迫り続ける女と逃げ続ける男の辿り着く先は……?

識原 佳乃

終わりの始まり

 ――金曜日――


『――まもなく6番線に――』


「やめろぉ! 付いてくるなぁぁぁ! 俺の前から消えてくれぇぇぇぇ!!」


 会社員、学生で溢れ返っている朝のラッシュ時のホームを、叫び声を上げながら走り抜ける男。

 人や物にいくらぶつかろうがその男の足が止まることはない。


「ハァ……ハァ……なんで……なんで俺なんだよぉぉぉ!?」


 息を切らしながらも叫ぶ。

 己の疑問を“相手”にぶつけるかのように……。


「……しね! ハァ、ハァ……死んでくれぇぇぇぇ!」


 そんな男の顔には鬼気迫る表情が深く刻まれていた。


「もう勘弁してく……アァァァァッ!? ………………」


 ――そして男は勢い余ってホームから転落し、進入してきた車両に轢かれ……絶命した。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 ――遡ること4日前の月曜日――


「あの、すみません」


 通勤、通学ラッシュで混雑する駅のホーム。そんな息の詰まるような人混みの中で意を決したような神妙な面持ちで女は言った。

 ――だが相手は女の言葉に気付くことなくその歩みを継続し、その姿は瞬く間に人混みに紛れていった。


「……明日こそは……」


 底冷えを孕んだ声音でそう口にした女は、自身も“勤務先の本店”に向かうため歩みを進めたのだった。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 ――遡ること3日前の火曜日――


 男はいつも通りの時間の電車に乗り、定刻通り乗り換えの駅に降り立った。

 苛烈を極める満員電車に揺られ、ただ歩くだけで押し潰されるような人混みに揉まれながら会社に向かう毎日。そんな生活に嫌気がさすのは誰だって至極当然のことだろうが、男には守るべき家族がある。だからこそこの日々の地獄を乗り越えられるのだと、自分に言い聞かせるようにして歩みを進めた。


「あの、すみません」


 エスカレーター前の最も混みあうポイントに辿り着いたところで、男は何者かに袖口を掴まれた。

 いち早くこの人混みから抜け出そうとしていた男は、苛立ちと困惑の入り交じった表情を浮かべて振り向いた。えぇい、忌ま忌ましい、と内心で呟きながら。


「……は、はぁ」


 勇ましく振り向いたはずの男はそう口にして立ち尽くした。

 自分の袖口を掴み、声を掛けてきた相手があまりにも美しかったからだ。

 光沢を内包した流れるような長い黒髪に、白蝶草を思わせる色白のキメ細かい肌。優美さと芯の強さを併せ持ったような切れ長の目には、決意の光に満ちた“正義感”の強そうな瞳が輝き、まるで大和撫子を体現するかのように整い過ぎた容姿のその女は男を見据えてから、ゆっくりと口を開いた。


「初めてあなた様をお見掛けした時からお慕い申しておりました」

「……え?」


 絶句。男が出来た反応はただそれだけだった。

 言うまでもなく女の言葉が理解に苦しむものだったからだ。


 俺は寝惚けているのか? 夢でも見ているのか?


 男は答えの出ない自問を延々とループした。


「どうか私と結婚を前提にお付き合いしていただけないでしょうか?」

「……ちょ、ちょっと待ってくれ。話しは聞くがここでは邪魔になるからそちらの端に移動してくれないか?」

「はい」


 突如深々と頭を下げた女に男は慌てた。

 発言内容もだが、周囲の目がいくらなんでも痛すぎる。過ぎ行く通勤者達の「何やってるんだこんな邪魔なところで」という冷めた視線に耐え切れず、男は女を連れてホームの端へと移動した。


 そして男は今自分の置かれている状況について必死に考えを巡らせた。


 これはきっと夢だ。でなければドッキリだ。こんな美人さんにいきなり声を掛けられた挙句、プロポーズされるだなんていくらなんでもありえない。……考えれば考える程にこれは典型的な美人局つつもたせじゃないか。俺が少しでも怪しい行動をしようものなら、どこかに控えているであろう強面のお兄さんが出てきて因縁をつけられるパターンだ。それだけはなんとしても回避したい。


