じタイミングで玄関のドアが閉まっていく。

 視界と彼女との境界。どちらが閉じるのが早いんだろう。そんな考えを抱きながら見た最後の景色は、彼女の泣き顔だった。



 -三-



「……い…きろ……」


 体が重い。体が重いからまぶたも重い。何もしたくない。もっと寝ていたい。だってまだ外はこんなにも暗くて、人間が人間活動を開始するには早過ぎる。あ、そういえば僕ってまだ人間の範疇に含まれるんだろうか。含まれるんならまだ寝てても大丈夫。含まれないなら別に人間活動しなくてもいいから寝ていよう。結論、まだ寝る。だって眠いんだから。


「おき……きょ……」


 だと言うのに、誰かが耳元で騒ぐ。何を言ってるのかなんて理解できないし、理解しようとも思わない。思考を完全に箒、いや放棄。誰かさっさとこの雑音を外に掃きだしてくれないかな。眠いのに、僕を起こす誰かのせいでそんな事を考えられるくらいには覚醒してしまった。ならしょうがない、もう起きてしまおう。そして起こしてくれた誰かに皮肉の一つでもお見舞いしてやろう。

 深く潜り込んだ海の底から、僕は海面に向かって上昇する。暗かった辺りも徐々に明るくなって、ほのかな光が僕の体を創り上げていく。その途中、胸の辺りが痛む。チクリ、とした痛みは次第に大きくなって、せっかく出来上がった体から今度は新しい傷口が生まれて、赤い血が流れ出す。痛みに声にならない叫びを上げれば、次第に傷は塞がっていって小さくなっていった。


(なんだっけ、これ……)


 どうして僕はケガをしてる?決まってる、誰かが僕を傷つけたから。じゃあそれは誰だ?

 散らばった記憶の欠片が集まってひと繋ぎの記録を形作る。それが早回しで頭の中を駆け巡る。開くドア、短剣、笑顔、キス、笑顔、開くドア、短剣、笑顔、キス、笑顔、開くドア、短剣、笑顔、キス、笑顔、開くドア、短剣、笑顔、キス、笑顔。そして泣き顔と閉まるドア。


「鏡!」


 叫び声に僕は急速に覚醒した。途端に視界が開けてボロい木製の天井が眼に入って、そこに正祐の顔が割り込んでくる。


「おい! 大丈夫か!? どっか痛いトコねえかって痛えのは当たり前か! ああもう! 落ち着けよオレ!!」


 何か騒いでるけど、人ン家では静かにしろよ。文句を言おうとして体を起こしかけた時、心臓の辺りに痛みが走った。鋭さは無くて、チクリとした程度。思わず当てた手を見ると、うっすらと赤い血が付いていた。


「っっ!!」


 そうだった。意識を失う前を思い出して体から血の気が引いていくのが自分でもよく分かった。跳ねるように体を起こし、驚いてる正祐に詰め寄る。


「正祐、今、何日の何時だ!」

「き、今日は五日で二時過ぎだけどよ……て、お前そんな動いて大丈夫なのかよっ!? メッチャ血ぃ出てんだぞっ!」

「何言ってんだよ、どこに血なんて出てるんだ?」

「どこってお前自分の胸……あれ?」


 もう僕のシャツには血なんて付いてない。拭った僕の手にも、そして僕との間を往復してる正祐の手にもそんな跡は無い。まだ少し痛むけど、この痛みもすぐに消えて無くなる。

 そんな事よりも、だ。


「悪い、正祐。今すぐ出かけなくちゃいけないんだ」


 だから留守番しといてくれ。そう一方的に告げて僕は部屋を飛び出そうとした。だけど正祐が僕の腕をつかんでそれを許してくれない。


「ワリィ、じゃねえよ。普段大真面目なお前が二日も連続して学校休みやがって、しかも携帯にも全く出やしねぇ。心配になって来てみれば玄関で倒れてやがるし」

「それは悪かったよ。ちょっと急な用事が立てこんでさ、携帯も途中で電池が切れちゃうし、散々だった」

「ここで倒れてたのは?」

「疲れてたんだよ。ちょっと休憩のつもりで横になったらそのまま寝てしまってみたいだ」

「嘘つけ」

「嘘じゃないさ。嘘みたいに聞こえるとは思うけど」


 肩をすくめ、何でもない風を装って苛立ちを正祐にぶつけまいと自分をごまかす。正祐の疑問は至極もっともで、心配してくれてる相手に八つ当たりなんてとんでもないけど、今は説明する時間も惜しい。このままじゃ本当にぶつけてしまいそうだ。

