第10話 『大暴走』
深い深い、森の奥を更に深く。
一切の光の侵入すらも阻む〈
腐臭を思わせる酷い臭いを巨躯から染み渡らせながらやって来た余所者の気配に、この森を支配下に置いていた一頭の地竜がのっそりと首を動かし、身体を動かした。
――我が眠りを妨げるのか。
そう言いたげに地鳴りを伴う唸り声。
その声を聴いた魔物達はもちろん、獣達は恐怖に震え、身を強張らせた。野生の本能、生きる為の逃走すらも唸り声に凍りつく。
それでもバジリスクは地竜へと攻撃を仕掛けるつもりなのか、淀む事もなく地竜へと真っ直ぐに駆け出し、並大抵の魔物程度なら塵芥も残さないような熱線を放つべく、眼前に巨大な赤々と輝く魔法陣を浮かべ、放った。
――――しかし。
バジリスク以上に強固な鱗を持ち、生物上でも最強の一角とされる竜の皮膚には傷など一つたりともつくはずもない。
地竜は苛立ちを明確な怒りへと変えて、巨躯を起こして熱線を受け止めてみせると、砂塵の中から強烈な勢いを以ってバジリスクへと肉薄。大きく開かれた口から覗いた鋭利な歯が、バジリスクの喉を噛み貫いた。
火傷を齎せるバジリスクの血など、地竜にとっては弊害など一切ない。
血を浴びても平然と、怒りをぶつける為だけに喉元に食らいついた牙を更に食い込ませ、噛み千切るように力を込めていく。
やがて動きを止めるバジリスクの身体が崩折れ、地竜だけがその場に立ったまま、微動だにせずに動きを止め、虚空を見つめた。時が止まったかのような奇妙な空白の時間が生まれる中、地竜の瞳だけが大きく見開かれ、ぶれるように激しく動いている。
地竜は困惑していた。
バジリスクを喰らったため、何かが自分に影響を及ぼし始めている事に。
身体から一切の自由を奪われ、自らの身体が何かに侵されていくような奇妙な感覚に。
「あらあらあら。こんなに上手くいくなんて、ちょっと予想外。嬉しい誤算ね」
姿を見せたのは、男性とも女性とも取れる不思議な空気を放ち、[
黒い手袋に包まれたほっそりとした指を地竜に這わせながら、[
「さあ、暴れなさい。この森から、再び全てを始めるの」
高らかに笑う[
咆哮を聴いた魔物達が、次々に走りだす。
奥地に進めば進む程に強力な力を持った魔物が棲まう〈
地竜によって強い魔物が、強い魔物によって弱い魔物が追い立てられるように、その動きは伝播していく。
「フフフフッ! アッハハハハ! ――さぁ、宴の始まりよ!」
自然現象の一つとも云える、魔物の
◆ ◆ ◆
「――なんだい、この地響きは……」
森の浅い場所を調べつつ、バジリスクの痕跡を追っていたジネットは足元から伝わってきた異変に気付き、顔を顰めて足を止めた。
徐々に迫ってくる音の波と大地の揺れに、かつての経験から導き出された答えが警鐘を鳴らすかのように訴え、思わずジネットは目を見開き、森の奥を睨めつける。
「まさか……! チィッ、一体どうなってるんだい!」
慌てて踵を返して、ジネットはナゼスへと走った。
村に張った結界はあくまでもバジリスク単体を想定して、少々強くした程度の代物だ。ジネットの経験が導き出した、大暴走という結論が正しければ、結界として役割を果たせるのも一刻程度もなく打ち破られかねない。
慌てて村へと向かおうとしていたジネットが、ふと足を止めた。
「リア……ッ!」
熾天使に預けられ、自分の娘のように可愛がっている娘の姿を思い出し、ジネットは逡巡する。
森の奥にあるジネットの棲家は対魔物用に強固な結界を繰り返して張り続けてあるが、大暴走ともなればそれで防げるかと言われればジネットとて確信は持てないのだ。
かと言って家へと向かっては、その間にナゼスが呑み込まれてしまいかねない。
どちらを優先するべきかと言われれば当然リアを優先したいところだが、村へと戻って結界を強化し、即座にうろの家へと向かった方が多くを救えるのは間違いなかった。
「――リア様の心配なら無用ですよ、ジネット」
