第4話 以上、異常


 -零-


 ――世界は優しいだなんて、何を間違ったらそう思えるんだい?


 -一-


 夢を見ていた。

 夢らしくどこかぼんやりとした景色で、そこに何か有るのにそれが何かを認識できない。認識できないけど、それが何なのか、そこがどこなのかを何となく理解できている都合の良い世界。現実もそれくらい都合よくできていたら、と夢の中でさえも思ってしまう。夢にまで嫉妬するなよ、とも思わないでもないが。

 それはともかくとして、その曖昧な景色から僕は教室にいることを理解した。それは大学や高校ではなくて小学校の教室。正面の黒板らしきものの上には、当時よく見かけていた、小学校の先生らしい綺麗な字で書かれた学級目標が掲げられている。

 何年生の夢なのだろうか。

 それは分からないけど、教室の中には懐かしい顔ぶれが笑っていた。小学校の時、放課後よく一緒に遊んだヤツ、昼休みに一緒にバスケをやっていたヤツ、バカをやってよく怒られていたヤツ。そいつらが一人も欠けることなくそこに立っていた。

 僕はそいつらを少し離れた場所から眺めていた。その立ち位置がどこかは知らない。ベランダかもしれないし校庭かもしれない。もしかしたら宙に浮いてみているのかもしれない。それが一番しっくり来る。おかしいと思うけど夢なんだし、と深く考えずに僕は観察に専念した。眺めていると一段と懐かしさが込み上げてくる。あいつら今も元気にやってんのかなー、なんて中学以来会うことさえしてない彼らにノスタルジックな感傷がじわりと胸の中に溢れてきた。

 今度、連絡でも取ってみようか。

 彼らが今、どんな生活を送っているのか知らない。僕みたいに県外に出ているのかもしれない。けれどお盆くらいに連絡を取ればきっと繋がるだろう。

 当時の連絡網ってまだ取ってあったかな。ずいぶんと薄れてしまった記憶を辿り、実家においてある机の引き出しの中にしまってあることを思い出す。今度実家に帰ったら確かめてみよう。と、突然僕の手の中に電話とその連絡網が現れた。


――ああ、どうせだし今から電話かけてみるか。


 夢だし、とやっぱり深く考えず、相手に連絡を取れるかどうかも分からないのに電話のボタンを押そうとする僕。

 ええっと、あいつの番号は、と……

 連絡網の先頭から順に辿っていく。それは極々普通の行為で何の変哲もないはずで、そうやって辿っていけばいつかは目的に辿りつけるはずだ。

 なのに気づけば僕の指は連絡網の最後に到達してた。

 あれ、と首をかしげる。右に四十五度ほど。そしてまた最初から辿り始める。そしてまた最後に到着。右に四十五度傾く。また最初から辿る。最後に着く。右に傾く。始まる。終わる。傾く。最初。最後。右傾。開始。終了。

 何度やっても目的に着かない。見つからない。誰一人として見つからない。ますます僕は首を捻る。

 なんでだろ?見つからない理由を探しに思考を巡らせる。視線を周囲に巡らせる。

相変わらず楽しそうに談笑してる彼ら。そこに僕の姿は無い。いいなー、と僕も相変わらず傍観者に徹していて、ただ見つめているだけで、そして僕は気づいた。


――名前、何だっけ……?


 途端、ストンと自分の中で腑に落ちる。連絡網に見つからない。そんなの当たり前だ。

 だって僕は彼らの名前を忘れているのだから。それと同時に思い出す。当時の僕を。

 僕は、彼らが嫌いだった。

 もっと正確に言うならば、僕は彼らが嫌いではない。彼らの在り方が嫌いだった。

 もっとも、それは今になって言えることで、当時の僕がその違いを認識できていたかと問われれば迷わずに首を横に振れる。

 彼らと一緒にいるのは楽しい。話をするのは楽しいし、一緒に遊ぶのも楽しかった。そしてそれと同時に彼らといると、時折ひどくイラついている自分がいることにある日、気づいた。それは感性の違いに起因していると言えるかもしれない。

 幼さ故のわがままで、周りを気にせず自分のわがままを押し通そうとする態度。言われた事さえ守れず、周囲に迷惑を掛ける同級生。

 何が面白いのか分からない冗談を口にしては笑い転げるクラスメイト。

 それは僕には相入れず、そうした中に自分はいなければならなくて、そういった周囲と同じ評価をされていくのがとても嫌だった。

 彼らはあまりにも奔放で、あまりにも自由で、あまりにも年相応で。それがうらやましかった。何者にも縛られず、何にも気を遣うことはなく、ただ自分があるがままに存在していられる。

 そんな、誰もが浸れるはずの微温くて居心地の良い時間。その中に彼らはいることを許されていて僕は許されていない。それは特権だけども、特権と言うにはあまりに多くの人が持っていて、なのに僕には無い。それが僕は悔しくて妬んだ。

 もちろんそれは僕の大きな勘違いで、僕にも享受する資格はあったはず。望めばきっと手に入っただろうと思う。だけどもその事に気づくはずもなく、それを僕は捨ててしまっていた。

 夢の中の僕はそれらを思い出す。思い出した途端、目の前の彼らが消えていった。段々と姿が薄れ、空気に溶け込み、霧散していく。本当に、何とも都合の良い世界だ。

 僕の視界も徐々に薄暗くなっていった。

 夢が覚める。知覚とも予感ともとれる曖昧な感覚でそれを感じる。そしてまた不都合な現実が始まる。

 夢が覚めていく。世界が壊れていく。それでも僕は隅っこに身を寄せて最後までそれに無駄なあがきと分かりつつも抗った。だけども、だけども弱くて無力な僕は猫に食い殺されるネズミに等しいまでにあっさりと現実へと放り出される。

 その直前。

 何かが僕を撫でてくれた。




「……っあぁ」


 自分の奇妙なうめき声に起こされて僕は眼を開いた。仰向けに寝ていたので最初に眼に入ってくるのは当然ながら天井で、だけども見知らぬ天井だ、なんて事も無くて、一ヶ月間毎日寝起きに眺め続けてすっかり見慣れた極々普通の(ボロいので今にも板が落ちてきそうではあるけれど)天井だった。

 起き抜けに枕元の目覚まし時計を手に取って時間を確認してみると、デジタルの表示は四時前を示してた。大学から帰り着いたのが一時過ぎだったから三時間弱寝てたことになる。


「もちっと寝かせてくれればいいのに……」


 とは言うものの、一度の睡眠が三時間というのはこの一週間だとかなり長い部類になる。まだ体にダルさは残るけど、それでも寝る前よりかはかなりマシだ。

 ここ一週間、正確にはあの日取り調べから解放されてから毎晩僕は眠れていなかった。それは人生初の警察による取り調べに精神的ショックを受けたことが原因、とかではなくて、毎晩何かに起こされてしまうのだ。

 一週間前のあの日。食堂で正祐と別れた後に感じた違和感、それを感じるのだ。あの時は気味の悪さだけが際立っていたけど、今となっては明確に感じ取れるまでに成長してしまっていた。「何か」が何なのかは分からない。分からないけど、そこに何かがあるとはっきり分かる。あの日の出来事がきっかけなんだと思われるそれは具体性が一切無く、ただ何かが起きている方向だけが分かった。しかも違和感は強烈。全く以て無駄としか言い様がない力だ。これが最近僕を心底悩ませてくれているのだからたまらない。

 僕がもう死ねないのだと分かった日から四六時中いつだってお構いなしにその感覚は襲ってきていた。ご飯を食べてる時でも、授業を受けてる時でも、トイレに入ってる時でもそして寝ている時でも。どれだけ熟睡していてもその感覚が来れば眼が覚めてしまう。そしてその時に僕は実感してしまうのだ。もう、自分が普通では無い事を。

 人と違った力を持ちたい。そう思った事は一度や二度じゃない。だから、他の人と違うのだと感じれるのは喜ぶべき事なのかもしれない。けれど僕はこんなモノは欲しくなかった。僕が欲しかったのはあくまで普通の範疇を出ない、常識的な能力だった。

 例えば天才的な頭脳であったり。

 例えばプロのスポーツマンだったり。

 例えば芸術的な感性だったり。

 僕には才能が無い。だから別に特別な天才じゃなくても構わない。ただ、才能と呼べるものが欲しかった。

 自分はこれを頑張っていける。努力していける。他人に誇れる。大多数の人間の中でも埋没しないアイデンティティが欲しかった。

 だからこれは違う。努力もできず、人に見せることも誇ることもできない。死なない事が何の役に立つというのだろうか。誰かを喜ばせることができるのか。誰かを笑顔にできるのか。誰かを救うことができるのか。

 のっぺらぼうの群衆の中で自分もまた顔を失っていく。失わざるを得ない。他人に見られ、視線を気にし、マジョリティに望まれる自分の仮面を被って生きていかなければならないのに、自分で終止符さえも打てない。誰しもに平等に与えられるはずの死でさえも僕からは取り上げられてしまった。

 毎晩目が覚めて、グルグル回る終わりのない思考を繰り返して寝不足の朝を迎える。不死のくせして痛みも苦しみも飢えも乾きも疲労も感じる中途半端な体。まるで僕自身みたい。

 深々とため息を吐き出し、メガネを掛けて部屋を見る。そして固まった。


「……何でココにいるんですか」

「んー? 暇だったからだよ?」


 何当たり前の事を聞いてんの?と言わんばかりの顔をして、そしてまた悠さんは手に持ったマンガへと視線を落とした。ちなみにそのマンガが僕のマンガであることは、本棚からそれが抜けている事から確認済みだ。ついでに言えば九〇cm四方のテーブルの上には一.五リットルのペットボトルとコップが置かれてて、その周りには水溜りができている。記憶が正しければ僕は朝家を出る前にきちんと冷蔵庫にしまったはずなんだけど、


「あ、喉乾いたっしょ? ジュース飲む? それとも水の方が良いのかな?」


 なんてノタマッテくれる。ココって僕の家だよな?と現状への疑いを脳内で連呼しながらも、差し出されたコップを受け取って注がれた炭酸飲料をチビチビと飲んでいく。


「それで、ホントは何の用なんですか? ええっと……スイマセン、名前何でしたっけ?」

「ふぇ? まだ自己紹介してなかったっけ?」

 名前は知ってるけども――もっとも、悠っていうのが名前かどうかは分からないけど――いきなり女性を馴れ馴れしくファーストネームで呼ぶ程僕は女性慣れはしていないし、自己紹介されてないのも事実なので僕は黙って頷いた。


「そっか、それは失礼しましたねっ! 水城悠だよ。歳は二十歳! 花も恥じらううら若き乙女! 鏡クンよりも年上だけど悠って呼んでくれると嬉しいなっ!」

「なるほど、分かりました。とりあえずよろしくお願いします、水城さん」

「……鏡クンっていい性格してるよね?」

「お褒めの言葉ありがとうございます。ですけど、まだよく知らない女性を下の名前で呼ぶ勇気はありませんので」

「本人が良いって言ってるのに?」

「そのうち慣れてくればご希望に添いますよ」


 そう言うと水城さんはブーッと、子供みたいに唇を尖らせて不服そうにする。けどすぐに「ま、いいや」と寝転がってまたマンガを再開した。

 なんとも図々しいお方だ。そう思ったが、これくらい図々しい方がコッチとしても気を遣う必要がないので(もうすでにあまり気を遣ってないけど)僕としては好ましい。何より、この人も正祐と似たニオイがするので、多分近々「僕が失礼な態度を取っても大丈夫」な称号を授けられる第二号さんになるだろう。なんか響きがやらしいけど気にしない。