 急いでも何もならないって分かってる。もう二日も経ってしまったし、彼女がどこに行ったかなんて検討もつかない。だけど、気持ちは抑えきれない。こういうのを理解はできても納得できない、というのだろうか。何にせよ、このまままた座して待つなんて事はできない。


「……いい加減、離してくれないか。本当に急いでるんだ」


 言葉に刺が混ざるのを止められない。舌打ちが出そうなところで引っ込めて、でも苛立ちは隠せない。剣呑な視線をぶつけてる自覚はあって、だけど正祐はそれを受け止めながら立ち上がって僕と正対する。


「お前、何を隠してるんだよ?」

「何だよ、急に。そりゃ正祐に隠してる事はあるよ。もちろん親にだって。人間誰だって隠し事の一つや二つあるもんだろ?」

「ごまかすなよ、鏡」


 正祐の眉間にシワが寄って、僕の眼を捉えた。初めて見る正祐の真剣な眼差しに、僕は眼を逸らす。


「なあ、何があった?」

「別に何も……」

「無くはないだろ? じゃなきゃ俺はここにいない。お前の事だし、本当に大変だからって俺には悟らせない。そういうヤツだよ、お前は。心配も掛けさせないし、下手に自分に対して気を遣わせ無いよう連絡の一つも入れるよ、本来のお前なら。だから逆に言えば、俺がここに来てる時点でお前には何かあったって事だ」

「……」

「言えないって事か。いや、どっちかって言えば言いたくないか?」


 僕は答えない。応える必要も無かった。正祐の言ってることは全部本当で、正祐だからこそ僕は話したくない。話してしまえば楽になるだろうけど、そうしてしまえば、正祐もコッチ側に関わらせてしまうことになってしまうから。

 正祐は一度顔を伏せて、視線をどこかにさまよわせながら深くため息をついた。眉間のシワが深くなって、唇は真一文字に結ばれている。


「分かってるよ。まだ付き合いは浅いけどよ、お前は本当の事は誰にも話さないヤツだって分かってるさ。けどよ、見損なうなよ。俺はお前の何なんだ? ただの友達か? たまたま同じ大学にいて、たまたま同じクラスで、たまたまお前と出会っただけの人間なのか?

 もしそうならそうとはっきり言ってくれ。でも俺はお前の事を親友だと思ってるし、お前も俺の事をそう思ってくれてるんだと思ってる。うぬぼれかもしれねーけどさ、本気で思ってる。だからお前が大変な時は助けてやりたいし、愚痴だって聞いてやるよ。困ってたら手伝ってやりたいんだよ。押し付けがましいって思うかもしれねーけど、そう俺は思ってるんだ。

 だから余計イライラすんだよ! 何も知らねートコでお前だけ大変な思いしてて、俺はそんなの知りませんでしたーって一人気楽に生きてたのかって思うと自分にムカツクんだよ! お前が何を考えて、何を思ってるのか想像するくらいしかできないけど、それが俺には歯がゆいんだよ! お前が傷ついてるのに何も教えてくれないで、その事に対して怒る事も許されないくらいに俺はお前にとって軽い存在なのかよっ!!」


 僕の胸ぐらをつかみ上げて、正祐は叫んだ。

 そんな事は無い。そう言うのは簡単なはずで、でも言葉が出てきてくれない。

 正祐には感謝してる。だけど、僕には正祐の言葉が否定できない。だってしている事は正祐の言う通りだから。


「なあ、俺ってそんなに……いや、何でも無い。忘れてくれ」


 僕から手を離して、正祐は僕の脇を通り過ぎていく。伏せ気味の顔からはうまく表情を読み取れない。だけど、正祐のそんな様子を見るのは初めてだった。いつも明るくて、バカで、女好きで、不思議と憎めないキャラクター。似たヤツには今まで会った事はある。

