第5話 狂理、来裏(クルリ、クルリ)
-零-
――僕を愛してくれますか? なら僕も愛してあげられるかもしれません
-一-
人は慣れる生き物だと、どっかで聞いた気がする。
どんなに大変な仕事だってそれが当たり前になれば、よほど度を越してない限り日常の一コマに変わっていくし、どんなに幸せな生活を送っていたってずっとそれが続けば腐敗と怠惰に取って代わるし、やがて不幸だと感じるようになるかもしれない。そしてまた逆も然り、だ。不幸だとか思い込んでいても次第に不幸さを感じなくなるかもしれないし、まあ、幸福だと感じるかどうかは人それぞれだろうけど、気持ちの持ちようによっては、生きていけるのであれば悪くない程度には思えるようになるだろう。
「えー、なので先程も言ったように、等温変化の場合は内部エネルギーの変化が0なのでdQ=-dWとなり、外から受け取った熱量は全て外部への仕事となります」
かと言って僕が現状を幸せだと思っているかと問われれば、しつこいくらいに僕は首を横に振るだろうし、さっき述べたみたいに考えることができても幸せだと思えないのなら、僕には幸せになろうだなんて気持ちが乏しいのかもしれない。幸せなんてなろうと思ってなれるもんじゃなくて、でもなろうという意志がなければ幸せなんてなれない。そういった意味じゃ幸せ=成功という図式も当たらずとも遠からずと言えるか。成功するには努力がやっぱり必要条件だし。
「そして最後に同じように熱力学第一法則からdU=dQ+dWの式において、断熱変化の場合には外部との熱の授受がないのでdQ=0と考えることができるのでdU=dWとなり、内部エネルギーの変化分が全て外部への仕事に変換されることになり、グラフにしますと、このように一つの閉じたサイクルができあがります」
でもまあ僕自身も段々現状を悪くないんじゃないか、という程度には思えてきているのも事実で。
あの狂った世界にどっぷり浸かり放しだとしても、繰り返しになるけど、やっぱりそれもまた日常になれば慣れてしまうだろうし、まして僕は死ねないのだから肉体的には死ななくても時間が僕を殺してしまうかもしれない。それを回避できるという意味では、こうしてココで退屈な教授の妙に甲高い声を聞きながらノートを黒く染めていくのも悪くはないのだろう。
「結局は元の状態に戻ってくることになりますので、サイクル全体でdU=0となり、受け取った熱と放出した熱の差が外部への仕事量と言える事になりますね」
人がごった返す大きな講義室の一角で、他の人と同じようにふぁ、とあくびを漏らした。決して寝不足なんかじゃなくて、かけがえが無いと言えばそう言えるのかもしれない退屈で平和な日常の一コマとして。
まあ、なんだ、つまるところは。
僕は日常に戻ってきた。
教授が黒板に描くサイクルの図の様に、今、僕が立っているのは今までと同じ場所。だけど、場所は同じでもこの世界に起こる出来事はおしなべて不可逆な変化であって、実際僕の生活は百八十度、とはいかなくても多少の変化を受けた。
すでに正式に僕がS.T.E.A.Rに所属するようになって二週間が経つ。とは言っても大したことは無い。形だけの面接を受けて書類の上に僕の名前が加わっただけだ。
最初は正直言うと大学も辞めないといけないといけないのだろうか、と不安だったけど、こちらから尋ねる前に榊課長の方からOKが出た。「学生を無理やり社会人にするつもりは無い」とはその榊課長の弁で、聞いたその時はあまりの意外さに驚いて、寛大さに感謝の言葉を述べたりもしたけれど、後々になって考えてみればいくつか理由は思いつく。
他の人はどうだか知らないけど、当たり前ながら僕にも親がいて、授業料を払ってる。S.T.E.A.Rが「秘密組織」の形を取っている以上、学校を辞めさせると親に連絡が入るだろうし、そこからトラブルに繋がり兼ねない。無論トラブルの火種が上がればコッカケンリョクの名の下に潰してしまうのは眼に見える未来ではある。まあ、どちらかと言えば、「組織に属して管理できている」という事実の方が大事なんだろうけど。
そんなわけで僕はまだもう少しはモラトリアムの時間を享受できそうだ。実際、S.T.E.A.Rの仕事はバイトみたいな感覚で、基本土日と、人手不足此処に極まれり!みたいな時しか呼び出されてない。昼夜は問われないんだけどさ。