 水城さんは寝そべったままテーブルの上のコップを取ると、そのままストローでズズーと音を立てて飲んでいく。別にどんな飲み方をしても構わないのだけれど、マンガは汚さないでくださいよ。


「それで水城さん。改めて聞きますけど、僕に何か用ですか?」

「んー……だから暇だったからだよ」

「暇だからって……そんな理由でほぼ初対面の男の家に来るんですか? しかも家主が寝てる間に勝手に上がり込んで」

「鏡クンはメンドクサイね。細かいことをウジウジとそんなんじゃ女の子にモテないよ?」

「めんどくさい人間なのは知ってます。ですけど、それとこれとは別でしょう? ていうか、他に部屋の物触ってないですよね?」

「あ、そうそう。ジュースごちそうさまです」

「話聞けよ」


 ちっとも進まない会話にいい加減僕としてもイライラしてきたのを察したのか、水城さんはふぅ、と息を吐き出すと体を起こして、僕の方へと向き直ると少し真面目な表情を浮かべた。


「ホントに暇だったからここに来たんだけど、まあ確かに暇って理由じゃ納得できないよね。うーん、そうだなぁ……強いてあげれば鏡クンに興味があったからかな?」

「僕に、ですか?」

「うん。というか、鏡クンに興味わかない方が難しいと思うよ。なんてったってこれまで未確認の力だからね」


 未確認。その言葉に僕の心が少しだけ躍った。特別だという言葉は僕に限らず誰にだって少なからず自尊心を煽ってくれる言葉だろう。人と違うっていうのはそれだけで一種のステータスだし、特に「初めて」だと言われれば戸惑いを感じつつも何となくくすぐったい感触を覚えるはずだ、きっと。

 ただし、それは当人にとって少なからず価値がある場合に限る。例えば「アナタの爪の生え方はこれまで確認されてないパターンだ!」なんて言われても何の価値があるのか一切分からない。だから何だ、という話だ。今回の話だって僕自身自分の能力に何の魅力も感じて無くて、むしろ邪魔だとすら思ってる。言葉に踊らされたのだって一瞬で、すぐにまた冷めてしまった。


「まだ鏡クンの能力が正確に何なのかはアタシにも分かんないけどね。もしかしたら発動条件があるのかもしれないし、制御できるかもしれない。もしくは死んでるけどすぐ生き返るのかもしれないけど。少なくとも死なないってだけでもレアスキルはレアスキルだよっ」

「僕としては呪いみたいなモンですけどね。死ぬタイミングくらいは自分で選びたかったです」

「それに関してはアタシも賛成だよ。あんまり大きな声では言えないけどさっ」


 こんな仕事してるしねー、と水城さんは明るく笑う。

 たぶんこの人には僕みたいな人種の気持ちなんて分かんないんだろうな、と心の中だけでため息をつく。そう思うとスッと寂しさにも似た感情がわき上がってきて、僕は慌てて考えを振り払った。


「とまあ、これが一つ目の理由だよ」

「まだ他にあるんですか?」

「今のが一番大きな理由だけどね。後は鏡クンが心配だったっていうのもあるよっ」

「僕が何かやらかさないかの監視ですか?」


 僕の頭に、この前水城さんからもらった小さな拳銃が浮かんだ。あれは毎日カバンの中に入れてあるけど、もらった日に使って以来一度も触ってない。けど他の人から見ればそんなの分かんないし、あげた水城さんからすれば気になるんだろう。

 その時に課長さんから頂いたアリガタイ忠告もあって、僕は皮肉を込めてそう言った。

 だけど水城さんはあっさりと「まあそうだねー」なんて同意してくれた。


「能力者って能力が目覚めた後が一番情緒不安定になっちゃうんだよ。ウチの分析屋さんが言うにはね、他の人にはない『力』を使えるっていう優越感と『力』の暴力性の魅力、人としての枠組みから外れたっていう疎外感が精神の不安定性を誘発しちゃうんだとかナントカ言ってた。だから他の人が支えてあげないとすぐ暴力性に飲み込まれちゃうんだって」

「はあ、そうなんですか。まあ、僕の能力だとあまり関係なさそうですけど」

「うーん、そうなのかなぁ……でも確かに鏡クンのは暴力性とはあんま関係なさそうだねっ! うん、良かった良かった! 疲れてはいるみたいだけどねっ!」

「死ななくても疲れはするみたいですよ。寝なくても大丈夫だったらもっとこの体を楽しめるんでしょうけど、最近夜中に起こされる事が多くて寝不足なんですよ」

「あー、確かにこの部屋防音性悪そうだもんねー。ていうかよくこんなボロアパートに鏡クン住めるね」

「余計なお世話です。一応僕はこの城の主なんで、あんまり粗相をすると叩き出しますよ?」


 貧乏学生なめんな社会人。

 それはともかくとして、僕は最近感じる違和感の正体を尋ねてみるべきか迷った。水城さん本人は別として、この手の話題に触れるのは正直嫌だけど、このままずっと睡眠不足に悩まされ続けるというのはキツ過ぎる。そのうち慣れるのかもしれないし、たぶん死ねばまた健康な状態に戻るのだろうけど、それまで僕の精神がもつかどうか。きっともたない。僕は自分のメンタルの頑強さがオブラート並みにペラペラであることを知っている。

 違和感が呪いだか魔法だかに関係してるのは、何の証拠も無いことだけれどほぼ間違いない。なれば尋ねる相手は必然的に限られてきて、僕にはドS課長に尋ねる度胸はアリの足先ほども持ってないので水城さん一択となる。

 尋ねるべきか、それとも自分で抱え続けるか。散々迷ってようやく僕的大決心をして顔を上げると、いつの間にか彼女は棚からポテチを持ってきて勝手にパリパリと食ってやがった。

 決めた。後で絶対金請求してやる。

 あっさりきっぱりと二つめの決心を下すと水城さんを呼ぶ。あ、床にこぼしやがった。


「ん? どったの、鏡クン?」

「人ん家でのアナタのフリーダムっぷりを後で小一時間ほど問い詰めたい気もしますがそれは置いときまして、ちょっと相談したいことがありまして」

「およっ? なにかななにかな? 恋の相談かなー? そうだよねっ、鏡クンも年頃だもんねっ。いーよー、お姉さんが聞いたげるよー。」

「いえ、物理の話です。特殊相対性理論で運動量を特殊相対性理論的に表現するのにローレンツ変換をしなければなりませんが、速度Vで移動する慣性系を考えた時にx=x'+Vt'とx'=x-Vtという式を考えまして次に光速度不変の原理から……」

「ええ? えっと、えっと……」

「冗談です。本気にしないでください」

「むぅ、イジワルだね、鏡クンは」

「なら少しは色々と自重してください、自称二十歳」


 そう言うと水城さんはいじけた様に頬を膨らませて、あさっての方を向いてしまった。僕はというと別段悪いとも思わないので、むしろそんな反応が面白かったりする。あんまり意識したことが無かったけど、どうやら僕も目の前の女性に関しては課長さんと趣味が合いそうだ。あくまでこの人に関する一点に限る、というのは強く主張したいところではあるけれど。


「でも、水城さんに相談したいことがあるのは本当なので、良かったらコッチを向いてくれませんか、悠さん?」


 わざと名前で呼んであげる。すると頬を膨らませたながらも、どこか嬉しそうにコッチを振り向いてくれた。

 単純な人だ、と思いつつも何となく水城さんはこういうキャラが似合ってる気がする。内心で浮かぶニヤリ笑いを堪えつつも、僕はこの一週間の悩みをこの自称二十歳のお姉さんにぶつけてみた。できるだけ詳細に、いつ感じたか、どこで感じたか、何が分かるのか、覚えてる限りを話しきった。どうしても僕だけが感じられる感覚的な話になってしまうので、どこまで伝えられたかは自信はないけど、何一つ客観的な情報が無いこの場で伝えられる精一杯だとは思う。最初は嬉しそうにこっちに向き直っていた水城さんだったけど、話がどうやら異能に関する事だと分かると黙って真面目に聞いてくれた。普段の態度はちょっとどころかだいぶ問題があると思うけど、先日の銃の事といいこういう所は素直に尊敬できる。

 さっきからずっと難しい顔をして何らかの答えを導こうとしてくれている。適当な答えを返すでもなく、簡単な慰めをかけてくれるでも無く、本気で考えてくれている。きっと根っからの善人なんだろう。

 しかし僕はこの相談に答えは期待していなかった。というより、水城さんでは、言葉は悪いけど不適当だろうと思う。僕が思うに、彼女は能力のユーザーに過ぎなくて、もっと根本的な原理や原因を考える人間は他にいる。車に例えるなら水城さんはドライバーで、もし僕の相談の答えを知っている人がいるとすればそれはメーカーの、研究や設計に携わる人間だろう。

 でもそれでも構わない。たとえ答えが出なくても。言うなればこれは僕のエゴであって、もっと言えばストレス発散であり八つ当たりだ。突然僕を巻き込んだ彼女たちに無理難題を与えて、悩む姿を肴に酒を呑むみたいなものだ。

 彼女は結構長い時間悩んでた気がする。そう感じるのは僕がただ待っているだけだったからか、それとも悩ませていたことに居心地の悪さを感じていたからか。

 自分の部屋なのに何となく落ち着かなくて、タバコを吸おうかどうか迷い始めた時、水城さんはようやく口を開いた。


「いくつか確認したいんだけどいいかな、鏡クン?」

「ええ、いいですけど。何か分かったんですか?」

「うーん、分かったとは言えないんだけどね」 そう前置きして、人差し指をピン、と立てた。「まず、毎晩一回はその感覚があるんだよね?」

「ええっと、そうですね、毎晩では無いですけどほぼ毎晩ありますね。正確な時間は覚えてないですけど、時間はだいたい日付が変わったくらいが多い気がします」

「昼間も同じ感じで、時間はバラけてるのかな?」

「はい。ですけど昼間よりも夜の方が多いですね」

「んじゃ最後の質問。発信源の方向が分かるって言ってたけど、一番感じる方向はどっちか覚えてる?」

「……難しいですね。何となくでもいいですか?」

「もちろん。具体的な数字とかは気にしなくていいよ。あくまで感覚で」

「そうですね……」


 水城さんの言葉に従って、何となく、ホントに何となく思った方向を指差す。

 それを見て水城さんは「やっぱりそうなのかなぁ……」なんて漏らした。


「んーとね、たぶん鏡クンはアタシ達の居る場所を感じちゃってるのかな、て思って」

「……? どういう事です?」

 僕が尋ねると水城さんは「あんまり本気にしないでよ」と言って続ける。

「どういう原理だとかは分かんないけどね、鏡クンが感じた方向ってウチの部署がある場所っぽいんだ。ウチらは他の部署と違って基本的に夜動くからね。訓練なんかをする時間も大体深夜だし」