 でも僕の人生に交差した友人は正祐が初めてで、そんな彼が離れていってしまう。

 水城さんに対する焦りが今度は正祐に対する焦りに変わったのが分かった。

 正祐は軽くなんて無い。僕には勿体無いくらいで、だからこそ尚更に大事な事は伝えたくない。重荷を背負わせたくないから。

 だから僕にはこんな言い方しかできない。


「ゴメン、正祐。僕は本当に大丈夫だからさ……その、この隠し事はホントに誰にもしゃべっちゃダメなんだ」


 背中越しに正祐に僕は話しかけた。座って靴紐を結んでる正祐からは何も返事が戻ってこない。

「たぶん、この事は親にも話さない。一生話さなくて、死ぬ時まで黙ってると思う。だから……別に正祐を蔑ろにしてるわけじゃなくて、その……」

「……いいって。コッチこそ問い詰めるような事をして悪かったな」

「心配してくれたんだから、謝る必要は無いよ。それと、ありがとう。心配してくれて。

 僕らは……親友だよね?」


 卑怯だ、と僕は僕を責める。こんな事を言えばもう相手は僕を責められない。正祐はいいヤツで、だからこんな聞き方をしたら絶対に違うとは言わない。でも、僕は卑怯だとしても正祐まで失いたくなかった。

 エゴむき出しの質問に正祐は振り向いて、いつも学校で見せている笑顔を僕に見せて予想通りの答えを返してくれる。


「ったりめーだろ? まだまだ鏡ちんには俺の世話が必要だかんな」

「どっちかって言うと、正祐の方が僕の世話が必要な気がするけどね。主にレポートとかレポートとかレポートとか」

「バッカ。俺が本気出せばそれくらい……」

「もうすぐテストだけど、ノート取ってないじゃなかったっけ?」

「ああ、まあそれはだな……」

「まあ僕らは持ちつ持たれつ、ということで」

「そうだな」


 いつもに似たやりとりを交わし、僕は正祐に心配してくれた事とは別の感謝を心の中で述べた。正祐は何気に鋭いから、きっと僕の心中も何となく察していると思う。その上できっと、いつもと同じ風な言葉を掛けてくれてる。また一つ、正祐に借りができた。これでまた、僕は死ねなくなった。

 靴ひもを結び終わって立ち上がり、ドアノブに正祐は手を掛ける。


「んじゃ、元気そうな……かどうかはまだ分かんねーけどよ、とりあえず大丈夫そうなんで俺は帰るわ」

「うん、わざわざ悪かったね」

「最後にもう一度だけ聞いてやるからな?……本当に体は何ともねーんだな?」

「大丈夫。ピンピンしてるよ。今のトコだけど」

「そこは断言しとけって。明日からはまた学校に来るんだろ?」

「どうかな、断言はできないなぁ……やる事が終わり次第、かな?」

「じゃあ次来たときには俺の素晴らしい授業ノートを見せて鏡ちんをびっくりさせてやんよ」

「期待しないで待ってるよ」


 ぬかせ、と苦笑いを浮かべながら正祐はドアを開けて出ていき、僕も手を振って見送る。ふぅ、と深い溜息が肺から吐き出されて、だけどこの後すぐに僕にとってもう一つの関門が待っている事を考えるともう一度深いため息を禁じ得なかった。