仕事も実際大したことはしてない。最初みたいに戦闘に参加するわけでもなく、七海さんの隣で分析の仕事を手伝ったり、後処理を手伝ったりと至って平和な仕事ばっかりだ。後は書類作成くらい。もちろん分析班の車外では戦闘は起こってて、確実に人ひとりが死んではいるわけで。そういったことを考えれば完全に安全というわけじゃないだろうし、戦闘員不足の非常時には真っ先に駆り出される筆頭格だろう、僕は。
それでも心のどこかでその非日常を楽しんでる僕がいるのも事実。不謹慎ながらちょっとしたスリルを糧に日常を生きていると言ってもいい。変化自体はどうやっても抗い様が無くて、ならそれを受け入れてしまえばいい。変化そのものは怖くとも、一度流されてしまえば後は楽だ。ともかく、あれだけ忌避して、最低な世界呼ばわりしたくせに僕はこの現実をそれなりに楽しめる様にまでになってしまっていた。僕の事だ、おおかた、また死にそうな目にあったり、誰かが目の前で死んだりしたら天に唾吐きかけて世界を呪うんだろう。我ながら現金なものだ。もっとも、人生なんてそんな事の繰り返しなのかもしれないけど。
慣れた、と言えば大学生活もそうでS.T.E.A.Rもそう。そして、あの忌々しかった結界に対する違和感にも慣れてしまった。今でも夜中に眼を覚ますことはたまにあるけど、気持ちの悪さは特に感じない。繊細だと思っていた僕の神経が案外図太かったのか、それとも感覚が麻痺していってるのか。いや、感覚が改変されていってるのかもしれない。なにせ、あの二回死んだ日から急速に鈍感になっていってるのだから。もっとも、寝不足が解消されたのだから理由なんてどうでもいいんだけど。どうせ元々狂った感性の持ち主なんだ。今更おかしなところが一つ二つ増えたところで、周囲に知られないのなら別に構わないさ、と心の中だけで誰にも悟られずうそぶく。
忘れてしまうだろう退屈の大切さを大きなアクビと一緒に噛み締める。午後ももうすぐ三時を迎えるところだ。何人かは早く終わらないか、とばかりに腕時計をチラチラと見始め、あるグループはノートの端を使って隣と会話してる。きっとこの後の相談でもしているのだろう。やりたい事があるのはいい事だ。
で、僕のノートはといえば、たまにミミズがのたくった古代文字もどきが見える。寝不足は治っても退屈な授業は眠いものだ。
いい加減僕のまぶたも重くなってきて、視界がだんだんと狭くなってきていたその時、おそらくは大部分の学生が待ち望んでいたであろう音が鳴り響いた。
「はい、それじゃあ今日はここまでで。ちょっとキリが悪いので、今回はレポートは無しです」
途端に騒がしくなる教室。あちこちでざわめきが広がり始め、それまで眠っていた連中もキョロキョロと辺りを見回して現実を確認すると、急々と帰り支度を始める。教授も義務を果たした、と言わんばかりにそそくさと部屋を出ていった。
僕もノートを閉じて分厚いハードカバーの教科書をカバンにしまう。そしてカバンから眼を離さないままに隣の人物に話しかけた。
「で、なんでいるんですか、ここに?」
「そんなの決まってるじゃないっ」
「あー、ハイハイ。要するに暇だったんですね」
大学なんてところは講義を受けるだけなら誰だってできる。それこそ爺さんだろうが会社員だろうが、極端に言えば赤ちゃんだってできる。泣かなければ、だけど。
言い過ぎを覚悟で言えば、大学生は、国立なら三百万近く払って大卒資格を買ってるみたいなものだ。全部の授業を一切眠らず受講して、四年間家でも真面目に勉強する人間は少ない。もちろん本気で勉強したい人間もそれなりにいるだろうけど、それは少数派だろうと思うのは僕の偏見だろうか。
だからそんな単位も貰えない講義を、真面目に自分の休みを潰してまで来る人間は宝くじの高額当選者なみにレアキャラであって、件の隣の人がそうかというと――
「たまたま街を歩いてたら鏡クンの大学があってさ、大学の授業ってどんなのかちょっと気になったから来てみたのさ。でも結構つまんないもんだね。外に人もあんまいないしさ。建物もボロっちいし。テレビで見るような、もっとキャッキャウフフなキャンパスライフ光景を期待してたのに」
「工学部のキャンパスに何を期待してるんですか、アンタは」
男ばかりの世界をなめんな。暇に飽かして女の子とイチャイチャするのなんて幻想なんだよ、と心の中でだけ吠えてみる。口にするとナントカの遠吠えになってしまいそうだから。