「それで夜に感じる事が多いんですね」

「一度ウチに鏡クンは来たことがあるしね。元々レアスキル持ちの鏡クンだし、ウチに来た後から敏感になったことも考えると、ウチの部署にある何かに反応してるのかもね」

「だったら他の方向から感じるのはどうしてですか? 全部が全部水城さんたちの方から感じてるわけじゃないみたいですし」

「うーん、そうなんだよね……そうなると、物じゃなくてアタシ達の存在に感づいてるのかも」

「水城さんたちがいる場所が分かるっていうことですか?」

「そ。モチロンアタシとか他のウチの課員だけじゃなくってね、街にたむろってる人とかにも反応してるんだと思うけど」

「でもそれじゃあ僕はそれこそ二十四時間ずっと違和感を感じないといけなくなりますよ?」

「ええっと、そうじゃなくってね、アタシたちが能力を使う瞬間を感じてるんじゃないかな? ウチらはさ、みんな力を使う時に特殊な場ができるのさ。アタシたちはみんなそれを結界って呼んでるけどね、そいつを感じることができるとするとつじつまは合うよ」


 結界、か。またなんともファンタジーな言葉が出てきたな。


「結界があることはみんな知ってたけど、自分以外のそれが展開されてるのを外から分かる人なんて今まで聞いたこと無いから推測の域を出ないんだけどね。でも鏡クンならそれもありかもね。何せレアスキル持ちだし。いいなぁ、ぜひウチに欲しい人材だよっ!」

「僕としては平々凡々の人生の方がいいんでお断りします」

「だろうねっ。ま、確かにオススメはしないよ。平凡な人生生きられるならそれが一番さっ!」

「でも無理なんでしょうね、そういうの」


 課長さんが言ったとおり、僕はもう一般人ではない。どれだけ言葉を飾って、どれだけ自分だけが普通を主張したところでどれだけ意味を持つだろうか。紛れもなく僕は彼女たちの側に立っている。


「うん……アタシもそう思う。気の毒だけど、もうコッチ側に来ちゃったからね。戻ることはできるかもしれないけど、諦めた方がいいよ、きっと」


 慰めをたっぷりと含んで水城さんが語りかけてくる。


「それに一度割り切っちゃえばさ、コッチもそんなに悪くないよ。仕事は大変だし、危険ばっかでいつ死ぬか分からないけど、鏡クンはさ、もう死なないんだし……」

「そうですね。確かに危険な職場だからこそ、僕みたいな死ねない人間が役に立つのかもしれないですしね」


 なんという皮肉なんだろう。死にたがりが死ねないが故に死に一番近い場所に立つ。本来なら願いが最も叶いやすい場所なのに、どこまで行っても願いは永久に届かないで見ているだけなんて。

 また、諦めないといけないのか。

 思わずため息が出る。そう、諦めないといけない。受け入れないと僕はダメになる。僕は立てなくなる。絶望だけしか見えなくて、他の何もできなくなってしまう。だって他の願いを持たない僕の唯一の願いが絶対に叶わないのだから。

 でも、僕は思う。もしかしたら、本当にもしかしたら、それこそ万に一つもなくて億に一つもない可能性でも、この呪いを解く方法があるとすれば。広大なサハラ砂漠から砂金一粒を見つける可能性に等しいとしてもあるとすれば。そしてそれを手に入れる事ができる場所はどこかと問われれば。


「水城さん」


 僕が知る限りそんな場所は一つしかない。そして幸いにも僕はそこに入る資格を持っている。ならば――


「僕を……」


 アナタたちの組織に入れてください。

 そう続けようとしたのに、タイミングを測ったかのように水城さんの携帯が音楽を奏でる。重厚な音を。

……なんでよりによってベートーヴェンの第五番なんだよ。


「ゴメンよ、鏡クン。急用ができちゃった」

「呼出ですか?」


 水城さんはうなずいて「ひどいよねー、非番なのに」とブツブツ文句を言い出した。

 どうやら彼女は僕の呼び掛けに気づいてなかったらしくて、そして僕はそれに安心した。(何を考えてたんだろうな、僕は……)

 どうして彼女の側に立とうだなんて考えてしまったのか。たとえ一般人ではなかったとしても一般人のフリはできる。そもそも彼女たちのそばに寄らなければ巻き込まれる事も無くて、その意味なら彼女たちを感知できる能力も悪くはない。感じればそこから離れればいいのだから。

 彼女たちは向こう側。僕はこっち側。まだその二つの境は越えてなくて、境そのものも明確。わざわざ自分から越えて境界線を潰してしまう必要なんてどこにもない。

 それじゃお疲れ様でした、頑張ってくださいと水城さんを見送ろう。そう思って彼女の方を見ると、何故か向こうも僕の方を見てた。

 ヤな予感がした。

 唐突に彼女が手を伸ばす。ガッチリと僕の手をつかんで、この上なく朗らかな笑顔を浮かべて彼女は言った。


「んじゃ一緒に行こうかっ」




 -二-




半ば引きずられる様にして僕は水城さんと外に出た。その瞬間に僕は眼をしかめる。

時刻はさっき時計を見たところ四時を回ったくらいで、アパートの二階から見た景色の中だと少しだけ陽が傾いてた。まだ十分に陽は高いといえば高いけれど、ほんのりと夕焼け色に染まった空を眺めていると何だか物悲しい、しみじみとした感傷を覚えるのはなんでだろうか。

 アパートの階段を駆け下りて、危うく転がり落ちてしまいそうになりながらも(水城さんは事も無げに降りていた)、かろうじてバランスを取ることができたのは、運動不足な僕としては僥倖だとこっそり自画自賛する。ボロアパートを背にすればすぐに小学校。そして右手には、なんて名前かは忘れたけど、あまり大きくはない川があって、見る角度によっては僕の眼を反射した光が焼いてくれる。


「まさか歩いて行くんですか?」

「そーだよっ。結構近いみたいだからね。たぶん歩いて二十分くらいかなっ?」


 二十分か。まだ水城さんたちがどんな組織なのかは正確には把握してないけど、ずいぶんとのんびりしてるな、と思うのは間違った感想じゃないと思う。呼び出されたくらいだから何らかの事件が起こったのは確かで、しかも結構緊急性が高いんじゃないかと思うんだけど、どうなんだろう?


「所詮アタシは後方の人間だからね。たぶんアタシに連絡が来た時点で班長とかはもう現場に出張ってると思うから、あんまり急がなくてもだいじょーぶだよっ。元々非番だったし」


 隣をのんびり歩きながら水城さんが僕の疑問に応えてくれた。しかし、それなら何故にあんなに慌ててアパートを出て行ったのか。鼻歌を歌いながら川沿いの道を歩くのを見ながら思う。おおかた、単なるノリで飛び出したんだろう。その理由とは言えない理由があまりにもハマり過ぎてて、眠ったおかげで取れた疲労がまたズッと出てきた気がしないでもない。

 しかし、しかしだ。僕はどうするべきだろうか。横目で僕の左手の先を眺める。

 男としては細い方だと自覚している僕の指よりも更に一回り細くて白い指が、僕の指と絡んでいる。太陽とは違う温かさが皮膚ごしに伝わってきて、女の人に慣れていないから少しドキドキするのは隠せない。

 今はまだ人は少ないけど、もうすぐ大通りが近づいてきて歩く人の数も増えてくる。そんな中にこのまま突入するのも気恥ずかしい。例え知り合いが誰もいないとしても、だ。

 気づいてるのか気づいてないのか、隣の水城さんは特に気にした風もない。そうなるとコッチで一人だけドキドキしてるのも何だか間抜けな気がしてきて、今度は彼女に教えて離してもらうか、それともそっと手を外すかという選択に頭を悩ませる。女の人と手をつないだままというのも悪くは無いのだけど、どうにも居心地が悪い。


(だけど……)


 だけど、まあ、なんだ。こんな経験も僕という人間を冷静に考えてみればそうそうあるワケでも無いだろうし、彼女が気づくまでずっとこのままでも良いかもしれない。彼女が自発的に気づいた時の反応によっては、からかってみるのも一興か。

 風になびいている黒髪が僕の目元をくすぐるのを感じつつ、僕はそんな事を思った。

 そうして夕方の涼しい風を浴びながら、アパートを出て僕の腕時計できっかり二十分経ったところで僕らは足を止めた。

 着いた場所は、有名な大きな公園の近くにある細い路地が入り組んでる所で、近くにはこれまた有名な私立学校が建っている。甲子園にも結構出場してる強豪校で、夕方のグラウンドでは僕には無い若さをこれでもか、と蓄えた高校生が一所懸命に練習に勤しんでた。一方で正門からは授業を終えたばかりの帰宅部生が次から次へと吐出されてて、気怠そうにカバンを肩に担いで帰路についている。彼らは一緒に帰る友達としゃべりながら横目でチラチラと、手を繋いでる僕らを羨ましそうに見ている――


「はろーっ、ヤマさん! おつかれさまー」


 わけでは無くて、僕らを挟んで向こう側にある、車一台がなんとか通れる程度の路地を見ていたらしい。それもそのはずで、その路地にはパトカーが停まってて、路地自体はテレビとかでよく見る黄色いテープで封鎖されてる。何か事件が起こったのだと一目で分かるし、そりゃ誰だって気になるだろう。

 で、水城さんはというと、そのテープの前に仁王立ちしているガタイのいいお巡りさんに馴れ馴れしく声を掛けていた。呼び方からして知り合いらしく、向こうもすぐに水城さんに気づいて白い歯をのぞかせた。


「ああ、水城ちゃん。お疲れ。今日は非番じゃ無かったっけ?」

「非番だったんだけどねー、課長に呼び出されちゃったんだよ。せっかくのお休みなのにさっ!」

「仕方ないよ。ウチはそんなに人数に余裕があるわけじゃないから」

「そういえば条二さんは?」

「高村さんならまだ入院中だよ。この前のは派手にやらかしてただったみたいだしなぁ」

「あー、この前のはね。まさか相手もあんなにいるとはアタシも思わなかったよ」


 身の内話が繰り広げられる中、僕は黙って隣に立っていた。というかそれしかやりようがない。話の内容からたぶんこの前の、僕が一度死んだ時の事だろうと当りをつけてその時の事を思い返す。確かにあれはかなり派手にドンパチやってた気がする。そういえば、バンバン拳銃とかマシンガンとかぶっ放してた気がするけど、問題にならないんだろうか。

 とそんな事をツラツラと考えていると、水城さんと話してたヤマさんなるお巡りさんがこっちを見てた。そしてニヤッと笑った。


「コッチは水城ちゃんの彼氏さんかい?」

「あっははー、それならいいんだけどさ、残念ながらアタシじゃなくて課長の想い人なのさっ!」


 いや、ちょっとマテ。いくらなんでもそれはキツイですよ、水城さん。年齢差にはあまりこだわりが無い僕とは言え、課長職に就けるほどの年齢に加えてあの性格とは難しいですよ。