「スイマセン、お待たせしました」


 急ぎたいのは本当だ。だけど、どちらにしろ彼女の情報を得るにはこの人から当たるしか無い。逃げるわけにはいかない。


「忙しいというのに、小っ恥ずかしい友情シーンなんて屁の足しにもならん物を見せやがって」

「僕にとって数少ない親友ですから。たまには大目に見てください」

「さて、どうするかな?」


 言いながら勝手に課長は部屋へと上がる。汚い部屋だな、なんて隠そうともせずに言い放ってどっかりとテーブルに腰を下ろした。


「コーヒー。ブラックで思い切り濃いヤツを」

「インスタントですけど文句は無しでお願いします」


 電気ケトルで沸きっぱなしのお湯を適当なカップに注いで課長に手渡す。足を組んで受け取ったそれを、一度香りを楽しんで口を付け、さて、と僕が一息つく間もなく切り出した。


「どうして私がわざわざここに来たか、察しはついてるな?」

「ええ……水城さんの事ですよね?」


 課長は悠揚にうなずき、僕はこっそりと深くため息をつく。


「水城さんから、何か連絡はありました?」

「無いな。それどころか連絡すら取れん。おまけにお前までこの二日連絡が取れない、ときた。おかげさまで私のストレスもマックスだ。そろそろお前の胃に穴を空けてストレス解消する必要がありそうなんでな」

「せめて自分の胃に穴を空けて下さい。まあ……連絡取れなかったのは申し訳ないと思いますけど……」

「そう思うなら話せ。悠の事、この二日間の事、お前が知っている事全てを」


 カタリ、と木製のテーブルにカップが置かれる。僕の視線は課長の顔からそちらへ動き、そのままもう課長の顔を見れない。きっともう、課長は笑ってはいない。視線鋭くもどこか楽しんでるような色は無くなって、ただ僕を見極めるだけに瞳は使われてることだと思う。だけど、それから逃げ出すことはできない。逃げちゃいけない。そう思った。

 だから僕は話した。あの夜に公園で起こった全ての事、人格が変わったとしか思えない水城さんの行動、話し方、話した内容、傷つけられる度に動かなくなっていく男、そして嘘をついた僕の事。インパクトの強い記憶に埋もれてしまそうな細かい事象まで記憶を掘り返し、記憶の開始から順に僕の見た全てを辿っていく。

 ここに来ると行った彼女。ここに来なかった彼女。どこかに行ってしまった彼女。

 待ちぼうけの僕。苦しかった僕。忘れようとした僕。

 笑った彼女。キスをする彼女。

 嬉しかった僕。愛おしいと思った僕。

 僕を刺す彼女。

 彼女に届かない僕。

 泣いた彼女と見ているしかできなかった僕。

 話しながら、僕の中であの時間だけの記憶が繰り返し流れていく。泣きそうに笑って、心から笑って、また泣きそうな笑顔になって、最後には涙を流したあの姿。

 彼女を僕を好きだといった。好きだと言ってくれた。何も持っていない、何も与えることができない僕を好きだと言ってくれた。ならば僕を刺して殺そうとした、その真逆とも言える行為にも意味があるのだろうか。

 話し終えて何度目か分からない深いため息が出た。話しながら昂っていた感情も呼気と一緒に吐き出されて静まっていく。

 落ち着いてみて自分を振り返る。そして思う。自分は何がしたいのだろうか。彼女を探し出して何をしたいんだろう。

 いや、そもそも僕は彼女に対して何かできるのだろうか。どこまでも自分が嫌いで、どこまでも自分が大好きな僕。それはつまり僕は僕自身にしか本当の興味を持っていなくて、他人なんてどこまで行っても僕の興味を引く存在では無くなった。そんな僕が決して他人以上になりえない彼女に対してしてあげられる事はあるのか。そんな事があるはずがない。

 そんなはずが無いんだ。

 それに彼女は好き「だった」と言った。ならばそれはつまり今の僕は好きではなくて、もう会いたくないとも取れる。会いたくないと言ってる相手の意思を無視してまで僕は自分のエゴを押し付けるのか。そんな事をするくらいなら僕は――