「俺と君は初対面だよな?」

「いいえ? 私は毎朝あなた様のお姿を拝見していました。237日ほど前から。その内あなた様と目が合ったのは23回です」

「……いや、そうではなくて俺と話しをするのは初めてだよな?」


 気恥ずかしそうに頬を上気させた女の回答に得体の知れない恐怖を感じ、男の肌に粟が生じた。


 一体なんなんだこの女は!? 美人局よりも何かヤバい雰囲気がするぞ……。さっさと断って終わりにしよう。


「はい。この日を私は待ち望んでおりました」

「……そ、そうか。それで返事だが、俺は結婚しているんだ。嫁と子供を愛している。だからすまないが君の気持には応えられない。それでは」


 そう口早に告げると男は足早に立ち去った。

 その背に絡み付くようなねっとりとした女の視線が注がれていることも知らずに……。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 ――遡ること2日前の水曜日――


 男は昨日の出来事は既に終わったものだと、気にすることなく普段通りの時刻に駅に着いた。

 すし詰めの車内から吐き出されるようにしてホームへと降り立ち、酸欠気味の肺に目一杯の酸素を取り込む間も無く揉みくちゃにされながら、歩みを進める。

 ――そして辿り着いたのはエスカレーター前の通勤者が渋滞するあのポイントだった。


 昨朝は驚きよりも恐怖の方が大きかったが1日経つと大したことのないように思えた。

 早い話が一目惚れした相手に思いを告げただけじゃないか。なのになんで俺はあんなにも恐れていたのだろうか? むしろお世辞や美人局だとしても、あんな美人に声を掛けてもらえるなんて喜ばしいことだろ。


 利己的な思考を展開し、男は昨朝の出来事を己の武勇伝に入れるべきかと考えながら歩みを進めていたところ……、


「おはようございます」

「――うおぉっ!?」


 背後から急に手を握られた。それも俗に言う恋人繋ぎといわれる握り方で、だ。

 いきなりのことに男はビクリと身体を震わすと、つい昨朝ぶりの聞き覚えのある声に恐る恐る振り返った。


「どうかなさいましたか?」

「え!? いや、どうかなさいましたか、じゃなくて、君なんでまだ話しかけてくるんだ?」


 繋がれた手を辿って顔を上げると変わらぬ美貌を纏い、ニコリと嬉しそうに微笑む女がそこにはいた。

 そんな女の無邪気な笑みを見て生まれた感情は――恐怖そのものだった。


 俺はなんて楽観的な考えをしていたんだ。

 昨日確かにこの女から感じたではないか……狂気の片鱗を。


 男は今更ながら後悔した。なぜもっと真剣に考えなかったのか、と。

 己の物差しでは到底図り切れない女の行動と言動は狂気の沙汰であり、男に言い知れぬ恐怖を生み付けた。


「……はい? それは昨日お伝えしました通り、あなた様をお慕いしているからな……」

「――そういう意味じゃない! 昨日断っただろう!? なのになぜまだ話しかけてくるのかと聞いているんだ!」


 女の言葉を遮り、男は周囲の目も忘れて思わず声を荒げて問い質した。


「確かにあなた様はご結婚なさっているから、とお断りになられましたけれど、それは私が理由ではありませんよね? 妻子への配慮からそう仰っただけですよね?」

「……そういうことか。俺の言い方が悪かったな」

「……?」


 小首を傾げる女は不思議そうに男を見つめた。

 男はその視線に逃げることなく向き合い、掴まれていた手を振り解くと決意の滲む硬い表情を湛えて口を開いた。


「俺は君のことを愛してなどいない。ましてや好きでもない。無論興味もない。偽りなく本心を言うならば、君のことは……嫌いだ」

「…………」

「……それでは俺は失礼するよ」


 切れ長の目を見開き、瞳にただただ驚きを映した女。

 余程ショックだったのか言葉を発することは無く、男は無言を返事と受け取りその場を離れた。


「……きらい……嫌い? 私のことが嫌いなら好いてもらえるように努力しなきゃダメ……だよね? 明日も頑張らなきゃ……折角“嫌い”ってお返事をもらえたんだから。……キライ? 嫌いって……なに?」


 ――そんな狂言は当然男の耳には届かなかった。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 ――遡ること1日前の木曜日――


