第8話 暗躍する者達

 絶望の淵へと叩き落とされ、浅い眠りを断続的に繰り返しては痛みと後悔の波に苛まれるといった悪循環から一転、マリーナは深い眠りからゆっくりと意識を覚醒させた。


「……痛く、ない……?」


 意識をなるべく向けないようにしてきた傷から否応なく発せられる痛みもなく、それどころか包帯をつけているような布の感触もない。深い眠りから醒めたばかりの頭もすっきりしていて、この数日が悪い夢であったかのようにすら思える。


 意を決して、そっと傷のあった箇所に震えた白い手を近づける。


「……え?」


 ようやく触れたと思えば、その感触は傷特有の歪な傷跡すらないような滑らかな肌の感触であった。片目しか見えなくなっていたはずの視界が今更ながらに回復してる事にも気が付き、マリーナは自分の頬をペチンと音が鳴るような勢いで何度も触っていく。


 じわり、と視界が涙で滲んだ。


「治ってる……ッ、治ってる……!」


 くしゃりと顔を歪ませたマリーナは、髪と同色の亜麻色の瞳からぼろぼろと涙を零した。

 一頻り泣いた頃、まるで頃合いを見計らったかのように部屋にノックの音が聞こえて、マリーナは慌てて涙を拭って身体を起こし、返事をした。


「邪魔するよ」


 短くそれだけ告げて入ってきたジネットを見て、思わずマリーナは小さく「あっ」と声を漏らした。酷い悪夢の終わり際に見た人だ、と気付いたのだ。


「目はしっかり視えているかい?」

「え? あ、あぁ……。あの、傷を治してくれたのはあんた、なのか?」


 確信しつつも尋ねたマリーナであったが、しかしジネットは肩を竦めて笑みを浮かべてみせた。


「さてね。奇跡でも起こらない限り、そう綺麗に治ったりはしないだろうさ。それはあんたも分かるんじゃないかい?」

「そ、そりゃそうだけど、でも治してくれるって――」

「――奇跡が起こったのさ。そういう事にしておきな」


 言下にそれ以上は言及するなと釘を刺されて、マリーナは微かに困惑の色を浮かべた。そんな姿に、ジネットは改めて苦笑を浮かべてマリーナのいるベッド脇にあった椅子に腰掛けた。


「あまり広めて欲しくないんだけどね、〈魔境の深林ネプラ・コルクス〉には色々な素材があってね。貴重な薬を使ったおかげで治ったんだよ。運が良かったのさ」

「そう、か」


 邪法とすら呼ばれかねない治療を行ってみせたのだ。妙な噂を立てられてしまうのはジネットにとっても迷惑でしかない。国に広まり、厄介な貴族達に言い寄られようものなら、将来を見据えてリアの為にわざわざ村に恩を売ったのが裏目に出てしまう。自由を奪われてしまっては意味がない。

 言い聞かせるようなジネットの適当な言い訳を鵜呑みにした訳ではないが、それ以上を訊ねる事はせずに納得するように答えてみせたマリーナの頬に触れ、ジネットは傷の後遺症はないかと触診――触れてみたり軽く抓ってみたりと繰り返しながら、違和感はないかと訊ねていく。


「――完治してるね。運が良かったね」

「……治るとは思ってなかった。ありがとう。で、貴重な薬の礼なんだけど……」

「気にするんじゃないよ。この村を守ってくれたんだ、その恩返しとでも思えばいいさね。それに、若い娘が命を拾えたことに後悔するような姿なんて、見ていて気持ちいいもんじゃあないからねぇ。第一、こっちの都合もあるからね」


 ジネットとしても、リアの言う理論が正しいかの証明となったのだ。恩を重く受け止められても居心地の悪さしかなく、極力軽い調子で返しつつ、水差しから水を入れたコップを差し出してマリーナを見つめた。


「それで、バジリスクなんて魔物と戦った感想はどうだい?」

「……あたしは魔物の情報をしっかりと調べてるんだ。バジリスクは確かに獰猛だし、人を襲う。この怪我だって、普通のバジリスクを相手にしてても負ってたし、それを言い訳するつもりはない。けれど、あのバジリスクは今思い返しても普通じゃなかった」

「どういう事だい?」


 飄々としたジネットの纏う空気が一転、鋭いものへと変わる。

 急激な変化にたじろぎつつも、マリーナはゆっくりと口を開いた。


「あたしだってあの時、バジリスクに攻撃を仕掛けるのは危険だって分かってた。それでも慌てて斬りかかったのは、あのバジリスクが魔法を放とうとしたからなんだ」

「……バジリスクが魔法だって?」

「あぁ、そうだよ。確かに見たんだ、魔法陣を浮かべる兆候を」


 怪訝な表情を浮かべてジネットが確認するかのように訊ねるのも無理はなかった。

 何故なら、そもそもバジリスクに魔法は使えないからだ。魔眼を宿してこそいるものの、魔法を操るような知恵はない。

 魔法を扱う魔物がいない訳ではないが、その多くは魔法を使える程度に知恵がある種のみ。或いは、変異種と呼ばれるようなものぐらいである。


「となると、バジリスクは変異種かい?」

「そうじゃないんだ。変異種みたいに身体が大きかったわけじゃないと思う。本で見た大きさと大体同じぐらいだった」

「変異種じゃないのに魔法を使おうとする、ねぇ。ただの変異種以上に厄介な問題になりそうだね」

「……信じてくれるのか?」


 マリーナ自身、こんな事を話したところで荒唐無稽な話であると思っていた内容だ。まるで新人が負けた言い訳を並べるような内容に近く、鼻で笑われても仕方がないとさえ思っていたのだ、驚いて訊ねるのも無理はなかった。