「鏡」


名前を呼ばれて僕は溺れそうな思考の渦から引き上げられ、顔を上げた。

 瞬間、視界がグルリと回転した。何が起こったのか分からないまま背中を打ちつけて、頭の上に本が落ちてくる。次いで熱を持って痛む頬。遅れて背中からも痛みがやってくる。

 切れた唇から垂れる血を拭って課長を見上げた途端、今度は蹴り。座った状態のまま弾き飛ばされて、起き上がる間もなく胸ぐらをつかんで持ち上げられた。


「くっ……!」


 うめき声を上げながら課長を見る。冷たく僕を見る課長は明らかに怒っていて、だけど僕は、それもしょうがないことだと何も言わない。

 片手で持ち上げたまま、課長は僕を押入れに向かって叩きつける。肺から空気が押し出されて息ができない。安普請のふすまはあっという間に折れて僕に覆いかぶさってくる。


「これくらいで許してやるよ」


 僕を見下ろして課長はそう言い放った。本当にこれで満足したのかは分からない。きっとまだ殴り足りないだろう。だからたぶん、課長はこう言うんだろう。

「残りは悠を連れ戻してきた時点でチャラにしてやるよ」

 だけど、僕はどうすべきなのだろう。水城さんの事が、分からない。僕の気持ちが分からない。彼女は僕の事をまだ好きでいてくれているのだろうか。僕は彼女を好きだと言えるのだろうか。死ぬ事を望んだ僕が、誰かを好きだなんて思っても良いんだろうか。


「僕は……水城さんを好きなんでしょうか……?」

「……悪い。頭はぶつけないようにしたつもりだったんだが」

「茶化さないでくださいよ。恥ずかしいとは思いますけど、本気で聞いてるんですから」


 上目で課長を見ると、タバコを取り出してジッポで火を点けていた。一度煙を吐き出すとまた最初みたいにテーブルの上に腰を下ろした。


「私はお前じゃないからそんな事は知らん」

「でしょうね。そう言うと思ってました」

「だが……客観的に見れば好きなんじゃないか? お前が自分の中で何をグジグジと悩んでるのかは分からんが、初めて会った時と比べれば悠と話してる最近のお前は楽しそうだったぞ。もっとも、悠の方がお前にベタぼれだったがな」

「外から見ても分かりますか?」

「存外にお前は分かりやすいぞ。特にお前が死なない体になったと分かった時の顔は見物だったな。必死に隠してる様だったが、ショックを受けているのがバレバレだった」

「なら分かるでしょう……死にたがりが誰かを好きになる。そんな事はあり得ないって」「じゃあ今のお前は死にたがりじゃないって事だな」

「そんな事は……」

「あり得ない、か。本当にお前は自分を否定するのが大好きだな」

「自分ほど信じられないものなんてありませんよ」

「他人よりも、か?」

「他人は疑えても否定はできませんから」

「人は他人を本当の意味で知ることはできない。だから否定するほどの情報を得られない、か……なるほどな。その結果が、流され続けた今のお前を作り上げた訳か。ならそれはそれで構わんさ。私はお前の考えを否定してやるだけだ。お前はもう、死にたがりでは無いよ」

「だからそれは……あり得ません」


 かたくなに僕は僕を否定する。これは感情だ。僕を否定するには何の根拠も無くて、ただ僕を信じるに値するものが何も無いから。本当に欲しい物が何も手に入らなかった過去の記憶が今の感情を作って、それが僕を否定する。


「あり得なくもない話なんだがな」


 課長は吸い終えたタバコを灰皿に押し付けると、続いてもう一本取り出して火を点ける。空気の流れの無い部屋で、口元にくわえたタバコから煙が真っ直ぐに立ち昇る。


「二日。それがお前が無断欠勤した日数だ」


 二日、か。随分と僕は長く眠っていたものだ。のんびりしてるにも程がある。


「なぜお前は悠に刺された後、蘇生するのに二日間もかかったと思う?」

「それは……それだけ致命傷だったという事じゃないですか? 最初に死んだ時だって時間がかかってますし」

「違うね。確かに最初こそ時間がかかったが、その後はどうだ? 頭を打ち抜かれた時はどうだった? 一瞬で蘇生しただろう? 傷だってまた然りだ。戦闘で負った傷は一分もかからずに修復していたのに最近の傷はどうだった?」