 随分と空いている車内で男は深く長いあくびを漏らした。


 電車が空いているのはいいが、いかんせん眠い。けれどさすがに1時間も早く行動していればあの女に会うことは無いはずだ。昨日キッパリと断ったがあの女のことだ、用心するに越したことはないだろう。


 男は女を警戒して普段よりも早い時間に家を出ていた。理由は女の行動が未知数であり、己にとって恐怖だったからだ。


「はぁ~」


 女が待ち構えていた乗り換えの駅が近くなるにつれ、あくびはため息へと変化していった。


 どうか、女がいないことを。願わくば、このまま時間が止まれば。望むらくは、何事も無く。


 そんな希望的観測を並べた男を乗せた電車はホームに滑り込んだ。

 到着を告げるチャイムが鳴り、ドアが開く。

 異様な緊張感から呼吸は浅くなり、口内に一切の水分は無く、手も軽く震えている。


 正直、降りたくはない。


 だがそれでも男は力強く、己を鼓舞するように一歩を踏み出した。

 愛する妻子を養い守るために。


「……ははは。なんてことないじゃないか……。1時間も早いんだ。あの女のことなんて気にす……」

「おはようございます。今日は随分とお早い出勤ですね?」

「う、うわぁぁぁぁぁぁ!? やめろ! 抱き付くな! 離れろ!」


 人影の少ないホームに女の姿は無く、安心し切っていた男に訪れたのは背後からの抱擁だった。

 突然の抱擁に情けない悲鳴を上げた男は背後から回された“片手”を振り解こうともがいた。


「はい」


 そう言って女は名残惜しそうに右手を胸板から離すのと同時に、“左手を男の上着のポケットから抜いた”。


「なにをするんだ!? いきなり抱き付いてくるなんておかしいだろ!」


 背後から抱き付かれるというあまりにも想定外過ぎた事態に男は気付かない。

 女が上着のポケットに手を入れていたこと――そして“ある物を忍び込ませた”ことに。


「すみません。こんなにも早い時間にあなた様の姿を見ることができて、気持ちが抑えられなくなりました」


 女は男の対面に移動すると心底申し訳なさそうに目を伏せ、光沢のある長い黒髪が地面につきそうな程に深く頭を下げた。


 ……違う。頭を下げるどうこうの問題じゃないだろ!? もっと本質的な問題だ……。

 この女はなんで俺に話し掛けてくる? そもそもなんで今日も俺を待ってたんだ? しかも今は普段より1時間も早い時間だぞ!?


「おい! なんでお前はこの時間にいるんだよ!?」

「……はい? 当然のことではありませんか?」

「はぁ? どういう意味だ?」

「あなた様をお待ちしていたからです」


 ……聞くまでもなく答えは分かっていた。俺はこの女の異常性を十二分に理解していた……つもりになっていたのだ。


 俺の想定は甘すぎた。緩すぎた。低すぎた。……軽すぎたのだ。


 この女はイカレテいる。狂気なんてそんな簡単な言葉だけで片付けられるものではない。

 根源から、根底から、根本から、イカレテいる。もう何もかもが狂ってしまっているのだ。

 ここで俺が何を言ってもこの女が解釈を変えないのは連日見てきたことだ。


 初めて言葉を交わした日に断り。

 翌日は嫌いだと明確に拒絶した。

 ならば今日はなんと返せばいい?


 俺は一体全体どうすればいいんだ!?


「頼む……頼むからもう俺の前に姿を現さないでくれ……」


 男の口から正直な心の声が零れ落ちた。

 微かに震えている声から漂うのは恐怖と懇望。

 そんな男の懇願に女は口角を上げ、たおやかな笑みを湛えて答えた。「……はい。わかりました」と。


「……本当に、か?」


 幻聴でも聞いたのかと男は信じられないものを見るような目付きを女に向けた。


 話しの通じないこの女のことだ。きっとまた訳の分からない解釈をしているはずだ。

 だからこそ真意を聞かない限り安心することはできない。


「はい」

「絶対にだぞ?」

「はい」

「なら、もう二度と俺の前に姿を現さないと約束……確約してくれるか?」

「ふふっ。はい。もう二度とあなた様の“前に”姿を現さないことを誓います」


 女は何故かクスリと微笑を浮かべると、確約の内容を復唱した。

 どうやら今回はまともに解釈してくれたようだと男は安堵の胸を撫で下ろした。


「じゃあもう会うこともないだろう。それじゃあな」

「はい。お仕事頑張ってください」


 踵を返し歩みを進める男。

 そんな男へと声を掛けた女は小声でひとりごちた。


「……あの方と初めて誓いを結んでしまいました。これはもう私は結ばれてしまったということも同然……だって愛って誓うものよね? ふふっ。私は愛しております。あなたを……あなたのすべてを」