「でも鏡クンって結構頭いいんだね。アタシャ全然理解できなかったよ。ちょっと見直したかも」
「今日のところは高校時代の内容と被ってるんですけどね……」
それはそうとして。
見慣れない水城さんに気づいたのか、他の人たちがチラチラとコッチを伺いながら通り過ぎていく。少し耳をすませば「あの娘、誰?」なんて会話が聞こえてきそうだ。まあ、気持ちは分かる。水城さんが可愛いのは確かだからね。遠くから愛でる分には文句は出ないだろうし。
肺からため息を混じりの空気を吐き出し、講義室の出口に体を向ける。変に注目を浴びるのは好ましくない、と感じるのはいつものコト。とりあえず知り合いが少ない場所にでも移動しよう。
「うぃーっす、鏡ちーん!」
と思ったところでコイツ。
大学に入学して二ヶ月も経てば、ほとんど関わりが無い学生でもクラスメートがどんな人間かはおおよそ分かってくる。この正祐にしても授業によく遅刻する人物としてすでに有名であって、加えて社交的な性格だから男女問わず知り合いは多い。しかも完全に髪を金色に染めてるから容姿的にも目立つことこの上ない。そんな人物が声を上げれば自然と周囲の注意を集めてしまうわけで。
ビシビシと注目の視線が肌に伝わる。何をしたわけでもないのに、意味もなく心臓が小さく跳ねる。
相変わらず慣れないな。自分のアガリ症というか、心の準備ができてない時の小心さにため息をついて、それをごまかす為に更に大げさにため息を吐いてみせる。
「それじゃ行きましょうか、水城さん」
「それはいいけどさ、いいの?」
「ああ、アイツはいいんです。放置プレイマニアなんで、無視されると喜ぶんです」
「ふーん、課長と真逆のドMなんだねっ」
「誰がだよっ!」
「違うのか?」
「違うの?」
最初は冗談だったんだけど、どうも最近ホントにそうなんじゃないか、と思ってた。そうか、違うのか。
なんか妙に残念な気持ちになりつつもそれに蓋をして、盛大にうなだれてる正祐に目配せして外に出る。
外は相変わらずの陽気で、日差しは本格的に夏が近づいてきていることを感じさせる。だけど日光があまり得意じゃない僕にとっては好ましくない。
この後に訪れる真夏を思って陰鬱になる。まあ、正祐あたりは本気で楽しみにしてそうだけど。夏だ、海だ、水着だ!みたいなノリで。
「どったの、鏡ちん。あんまりため息ばっかりついてると幸せが逃げちゃうよ?」
「ため息が多いのは仕様なんで気にしないでください。あとアンタもその呼び方をすんな」
「えー? 別にいいじゃない。可愛いと思うよ?」
「嫌なものは嫌なんです。人が嫌がる事をしちゃいけませんって教わりませんでした?」
「それを鏡ちんが言うかなぁ……」
「分かりました。なら課長に告げ口しときます」
「ゴメンなさい」
なんというキレイな土下座。心がポッキリ。まあ、気持ちは分かるけど。課長なら逆に喜んで水城さんをイジメに走りそうだ。天邪鬼っぽいし、あの人。
「楽しそうな会話をしてるところ悪いんだけどよ、鏡ちん」
「なんだ? あとお前もその呼び方を止めろって」
「お? おお、分かった。それでよ、鏡ちん。一つ質問があるんだが」
「分かってねえよ」
とは言え、ここで意地を張ってても話が進まないのでこの場は諦める。この点で言えば、僕の方が心が折れそうなのは僕だけの秘密。
「この可愛いお嬢様はどちら様でございましょうか?」
「なんで急に敬語なんだよ」
「お嬢さん、お名前を拝聴させていただいてもよろしいでしょうか?」
「人の話を聞けよ。てか、質問振るだけ振って自分で聞くのかよ」
「水城悠だよっ。チョウチョも逃げ出す、うら若き乙女なのさっ!よっろしくぅ!!」
また自分で言ってやがる。しかも僕にした時と微妙に変えてるし。
ぶい、と自分でのたまりながらピースサインを高々と掲げた。二十歳、そろそろ自重しろ。
「悠ちゃんか。いい名前だね。俺は君原正祐。そろそろ油の乗り始める、将来性豊かな色男さっ! ヨロシクぅ!!」
「僕はお前の将来が心配だよ」
なんだこの似た者同志は。「イェーイ!」とか言いながら拳でハイタッチ。あれか、これがいわゆる類友ってやつか。二人揃って自重しやがれ。
「なんだか鏡クンの友達って面白い人がおおそうだねっ」
「まだ一人しか出会ってませんけど」