 ああ、ヤマさん。お願いですからそんな同情イッパイの目で僕を見ないでください。


「まあ、その、なんだ……頑張れよ、少年」

「いや、何を頑張れと?」


 ヤマさんは僕の素朴すぎるはずの疑問を華麗にスルーしてくれて、水城さんは水城さんで「もうみんな来てる?」なんて違う話を始めていた。誰か僕の質問に応えてください。


「今はもう犯人の包囲が完了してるはずだ。テープのすぐ後ろからもう結界範囲だからな」

「おっけー、ありがと、ヤマさん」

「ああ、どうでもいいけどさ、水城ちゃん。課長の想い人なら手は離しといた方がいいと思うぜ、俺は」

「ふぇ?」


 間の抜けた声を上げながら水城さんはゆっくりとコッチを見る。そして視線が少しずつ下に降りていく。

 僕は意地の悪い笑みを浮かべながらその様子を眺めてた。さて、どんな反応を見せてくれるだろうか。何事も無かったかのように手を離すか、それとも逆に面白がって握り続けてくるか。意外と顔を真っ赤にして手を振りほどくかもしれない。それはそれでからかい甲斐があって面白そうだ。


「……!」


 だけどそのどれでも無かった。彼女にしては相当に乱暴に僕の手を思いっきり振り払う。そのまま僕から一歩、というには大き過ぎるほどに下がって僕の顔を見た。


「あ…えっと……」


 表情は真っ赤とは正反対で、血色の良かった肌は今はもう青白くなってしまってた。あまりの行動に僕もヤマさんも呆気に取られ、だけども僕の見た限りだと彼女自身が一番ショックを受けているみたいだ。


「水城ちゃん、そりゃちょっと無いんじゃないかな……」

「そうですよ。いくら僕でも傷つきますよ……」


 冗談めかしてそう言ってみるけど、彼女からはあまりちゃんとした反応は返ってこない。あ、とか、う、とか意味の無い声だけが零れるだけで話が続く気配は無かった。

 顔面蒼白で、心なし震えてるようにも見える。何が水城さんをそうさせたのかは分からないけれど、された僕自身もショックだった。たった今まで、例え向こうが意識して無かったとは言っても手を繋いでいたワケで、それが急に、それこそ汚物を振り払うかのように途切れてしまった。かろうじてヤマさんの言葉に続けることはできたけれど、僕の気持ちは嫌われてしまったかの様に冷え切ってしまった。


「とりあえず早く中に行ってきなよ。唯ちゃんもきっと待ってるよ」

「あっ、うん。そだねー!」


 んじゃヤマさんも頑張って、と殊更に明るい声で水城さんは誤魔化した。その誤魔化しさえも更に誤魔化すかのように急々とポケットから何かを取り出して、黄色と黒の縞模様に見えるテープをくぐって行く。僕も後に続く。

 その一瞬、彼女は笑顔を浮かべて再度僕の手を握ろうとしてきた。けれどその手は明らかに恐々としていて、笑顔の奥には何らかの怯えがあったのを僕は見逃せなかった。

 少しだけ手を後ろに引き、彼女の手が空を切る。そして「どうぞ」と彼女に先を促した。彼女には似合わなさそうな悲しそうな表情を少しだけ浮かべて、でも僕を責めるでも、冗談を言うでもなく「ついてきてね」とだけ言った。僕はその言葉に従うだけ。今の僕にはそうすることしかできなかった。

 彼女の後ろに続いて数メートルも進んだだろうか。僕は辺りの空気が変わったことに気づく。 

 音の乏しい世界。風の無い世界。変化の無い世界。すなわち、死んだ世界。

 どう形容すればこの場を表現できるのかは僕の乏しいにもほどがある語彙では一向に分からず、かと言って他の人に聞いてもうまい言葉はきっと見つからないだろうとさえ思える。気味の悪さはどうにも僕の背を、服の中に入り込んで這いずり回っているみたいで、その全身にまとわりつく違和感に僕は覚えがあった。

 そしてそのカケラを僕は知っている。


「これは……」

「うん。たぶん鏡クンが感じてるっていう違和感ってコレだよね? アタシとかはもう特になんとも無いけど、まだ日が浅い鏡クンなら結構気持ち悪いと思うんだけど」

「これが結界ってヤツですか? 確かにそうですね、これが感覚としては一番近いと思います」


 目に見える表面的な景色は変わらないけど、結界なんて大層な名前の通りここは外とは違った。なるほど、あの時僕は「世界が隔離された」と表現したけど、それは正しかったということになる。実際に僕らが生きてるのとは異なる世界。それは確かにここにあった。


「ココって誰でも入れるんですか?」

「いんや。展開した本人が意図しない限り外からは誰も入れないよ」

「え、でもそれじゃ変ですよ。それなら僕はあの日この中に入れなかったはずです」


 全ての元凶のあの日、僕はこの結界の中に入った。それは確かなはず。じゃないとあの戦闘を見る事は無くて、僕が死ぬことも、死ねないと知ることも無かった。


「うーん、それもそうだよね……また一つ謎が増えちゃったねっ」

「ねっ、じゃないですよ。いいんですか、そんな適当で」

「いいんじゃない? だって鏡クンって変な人だし」

「特殊だって言ってください。僕は至って普通の人間です。まあ、能力については変なのは認めますけど」

「ならいいよね? 問題オールナッシングっ!」


 何か英語の使い方がおかしい気もするけど、いいや。能力についても、こんな能力を持ってるのは僕一人だということだし、別にどんな能力を持っていようがこの人の中だと全て「変」の一文字で片付くのだろう。あんまり考えるのは得意じゃ無さそうだし。


「じゃとりあえずアタシはこれからお仕事だから、鏡クンはアッチの車の中で待ってて。連絡はしといたから」


 そう言って指さした先には一台の、少し大きめのワゴン車があった。ココにいても何もできる事は無いし、おおかたまた銃弾飛び交うドンパチが始まるだろうからどっかに退避するのに異論は無いけれど、そもそもの根本的な疑問がある。

 なんでこの人は僕を連れてきたのだろうか。僕がココにいたって何もできないというのに。

 その疑問を口にしようとした瞬間、小さな影が僕の視界の下の端を横切って水城さんへと飛び込んできた。ドフッ、といういささか鈍い音を立てて水城さんの腹にぶち当たったけど、当の本人はなんとも無いらしくにこやかな笑顔を浮かべていた。


「おー唯ちゃんじゃないかー。唯ちゃんはいっつも可愛いねー。元気だった? と言っても昨日会ったばっかだけどねー」


 飛び込んできた女の子は彼女に抱きついた状態で頭だけをコクコクと上下に振った。水城さんよりも頭一つ弱小さく、ゴシック系の黒いフリフリした服を着て髪はツインテールにまとめてる。パッと見は小学生かとも思ったけど、顔立ちは幼いながらも何処か成長しきった感じも否めない。


「おーい、唯。勝手に持ち場離れんなって……おっ、悠じゃん。おっす」

「佳人クン、おっ疲れー」

「来て早々ワリィけど、もうすぐ始まっからお前も早く持ち場につけよ」


 建物の影から現れた佳人、と呼ばれた男性に僕は覚えがあった。やっぱり同じあの日、剣を持って一番激しく戦っていた人だ。羽がついてるみたいに跳び回って戦っていたあの光景は、今でもきちんと僕の中に残っている。

 佳人さんは水城さんに向かってインカムを投げると、捕まっている唯ちゃんの首元をむんず、とつかむ。そしてデレデレした顔で頭を撫でてる水城さんから取り上げると、そのまま引きずるようにして出てきた場所に戻っていった。唯ちゃんは唯ちゃんで特に抵抗することも無くて、引きずられながら手を小さく水城さんに向かって振って去っていった。


「うーん、残念。もうちょっと唯ちゃん撫でてたかったなぁ……」

「小さい子でしたけど、何歳なんですか?」

「鏡クン、女の子に歳を聞くのはマナー違反だよ?」

「アンタは自己紹介で思いっきし言ってたじゃないですか……」

「自分で言うのはモーマンタイなのさっ!」

「さいですか……」


 メンドクサイなぁ、とは思うがまあ、女の人っていうのはこんなものなのかもしれない。水城さんだけがこんな人なのかもしれないが、そこは置いといて。

 佳人さんはもうすぐ始まる、と言った。その割には横にいる人はずいぶんとのんびりしてるし、なんというか、会う人会う人みんな緊張感が感じられないのはなんでだろう?もしかして今日の仕事はそんなに危なくないのだろうか。

 と、そんな事を思ってたら。

 数十メートル先でビルの壁が爆ぜた。

 五階建てマンションの一角にポッカリと穴が空き、円形に欠けたそこからは奥のビルが見えてる。それを僕は呆気に取られて眺めていた。


「やば……」隣からそんな声が聞こえた。「鏡クンは車に走って」

「え?」

「早く!」


 水城さんの鋭い叱責に僕は身を縮こませられる。何かスイッチが入ったみたいに彼女の声は厳しい。年中幸せそうな笑顔はすっかり消え去って今は視線をただビルだけに向けている。

 弛緩した風に感じていた場の空気は、今ははち切れそうなくらいに張り詰めてる。一歩踏み出すだけで、一度呼気を吐き出しただけで全てが台無しになりそうな緊張感がそこにある。

 また一つ、隣のビルが欠片をばら撒く。小さな破片が足元まで転がってくる。それをきっかけに僕は走りだした。

 いつもより軽くなった体。それが車まで十メートル近くあった距離を一瞬でゼロにする。

 黒をベースにしたやや天井の高いワゴン。ルーフの上には何やらアンテナのような機械が載せられていた。

 鋭い風が吹いたような気がして、僕はドアに手を掛けたところで後ろを振り向く。そこに水城さんの姿はもう無かった。緊張に体が強張る。正直、この場から逃げ出したい。逃げ出したいけど残念ながらそういう訳にもいかない。

 車の窓には黒いフィルムが貼られ、更にカーテンが閉められて中の様子をうかがい知ることは不可能。一度大きく深呼吸して瞑目。そして意を決してドアを横にスライドさせた。

 ドアを開けると暗い車内に外からの光が差し込んで、中が見える程度に明るく照らす。それでもだいぶ暗い車内に人影が一つ、二つ、三つ。開けたのとほぼ間を置かずして計六個の、猫の様な瞳が僕を捉えたのが分かった。

 首を絞められたみたいな圧迫感が僕を襲う。生き苦しい。いや、息苦しい。


「あ、あの、水城さんにココに来るように言われたんですけど……」


 無言の圧力に耐えかねて言葉を発した僕だったけど、その声は喉がカラッカラに乾いた時みたいにひどく聞き取りづらいもので、口の中もネバネバする。

 上手く相手に伝わったのかは分からないけど、三つの人影の内二つは視線を元のモニターに戻し、一つは僕とワゴンの奥の方とを行ったり来たりしていた。だけど何も言ってはくれないし、モニターを見ている二人もチラチラとまだ僕の方を見ていた。暗がりで見えにくいけど右手はコンソールを、左手はベルトに取り付けられたホルスターに、いつでも届くようスタンバイされているのが分かる。


「『鏡クン』、かしら?」


 どうすればいいのか、分からずに立ち尽くしていると奥から声が掛けられた。まだ人がいたのか、と車内に首を突っ込んで声の方を見るとモニターを眺めている女性がいた。


「何してるの? 早くコッチに来なさい。ああ、ドアはちゃんと閉めてね」


 促されてワゴンに乗り込むと言われた通りに女の人の方に向かう。僕に向けられていた視線はもう消えて、みんな何事も無かったみたいに仕事に戻っていた。

 車内に作られた仕切りをまたいで女の人の隣に来ると「座っていいわよ」と言われ、またそれに従う。

 隣に座るとモニターの明かりで彼女の容姿が分かる。髪の色は分かんないけど結構な長さがあって、目元には縁の太い眼鏡がある。機器の排熱のせいなのか、車内は少しムワッとしてるけどその中で平然とスーツの上に白衣を着て、腕と足を組んでモニターを見ていた。