 女の手に握られているのはただのスマートフォンだが、その画面に表示されているのは……、


「これで愛おしいあなたのすべてを知ることが……愛すことができます。うふふ……」


 ビーコンが点滅する地図だった……。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 ――木曜日夜――


 帰路につく男の足取りは軽かった。

 直近の懸案事項である女からのストーカー行為に終止符が打たれたからである。


「明日からは今帰ってきたあのルートで通勤しよう……定期代が出るまで自腹だし、遠回りにはなるが念には念を、だな」


 ……だが男も女の異質さを十二分に理解したため、通勤ルートを変更するという手を打った。具体的には女と鉢合わせる可能性の高い乗り換え駅を使わないルートへと。


「ただいまー」

「……わぁっ! ぱぱ! ぱぱだぁー!」


 鍵を開け玄関のドアを開きながら帰宅を伝えると、廊下の先から幼児特有の可愛らしい舌足らずな声が返ってきた。


 なんてこった……。声だけで可愛いと確信できるのはうちの娘だけじゃなかろうか? え? 親バカだって? 当たり前だろ! 親バカのなにが悪い!


 その声を聞いた途端、張りつめていた男の頬はどうしようもなく緩んだ。


「ぱぱぁーっ! おかえぃー!」

「ゴファッ!! ……た、ただいま!」


 短い手足を一生懸命に動かして曲がり角から勢い良く現れた娘の姿が目に入ると、男は口元と頬を極限まで緩ませ相好を崩した。


 あぁ~。我が娘は天使かよ! この鳩尾に走る痛みすら可愛く思えるぞ!


 鳩尾に飛び込むようにして抱き付いてきた娘をやわらかく包み込み、頭を撫でながら「今日も良い子にしてたかなぁ~?」と声を掛けると「うんっ! いーっぱぃ、おえかきぃしたの!」屈託のない笑顔が花開いた。


「おかえりなさい、あなた。今日もお疲れ様」

「あぁ、ただいま」

「……あら? なにか良い事でもあったのかしら?」


 遅れて出迎えにきた妻にそんなことを呟かれ「なんでだ?」と首を傾げながら返す。


「ここ最近疲れた顔をしていたのに、今日は随分とリラックスしている様だから」


 何気ない妻の一言。


 どうやら俺は表情に出る程追い詰められていたようだ。


 自分ですら気付いていなかったことを妻に言い当てられ、なんて良くできた最高の嫁さんなのだろうと男は幸せを噛み締めた。


 マジかよ。うちには天使がふたりもいるのか。最高かよ!

 