「コイツ人見知りだからさ、友達少ねえの。だから心が琵琶湖なみに広い俺がこの性根ネクラ野郎と友達をしてあげてんのよ」
「そっか、微妙に狭い心の持ち主なんだねっ」
「お前に貸したノート、没収な」
「言葉の選択肢を間違えた!?」
「お前の常識が非常識だっただけだ」
ああもう、メンドくせぇ。
このままカオスな空間に居続けるのも、それはそれで別に悪くもないのかもしれないけど、いい加減疲れてきた。外に出てすぐ話してたから、すでに周りに誰もいないし。
「それで、お前はお前で今度はどんな用だ? ああ、ノートなら気にしなくていいよ。コピー代+アルファさえくれるならコピーして持って行ってやるけど」
「うっし、買った」
「即答かよ」
まあ別に良いけど。お値段は良心的で留めといてあげるか。
「で、話はそれだけ?」
「それだけっちゃそれだけだけどよ。その反応はちっと寂しくねえか?」
「いつものコトだと思うけど?」
「ま、確かにな。でもよ、別に用らしい用は無くても話しても良いと思わねえか? 鏡ちんがいたから話した。ただそれだけじゃねえか。お前は友達と話すのにも理由が必要か?」
まったく、この男は……不意打ちで良い事を言ってくれる。今、僕の周りの世界にどれだけ打算に満ちた考えが溢れているのかは分からなくて、どこまで言葉を言葉通りに信じていいか分からない。街頭で演説する政治家、テレビの向こうでキャラ作りに必死のお笑い芸人やアイドル、常に距離感を探り合うクラスメート。そして僕。
だけども、こうしてストレートに言葉を与えてくれる存在は貴重で、逆にそれゆえ申し訳なく、そしてありがたい。コイツはいい意味でバカだから、今の言葉だって恐らく正祐に取っては何の考えも無しに出たんだろう。それがどれだけ僕を助けてくれているのか知らずに。
笑顔をバレないように咬み殺す。本当に感謝し切れない。恥ずかしいから口にはしないけど。
「しっかしまあ、なんだ。俺も安心したぜ」
「? 何にだよ?」
「今だからか言うけどよ、お前の事を本気で心配してたんだぜ。いつまで経っても女っ気が全くないしよ。せっかくの大学生活なんだぜ? 男も女もタガが外れやすくて男女の距離も近づくのに絶好のチャンスだってぇのにお前ときたら全くその素振りもねえし。そもそも女の子に興味があるのかも怪しかったしな」
「鏡クンっていつでもどこか素っ気無いよね、確かに」
「いつまでも何も、まだお前と出会って二ヶ月しか経ってないんだけどな」
「だーかーら、そんなレベルの話をしてんじゃねえよ。だいたい、毎日を下半身だけで生きてるような俺らの年齢からすりゃ、街中を歩いてるだけでも無意識に女の子チェックしたりとか、『お、あの娘可愛いな』とか『ああ、あんなオネーサマに踏まれたい』とか『ちっちゃい子にお兄ちゃんって呼ばれたい』とか色々あるだろうがっ!!」
「うん、分かった。とりあえず警察に自首しようか」
「正祐クンは変態さんなんだねっ」
「ほっとけっ! ともかくも、だ。自称とは言え、お前の友人と自負してる俺としてはそんなお前が心配だったって訳だよ」
「あー、中身はともかくとして心配かけたのは申し訳ないと思うけどさ、それがどう安心に繋がるんだよ?」
「いや、だって彼女ができたんだろ?」
何を言ってるんだろうか、この男は。
流れ的に僕にできた、という事なんだろうけど、話が見えない。
つい首を傾げ、隣の水城さんを見ると興味津々な様子だ。へえー、と言わんばかりに僕を見上げていた。
「誰が?」
「鏡ちんが」
「誰と?」
「おいおい、とぼけんなよ。悠ちゃんとに決まってんだろ?」
瞬間、顔を見合わせる僕と水城さん。きょとん、とした表情を浮かべていたけど、時間と共に意味が水城さんの頭に浸透していったのか、徐々に顔が赤く、それこそリンゴのようになんて使い古された表現がぴったりはまるくらい変化していくのが分かった。
「あ、あはあはあはははははははははははっ! やだなぁ、もう、正祐クンは!」
バシバシと正祐の背中を笑いながら叩き続ける水城さんと叩かれる度に「あ、もっとっ……」と怪しい声を上げる正祐。カオスだ。
「えっと、とりあえず訂正させてもらうけど、僕と水城さんはそういう関係じゃないから。バイト先でお世話にはなってるだけだし、将来的にはそういう関係になれたら嬉しくないわけじゃないけど、今現在は全くそんな事実はないから」