迷い、逡巡するジネットへと向けられたかつての熾天使の声に、ジネットは慌てて振り返った。
「ど、どうしてあんたがここにいるんだい!?」
「今回の件について、アスレイア様の命令によって参上したまでです。ジネット、リア様の身の安全は、私が保証します。村へと向かいなさい」
「……リアの身を守ってくれるってんならありがたいけどね。やっぱり、これは大暴走なんだね?」
「えぇ、その通りです」
最悪の予感の的中を、熾天使は一切の躊躇もなく肯定してみせる。そんな姿に頭痛を感じつつも、ジネットはため息を吐いて気持ちを切り替えた。
「リアに危険はないんだね?」
「もちろんです。あの方に危害が加えられるような事態になれば、即刻私達が動きますので」
「そりゃ頼もしいね。そのついでに大暴走もどうにかしてくれるってんなら嬉しいんだけどねぇ」
「不可能です。まして、今回のこれは何者かと言葉を濁すしかありませんが、人為的に引き起こされた大暴走です。自然発生の危険な状況ならば私達が動くケースもない訳ではありませんが……。まったく、リア様のお膝元でこのような騒動を起こすなど、アスレイア様の命令がなければ私が即座に消滅させたいところです」
「人為的だって……? 聞き捨てならないね。それに、リアを守るなら大暴走の根源を叩くのが一番手っ取り早いだろうに。どういうつもりだい?」
「それこそ、一介の魔女風情が立ち入って良い事情ではありません」
「この非常事態に何を……!」
「――ですが、リア様の保護者であるあなたには、少しばかりのヒントを与えておいても構わないでしょう」
激昂するジネットを制して、熾天使は続けた。
「今回の件で、リア様は本当の意味でこの世界を知る事になります。何者かによって仕組まれた大暴走ですが、アスレイア様はこの一件を利用するおつもりで私を派遣しました。それだけです」
「……どういう意味だい、それは……って訊いても答えちゃくれないんだろうね。やれやれだよ」
しれっと視線を外して、いかにも「答えるつもりはありません」と言下に告げてみせるという、少々熾天使の風貌に反するような茶目っ気のある反応を前にして、ジネットはこれ以上の問答は無用だろうと考えて意識を切り替えた。
「リアに怪我の一つでも負わせてみな。神の代行者だろうが、容赦したりはしないよ」
「一介の魔女風情に何ができる、と言いたいところですが……愚問ですね。あの方のすべすべの肌を傷つけようものなら、全ての熾天使が総動員してでも魔物を根絶やしにしますよ」
「くくっ、相変わらず重い愛を向けられたもんさね。初めてのはいはいを見逃すまいとか言ってたね、そういえば」
「当然です。ちなみに、初めてのはいはいと捕まり立ち、あんよまで、しっかりと記録水晶に保管し、アスレイア様によって不壊を付与されています。もちろん、一柱に一つは複製されていますとも」
「……神や熾天使に対して「気持ち悪い」なんて感想を抱くのは、世界広しと言えど私ぐらいなもんだろうね」
「ジネット。リア様から愛され、常に共にいるあなたは私達から見れば嫉妬と羨望の対象です。あまり余計な言葉ばかり口にしていると……何か事故が起きるかもしれませんよ?」
「仮にも天使が脅すんじゃないよ!」
流れるような軽い会話のやり取りも、大暴走によって生み出された地響きと足音が現実を突き付けるかのように徐々に押し寄せてきては続けていられるはずもなかった。
ジネットは一つ嘆息すると、「リアを頼んだよ」とだけ言い残してナゼスへと向かって駆け出した。
「予定通り、ですね。彼女は私達と同等とまではいかずとも、リア様を大事に想っていますから、無意味に自己犠牲の精神を発揮されては困りますしね」
《――リアちゃんから愛されているって意味じゃ、守るべき存在だからね、ジネットも。リアちゃんの為にも下手に怪我でもされちゃ困るよ》
突如として響いてきた少女の声に、熾天使は瞑目して小さくため息を漏らした。