「懸案事項が片付いたんだ」

「そう、良かったじゃない。改めてお疲れ様ですあなた」

「あぁ、ありがとう」

「うふふ。じゃあ私の懸案事項も解決してもらおうかしら?」


 がらりと変わった色香の滲む声音に男はゴクリと喉を鳴らす。

 見れば妻の頬が僅かに上気していた。


 そういえば最近ご無沙汰だったな……。


 それとなく当たりを付けながら聞き返す。


「なんだ?」

「ヒントは今晩のメニュー。牡蠣とレバニラのガーリック炒め、長芋とオクラと納豆のゴマ和え、それと……ハブ酒」


 牡蠣、レバー、ニラ、ニンニク、長芋、オクラ、納豆、ゴマ、それにハブ酒。

 これらに共通するものは精の付くものであること。

 己の予想が当たっていた男は半笑いを誤魔化すように娘の頭を再度やさしく撫でた。


「……おいおい」

「わぁぁぁ~! ぱぱが、いーっぱぃ、いーっっっぱぃ、いいこいいこしてくぇぅれるー!」

「――ちゃん、お絵かきのお片付けできるかな~? できたらパパが肩車もしてくれるわよ~」

「ぅんっ! おかたじゅけすぅづけするーっ! かたぐーまぁー!」


 顔を輝かせた娘が小さな握り拳を元気よく突き上げ走り去る様を見て、男は堪え切れずに噴き出した。


「ははは……可愛い……ん!?」

「――あっ……んんっ……」


 娘の姿が見えなくなったことを確認してから妻は男の背に両手を回し、唇を塞いだ。

 暫時重なり合った唇が離れると顔を見せるのが恥ずかしいらしく、そのまま男の耳元で囁いた。


「うふふ。ふたりめ……お願いしますね? その……今日は私のことも一杯、いーっぱい、可愛がってください」


 ……。

 …………。

 ………………!

 な、なんて単純なんだ! なんて破壊力なんだ! 娘は純真無垢な天使で嫁は小悪魔堕天使とか……ここは楽園か!? エデンなのか!? ……いいや守るべき我家だ!


「寝かさないからな? 後から文句言うなよ?」

「……うふふ……やさしくしてくださいね? さぁ、ご飯にしましょ? 鞄と上着下さいな」

「あぁ」


 ネクタイを緩めながら鞄と上着を妻に手渡そうとしたところ、左ポケットから500円硬貨サイズの――“四角くて小さな黒い箱のようなもの”が軽い音を立てて床に転がった。


「あら? ……あなた~? 上着から何か落ちたけど、これなにかしら?」

「なんだそれ? 特に必要そうなものでもないから捨てておいてくれ」

「はい」


 それを拾い上げた妻は後で捨てようと身に着けていたエプロンのポケットにしまった。

 ――そしてそれがどのようなものであるのかを知るのは、まだ先のことだった。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 ――そして金曜日――


 男は遠回りのルートであるが故、普段よりも早めに家を後にした。

 ここ数日は電車に乗ることさえ軽い恐怖を感じていたが、今日は絶対的な安心感があった。


 なんせルートを変えたんだ。あの女が確約を破ったとしても俺がルートを変えたことによって、“遭遇する”確率は0%になっている。

 何も臆することは無い。


 こうして男は初詣のような人混みで溢れ返る新たな乗り換え駅のホームに降り立った。

 あまりにも人が多すぎて牛歩のような進行速度をとることになったが、男が焦ることはなかった。


 昨日の帰宅時にこの駅を使った時はラッシュ時間とズレてたからそんなには混んでいなかったが、これはもの凄いな。まぁ、早めに家を出たし遅刻の心配はないだろう。


 安心感からくるゆとりは心の余裕を生んだが、それは油断も生んだ。


 男が普段のように混雑をいち早く抜けていれば……。

 男が女の異常性をより高く想定していれば……。

 男が周囲確認を念入りに行っていれば……。


 男が死ぬことはなかったのだろう……。


「やっと追いつきました。……おはようございます」

「…………ッ!?」


 男の耳に届いたのはそんな言葉だった。


 やっと追いつきました……それはどこまでも追いかけるという女の意志の表れ。


 まるで心臓を握られたかのように身動ぎどころか、呼吸すらできないでいる男。

 そんな間に女は徐々に男へと近づく。


「昨日のお帰りから通勤経路を変更なさったんですね?」

「…………な!?」

「けれどこちらの方があなた様のお勤め先へ向かうには些か遠回りなさっている気がするのですが……」

「…………」

「それは私と少しでも長く一緒にいてくださるというご配慮なのでしょうか?」


 ――そして女は男の背後に立ち、昨日同様に抱きしめると、声を直接耳に送り込むようにささめいた。


「私……嬉しいです。……鈴木すずきみのるさん? ふふっ」

「クソがぁぁぁ! 離しやがれ!」

「ダメです♪ もう離してあげませんよ?」

「っざぁけんじゃねぇぇぇ!?」

「暴れちゃダメじゃないですか? 私実は武道の有段者なんです。ですから言うことを聞いてくれない悪い子さんのココとココを押さちゃうと……」

「てめぇぇぇ!?」

「あら不思議。サブミッションホールドが決まって身動きが取れないではありませんか」

「うぐぐ……」


 傍目から見たら女がただ抱き付いているようにしか見えないが、その実、身体のツボとなる部分を的確に押さえることによって極技を行っていた。


「これ以上無理に暴れようとすると、痛くしちゃいますからね? えへへ♪」


 何がえへへ、だよ!? 既にいてぇんだよボケェェェェ!?