 確かにそうだ。初めて水城さんに連れて行かれた現場でも僕は二回死んだ。そのどちらも致命傷だったにも関わらずすぐに復活し傷もすぐに治った。その度に僕は絶望感に苛まれていた。

 だけど、あの時はどうだったか。この前の公園での事件。腹の致命傷こそ比較的早く塞がったけれど、体の痛みや男に切られた傷跡は翌日まで残ってた。


「お前が初めてウチに来た時、私はお前の事を調べ上げたと言ったな?」

「ええ、ずいぶんと事細かに調べてました」

「あの時は流石に私も驚いたよ。まさか有名な不死能力者と出会っていたんだからな」

「不死能力者……まさか、僕みたいな人間が他にいたんですか!?」

「私が知ってるのは一人だけだったがな。そいつと話したこともある。まあお前にそっくりなヤツだったよ。話し方とか考え方がな」


 その人はどういう人物なのか。どうやって死なない自分を受け入れたのか。思考が似ている、と課長が評するのならば、恐らく彼か彼女か、その人もきっと死にたがり。そして僕の先輩に当るわけだ。しかし、僕にはそれらしき人物と出会った記憶は無い。いや、もしその人がそうであることを悟らせない様にしていたのならば、僕はたぶん気付けない。


「それで、その人はどこにいるんですか?」

「死んだよ。今年の二月に」

「死ん…だ……?」


 どういう事だ。不死能力者という事は死なない体になったはずだ。まさか老衰なら死ねるのか?


「そしてお前はその死に際に立ち会った」

「死に際に……? まさか……!」


 今年に僕が今際の際に立ち会った人間なんてたった一人しかいない。


「お前が救急車を呼んだその男は、何か言ってなかったか?」


 課長の問いに僕はうなずいた。そしてその時の言葉を僕は簡単に思い出すことができた。

――死にたくない

 きっと彼は見つけたんだ。僕と同じ様に毎日に希望を見出せなくて、死にたくて死にたくてたまらないまま死ねなくて、何十年も生きてやっと見つけた生きる希望。それを手に入れた。


「死を望んだ人間を殺すのが生きる希望だとはな……」


 深々としたため息をタバコと一緒に課長は吐き出した。そのまま僕も課長も黙りこんで、じっと時間が経つのを待った。テレビも何もついていない部屋で、タバコが焼ける音だけ響く。

 やがて課長は二本目のタバコを消すと立ち上がって玄関へと向かう。


「水城さんは……この事を知ってたんでしょうか?」

「さあな。お前が死にたがってるのは気づいてたかもしれないが、だが恐らくお前の体の事は知らなかっただろうな」

「どうして、そう思うんですか?」

「さっきも言っただろう? アイツはどういう訳かお前にベタぼれだ。他人と触れ合うのが怖いくせにお前にキスをするくらいには。だったらお前が生きていたいと思ってるのに殺そうとするか? その可能性が無いとは言い切れないが、アイツの性格上そうするとは考えにくい。

 お前の話から察するに、普段のアイツとは違う新しい能力を手に入れたんだろう。その力で恐らく、最後にお前の願いを叶えてやろうとした。そして……」

「水城さんも……」

「アイツが何をしようとしてるのかは分からんが、最後にはそういう道を選ぶつもりだろう」


 だとしたら、彼女はどんな思いで僕に刃を向けたのか。想像してみたけど、僕にはその時の心境がどうしても想像しきれなかった。苦しかっただろう、悲しかっただろうと陳腐な言葉しか思い浮かべることができない。

 でも今、確実に言える事は、僕はまだ死ぬわけにはいかない。そして僕はまだ生きていることを彼女に知らせなければならない。彼女は死ぬべき人間じゃないんだ。伝えなければいけないんだ。僕はまだ生きていたいという事を。

「だから鏡、さっさと悠を捕まえて私の前に連れて来い。私の許可無く死のうとした罰を脳髄深くまで刻みこんでやらなければ気が済まん」

 強く、強く拳を握りしめる。血流が止まるくらいに強く握りしめて、僕は声を心の底から搾り出した。


「はい……!」






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