少女編 旅立ち

Ⅱ Prologue

 ――〈魔境の深林ネプラ・コルクス〉にて起きた大暴走スタンピードから三年。

 最果ての村ナゼスはもちろん、ナゼスを擁するアルヴァレイム王国内に目立った戦の前兆もなく、民は変わらない平穏な日々を過ごせている。


 そんなナゼスでも変わった事が一つだけあった。

 それは、強力な魔物が棲まう〈魔境の深林ネプラ・コルクス〉にはかつての魔王殺しの英雄である〈銀珠の魔女〉が住んでいるという事実が明らかとなり、そんな魔女の弟子が時折ナゼスへとやって来る、という点だ。


 そして今日も、ナゼスの門に向かって一人の少女がやって来た。


 紫紺の瞳、腰程まで伸ばされた長い髪を揺らした少女。

 少女の周りにはふよふよと浮かんだ四つの銀色の球体。指揮を執るかのように指先を踊らせる少女に合わせて、球体がくるくると踊るように宙を舞っている。

 まるで曲芸のようにも見える光景に思わず行き交う人々も顔を綻ばせ、少女を初めて見た少年少女達はまるで見惚れるように時を止めた。


 整った表情は、無表情ならば近寄り難さすら感じるだろう。

 しかし少女はそこに気取った空気を纏うどころか、天真爛漫な性格が滲み出ているかのように銀色の球体を操っては楽しげに目を細めている。口ずさんでいるのはただの鼻歌に過ぎないというのに、それだけで少女の綺麗な声が手に取るように分かる。


「――よう、嬢ちゃん。今日も楽しそうだな」

「こんにちは、ドイルさんっ!」


 先程までとはまた異なる、見知った顔の相手へと向ける少女の花の咲くような笑み。鬱蒼と生い茂る〈魔境の深林ネプラ・コルクス〉を背にしているというのに、それはまるで美しい湖畔の森を背景に笑う妖精のようだ、と一人の吟遊詩人が思わず足を留めた。

 そんな周囲の反応には気付かず、少女は強面の中年男性であるドイルに向かって相変わらずの笑みを向けていた。


「やれやれ、いつも楽しそうだなぁ。この〈魔境の深林ネプラ・コルクス〉の奥からお前さんみたいな嬢ちゃんが鼻歌混じりにやって来るってのは、いい加減驚きはしねぇんだが、やっぱ見慣れねぇもんだ」

「そう? 森の中は季節で表情も変わるし、住めば都って言うよ?」

「いやいや、都が魔境ってのは勘弁してほしいぜ……」


 確かに少女の言う通り、そういった概念はこの世界にも存在しているが、一流の冒険者でさえしっかりと準備しなければ足を踏み入れようともしない〈魔境の深林ネプラ・コルクス〉を都と称する気持ちはドイルにも理解できないものがあった。


 しかし少女にとってみれば、実際に〈魔境の深林ネプラ・コルクス〉は素晴らしい場所だと思う。


 春は桜に似た大樹が桃色の鮮やかな花をつけ、夏には月輝花が月光を浴びて一面に咲き乱れ、秋は紅葉が森を彩り、冬は銀世界が広がる。珍しい薬草も手に入る上に、そうした薬草を薬にする方法などを学ぶ日々は、少女にとっては毎日が新鮮で、素晴らしい日々でしかないのだから。


「それで、今日はどうしたんだい?」

「うん、マリーから聞いたんだけど、行商が遅れて薬が足りないんでしょ? ジーネに言われて、わたしが作った薬とか持ってきたの」

「お、そいつはありがてぇ……――って、なんだ?」


 他愛ない会話を広げている二人のやり取りであったが、突如として森が騒がしくなってきた。

 何事かと視線を向けるドイルと少女の視界に、まだ年若い冒険者風の装備に身を包んだ若い少年と二人の少女が森から必死の形相で駆けてくるのが見える。


「――た、助けてくださいっ!」


 少年の叫び声とほぼ同時に、森から数匹の魔物が少年少女を追いかけるように追従して姿を見せた。

 森の中では決して強い部類とは言えないが、それでも数の優位性を利用して狩りを行う猿型の魔物――フォレストエイプ。まるでゴリラのような太い腕を持つフォレストエイプは、人の腕など容易く握り潰す程の怪力を持つ魔物である。