「……わかった。もう暴れないから離してくれないか?」

「どうしましょう? ……ではふたつほどお約束していただけますか?」

「なにをだよ!?」

「ひとつは昨日あなた様……実さんが初めて誓ってくださった、“前に”姿を現さない、という契りをお守りしたいので、こちらに振り向かないこと……」

「あぁ、約束する」

「もうひとつは……私とこの先、末永く、悠久の時を、未来永劫、死んでもなお、添い遂げてください♪」


 そんなことを約束するくらいなら“死んだ方がマシだ”!

 ……いや、それはダメだ! 俺には心から愛している嫁と娘がいる。とにかく今は何が何でもこの女から逃げることが最優先だ。それから“警察”に駆け込もう。……初めからこうしておけばよかった。


「分かった」

「本当……ですか?」

「あぁ」

「ほんとのホントですよ?」

「本当……だ」

「う~ん? 今の間は怪しいですけれど、実さんを信じます。……ありえないと思いますけど、もし嘘を吐いて逃げようとしたら………………逃げられない身体にしちゃいますからね? けど、安心してください。私が永遠にお世話してあげますから。……えへへ♪」

「……ふー……ふー」

「……? どうしました? 早く役所に参りま……」

「――うおぉぉぉぉぉぉ!」


 女からの拘束が解かれた瞬間、男は呼吸を整え、己を奮い立たせるように雄叫びを上げながら猛然と走り出した。

 そんな男の逃亡を予期していた女もすぐさま駆け出し、追跡の態勢に移る。


「逃げちゃダメっていいましたよね? 実さんは本当に悪い子さんですね? お仕置きが必要ですね? そうですよね? 逃げられないようになりたいってことですよね? 私のそばにいたいってことですよね? それは永遠に私と一緒にいてくれるってことですよね? ……あれ? アレレ? ならどうして逃げるんですか? どうして? どうして私から逃げるの? だめ? ……ダメ! 絶対に駄目!! 実さんは私のもの! 他の誰でもない私だけのモノ!! だから……だから逃げないでください? 逃げないでください!? …………ニゲルナ。ニガ……サナイ」


 狂気の花が咲き乱れる女の瞳には淀んだ光が灯り、映し出されているのは男の姿だけだった。

 背中に突き刺さる女の発狂した視線を確かに感じている男は振り返ること無く走り続ける。

 人の合間を縫い、時には衝突しながら、ただひたすらに、ただがむしゃらに、女から1cmでも1mmでも離れるために男は逃げ続ける。


『――まもなく6番線に』

「やめろぁぁ! 付いてくるなぁぁぁ! 俺の前から消えてくれぇぇぇぇ!!」

「えへへ♪」

『――方面行きが参ります。危ないですから』

「ハァ……ハァ……なんで……なんで俺なんだよぉぉぉ!?」

「実さんだからです。あなた様だからです。愛しているからです」

『――の内側までお下がり下さい』

「……しね! ハァ、ハァ……死んでくれぇぇぇぇ!」

「愛してます。実さん……」

「もう勘弁してく……アァァァァッ!?」

「実さ――」


 電車のフロントガラスにこびり付き、ホームや人々に飛び散ったかつて男であった肉塊。

 人々が今起きた出来事を脳内で処理し終えるまでの刹那の沈黙の後、ホームは悲鳴に包まれ地獄絵図と化した。


 ――そんな中、女だけは冷静に行動を起こした。このような場面を過去に見てきたかのように……。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 ――後日譚――