「盗み聞きはあまり感心いたしませんが?」
《リアちゃんに対する自分達の行いを省みてからそういう事を言うといいんじゃないかな!?》
「見守るのと盗聴では雲泥の差です。変態と一緒にしないでください」
《へ、へへへ変態!? 神に向かってそんなこと言っちゃうの!? 上司に対する態度がなってないんじゃないかな!? 私、神だよ! 熾天使よりは確実に上にいるんだけども!》
「……残念ながら存じ上げておりますよ。それで、何用ですか――アールア様?」
声の主は、ジネットに加護を与えている存在――『魔と叡智の神』であるアールアであった。もっとも、ジネットに声をあげて自分をアピールしてみたり、今もなおぶーぶーと文句を言い続けているあたり、神としての威厳など一切見受けられない。
《――だいたい熾天使は確かにアスレイアの直属の配下だけど、私達にだって指揮権は与えられてるっていうのにさ。私のお菓子勝手に食べたり、やりたい放題が過ぎると思うんだよ、私》
「……コホン」
《うぐ……っ。うん、まぁいいよ、分かったよ》
熾天使ともあろうものが神に対して咳払いをして続きを促すあたり、なかなかに粗雑な扱いを受けているのは一目瞭然であった。
《今回の件だけどもさ、ちょーっと興味あるんだよねぇ。でねでね、できたら異変を起こしたバジリスクの死体を見つけて、神界に送ってほしいんだけど》
「……またですか? 飽きもせずによく集めますね――ゴミを」
《ふふん、私は『魔と叡智の神』だもん。色々調べてみたいのは――って、ゴミって言った!? ゴミを集めるなんて言わないでよっ! 外聞が悪すぎるよ!》
「大丈夫ですよ。アールア様の周囲からの評価はすでに底辺です。これ以上は生暖かい目で見られるだけで、失望されるような危惧はありません」
《底辺!? 私、底辺なの!?》
「……それで、バジリスクの死体だけでよろしいので?」
《わああぁぁぁん! なーがーすーなー!》
「うるさいです」
《ゴメンナサイ。――んんっ、冗談はここまでにしようか》
神と熾天使としてはあるまじき関係性を表すかのような会話は、一転して小さく可愛らしい咳払いをしたアールアによって切り替えられた。
《バジリスクはもう死体になってるみたいだけど、バジリスクを屠った地竜の身体、どうも魔力を乱す何かを埋め込まれたみたいなんだよね。元々気性の大人しい地竜が暴れまわるような作用を与える代物みたいだし、厄介な代物であることは間違いない。今後リアちゃんに関わる可能性があるなら調べておいて損はない、というわけだよ》
「なるほど、道理を得ていますね。でしたら、バジリスクではなく地竜の方を手に入れるべきでは?」
《地竜も欲しいね。何がどう作用してこんな異変を生み出したのか。その影響が及ぼす結果と、影響下にある存在そのものを調べたい。――やってくれるね?》
先程までの少女然とした態度から一転、言下に「これは命令だよ」とでも言いたげな物言いでアールアは告げた。
「畏まりました。でしたら、地竜は生け捕りが好ましいですね」
《うん、そうだね。半死半生程度にしておいてくれるとありがたいかな》
「……竜種の中では位が低い方であるとは言え、竜を相手に無茶を仰られますね」
《あはは、熾天使がそれを言うの?》
魔物どころか、魔族でさえも逆鱗に触れないようにしている相手――それが熾天使なのだ。下位の竜種である地竜を相手に無茶を要求しているなんて、アールアから言ってみれば冗談にしたってお粗末なお話であった。
しかし、しれっと熾天使は告げる。
「何か勘違いなさっておられるようですが、地竜はリア様に相手していただくつもりですよ。加減をしろなどと、意地が悪いですね」
《え、えぇ!? ちょちょちょっと待って!? たかだか八歳の子に何させようとしてるの!?》
「アールア様から意地の悪い試験を与えられた、と伝えておきます」
《えっ、ちょっ、まだリアちゃんと話したこともないのに、悪い印象を植えつけようとしないで――――》