 モニターでは先ほど始まったであろう戦闘の様子が映し出されていた。そこにはついさっき言葉を交わしていた佳人さんの姿もあった。派手に弾け飛ぶビルの壁や家々の屋根。けれどもこの前僕が巻き込まれた時ほどの派手さは無い。たぶん、この前が異常の中の異常だったんだろう。


「初めまして、鏡クン。ようこそS.T.E.A.Rへ。私は第三班分析チーム主任の七海です」

「あ、はい、雨水です。宜しくお願いします」

「雨水君ね。フルネームは雨水・鏡でいいのかしら?」

「はい」

「なら雨水君って呼ばせてもらうわ。下の名前で呼ばれるのあまり好きじゃないんでしょう?」

「え? そうですね、よく分かりましたね」

「分かるわよ。『鏡クン』って呼んだ時に少し顔がひくついてたもの」


 そんな自覚は無かったのだけどな。さすがは分析屋さん、か。水城さんが言ってた分析屋さんってきっとこの人のことだろう。

 しかし、それならこっちも注意しないといけない。人となりが分からない内に油断すると弱みを握られかねないし、何より勝手に僕の事を理解されていくのは気持ちイイもんじゃない。ましてや、僕自身も知らない何かを暴かれるのはゴメンだ。


「あら、あんまり緊張しなくていいわよ。別に悪いようにはしないから」

「……」

「ふふ、ごめんなさいね。人を分析するのが仕事だから、誰でも無意識のうちに観察しちゃうのよ」


 何と言うか、やりにくい。余裕を持った大人の女性といった感じで、何を僕がしようとも読まれているようで、まだ出会って数分と経ってないけどすでに掌の上で遊ばれているみたいだ。気をつけないと一方的に遊ばれて終わってしまうし、この手の人は悪意なしで人を弄んでくるから質が悪い。はあ、と息を一度ついて自分を落ち着かせる。そして顔にキュッと力を込める。


「あら、表情を誤魔化すのは得意みたいね」

「数少ない得意技ですから。さすがに腹芸はできませんけど」

「その歳でできてたら将来が楽しみね。それにこの状況でそれだけ落ち着けてるなら大したものよ」

「緊張してるだけですから。それにこんな戦闘に巻き込まれるのは二度目ですかし」

「そうなのかしらね。ナオの言ったとおり面白そうな子。あ、ナオっていうのはウチの課長の事。会ったことあるでしょう?」

「ええ、ありますよ。寝起きからいきなり取り調べっていう結構ハードな状況でしたけど。ちなみに僕の事を何て言ってました?」

「『いじめ甲斐がありそうだ。悠と違った意味でな』だそうよ? 良かったわね、ブックマークされて」


 全力で勘弁して欲しい。あの人はどんだけ人を弄るのが好きなんだ。その役目は水城さん一人で十分だろうに。


「それより、お仕事の方は宜しいんですか? 僕と話してばっかりいますけど」

「ああ、いいのよ、別に。アナタとお話するのが今日のお仕事だから」

「どういう事ですか?」

「雨水君に私たちのお仕事を知ってもらうのが今日アナタをココに呼んだ理由。だから何でも聞いてちょうだい。大体の事は教えてもいいって許可は出てるから」

「……僕は入りませんよ。今日も強引に連れてこられたみたいなもんですし、興味が無いとは言いませんけど、教えるから入れというのならお断りします」

「あらあら残念、つれないわね。でも勘違いしてるみたい。いえ、わざと気づいてないふりをしてるのかしら?」

「何が言いたいんですか?」

「そうねぇ、この際だし、はっきりさせちゃおうかしら。

 雨水君に選ぶ権利は無いのよ」


 言いながら七海さんは楽しそうに口端を吊り上げる。


「もうアナタがウチに入るのは決定事項なのよ。力に目覚めながらも理性を失わなかった時点で」

「決定事項って……強引過ぎじゃないですか?」

「ま、普通の感覚で考えれば強引も強引よね。でもそれがまかり通るのがウチの凄いところなのよ」

「……出るとこに出てもいいんですが?」

「結構よ。でも、何処に出るのかしら?」

「そんなの決まってます。弁護士にでも話して……」

「それで法廷に訴えるって? 被告もいないのに?」

「被告がいないってどういう……」

「単純な話よ。私たちは存在してないのだから」

「何を言って……」

「言葉通りよ。私たちは組織として存在が認められてないの。そもそも、アナタは今まであんな手から火を出したり剣を作り出したりできる人間を見たことがあって? 無いでしょう? つまり秘匿されてる。彼らはこの社会で存在が認められてないのよ。

 でも彼らは確実に存在してるし、事件は起こる。となると事件そのものを無かった事にするの。で、『何も無かった』という処理をするにも普通の人間がやれば跡が残ってしまう。ならどうすればいいか。答えは簡単。存在しない人間が処理をすればいいのよ」


 それはつまり。

 能力者がどちらの側に立とうとも、そういう存在である以上生きていると認められないわけで。生きながら死んで死にながら生きる。一生陽の目を見ない、暗い穴ぐらの中で過ごすのと同義。なんだ、と冷たくなっていく自分の内を感じた。

 なら僕はあの日……ホントに死んでたんじゃないか。


「結局、僕程度じゃどうしようもならないって事ですか……」

「一応選択肢も無くは無いわよ。教えてあげましょうか?」

「お願いします」

「ナオの下でいびられながらこき使われるか、それとも一生鎖に繋がれて幽閉されるか」

「どっちも死ぬより辛そうですけど前者でお願いします」


 分かってはいたけど、最低な二択だ。どっちに転んでもいいことなんてありゃしない。肉体的に死ねないなら、後者だとたぶん本気で糞尿垂れ流しながら餓死のち蘇生を繰り返してしまいそうだ。それなら少しでも前向きな選択肢を選ぶ方が賢明なんだろう。

 あんまりにもあんまりな選択肢。素晴らしすぎてため息が出る。


「スイマセン、ココって禁煙ですか?」

「そうねぇ……ちょっと休憩しようかしら」


 そう言って七海さんもポケットからシガーケースを取り出した。僕もズボンからくしゃくしゃになったタバコを取り出して火を点け、目を閉じる。

 馬鹿みたいだと本気で思う。あんなに意固地になって「入るものか!」とか思ってたのに、結局僕の力じゃ抗うことなんてミジンコほどもできなかった。ああ、馬鹿らしい。

 でも少し気持ちが楽になった気がする。いや、少しじゃないな。だいぶスッキリした。少なくとももうこの事で悩むことは無いし、何より「僕に選択権は無かった」という免罪符を手に入れたからだろう。誰に対する免罪符かは知らない。僕自身に対する言い訳かもしれないし、誰よりも僕に普通の道を歩んでほしいと願っているだろう母さんに対してかもしれない。


「あら、そろそろ終わりそうね」


 七海さんの声に視線をモニターに移すと、どうやら戦闘は佳境を迎えてるらしかった。映像の端に映るマンションらしき建物はあちこちが崩れ落ちて、あたかも本当の戦場にいるかのような廃墟と周囲は化していた。元はアスファルトで綺麗に舗装されていたはずの道路も見るも無残なまでに破壊されてる。


「能力というのはね」


 モニターの中心には男が一人、頭から血を流しながら立っていた。体全体の線が細くてヒョロい、と表現できるほどに見た目は弱々しい。顔色が悪いのは怪我をしてるせいではないはず。視線が不規則にあちこちに飛んで何処を捉えているのかも映像からだと判断できなくて、でも正気ではないという判断は誰が見てもできるはずなまでに彼は異常だ。

 病弱な感じさえする彼の姿が突然かき消える。モニターの映像が一拍遅れて彼の姿を捉えると彼の細腕が容易く建物の壁を砕いていた。粉砕、という言葉が似合うほどにコンクリートの壁が細かく砕かれ、地面に即席の砂場を創り上げる。


「その人自身の経験や願望に強く影響されるの。人格形成に大きな影響を及ぼす程の体験だったり、または心の奥底に深く根付いてる妄執ともいうべき願い。この彼の場合は、たぶん自身の線の細さや体力の無さがコンプレックスだったんでしょうね」

「分かるんですか?」

「能力が発動したからと言って見た目の体つきが極端に変わることは無いわ。彼の力はたぶん身体強化。手足の細さから言ってそれ以外にこのパワーは出せないもの」

「僕だけかもしれませんが、前に結界の中に入った時に体が軽くなった気がしたんですけど、それとは違うんですか?」


 砕いた瓦礫に体勢を取られた隙に、誰かが飛び掛かった。おそらくは蹴りだろう攻撃を受けて家々の塀を盛大にぶち壊しながら吹き飛んでいく。


「通常、能力者が結界内に入ったおかげで得られるのは、せいぜい世界的なアスリートの身体能力を超えた程度でしか無いわ。ジャンプ力で言えば……たかだか垂直跳びで二メートルに届くかどうか、ってところかしらね」

「それでも十分スゴイですけどね」

「ま、元々の身体能力によってバラツキはあるわ。でも身体強化能力だとスピードを多少失う代わりに常識外れのパワーを手に入れるわ。それと物理的な防御力を」


 ぶち壊された瓦礫の下敷きになりながらも、男の人はむっくりと起き上がる。血こそ流しているものの骨とかには影響は無いらしく、荒い息を吐きながら体勢を低く取る。


「攻撃力と防御力に特化したタイプですか。ゲームで言えば戦士みたいなモンですね」

「だけどこの能力はひどく大きな欠点があるの。何か分かるかしら」

「欠点ですか?」


 だけどその荒い息は、それまでの獣めいたものではなくて、どちらかと言えば苦しさ故のものに見える。酸素が足りないのに、それでも無理やり走らされているハムスターのように。


「燃費が悪いのよ」


 剣を携えた佳人さんらしき人が男に向かって飛び掛かる。抜刀術みたいな動作で斬りかかり、男の反応が一瞬遅れる。

 閃光の様に鋭い一撃。かろうじてかわしたけど、かわし切れなかった剣先から真っ赤な血が噴き出した。


「他の能力と違って常時発動してるから、疲労の蓄積が早いの。能力を使う精神力が切れれば後はもう普通の人間と変わらないわ。もうこの彼は時間切れね」


 切りつけられてたたらを踏む男に向かって佳人さんが更に一歩踏み込む。意識もすでにまばらなのに本能なのか、とっさに左手を突き出して避けようと試みた。

 だけどそれは無駄なあがきだった。

 剣にあっさりと腕は切り落とされ、その刃は奥にあった体さえも容易く切り裂いた。

 男が膝を突く。担い手を失った人形のように力無く崩れ落ちて、自分がばらまいた血の中に沈み込んだ。


「……死んでるんですか?」

「まだ息はあるみたいだけど、まあ時間の問題でしょうね。このまま治療しなければ、だけど」

「救急車を呼んだりは……」

「無いわね。事件を起こした能力者を生かしておく理由も無いわ」

「それもココだと許されるんですね……」

「生かしておく方が面倒なのよ」


 モニターの端に水城さんの姿が映った。倒れている、胸元に「S.T.E.A.R」と刺繍された黒ベストを着た男の人に向かっていつぞやみたいに手を当てていて、だけど視線は頻繁に殺された男に注がれていた。


