幕間

幕間① 凛空・亜里沙




 その日、わたしは夢を見ていた。





 いつもの病室。

 まだMSOも知らず、仮想空間での活動に慣れたばかりの頃。

 身体が日に日に弱って、笑顔を浮かべる事すらできなくなった頃。


 ――――お母さんが、悲しい笑みばかりを浮かべた頃の記憶。


 九歳になった夏だったかな。







「ねぇ、凛空。仮想空間ってどんな所なの?」


 軍事用、医療用のヴァーチャル技術がようやく普及し始めて、世間では「いずれは自分達の生活にも普及するのでしょうね」とお気楽な調子でコメンテーターが口にしているテレビ番組を見ながら、お母さんが訊ねてきた。


「んーとね、そんなに自然な感じじゃないかな。「こうしたい」って思ってから動くまで少し時間がかかるし、ちょっと思っただけの事に映像が切り替わっておかしくなっちゃったり」


 この頃のヴァーチャル技術は、あくまでも想定された場所で想定された動きのみしか可能ではなく、不自由極まりないものだった。

 わたしみたいに臨床試験に参加するモニターを増やして情報を蓄積する代わりに、高額な医療費を相殺するっていう制度が導入されたばかりで、思考と視界のズレのせいで吐き気を催したりと、あまり楽しいものではなかったから。

 それでも、わたしは不満を口にするつもりはなかった。

 偽物の世界、偽物の空間。

 まだまだVR空間に設けられた行動範囲になっている部屋は狭いけれど、私はその空間の中で少しずつ本を読んだり、自由に動けるようになりつつあったから。


 それはずっとずっと小さい頃に、当たり前のものとしてわたしが過ごしていた頃の記憶よりもずっと新鮮で、それでいて――自由だった。


 わたしの病気を説明してもらったけれど、わたしにはよく分からなかった。

 ただ、このままじゃ脳がダメになっちゃって、わたしがわたしじゃなくなるって事だけは聞かされていた。

 もしもそうなってしまったら、もう病気が進んじゃってるって意味。

 わたしは――死んじゃう。


「そう。……その試験に協力するのは、辛くはない?」

「少しは不便だし、ちょっと気持ち悪くなったりもするけれど、辛くはないよ。楽しいもん」


 わたしの答えに、お母さんは少しだけ胸をなでおろすように微笑んだ。


 ――――わたしの病気が発覚したのは、二年前。


 お父さんとお母さんの友達が、日本に導入され始めたばかりの医療用VR機器に触れさせてくれると言ってくれて、わたしはお父さんとお母さん、それにお姉ちゃんに連れられて研究所みたいなとこに連れて行ってもらった。

 まだまだ医療用としては発展途上だったVR機器だけど、脳の情報は既存の機器とは比べ物にならない程に精密に読み取れると自慢していて、その違いを見せてくれると私達四人の内の誰かを検査してみせようって話になったんだっけ。