一方的にアールアからの声を遮断し、熾天使は一つ嘆息すると森の奥へと再び舞い戻った。
◆ ◆ ◆
外でそれぞれの思惑が交錯している頃、リアは銀珠を介した魔法構築の練習に励んでいた。
真っ白なワンピースタイプの服から伸びる、まだまだ子供らしい丸みを帯びた手が、さながら楽団の指揮者を思わせるように中空を走り、それを操られた銀珠が追いかけるように離れた虚空をゆっくりと進む。
「魔力は問題なく届いてる、よね。じゃあ、このまま魔法を……――うきゃっ!?」
ジネットが家を後にする際に見せてくれた、光を放つ簡単な魔法を真似ようとしてみたところ、カメラのフラッシュを思わせるような、世界を一瞬白く塗り潰す程の光が弾け、リアは思わず声をあげた。
「ううぅ……、失敗ばっかりだよぉ……」
新しい人生の全てが上手くいくとはリア自身も考えてこそいない。しかし、魔法という分野に関しては失敗が続いてしまっているせいか、いくら天真爛漫なリアでも落ち込みもするというものである。
リアは知らないのだ。もしもここにジネットがいたのなら、銀珠を通した魔法でここまで強力な光を生み出させるなど、やはり才能の塊だと思わずにはいられないような結果を出しているという真実を。思った通りの結果が導かれず、大きすぎる魔力を操る難易度の高さを無視して、結果だけを見て落ち込みがちになっていた。
――――だから、だろうか。
リアの発想は大きく逸脱したものへと切り替わった。
「調整することばっかり考えてたけど、思いっきりやってみないとわからないよね……。ちょっとだけ、外に出てやってみよっかな……?」
ちらりとうろの中に作られた階段の上にある扉を見て、リアは逡巡する。
ジネットには一人で外に出るなと言われている。その約束を無意味に破ってしまおうとは思わないが、失敗が続いている今、気分転換をしたいのも事実である。
扉の外に身体だけ出して、いざという時には即座に家の中に転がり込めるような状態ならば、外に向かって魔法を使ってみる分には問題ないのではないかという考えが生まれ、リアは小さく頷いた。
「ちょっとだけ、ちょっとだけでいいから……」
そろりと立ち上がり、中年の男性が言っていたら間違いなく犯罪臭のしそうなセリフを呟きつつ、リアがゆっくりと階段を昇っていく。悪い事をしようとしているという状況に妙に心臓が早く動き、心なしか鼻息が荒くなっている。
八歳の少女でなければ間違いなく犯罪者に見えかねない構図を生み出したまま、リアはゆっくりと階段を昇りきり、扉を開けようと小さな手を伸ばした。
キィィと音を立てて開かれた扉。
その先に広がる外を見つめたまま、リアは目を大きく見開き、動きを止めた。
「――え……? な、何が起きてるの……?」
扉を開けた瞬間に飛び込んできた、地響きにも似た何かの足音と振動。あちこちで戸惑う獣や魔物の声が木々の向こうから反響してきて、音に囲まれているかのような錯覚に陥った。
普通の子供ならば、あまりの恐怖に慌てて扉を閉めて家の中に逃げ込みそうなものではあるが、こんな時に限ってリアの悪癖とでも言うべきか、怖いもの知らずの豪胆さが前へ出てしまい、何が起こっているのかを確認するかのように足を一歩、外へと踏み出した。
――――そんなリアを狙ったかのように、突如として肉薄する何物かの影。
リアはそれに気付き、思わず操っていた銀珠を慌てて自分と何物かの影の間に滑り込ませるように動かすと、強烈な魔力を注ぎ込んだ。
刹那、銀珠が砲弾のように弾き飛ばされ、何物かに鈍い音を立てながらドドドドドッ、と連続してぶつかっていく。
「……がふっ、お、お、お見事で、ございます、リア様……」
「えっ!? じ、ジルだ!?」
飛来するように飛び込んできたのは、ナイスミドルな男性の姿をしたジルであった。
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