「さすがにまだ事件を起こしてない能力者を殺したりはしないけど、犯罪者になった能力者を収容できる場所も無ければ監視する人員も足りない。仮に場所と人員の問題が解決できたとしても一度堕ちた能力者はまたすぐに力に飲まれて事件を起こすわ。今回みたいに傷害事件で留まればいいけど、それは相当運がいいとしか言えないくらいに殺人率は高いの。ならもうここで処理するしかないじゃない?」


 処理、と言い切った七海さんの言葉が殊更に冷たく感じる。現実を考えれば七海さんの言葉はもっともで、将来的に無抵抗の一般人が無意味に無慈悲に一方的に蹂躙されて殺される事を考慮すれば更にもっともな話だ。

 だけど現実問題はそれとして、僕には無理そうな話だ。そこまで割り切れない。死にたがりは異質であって、自身が異質であることを自覚して、だからこそ周囲にそれを強要しない。本当の死にたがりはまず第一に自分にそれを強要してしまうのだから。

 もしかしたらあっさりと僕は、今、僕と七海さんの間に感じる壁を突き破ってしまうのかもしれない。だけれども自分から生と死の境を壊してしまうつもりは無い。だから七海さんの言葉を理解はできても納得はできない、しない。もちろんここでそんな話を持ち出しても答えなんて出るわけもなく、一瞬で七海さんに論破されてしまう自信が情けなくも僕にはあって、だから僕は話題を変えることにした。


「そう言えば水城さんはどんな力なんですか? 他の人の能力は見た感じですぐ分かるんですけど、水城さんのだけはいまいち分からなくて」

「あら、聞いてないの?」

「ええ、どうもタイミングを逃しちゃいまして」


 七海さんは口を開きかけたけど、そのまま答えを発せずにモニターの映像を切り替え始めた。いくつか画面が切り替わり、その中の一つに先ほどと同じ様に治療に似た何かをしている水城さんの姿が映る。


「彼女の力も珍しいわよ。君と同じくらいに」

「僕と、ですか? まだよく分かんないんですが、僕のもだいぶ珍しいって聞いたんですけど」


「そうよ。なにせ雨水君も悠ちゃんも世界で一人だけだもの。私も最大級に幸運よね、こんな珍しいケースに九州の一地方都市で出会えるなんて。思い切って大学辞めたのにこんな田舎に飛ばされた時はどうしてやろうかと思ったけど、やっぱり人生って何とかなるものね」

「はあ、世界で一人だけですか。それでどういうのなんですか? 電気を自由に操れるとか?」

「そんなちゃちでありふれたものじゃないわ。彼女はね、死を消せるの?」

「死を消せる?」

「そう。ま、アナタと一緒で半端な能力と言えば半端だけど」

「それってどういう……」


 僕が詳細について尋ねようとしたその瞬間、車の窓ガラスが突然砕け散った。

 車内に悲鳴が響く。何かが座っていたシートにぶつかって揺らし、そして壊れる音がする。

 目の前のモニターも粉々にヒビが入り、僕も七海さんも突然のことに身を竦めた。


「どうしたの!?」


 七海さんがいち早く立ち直り、運転席側に向かって叫ぶ。僕も慌てて後ろを振り返って、それと同時に清潔だった車内に相応しくない匂いが立ち込めているのに気づく。

 運転席の男の人の首がだらしなく座席の横から飛び出していて、今にも倒れそうなまでに体が傾いていた。他の二人も生きてはいるものの、小さくうめく声が聞こえるだけだった。フロントガラスにはポッカリと穴が空き、その向こうからは夕暮れの光が差し込んでる。

 その向こうに。

 僕はこちらに向かって手を伸ばす男の姿を認めた。


 -三-


 どれだけの時間が経ったんだろうか。五分か、十分か、はたまたホンの数秒程度の刹那の時間だったんだろうか。おびただしいまでの弾丸が降り注ぐ時間が終わり、穴だらけになったシート越しにそおっと頭を出す。車内にはぎっしりと氷の粒が敷き詰められていて、なのに少しもひんやりした様子がない。鉄の臭いと喉が焼けつくような熱さが狭い空間を支配してる。外では氷が吐き出される音はまだ聞こえてくる。けど、その音はこっちでは無く別の場所に向けられていた。


「大丈夫っ!?」


時を同じくして水城さんが車内に飛び込んできた。息を切らし、少し上気した頬に長い黒髪が張り付いている。


「僕と七海さんはなんとか! でも他の人が……!」

「っ!!」


 車内はひどい有様になっていた。夏も近いというのに氷の弾丸は溶けずに車の床を埋め尽くしていて、奇襲を食らった他の三人はその中に埋まっていた。

 機材は無残なまでに破壊されて、だけどそのおかげか機材を操作していた二人はまだかろうじて息がある。運転席にいた人は、もう、ダメだろう。顔の右半分がえぐり取られて、彼の肉片が飛び散っている。


「鏡クン! 二人を車外に出すの手伝って!」

「はっ、ハイ!」


 狭い車内から二人がかりで、引きずるようにして外に出すと楽な体勢で寝かせる。手にはヌルッとした感覚。見ると真っ赤な血が掌いっぱいに付いている。そうして思う。こういう場所に来ちゃったんだなぁ、と。慌てることもなく、恐怖を感じることも無く僕は静かに淡々とそう思った。

 寝かせ終えると水城さんが二人の傷口に手を当て始める。幾度となく見た気がする光景。だけどこの至近距離で彼女の魔法を使う様子を観るのは初めてだ。

 七海さんはさっき「死を消す」と言った。言葉通りなら死を無かった事にしたりとか、もしくは死者を蘇生させたりとか、そういった事が想像できる。だけど同時に彼女は言った。「半端な能力だ」と。

 果たして、水城さんは体中にできた銃創に手を当て続けた。額には珠の様な汗が光ってる。ゲームで見る光るエフェクトや、傷口が塞がっていく様子は無くて、パッと見た目で分かるような変化は無い。なのに彼女が傷口周りの血を手で乱暴にぬぐい去ると血はすでに止まっていた。


「止血したんですか?」

「まあ、結果を見ればそうなるかな?」


 手の甲で額の汗を拭いながら小さく苦笑いを浮かべた。


「これがアタシの能力なんだ。『死を消す』っていうと大層な感じがするけどね、実際は大した事はできないの。今やったのは、うーん、そうだなぁ……『死に繋がる場所を消した』って感じかな?」

「ああ、放置しておくと死んでしまいそうな傷を治したんですね?」

「治せたらいいんだけどね、これがまたメッチャ不便でさ、『原因は消せない』んだ。だから傷はそのままだし、放置しておくとまた血が流れ始めるから応急処置にしか使えないのさっ」


 なるほど、それは使い勝手が悪い。

 すぐに病院とかに搬送できる状況なら問題ないだろうけど、もし状況が状況なら何の役にも立たない。このぶんだと、死者蘇生なんて絶対不可能だな。

 でも、だ。僕の頭に不意にある考えが過ぎった。

 死を消せるんなら、死を作ることもできるんじゃないか?

 突拍子もない考えだけど、ついさっきした七海さんとの会話を思い出す。能力はその人の経験や願望に強く影響される、と彼女は言った。ならば水城さんは、こんなちゃらんぽらんな性格をしてるけど、その奥底には「死」に関する経験もしくは願望があることになる。

 急激に水城さんに対する興味が湧いてくるのを僕は禁じ得無い。

 死ねない僕と殺さない彼女。その関係式を「死ねない僕と殺せる彼女」に変換できる可能性はないのだろうか?

 都合の良い考えだっていうのは分かってる。彼女にそんな能力は無いだろうし、仮に、億が一にもその力を持っていたとしても、彼女は絶対にそれを周りに奮うことは無いだろう。けれど、僕が僕の願いを果たすためにはその可能性にすがるしか今は思いつかない。なら、ココにいるのもありだろう。


「……もう外に出ても大丈夫かしら?」


 車の中からそんな声が聞こえてきて、僕はそれに肯定で返事をした。


「ふぅ……久しぶりに生きた心地がしなかったわ。スリルがある事はいいけど寿命が縮むのはあんまり喜べないわね」

「刺激があって良い人生を送れると思いますよ?」

「冗談! アナタたちみたいなビックリ人間ショーは安全な所から眺めてるから面白いのよ」

「僕もどちらかと言えばソッチが好みなんですけどね」


 注意深く顔を出した七海さんは、よっと声を上げて段差を飛び降りる。どうやらケガはしてないらしくて、パン、と一度白衣の裾を払うと水城さんに向き直った。


「で、どうしてこうなったのかしら? 私の記憶が確かなら結界の中には外から侵入はできないはずなんだけど?」


 七海さんも背は結構高いんだけどそれより少し水城さんの方が高い。だから七海さんが水城さんを見ると見上げる形になるはずなんだけど、見る仕草のせいなのか七海さんが見下ろしてるように僕には見えた。

 それにたじろいだのか、水城さんは一瞬言葉に詰まって明後日の方に視線をずらした。

 それを見て七海さんは不快気に眉を歪ませた。そして問い詰めるためか、一歩水城さんへと踏み出した。


「みんな大丈夫かっ!」


 二人の間に剣を片手に携えた佳人さんが割って入る。体のあちこちに鋭い切り傷があって、だけど致命傷は負ってないらしかった。

 剣呑な視線を佳人さんに向けると七海さんは親指で車内を指差す。佳人さんの眼はその奥にある物を捉えて、眼を閉じて空を仰いだ。眉間にシワを寄せ、何かを堪えるかのように真一文字に口を閉ざした。


「……スイマセン、俺のせいです。俺が油断して終わったと思ってしまったから……」


 何のことは無い、単純な話だ。元々のターゲットは殺された彼一人で、戦闘が終わったと判断した佳人さんが結界屋さんに解除を指示したら、その瞬間を狙っていた別の誰かが襲撃してきた、ただそれだけの話。

 想像でしか無いけど、この手の組織は能力者の間だと有名だろう。事件を一度引き起こしてそれが発覚すれば文字通り刈り取られる。生存という選択肢は用意されてなくて、同じ能力者が群れをなして襲いかかってくる。ターゲットにされた側はそこに恨みを抱かないはずがない。

 佳人さんの心中はいかほどだろうか。自分のミスで人ひとり殺されてしまった。死んでしまった人間は水城さんでも生き返らせることは不可能で、取り返しなどどうあがいてもつかない。

 僕だったら、と簡単に想像してみる。きっと耐えられない。罪悪感で押し潰されてしまうのにそれ程の時間は必要とせず、逃げ癖の染み付いたこの精神は、もし死ねる体であったらさぞ簡単に命を投げ出しているに違いない。背負える命は僕一人の分ですでに零れ落ちてしまいそうなのだ。


「現状はどうなっているの?」


 だけどそんな佳人さんの心中などどうでもいい、と言わんばかりに七海さんは報告を求めた。その顔はひどく詰まらなさそうで、彼女はたぶんこういった罪悪感に苛まれている相手が嫌いなんだと思う。