そう告げてやると正祐の奴はこれ見よがしに深々とため息をついた。そして僕の首根っこを捕まえると水城さんから離れていく。
「お前なあ……察してやれよ」
「何をだよ?」
「興味のネエお前にとっちゃその程度なのかもしれねえけどな、悠ちゃんは本気だぜ?」
「そうか?」
「ああ。悠ちゃんはウチの学生じゃねえんだろ?」
「そうだけど、よく分かったな」
「当たり前だ。俺を誰だと思ってるんだ? ウチの女の子は大体チェック済みに決まってんだろ? んで、だ。どこの生徒だかは知らねえけどな、わざわざウチの大学にまでお前に会いに来てるんだ。好きじゃなきゃ誰がそんな、もの好きな事するかよ」
水城さんならホントに暇だったから来たんじゃないか、と思わないでもないけど。
もしホントに水城さんが僕なんかの事を好きになってくれてるなら、それは嬉しいけど、その可能性は低いだろうと思う。
この前の事件の日、僕の手を振り払った水城さんの表情が頭に浮かぶ。あの行動自体はもう別に何とも思ってないし、水城さんの人となりを考えれば何か理由があったんだろう。
例えば、対人恐怖症とか。
普段のキャラを考えれば何を、と思うかもしれないけど、人なんて誰でも一つくらいは予想外のバックグラウンドを抱えてるものだ。表面的な情報では理解しえない何かを。ましてやあんなマトモじゃない組織に所属してるんだし、彼女も何か事情を抱えてるのは確実だ。まあ、嫌われてるとは思わないけど、僕に触られるのをアレだけ嫌がってた人が僕に対して恋愛感情を抱けるとは思えない。
「というわけで、だ」
パッと僕の首から手を離して、正祐は水城さんの方へ戻っていく。結構強い力で締められてた首の骨を鳴らしながら、僕も元の場所に戻る。
「んじゃ、悠ちゃん。俺はちーっと用事があるんで失礼するよ」
「え? ああ、うん。そっか、もう少しお話したかったけどしょうがないよねっ」
「大丈夫だって。悠ちゃんがまた鏡ちんに会いに来れば、どうせ俺ももれなく付いてくるから」
「なんだ、また女の子とデートか?」
「おうよっ! 年上のオネエさんなんだけどな、見た目小学生並みに背がちっさくて可愛いのよ、これが。そのくせ気が強くてな!」
「……まあ、頑張れよ」
「お前の方こそな。ちゃんと悠ちゃんをエスコートしろよ」
「と言われてもなぁ……」
経験が無いから、例えエスコートするにしてもどんなトコに行けばいいのか分からんし。
「つーことで、そろそろ退散するわ。人の恋路を邪魔しちゃぁいけねえもんな」
そんな事を言いつつHAHAHA、なんてエセアメリカンな笑い声を残して正祐はどっかへ行ってしまった。そして取り残される僕と水城さん。閑散とした昼下がりのキャンパスにポツンと男女二人きり。次の授業の始まりを教えてくれるチャイムが鳴り響く。はてさて、どうしたものか。
隣を見れば水城さんはまた顔を赤く染めてるし。てか、水城さんって結構ウブだったのな。
僕の視線に気づいてコッチを見上げる。
「えっと……」
なんて言いながら恥ずかしそうに視線を逸らす水城さん。
確認だけど、水城さんは可愛い。僕なんかにはもったいないくらいに。キャラとしてはそれこそ数えきれないくらいにクセはあるけど、まあ許容範囲内。お世話になってるし、僕自身としても悪い感情はほとんど持ってない。
そんな彼女が恥ずかしそうにしてるのはどこか新鮮で、なんだか僕も調子が狂う。
(誰かを好きになったことがないから分からないけどさ……)
完全に狂ってしまってるんだろう、今の僕は。でもきっとそれは今までの僕とは違って、肯定的に捉える事ができて。
――まあ、なんだろう
僕も一度水城さんから視線を外して、何となく明後日の方を見る。ポリポリ、と指先で頬を掻いてみる。
「とりあえず、何処か行きますか」
――こういうのも、悪くない
-二-
「すいません、こんな所で」
言いながら僕はハンバーガーとポテト、そしてジュースの乗ったトレイをテーブルに置いて椅子に座る。大学生にもなっておやつの時間も無いけど、学校近くのマックにはそれなりに人が入っていて、みんな楽しそうにおしゃべりに興じてる。
「別にいいよー。アタシもジャンクなフード好きだし」
もしゃもしゃ、とポテトを頬張って頬をリスみたく膨らませて返事をする水城さん。そしてズズーっと音を立ててジュースを飲み干す。