 不思議な機械に触れる貴重な体験。

 お姉ちゃんもやりたそうにしてたんだけど、お姉ちゃんはわたしに譲ってくれた。


 おかげで、わたしの異常は見つかった。


 それからは、ちょっと大変な騒ぎになった。

 わたしの病気は発見することさえ難しかったらしくって、珍しかったみたい。

 明確な治療方法は確立していないけれど、それでもわたしに治療法の確立と、VRの研究に協力してくれないかという提案が持ちかけられた。


 最初、お父さんとお母さんはそれには反対していた。

 わたしを実験動物みたいに扱うなんて有り得ないって、お父さんは珍しく怒っていた。


 でも、協力してくれたら莫大な医療費とかVR機器の使用料を負担してくれるって言われて、わたしはお父さんとお母さんに自分からやりたいって言ったんだ。

 余計な心配をするなってお父さんは怒ってたけれど、わたしも治ってほしかったし、わたしが協力して他の人が助かるようになるなら、わたしはその力になりたかった。

 漠然と、わたしは自分の死というものを受け入れていた。


 だったら、死ぬ前に何かを遺して、お父さんとお母さんに胸を張ってもらいたかった。

 お姉ちゃんに、「さすが私の妹」って褒めてもらいたかった。


 大好きだったんだ。


 いつも困ったように笑って、わたしのワガママを聞いてくれるお母さん。

 どこかわたしとお姉ちゃんの扱いに困ってるような、不器用だけど優しいお父さん。

 いつもわたしの頭を撫でて笑ってくれる、お姉ちゃん。


 家に帰ると、そんな家族が待ってくれていた。

 平凡で、決して裕福なお嬢様ってわけじゃなかったけれど、温かい家庭。


 でも、わたしが入院して、もう二年。

 わたしの病気のせいで。

 お父さんとお母さん、お姉ちゃんも、笑顔なのに――寂しそう。


「お母さん、いつもありがと」

「ふふっ、そうね。偉大な母に感謝しなさい?」

「うん。感謝してます、ははうえさまー」

「馬鹿なこと言ってないの」

「えへへ。元気になったら、いっぱい恩返しするからね」

「……えぇ、楽しみにしてるわ」


 ねぇ、お母さん。大丈夫だよ。

 わたしは知ってるよ。もう元気にはなれないってこと。

 だから、そんな辛そうに笑わないで、もっと昔みたいに笑ってほしいな。

 病気ってことも忘れちゃうぐらい、楽しく笑ってほしいんだ。


 最近、どんどんと色んなことを忘れちゃう。


 友達のこと。

 お母さんのくれた誕生日プレゼント。

 お父さんの誕生日。

 お姉ちゃんの学校の名前。


 わたしの記憶は、どこにいっちゃうんだろう。

 どうして、忘れちゃうんだろう。


 仮想世界のわたしの部屋には、たくさんのメモがある。

 今日憶えてることを、明日になったら忘れちゃうかもしれないから。

 いっぱい書き留めて残してる。

 たまに、メモが自分の物じゃないような気さえするけど。




 ――わたしは、わたしじゃなくなっちゃうのかな。









 夢から目が覚めた。

 パチリと目が開いたと思ったら、ジーネがわたしの顔を見て心配そうに笑っていた。


「また、昔の夢を見ていたんだね?」

「……どーしてわかったの?」

「娘の事ぐらい分かるさ。魘されてたからね」


 ジーネがわたしの事をぎゅっと抱き締めてくれた。

 冷たくて、凍えてしまいそうな気がしてたわたしの身体に、じんわりとジーネの熱が広がっていく。


「ジーネ。わたし、幸せだったんだ。お父さんもお母さんもお姉ちゃんも、すっごく優しかったの」

「……寂しいかい?」

「寂しくないよ。ジーネもいるし、ジルもティアもいる。マリーもいるし、ケインさんもエルファさんもいるもん。それにね、わたしが前に生きていた世界には、魔法ってなかったんだよ? でも今のわたしは、魔法だって使えちゃうんだから」


 夢や物語り、ゲームに出てきた魔法っていう不思議なもの。

 わたしは今、そんな不思議なものに触れながら、生きている。


「……でも、みんなに伝えられたらいいのにって、思っちゃうんだ。わたしは向こうで死んじゃったけど、こっちでは家族に囲まれて、楽しくて幸せな毎日を過ごしてるんだって。だから心配しないで、みんなも楽しく過ごしてって……っ」