「……今班長が一人で相手してます。自分もまたすぐに戻ります」

「そんなナマクラ刀を持っていってどうしようというのかしら?」


 口ぶりは明らかに佳人さんを馬鹿にしてて、そしてそれを聞いた佳人さんの眼にも剣呑な光が灯ったのが僕にも分かった。佳人さん自身の力で創りだしたんだろう剣に誇りを持っている事は簡単に想像できる。だけどもそれと同時に七海さんの言葉にも納得がいった。

 佳人さんの手から生えた剣は見た目には頑丈そうで、 だけど少しずつ刃が崩れていっていた。


「今のアナタが行っても邪魔になるだけよ」

「だからって班長一人に任せるわけにはいきませんよ! 班長だってずっと戦ってるのに……!」

「勘違いしないで。宮原君が戦えないなら別の人間を送ればいい事じゃない?」


 そう言うや否や僕の方を振り向いてニコッと笑う。はっ?とその意図を掴みかねている僕に向かって手を伸ばすと肩に手を置いた。


「という訳で、行ってきてくれるかしら?」



 -四-




 無茶だ、と喚いても言いだしっぺの本人以外は文句を言わないだろう。本気でそう思う。どこの世界に入ったばかりの新人に(そもそもまだ所属はしてないはず)いきなり第一線で働かせる組織があるというのか、と口にしてみても「ココにあるじゃない」と七海さんに素で言われるのが何となく読めてしまったので口にはしない。

 流石に水城さんや佳人さんも呆気に取られて、そして我に返ると声を大にして反論してくれた。が、そこはやはり人の上に立つ人間というべきか、それとも頭が切れる人間は違うと侮蔑混じりに褒めたたえるべきか迷うけど、議論の時間は無いだの代案を示せだので結局は押し切られた。佳人さんはもうすでに精神力をかなり消耗してたらしく、僕が行くと決定された途端に剣は完全に消滅した。水城さんは元々戦闘要員じゃ無いし、それなら戦闘経験など無くても死にはしない僕の方がいいだろうという流れだ。ちなみにその議論とも言えない議論の中に僕が口を挟む余地は、それこそ植物の根毛レベルでさえも残されてなかったとだけ言っておく。

 じわりじわりと戦闘の音が近づいてくる。当然音が近づいてくるのではなくて僕が近寄っている。手に汗がにじんできて、手の中にある物を脇に挟むとズボンに手を擦りつけた。

 手に持っているのは銃。ただし、この前に水城さんからもらったデリンジャーとは違って、それなりに大ぶりの物だ。僕は銃になんて詳しくは無いから名前は知らない。素人からしてみれば、デリンジャーみたいに見た目に明らかな特徴が無い限りどの銃も同じような物でしかなくて、そして名前が分かったところで特徴を知らなければ屁の足しにもならない。大方ベレッタとかいう、結構有名なものだろう、と決めつけてそれきり銃の種類の事は頭から外した。

 議論に口は挟めなかったけど、当然僕だって危険な場所に行きたくなんてなかった。戦闘に関しては素人もいいところで、銃なんて一度自分に向けた以外に撃ったことも無い。ましてや子供時代から喧嘩でさえ殆ど無いに等しい。人と合わせる事は苦痛であっても苦手じゃない。常に他人との距離を上手く取りながら生きていたつもりだ。そんな僕が、例え能力者だから身体能力が一般人より遥かに上回ってると言っても本職の人たちの間に割って入るなんて無理で、下手したら班長さんの邪魔をしてしまうかもしれない。

 と、自分に向かってどれだけ言い訳をしたところで、絶対行きたくないかと問われれば答えに窮するのもまた事実で、少なからずワクワクしているのは真実だ。

 こんな僕が人の役に立てるかもしれない。そんなものは建前。

 こんな僕が誰かを助けることができるかもしれない。そんなものは幻想。

 こんな僕にも生きる意味を見出せるかもしれない。そんなものは妄想。

 僕の中には今、二つの期待が渦巻いてる。

 一つは手にした銃を撃ってみたいという願望。誰かに向かって。

 誰に咎められる事も無く、憧れる映画の主人公みたいに颯爽と現れて一撃の名の下に敵を無力化する。相手が死のうと構わない。どうせ僕がやらなくても誰かが殺すのだから。英雄じみた惨めで自分勝手で一方的な空想を心の中に描く。

 そしてもう一つは言うまでもない。僕が死ぬ事。

 僕は死ねないと散々分かっているはずだけど、期待は捨てることはできない。もしかしたら、という淡い願いは粛々と、でも決然として僕に根を張る。

 地面が揺れる。ホコリの様な細かい砂粒が横のビルから降ってくる。すでにそのビルは半壊していて、コンクリートの断面が夜も近い空に向けられていた。

 そっと壁から顔を出して様子を伺う。夜は、特にこんな夜とも夕方とも言いがたい時間帯はひどく見づらいはずで、だけどこんな力を手に入れて以来、夜でも比較的はっきりと見ることができる。視力自体が回復したわけじゃないからメガネなしだとぼやけるけど、夜目が効くようになった、というべきか。ともかく、夜でも視界が利く今の僕の眼が建物を破壊する二人の姿を捉えた。

 一人は素手で薄い茶色に染めた、少し長めの髪の男性。たぶん、あの人がさっき佳人さんが言っていた「班長」なんだろう。なぜにアロハシャツなのかは気になるけど。

そしてすでに全壊といって差し支え無いだろう瓦礫の家を挟んで対峙してるのが、僕らを襲ってきた男。黒いジーンズに紺色のワイシャツ。白っぽい短髪をこちらに向けて、班長の動きを観察していた。

 そう。僕は今、白髪男の後ろに陣取っている事になる。班長さんはすでに瓦礫の向こう側に移動して僕からは見えない。そして二人共僕には気がついていない。

 一度、深呼吸。逸る気持ちを抑え、そこで僕は自分の手を見た。手の震えは、無い。

 片手で構えるべきか、それとも両手で構えて撃つべきか迷ったけど結局は片手で半身だけを出して撃つ事を選択する。所詮素人に過ぎない僕なら両手でしっかり狙って撃つべきなんだろうけど、全身を晒すことは、例え気づかれてないにしてもためらう。

 呼吸に応じて銃身が上下に振動する。狙撃なんてやったことも無くて、狙った場所に当たる保証なんて無い。だけど当てなければならない。チャンスは一度。二度目以降も無いことも無いだろうけど、考えるべきじゃない。

 上下に揺れる振動に、左右の揺れが加わる。小刻みなそれのせいで照準は定まらない。

 苛立つ。手をもう一度見ると、明らかに僕は震えていた。

――撃てるのか?

――撃てる

――殺すのか?

――殺せるさ

――自分は殺せないのに?

――……

 そんな事は関係が無い。それこそ、一切合切無駄な思考。できるとかできないとか、そんなレベルの話じゃなくて、今、自分に求められている仕事を遂行するか否か、ただそれだけの話。 

 狙いをつける。引き金を引く。

 たった二つだけの動作。それさえすれば僕の感情も葛藤も悩みも偽善も偽悪も苦しみも安らかさも安心も絶望も希望も恐怖も全てが吹き飛んで塵芥と等しくなる。

 果たして、僕は一切の感情と共に引き金を引き絞った。


「……っう!」


 引き金を引いた途端、反動が指先から腕を伝い、肩へと抜けた。脱臼したかと思うくらいの衝撃が脆弱な関節に加わって僕の右腕が悲鳴を上げる。どこか逝ってしまったか、とも思ったけどそんなものを確認している暇はない。痛みを堪えて弾丸の行く先を探し、そしてすぐに見つけることができた。

 穴が空いていた。ちょうど弾と同じ大きさの穴が驚きに口を開けた男の額――のすぐ横に。頬には一筋の赤いラインが引かれていて、そこから少しだけ血がつつ、と流れ落ち始めていた。  

 つまりは、だ。


「外し…た?」


 口に出すまでもなく、それはもうあっさりと。惜しいとか、初めてなのにほぼ狙い通りの所に飛んだ、とかそんなのは意味なくて。


「……ヤバイ?」


 僕のつぶやきにご丁寧に班長さんが頷いてくれた。

 ぼーっとしてる場合じゃない。外した以上次のターゲットは僕に向かってくるのは相手にとって「りんごが下に落ちる」のと同じくらい明確な事で、班長さんがそれを止めてくれればありがたいけど、敵はそれより先に僕に向かって氷の散弾を発射できるのは自明の理であって。

 慌てて回れ右をして走りだそうとするけど、焦る僕の内心とは裏腹に体は上手く動いてくれなくて、足をもつれさせてしまって無様に転げた先は壁とか遮蔽物は全く無くて。

 何て無様。

 顔を上げた時にはもう時すでに遅くて、無駄に発達した動体視力が氷の弾丸を捉えてしまった。

 衝撃。暗転。

 真っ暗な、それこそ光が全く無い世界はこういうものか、と思うくらいに世界が黒く染まって、その後に真っ白な光が戻ってきて、それが僕が一度死んだ事によるものだと気づいたのは声なき悲鳴を僕が上げていた時だった。


「……ぁぁぁっっ!!」


 耳をつんざく不快な声。誰が出しているのかを理解できず、どうしてそんな声を出しているのかも理解できない。感じるのは焼ける、なんていう表現も生温いと思える、吐き気を覚える激痛。そしてヌメッとした僕の、目元に当てた手の指の隙間からこぼれ落ちる液体の感触。それが叫び声が治まるのに従って落ち着いてくると自覚する新たな腕の痛み。

 仰向けに寝転がっている体勢から上半身を起こして、相も変わらぬ激痛を堪えながら片目で腕を見ると穴だらけの右腕があった。


「うわぁ……」


 間の抜けた声が漏れた。パッと見だけでも四ヶ所くらい穴が空いて血がだくだくと流れ出しているのに、それが見ている端から塞がっていくのだから、そんな声が出るのも仕方が無いというものだと思う。


「……生きてるか?」

「……何とか」


 班長さんの声に、ナケナシの気合いを振り絞ってそれだけ応えると、立ち上がって敵の姿を探す。が、どこにも見当たらない。


「敵は……?」

「見失っちまった。テメエのせいでな」

「文句は七海さんに行ってください。僕は素人なんですから」

「……ああ、お前か。課長が言ってた不死身ヤローっていうのは。佳人の奴はどうしたんだ?」

「精神的に限界らしくって七海さんに止められてました。代わりに僕が銃一つで放り出されたわけです」

「死なねーからか。悪女だな」

「悪女です……ねっ!」


 空から降ってくる氷を横っ飛びで避ける。まだ右眼は見えないし、腕も痛くて痛くてたまらない。それでも動きを大幅に阻害されるほどの痛みはないのが幸いだ。回復力だけは変わらず気持ち悪いほどで、足に一発だけかすったけど問題は無い。どうせすぐ治るから。


「どうするんですかっ!?」

「とりあえず避けまくれ! あとは奴を足止めしろ! 結界屋を狙われたらオシマイだからな!」

「唯ちゃんが結界を張ってるんですか!? ちなみに結界が破られたらどうなります!?」

「せっかく閉じ込めた犯人が街で暴れる!」

「そりゃまずい……って、足止めってどうやればいいんですかっ!?」

「知るかっ! 自分で考えろやっ!」


 素人に無茶を言ってくれる。

 とりあえず弾が飛んできた方向に向かって適当に発砲。本当にデタラメに撃って、しかも少しだけ見当違いの方に銃を向けた。これだけ痛めつけられたというのに、僕はまだ非情になりきれない。