「行儀悪いですよ」
「いいんだよっ。こういうのは本人が一番美味しいと思える食べ方をするのがベストなのさっ」
まあ、それもそうか。
包み紙を外して僕もハンバーガーにかぶりつく。テーブル越しに彼女は指についた塩をチュパチュパと舐めてた。
「それで、どうしましょうか、この後?」
「そうだねぇ……鏡クンはどっか行きたいところある?」
「僕は別に欲しいものは無いですし、水城さんに付き合いますよ」
「うーん、どうしようか……アタシも特に無いしなぁ。趣味も無いし。ま、別に無理にどっか行かなくても良いと思うよっ。ここでダベるのもアタシ的には有りだし」
「水城さんがそれで良いなら構いませんけど……」
これが僕じゃなかったらどこか遊びに行ける所の一つでも提案するんだろうけど、残念ながら僕は僕でしか無く僕に僕ができる以上の事はできないわけで、ココはありがたく安いマックで時間を潰させてもらおう。
とは言うものの、僕はあまり会話のネタというものを持っていない。基本話しかけられなければ一日中口を開かずに過ごしてしまうような人間で、ファッションにも興味は無いし、僕が抱えてるネタといえば政治ネタか経済ネタ、それかスポーツネタという、女の子と話をするには至って不向きなネタしか無い。というか、自分で考えて少し悲しくなってきた。今更自分を「普通」だと形容する気は海に浮かぶプランクトン並みに無いけれど、もう少しマシだと思ってたのに。
「鏡クン、あのさ……」
無い頭で話題を必死で探していると、ありがたい事に水城さんの方から話を振ってきてくれた。が、不幸にも僕の携帯が同時に鳴ってくれやがりました。
開くとディスプレイには見慣れた番号。一瞬迷ったけど、後からかけ直すのも面倒なので水城さんに謝って通話ボタンを押した。
「もしもし?」
「あ、鏡? 今、大丈夫?」
「大丈夫だけど、友達と一緒にいるから手短にお願いね――母さん」
話しかけながら、思う。母さんに対して、死んでくれないだろうか、と。
僕にとってその考えは珍しいことじゃなくて、ふと母さんの事を思い出せばそう考えてしまう。それはとても罪深い事で、許されない事で、非人間的で、異常な事だと分かってはいるけど、そんな考えが頭から離れない。
決して嫌いじゃない。むしろ大好きだ。マザコンだと言われてもおかしくないくらいに。
「あ、そう? 分かったわ。いや、今から荷物送ろうと思ってるんだけど、明日届くから大丈夫かなーって思って電話した次第です、ハイ。午前中部屋にいるの?」
「あー、まあ今のところ特に用事は無いけど確約はできないよ。多分大丈夫だと思うけど」
「オッケー。なら明日の朝九時着で送ります。えーっと、米とインスタントの味噌汁と、お茶と、あ、あと缶詰が入ってるからね」
「うん、分かった。ありがと」
僕がそこそこに優秀な学生でやってこれたのは確実に母さんのおかげで、それと同時に今の僕という人間を創り上げてしまった。
無邪気さを捨てた幼少時代。苦労してる母さんの後ろ姿を見て育ち、母さんを喜ばせるためにいい子でやってきた。だけどそうやって生きるのに限界を感じ始めて、そして生きる目標を失ってしまった。他人の視線に怯えるだけの死にたがりになってしまった。
死にたい。だけども母さんを悲しませたくは無い。自殺なんてしたら、母さんはきっと悔やむだろう。自分を責めるだろう。もしかしたらあとを追って自分も自殺なんて事をしかねない。それくらいに僕が愛されてる自覚はある。だから僕は緩慢で急速な死を願った。母さんを悲しませるのは変わらないけど、自殺することに比べれば、自己を責めるという点で遥かにマシであって、そして僕のエゴとのギリギリの妥協点。
「どーいたしまして。一人暮らしはどう? もう慣れた?」
そんな僕の内心を知らずに母さんは楽しそうに話しかけてくる。僕は申し訳なさを押し隠し、ひたすらバレないように平静を装う。
「さすがにね。二ヶ月も過ごせばボロ屋も都だよ」
「うん。だけど気をつけなさいよ。特に火の元周りは。それにそっちは大分より都会だから、犯罪も多いんだからね。常に警戒しておく事。いい?」
「ああ、うん。大丈夫――大丈夫だよ、母さん。それじゃ、友達待たせてるからさ」
電源ボタンを押して通話を終了。背もたれに体を預けたら、深いため息がこみ上げてきた。
「お母さん?」