 もう会えないって、分かってる。

 どうにかして今のわたしが幸せに生きてるんだって、みんなに伝えられたらなって思っちゃうのは、ワガママなんだと思う。

 そう思っちゃうんだ。


「リアの気持ちは、きっと伝わるさ」

「……ふふっ、ありがと」

「おや、お世辞や慰めで言ってるんじゃないよ? リアはなんせ、アスレイア様に愛されてるからね。ちょっと違う世界に伝えるぐらいしてくれるに決まってるさ」

「そんなこと……あるかもしれないね」


 ジルもティアも大げさだもん、ないって言い切れないよね。




 ――お母さん、お父さん、お姉ちゃん。

 死んじゃったけれど、凛空は元気でやってるよ。


 新しい家族もできました。

 でも、やっぱりお母さんはお母さんしかいないと思うし、お父さんはお父さんだけ。

 お姉ちゃんも、やっぱりお姉ちゃんだけだよ。


 多分わたしはずっとみんなの事を忘れたりはできない。

 うん、もう忘れたりはしないから、大丈夫。


 だから――どうか笑っていてください。

 わたしもいっぱい笑って生きるから、みんなも笑っていてください。






「……ふぅ、寝たみたいだね。――まったく。ちょいとさっきからうるさいんだけどねぇ、アールア様?」

《だばっでぇぇぇぇ! リアぢゃんの夢どが、見でだらどばらないんだもんー!》


 先程から脳内に響いてくる、号泣の声。

 ジネットはついに堰を切ったように泣き出すアールアの声に、無意味だろうとは思いつつも思わず耳を塞いで顔を顰めた。


「……伝えてあげることは、できないんですか?」

《ひぐっ、ぐす……っ。うん……、世界間を超えて伝えるなんてことは、いくら神でも難しいよ……》

「そう、ですか」

《……えっ? うそっ!? ちょ、ジネット! もしかしたら――!》








 ◆ ◆ ◆








「……ゆ、め……?」


 見慣れた部屋で目が覚める。

 寝起きが悪いにしては珍しく、明確に夢の内容を憶えていた。


 銀色の髪に、紫紺の瞳。

 その容姿はまるで妹が――凛空が使っていたアバターがそのまま幼くなったような少女が、楽しそうにMSOのようなファンタジーさながらの世界で、生きていた。


 思わず、私は机の上に置いてある凛空と撮ったスクリーンショットが表示されているスタンドを見つめて、慌てて立ち上がった。


「……凛空。あなたなの?」


 有り得ないって思う反面で、あれは間違いなく凛空だったと確信してる自分がいる。


 ――お姉ちゃん、わたし今、幸せだよっ!

 夢の中で私に向かって、あの子は満面の笑みを浮かべてそう言ってくれた。


 ――――再びベッドへと急いで戻り、VRの世界へと入る。


 あの日――凛空が死んでしまったあの日、私は慌ててMSOからログアウトして病院へと移動した。

 そのまま息を引き取った凛空の姿を見て、ずっと来て欲しくなかった日が遂に来てしまったのだと、改めて確認して、そのまま泣き出してしまった。


 それ以来、私はMSOにログインしていない。

 凛空のために始めたゲームを、私が一人で遊ぶ気には、どうしてもなれなかったから。




 ログインして目を開けた私に届いたのは、たくさんのメールだった。

 ギルドのメンバーからの心配の声や、ログインしたら声をかけてくれという仲間達からのたくさんのメッセージみたいだ。


 それらを開かず、私はフレンドリストを呼び出した。





「……リアの名前が、ない……?」





 MSOに限らず、VRの世界ではアカウントデータが消える事はない。

 キャラクターを消す事はできるけれど、一人に一つのアカウントはどんなゲームにも引き継がれる。そのため、運営側もデータを消すような措置もできないし、リアのデータを消すなんて真似をお父さんやお母さんが勝手にやるはずもない。


 なのに、リアのデータは消えていた。


「コール:ゲームマスター!」

《認証IDの確認――完了しました。梛野亜里沙様、ご用件をお申し付けください》

「認証ID、AA0001。妹の――梛野凛空のデータが消えているわ。どういうこと!?」

《確認致します、少々お待ちください》


 無機質なAIの声を聞きながら、私は一瞬とも永遠とも思える時間を待っていた。


 何人かから飛んできたチャットも無視して、しばし。

 AIの無機質な声は――告げた。


《確認完了致しました。認証ID、AA0001のデータは存在しておりません》

「……え?」

《繰り返します。認証ID、AA0001のデータは――少々お待ちください。不自然なログを検出致しました。情報を参照します》

「ちょ、ちょっと待って……! どういうこと? 一体何が……?」

《ログによる情報を解析。訂正致します。認証ID、AA0001――梛野凛空様のデータは、特定不可能な第三者によって消失しております》

「ど、どういうことよ! よりにもよって、凛空のデータを壊されたというの!?」

《専門オペレーターに繋ぎます、少々お待ち下さい》


 この時の私には、一体何が起こっているのかさっぱり分からなかった。




 結論から言えば。




 凛空のデータはハッキングどころか、まるでデータをそのまま繰り抜いたかのように消失していた、との事らしい。

 現在も情報を調査している最中だとオペレーターの人は語っていたが、どうにも痕跡を辿る事はもちろん、そもそもデータに侵入された形跡もないのだと、その人は語っていた。


 数日程経って、連絡を繰り返している内にこんな言葉を聞かされた。


「どうにもそこだけが存在していなかったかのように抜け落ちてしまっているみたいでして。こちらとしてもこのような事例はなかったので、調査を続けてはいるのですが……。まさにそう――」



 ――まるで、神隠しみたいだ。




 何気ない情報のやり取りの中で告げられたその言葉の意味を私が知るのは、もう少し後の話になる。

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