 明らかに少年少女達には荷が勝ちすぎていた。

 どうやら冒険者ギルドの忠告にも聞く耳を持たず、無理に〈魔境の深林ネプラ・コルクス〉へと侵入し、痛い目に遭っている最中なのだろうとドイルは当たりをつけつつ、舌打ちして少年少女を助けに駆け出そうとした。


 しかし――先んじる者がいた。


「――わたしがやっちゃうね?」


 まるで簡単なお使いを自分が請け負うかのような、軽い物言いで告げられた短い一言。同時に、ドイルの視界の隅を凄まじい速さで銀色の球体が追い抜き、今にも少年少女に襲いかかろうというフォレストエイプへと肉薄する。

 突如として正面から向かってくる形となった銀色の球体に、フォレストエイプは気付けなかった。鈍い衝突音を奏でつつ、骨まで砕くような激しい音を立ててフォレストエイプの一匹が森へと押し返されるように吹き飛ばされた。


「……相変わらずメチャクチャだな」


 唖然とする少年少女を他所にドイルは苦笑混じりに小さく呟いた。

 先程まで自分の目の前にいたはずの少女が、すでに逃げてきた少年少女とフォレストエイプの間へと陣取り、周囲に銀色の球体を浮かべながらフォレストエイプを真っ直ぐ見つめている。

 そこには先程までの楽しげな空気はなく、触れるどころか声をかける事すらも躊躇われるような気配が感じられる。


 足を止めた少年少女やドイルの視線など一切気にする様子もなく、銀の少女は小さく、警告を発した。


「森に帰りなさい。ここから先にくれば、あなた達を見逃せない」


 小さな一言と同時に、少女の周囲には膨大な魔力の奔流が荒れ狂う。

 少女の変化は劇的であった。強大な魔力を周囲へと展開させた少女の存在は魔物達にとっては目に見える驚異でしかなく、魔力に対して魔物程に敏感ではない少年少女にとっても、ドイルにとっても思わず息を呑む何かを感じさせる。


 それでも、フォレストエイプはお世辞にも賢くはなかった。

 少女が明らかに自分達よりも強者である事を肌で感じていようとも、獲物であった少年少女を横取りされた事に対して折り合いをつけられる程、利口ではないのだろう。


 少女の警告も虚しく、一匹のフォレストエイプが少女へと襲いかかろうとして――刹那、少女の操る銀色の球体がフォレストエイプの周囲を取り囲み、煌々と輝く魔法陣を浮かび上がらせた。


「次は脅しじゃ済まないよ。もう一度言うけれど――森に帰りなさい」


 自分達が狙っていた獲物よりも幼いはずの少女に言われた、最後通牒。その言葉の意味を本能で理解したのか、フォレストエイプ達は徐々に後退り、やがて森の奥へと消えていった。


「よう、災難だったな、坊主ども」


 そうしたやり取りの一部始終を最後まで見届けた後で、ドイルが少年少女の元へと歩み寄り、声をかけた。

 視線を銀の少女に向けたままの少年少女達が、そのままドイルへと振り返ろうともせずに呆然と訊ねた。


「……あ、あの子、俺らよりも子供、ですよね……?」

「フォレストエイプをあっさりとなんて……、何者なんですか……?」


 少年少女の問いかけに、ドイルは苦笑を浮かべながら頬を掻いた。


「ま、確かにあの子は冒険者登録まであと一年は待たなきゃいけない年齢だし、お前らよりは子供だろうさ。だが、実力はそんじょそこらの一流って呼ばれてる冒険者以上だ」

「は……?」

「あの子は二代目〈銀殊の魔女〉――リアだ。魔王殺しの唯一の弟子にして、お前らが逃げ帰ってきた〈魔境の深林ネプラ・コルクス〉の住人だ」




 最高神アスレイアの寵児にして、〈銀殊の魔女〉ジネットの弟子――リア。

 十一歳となった彼女の物語は、ここから始まろうとしていた。

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