「え? ええ、そうです。スミマセン、お待たせしちゃって」
「どんな話だったか、聞かせてもらってもいいかな? 鏡クンが嫌じゃなければ、だけどさ」
「大した話じゃないですよ。明日荷物を送るから受け取れるか、ていうのと、まあ、物騒だから気をつけなさいよ、ていう話だけです」
話しながら思わず苦笑いが出てしまう。何せ、犯罪最先端なところでバイトしてるのだから。
「鏡クンは兄弟とかはいるの?」
「いえ、僕と母親だけです。幼い頃に離婚してるので……
父親の所在も知りませんが、まあどこかで幸せに暮らしてるのかもしれませんし、どこかで野垂れ死んでるのかもしれません」
「そっか……鏡クンも苦労してるんだね」
「僕としては後者の方である事を命を賭けてもいいくらいに切に願ってますけど」
「黒っ!! 鏡クンが黒過ぎてダークサイドにっ!!」
「剣術に長けていればピッタリですがね」
僕は善良でも純心でも無いですが。
「水城さんのところはどうなんです、ご家族は?」
「あー、うん、アタシのところは家族いないから」
「いない?」
「うん、昔いろいろあってね、お父さんもお母さんも死んじゃったのさ」
その言葉を聞いた瞬感、ほとんど条件反射で申し訳そうな表情を浮かべたのが自分でも分かった。感情に動かされてるのではなくて、状況に動かされているという事実。そっちの方に自分で申し訳なさを感じてしまう。
「それでね、鏡クンに謝らないといけない事と話しておかないといけない事があるんだ」
「謝る事と、話したい事、ですか? じゃあ元々そのつもりで今日ココに?」
「あはは、ココに来たのはホントに暇だったからだよ。でも、いつかは話さないと、て思ってたから、ちょうどいい機会かなって」
「それは……ご家族の話ですか?」
「うん……。あ、でも別に話しづらいって訳じゃないんだよ? そういう訳じゃないんだけど、あんまり人に向かって話すことでもないから。ただ、鏡クンに勘違いされるのもなんかイヤだったから、話しておこうと思ってさっ」
勘違い、か。特に勘違いを招きそうな、水城さんに関する出来事は僕の頭の中には存在しなくて、強いてあげるならさっきの赤面とかだろうか。「べべべ、別にアンタの事なんて好きでも何でも無いんだからねっ!」と顔を真っ赤にして叫ぶ水城さんの姿を想像してみる。どこのツンデレ少女だ。
どこか顔に出ていたのだろうか、「何を考えてるのかな、鏡クン?」と聞かれたので「別に何も?」と素っ気無く返しながら聞く態勢を整えた。
「えっとさ、この前はゴメンなさい」
「と言われても、コッチとしては謝られる理由が思い当たらないんですけど……」
「この前の事件の時さ、手を振り払っちゃったよね? ずいぶんと遅くなっちゃったけど、それを謝ろうと思って」
やっぱりか、と思った。というか、それくらいしか理由は思い当たらなかったけど。繰り返しだけど、別にもう何も思うところは無いし、それを引きずるほど子供でもない。第一、あんな青ざめた表情をされて誰が責められるだろうか。
「あれはさ、鏡クンの事が嫌いだとかそういう訳じゃなくてさ、その、ね、実は他の人に触るのってダメな人でさ」
「潔癖症とか、そういった類ですか?」
「別にそういうのじゃないよ。むしろ床に落としても三秒ルール適用するし」
「でしょうね。僕もそう思ってました」
「……なんか引っかかるなぁ。鏡クンってアタシのことどういう風に見てるのかな?」
「ご想像にお任せします。僕の口からは何とも」
むむむ、と唸りながら少し睨む感じの視線を適当に受け流しつつ、続きを促す。
「むう……なんかもったいぶったのが馬鹿みたいになってきたなぁ。
とにかく、昔ある事件に巻き込まれました。その時家族はみんな死んでアタシも死にかけました。その時の事がトラウマで人に触れません。オシマイ」
「サラッと凄い重たい話をしましたよね、今?」
「鏡クンのせいだからね。ホントはもっと重々しく話したかったのにさっ!」
「ゴメンナサイ」
プク、と頬を膨らませてふて腐れてしまった。けど、どうもこの人がやると怒っている様に見えない不思議。まあ、おかげで僕も責められてる気がしないから気が楽だけど。茶化した反省は心の中でコソッとしておく。
「鏡クンとはさ、仕事でも同じ班だし、もしかしたら無意識でまた同じような事しちゃうかもしれないから話したんだ。だから、あんまり気にしないでね?」