 流石に痛みに苛まれてた間はそんな事は関係なくて、絶対に殺してしまいたかった。誰が邪魔をしようとも誰が遮ろうとも誰が割って入ろうとも誰がなだめようとも。だけど、それも痛みが治まっていくにつれてしぼんでいった。

 まだ、正直怖い。僕が傷つくのも、それ以上に僕が傷つけてしまうのが。七海さんの話を聞いて相手に同情してしまっているのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。彼らに残されているのは死でしかなくて、最後の引導を僕が渡してしまう、それが嫌だという自分勝手で利己的な醜さが僕をためらわせるのだろうか。

 班長さんが跳ぶ。崩れたビルに手を掛け、一足で四階の屋上部まで到達し、だけど相手の氷弾に迎撃された。それを何も持たない素手で弾き返し、だけども弾いた部分からは出血している。そのまま突っ込むこともできずに班長さんは後退。そしてその隙に相手はビルの壁を巧みに使って下へと降りていった。


「大丈夫ですか?」

「カスリ傷だよ、ンなもん」


 そういう割りには結構出血してる。だけども別に強がりという風でも無さそうで、たぶんこれくらいは茶飯事なのだと思う。


「……やっぱり手強いですか?」

「チンピラ上がりにしてはな。それに、俺みたいなのと遠距離型は相性が悪い」


 腕にめり込んだ氷の塊を取り出しながら話す。

 そして男が走っていった方向を二人で追いかける。


「ま、言っても所詮チンピラだけどな。自分の限界っつーモンを把握できてねぇ。力に酔って、力で解決できない問題にぶち当たってこなかった連中ばっかだかんな」

「そうなんですか」

「そーよ。そんなモン。

 だからもうすぐチェックメイトって事に気づいてねぇのさ」



 -五-




 瓦礫の山だらけと化した住宅街。住人とか死んでるんじゃないの、とかそもそも住んでる人を一人も見てないとかいろいろと思うところがあったけど、どうやら結界内の建物とかはいくら壊しても大丈夫らしい。結界内に取り込む人間とかは結界屋さんが自由に選べるみたいで、家屋はいくら破壊されても外の世界には何の影響も無いんだとか。結界屋さんが殺されたら完全に反映されてしまうらしいけど。

 そして僕は今、そんなボロボロに破壊された家の影に隠れてる。

 直接的な攻撃能力の無い僕を慮ってくれたのか、それともただ単に邪魔だったのかは知らないけど、班長である八雲さんの指示でこうして待機する事となった。八雲さんは今は一人で交戦中で、時折破壊音が聞こえてくる。別れ際に「静かに待ってりゃ出番をやるよ」と言ってたけど、たぶん……そういう事なんだろうな。

 ガシャ、と音を立ててマガジンを取り出し、残弾数を確認する。残りは後、五発。

 痛みの引いた右目に手を当てて一つため息。痛みはもう忘れ去られた。「痛かった」記憶だけはまだ覚えている。

 こうして一人で銃を持っていると、どうしても変な方向に考えが行ってしまう。

 こめかみに銃口を当て、静かに引き金を引く。破裂音と、それに続く薬莢の落下音。その後には何かが倒れる音が……しない。

 意識を現実に戻してまたため息。もうすでにイメージの中でさえも僕は死ぬ事はできない。流石に痛みだけは鮮烈なまでにフラッシュバックしてくるけど、それもどうせマヤカシ。治癒速度も、最初に二日近くかかったことを考えれば、今は異常を通り越してしまった。もう完全に、生と死の境は潰されてしまった。認めざるを得ない。

 どこまで行っても生で、どこまで行っても死で。その間に曖昧さはゼロ。代わりに全体が曖昧になった。

 閑静を通り越した静寂さを破る音が頭上で聞こえた。

 今度は銃を両手でしっかりと握り、イメージを思い描く。より明確に、より鮮明に。

 相手が降りてきたところを壁から飛び出した僕が銃を撃つ。狙いは頭。いや、命中率を考えるなら的の大きい体を狙うべきか。

 視界の中にスコープ越しの世界を描く。中心は相手の土手っ腹。着地で屈むだろうから、少し下に合わせる。そこを目掛けて指に力を込める。一発二発三発四発五発。ありったけの弾をぶち込んでやる。

 しつこいくらいに細かく、丁寧に頭の中で想像する。何度も何度も。

 頭上を見上げる。逢魔が時。結界の中だからか、明るさはあまり変わってない気がする。それとも単純に思ったほど時間が経ってないのかもしれない。


「おぉぅらよっ!!」


 これまでに無いくらい大きな声が聞こえてきて、少しわざとらしい。でもきっとこれが合図。 

 壁が砕ける音と同時に僕は飛び出した。細かい瓦礫が降ってきて、だけどもそれを意識から外して、男が落ちてくるだろう場所へ照準十字線をセット。

 そして敵は降りてきた。十字線の真ん中に。

 驚く敵の顔。慌てて僕に向けて手を伸ばす。氷の弾が掌の上に創り出される。時の流れはスローモーション。いくつか光って、だけども残ったのはたった一つ。敵の顔が滑稽なほどに歪む。タイム・オーバー。残念、時間切れです。後は引き金を引くだけでオーケー。ここまでイメージ通り、いや、イメージ以上。

 なのに、金属でできた引き金が、重い。重い、重い。たかがこれだけの動作に全力を尽くさなければならないなんて、なんてイメージ異常。

 残ったたった一つの氷弾が飛ばされて僕に迫る。そして、当る。僕の頭蓋を貫いていく感覚が鮮明。ぐいん、と裏返ったのは意識なのか、それとも僕の頭なのか。

 またしても一瞬、何も見えなくなる。感覚が薄れて、僕の体が制御を離れた。

 その前に一つだけ、僕ができたことが、ある。

 一度だけ、引き金を引いた。




「あー、二度目で何のひねりも無くてワリィけどよ……生きてるか?」

「何とか」


 八雲さんの声に、ゆっくりと眼を開けると、大して気力を振り絞る必要もなく上半身だけ起こす。ケガは治っても疲労は取れないので体は怠いけど、たぶん僕が一番元気な部類だろう。


「鏡クン」


 呼ばれた方を振り返ると水城さんが立っていた。疲れてはいるみたいだけど、どこにもケガは無いらしくて、つまりは他に敵はいなかったと言う事か。まあ、そんなにワラワラと敵に湧いてこられても困るけど。

 代わりに何処から湧いてきたのか、背中に「S.T.E.A.R」と書かれたジャケットを来た人がたくさんいた。どうも事件の後処理らしき事をしてるみたいで、ケガをした戦闘員の治療をしてたり、事故車よろしくボロボロになったワゴン車がレッカーされているのが見えた。


「鏡クンはケガは……無いみたいだねっ」

「本来ならどれだけ治療しても追いつかないくらいなんでしょうけどね。まあ、水城さんも無事で何よりです」

「うん、ありがと。そして鏡クンも……お疲れ様」


 言葉は僕を労ってくれて、なのにその表情はあまり冴えない。

 無理も無いか。隊員の人が死んじゃったんだもんな。

 ワゴンの中で頭を吹き飛ばされた運転手さんの姿が思い出される。一度暗がりで見ただけだから顔さえも憶えてないけど、他の人はそれなりに付き合いがあったに違いない。水城さんは死に対する忌避感が強いだろうから、少なからずショックを受けていると思う。だからと言って僕が何かできるわけじゃないし、気の利いた慰めも出てこない。むしろこんな世界に連れ込まれた僕を慰めて欲しい、と思ってる自分がいて、それが少し嫌だ。


「ホント鏡クンも災難だったねっ。いきなりこんな事件に出くわすなんて。普段はもうちょっとスマートなんだよ? ケガ人が出ても死人が出ることなんてあんま無いし」


 相手以外はね、という反論は口にしない。しても栓のない事だし、話だけを聞けば七海さんの話ももっともだと思うし。


「ともかくさっ、鏡クンはまだ正式にウチに入ったわけじゃないし、後始末はアタシたちがやっとくからさっ、もう帰っちゃって大丈夫だよ」

「タクシー代とか出ますかね?」

「たぶんムリッ!」


 はあ……しょうがない、歩いて帰るか。そんなに遠くないし。

 どっこらしょ、とおっさん臭い掛け声を上げながら立ち上がって、二人に軽く頭を下げて背中を向けた。結界はまだ解かれては無いのか、空は夕焼けのままだった。


「ああ、そうだ」


 八雲さんが呼び止めてきて、僕は首だけを回して振り返る。アロハシャツのおっちゃんがポケットに手を突っ込んだまま、離れた分だけ歩いて距離を詰めた。


「礼は言っとかないとな。素人のくせによく頑張った。助かったぜ」

「……大したことしてませんよ。素人が現場を引っかき回しただけですし」

「いやいや、ホントだって。お前が相手の脚を撃ち抜いてくれたおかげで一発で仕留められたからな」

「……お役に立てたのなら幸いですよ」


 失礼します、ともう一度頭を下げてから八雲さんから離れる。

 いろんな人が後処理をしている中を抜け、喧騒の中心から遠ざかった。途中で七海さんの姿が見えて、向こうもこっちに気づいたらしく手を振ってきたけど、会釈だけして通り過ぎた。向こうも忙しいらしいし、僕もあの人と会話できるほど楽しい気分じゃない。

 一分くらい歩いただろうか。いつの間に来たのか、それとも僕が知らなかっただけで最初から結界の中にあったのか、廃車ワゴンとは別のワゴンがあった。後ろのドアが開けられていて、そこに向かって真っ白の担架が運ばれて来ていた。

 僕はそれをなんとはなしに足を止めて見ていた。あのワゴンに乗っていた人かもしれなし、他にもケガ人はいてもおかしくは無い。ただ何となく見ていた。興味も無く、ただ何となく眺めてた。

 制服のお兄さんたちによって運ばれる誰か。端からダラリと垂れ下がった腕には生きている感じは無くて、そして袖の色は紺色。続いて見える足は黒のジーンズ。少しだけ体をずらして担架の上の人物を僕は見た。

 その遺体には頭が無かった。もっと正確に言うなら頭らしき何かがあって、だけどそれを頭と言うにはあまりに小さくて、あまりに形がなさ過ぎる。

『お前が相手の脚を撃ち抜いてくれたおかげで一発で仕留められたからな』

 ギリ、と奥歯が鳴る。何歩か足を進め、止まって眼をつむってうつむき、眼を閉じたまま空を見上げた。

 結界が解ける。まぶたを開く。それと同時に時間が回り始めて、暗めの茜色の空が濃紺へと変わっていった。

 風が流れ、それまでとは違った騒音が戻ってくる。立ち止まったままの僕の隣をさっきのワゴンが走り去っていった。

 砂ぼこりを巻き上げ、生暖かい排気ガスが僕を馬鹿にするみたいにまとわりついた。

 瞬きをして、それでも空の色は変わらなくて、どこまで眺めても星は見当たらなかった。



「最低な、世界だ」



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