「いきなりですみません。奥様はこの女性に見覚えがありますか?」


 所轄の警察署に呼び出された男の妻は刑事にとある写真を見せられた。

 その写真は防犯カメラに録画された動画の1コマを切り取ったもので、やや不鮮明ながら長い黒髪をストレートに下げている女の姿が写っていた。


 ……誰? 全然知らない……。


 いくら写真を凝視してもその人物が誰なのか? 一体何の関係があって見せられているのかすら分からなかったので、男の妻は刑事に不思議そうに尋ね返した。


「……いいえ。この方がどうかしたのでしょうか?」

「旦那様が……亡くなられる直前、駅のホームの防犯カメラがこの女性を捉えていたんですよ」


 そんなことは写真を見れば分かります。


 喉まで出かかった言葉を飲み下し、もったいぶるように慎重な刑事を見つめる。


「……どういうことでしょうか?」

「……まだ詳しいことは分かりませんが、現場にいた目撃者の証言と合わせると、どうやら旦那様はこの女性から逃げていた様なのです。それもかなり必死な様子で」

「えっ?」

「それで推測ですが誤ってホームから転落し……」


 思わず刑事の言葉を遮った。


 私の……私の夫はただの自殺として処理されたはずじゃないの!?


「――一体誰なんですかこの人は!?」

「それは我々も現在捜査中です」


 煮え切らない刑事の対応に、逆に冷静になった男の妻はあるものを取り出した。


 それは男が亡くなる前日に拾い上げた得体の知れないあの“四角くて小さな黒い箱のようなもの”だった。


「そう……ですか。……あの、刑事さん。関係の無いことかもしれないのですが、夫が……亡くなる前日の夜に上着のポケットからこれが落ちてきたんですけど……」


 本当は捨てようと思っていたがあの日は“色々”と忙しく、エプロンのポケットに入れたまますっかり忘れてしまい、今に至るという訳だった。

 刑事はそれを手に取ると瞬時に目付きを鋭利なものへと変えた。どんなものでも見逃さないといった刑事特有の鋭い眼光だ。


「……これは!」


 程なくして刑事は顔を上げた。

 どうやら正体が分かったようだ。

 刑事の様子を見て男の妻が間髪を入れずに尋ねる。


「刑事さん! それは一体なんなのでしょうか?」

「……超小型サイズのGPS発信機です。見たところ我々が捜査で使用するものと同型のタイプのものですね」

「GPS発信機? ど、どうして夫の上着のポケットにそんなものが……?」


 男の妻も大きく動揺していたが、それ以上に内心では刑事の方が狼狽していた。


 ――こりゃあ間違いなく警察機関うちでしか使われていないタイプのGPS発信機だ。備品管理番号を見る限り……“桜田門”の……それもキャリア組の物だな……。どういうこった?


 刑事は長年の現場勤務によって培われた勘と様々な情報、証拠を組み合わせて思考を巡らす。


 怪しい女は害者仏さんを追いかけていた。こりゃあ複数の目撃者マルモクが証言している。

 仏さんは何者かにGPS発信機を仕込まれていた。これもある範囲の特定は出来た。“桜田門”のキャリア組に、だ。

 さてめんどくせぇのが、その“桜田門”のキャリア組のやつがなんで仏さんにGPS発信機を付ける必要があったかを調べることだな。うちも一枚岩じゃねぇから、“桜田門”のお偉いさんがやってることなんて、所轄に知らされる訳ねぇしなぁ。

 第一仏さんの身辺は洗ったが、目ぇ付けられるようなことはなにもなかったからなぁ。

 取り敢えずGPS発信機の使用者の照会を掛けとくか。


 ……まぁ、このGPS発信機が怪しい女に繋がったら恐らくは……そいつが……。


「すみませんが私には分かりかねます。……ただ、何かの手がかりになるかもしれないのでこちらで一旦預からせていただいてもよろしいでしょうか?」

「えぇ」

「それでは本日はご多忙のところ御呼び立てして申し訳ありませんでした。何か進展がありましたらまたご連絡させていただきます」

「……は、はい」


 男の妻は刑事の様子を見てひとつだけ理解できたことがあった。


 それは写真の女が限りなく犯人クロに近い被疑者であることだった。


 最愛の夫を失い、精神状態が不安定な妻にはそれだけで十分だった。


 火の無いところに煙は立たぬ。怪しいからこそ疑われるのだ。

 疑わしきは罰せず。違う! 疑われた時点で罪なのだ。


 あなた、分かりましたよ。私が必ずあなたの無念を晴らします。


「……あの女は誰だ? 許さない……ぜったいに……絶対に……ゼッタイニ……………………コロシテヤル」



 ――END――

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迫り続ける女と逃げ続ける男の辿り着く先は……? 識原 佳乃 @Shikihara-Yoshino

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