「大丈夫ですよ。確証はありませんでしたけど、何か理由があるだろうとは思ってましたし、ああいう職場です。たぶん、ほとんどの人が何かしらそういうトラウマ的なものを抱えてるんじゃないですか?」
能力者の能力はその人が抱えているコンプレックスやトラウマに左右されると七海さんは言っていた。だから水城さんもまたそうした暗い何かを抱えてるのは想像に易い。まして彼女の能力は「死」に関するものだ。なら彼女のエピソードを聞いても特に驚くほどじゃない。
「それでも、だよ。知ってるのと知らないのとじゃずいぶん違ってくると思うから」
「分かりました。覚えておきますよ」
「うん、メンドクサイだろうけど、これからも嫌がらず付き合ってくれると嬉しいなっ」
「大丈夫ですよ。僕は一度好きになったら嫌いになれない性質ですから」
空になったカップから突き出たストローをもてあそびながら、僕はそう口にした。
中々他人を、男女問わず好きになれない僕だけど、一度気に入ってしまったらもう僕はそいつを嫌いになれない。どれだけひどい事をされようと、どれだけ僕を怒らせようとも、結局は同じような付き合いを続ける事ができる。それが良い事なのかは判断がつかないけど、それが僕なら僕はそれを受け入れる。
「ふふ、ありがと、鏡クン」
お礼なんてとんでもない。むしろ僕の方こそこんな僕に付き合ってくれてありがとう。
そう言いたくて、でも真面目な気持ちでありがとうと言うのが気恥ずかしくて、何故だか苦笑いが浮かんでくる。代わりにどういたしまして、と言おうとして僕は視線を水城さんへと戻す。そこに、水城さんの笑った顔があった。
普段の、年中笑ってそうな幼い笑顔じゃなくて、年相応、もしくはずっと大人びた、心底嬉しそうな顔。
それを僕は不覚にも「可愛い」と思ってしまった。
-三-
電話が掛かってきたのはその日の夜だった。いや、夜と言うには時間は朝に近過ぎて、朝と言うには世界は暗過ぎる、そんな時間。枕元でガチャガチャとうるさい音を立てる携帯を僕は掴むと「ふぁい?」と寝ぼけた声で返事をした。
「ゴメン、鏡クン。眠ってたよね?」
「そりゃまあ、時間も時間ですから。それでどうしたんですか? 事件ですか?」
そう聞き返すと、水城さんは慌てた様子で、電話越しでも首をブンブンと横に振ってるのが分かるくらいに否定した。
「事件も起こったことは起こったんだけどね。でもそっちはもう解決したから。ただ……」
「ただ?」
何か言いたそうな様子に、僕は寝ぼけ眼を擦るとメガネを掛け、自分一人の部屋で姿勢を整えた。何となく、何となくだけど彼女が何か重要な事を言いそうな気がして。
けれども僕の予想とは裏腹に「ううん、何でもない」と殊更に明るい声で彼女自身の言葉を遮った。
「夜中に電話しちゃってゴメン。もう切るね」
「水城さん?」
「うん、大丈夫。ホント、大したことない話だから。何となく鏡クンの声を聞きたくなっただけだから」
「それはそれで嬉しいんですが……本当に大丈夫ですか?」
「ダイジョーブダイジョーブっ! 心配かけちゃってゴメンよ、ホント。んじゃねーっ、おっやすみぃ!」
夜中だというのに元気な声を残して彼女はいなくなった。耳元の受話器からはツーツー、という音だけが鳴り響き、静かな僕の部屋にひっそりと広がった。
一体、何の様だったんだろう。半分寝たままの頭で考える。事件があったというから、たぶんそれ絡みで何かがあったんだろう。それは僕に関係してくることなのかもしれないし、彼女自身に関係することなのかもしれない。だけど、いずれにせよ、彼女は殊更に知らせる必要は無いと、電話を掛けた後に思った。
大したことなのかもしれないし、本当に大したことじゃないのかもしれない。
(明日、課長にでも聞いてみるか)
もし何か特筆すべきことがあったのなら、伝えるべきことは僕にだってキチンと伝えるし、そうでないなら何も僕には言わない。課長ならその判断は間違わないだろう。その程度にはあの人は信頼できる。そう結論付けて、僕はまた布団の中に潜り込んで眼を閉じた。数秒も経たずして意識が遠のき、夢の中へ吸い込まれていく。
そしてそのまま僕はその晩の事を忘れてしまった。
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