「魔物の生態についてなら、そんじょそこらの冒険者なんかよりよっぽど多く知識も経験も蓄積してる自負はあるからね。それに、魔法を使わないはずの個体が魔法を使うのは、私も見たことがある」


 ジネットはマリーナの言葉を疑うつもりはなかった。

 確かに男勝りの口調ではあるものの、マリーナの言葉からは浅はかな自信や矜持だけでバジリスクと相対するような、昨今の冒険者のそれとは異なる面が覗える。しっかりと魔物についての知識を頭に入れ、その上で魔法を使ってきたから剣で先手を取ったのだと誇張や見栄で口にしていない事は、まっすぐ向けられた目を見ても間違いないだろうとジネットは確信していた。


「けれど、困った事になったね。この村じゃ変異種なんて厄介な存在――それもバジリスククラスとなると、助手さえ務められそうにないねぇ。私一人で相手するにしたって、〈魔境の深林ネプラ・コルクス〉は広いからねぇ。せいぜい見張りでもしてもらって、見つけ次第光弾で合図をしてくれる程度の助手がいればいいんだけどねぇ」

「ひ、一人で相手するってのか?」

「変異種となったら尚更ね。足手まといはいらないよ。ま、骨が折れる相手だろうけどねぇ」


 顔を顰めて嘆息するジネットを前に、マリーナはしばし逡巡した様子で俯いて、意を決して顔をあげた。


「あたしがやる……!」

「ん? あぁ、そういう風に聞こえちまったかい。でもダメだね、許可する気はないよ」

「どうして!」


 ばっさりと、ジネットはマリーナの提案を一蹴した。


 冒険者は荒事を生業としている。魔物や盗賊との命のやり取りをしなくてはならないのも当然であり、そういった環境に身を置いているのだ。汚名を払拭するためにも復讐してやりたいと逸る気持ちもジネットには理解できる。

 だが、マリーナではバジリスクの相手は荷が勝ちすぎているのだ。

 剣を手にした前衛型であるのも、防御や魔物の注意を引き付けるだけの役割はこなせる。だが、ジネットは確信している。――「この子はもう、バジリスクを前にまともに動けないだろう」と。


「一度でも痛い目に遭わされた相手にはね、負けるイメージが鮮明に叩きつけられちまってるのさ。断言するよ。あんたは確かに優秀な剣士かもしれないけれどね、しっかりと心の傷を癒やすまではバジリスクとは絶対に対峙できない。心が負けを思い出しちまうのさ」

「そんなことない! あんなヘマはもうしない! それに、このまま負けたまま過ごすなんて……!」

「――【黙りな】」


 魔力を声に乗せ、敵を威圧する発声法――「喝声かっせい」。

 ジネットに喝声をぶつけられ、マリーナは身を強張らせて押し黙った。


「冒険者ってのは命懸けの仕事だ。あんたの覚悟は私にだって判らないもんじゃあない。負けたままでいたくないっていう若さもね」

「……なら……ッ」

「でも、だよ。一度でも深手を負わされた相手を前にしちまうと、どうしても一瞬だけやられちまうイメージが蘇っちまうのさ。その一瞬を見逃してくれる程度の魔物が相手ならまだしも、変異種のバジリスクが相手じゃ今度こそ本当に死んじまうだけだよ。――それとも、あんたの傷を治した私の前で、せっかく拾った命を蔑ろにするなんて宣言するつもりかい?」


 意地の悪い笑みを浮かべつつそう言われてしまっては、マリーナも強く言い返せるはずもなかった。俯いたマリーナの頭をポンと叩いて、ジネットは椅子から立ち上がった。


「ま、心配するんじゃないよ。この村ごと結界で覆って一人で森を見て回ってくるだけさ」

「そ、そんな真似ができるのか……?」


 村を覆う結界を一人で張るなど、それこそ冒険者としては二級以上の超一流の実力者か、特級と呼ばれる者でなければ不可能だ。それをたった一人でやってみせるなど、普段ならば一笑に付すような世迷い言にしか聞こえない。

 しかし自らの顔の傷を――不可能とされる治療をしてみせたジネットならば、或いはそれも可能なのではないかと思わされ、マリーナは半信半疑といった様子で目を丸くしてジネットを見上げた。


「――私を知らないのかい? この〈銀珠の魔女〉を、さ」


 かつての英雄譚で語られた、一人の魔女の諱。

 数十年ぶりに自らの口から語る二つ名にむず痒さを感じつつも、ジネットは堂々とそう名乗ってみせた。







 ◆ ◆ ◆







「あぁ……帰りたい寝たい帰りたい」

「ちょっと、そういう愚痴ばっかり口にするのやめてくれる? 一緒にいるこっちまでやる気失くなるんだけど」


 気だるげに愚痴をこぼす金髪の少年。眠たげで半分程まで瞼を下ろした碧眼の瞳は十代中盤といった程度のまだまだ前途ある若者らしからぬ冷め切ったもので、その態度に相応しく濁ったものであった。

 そんな少年に文句を口にしたのは赤髪の少女だ。真っ赤な長い髪を側頭部で左右に留めた、いわゆるツインテールの髪に勝ち気そうな性格を表すような釣り上がった同色の瞳を苛立ちに細め、少年を睨めつけていた。


「あはは。それにしたって、ボクは[怠惰の罪源スロース]、キミは[憤怒の罪源ラース]。この状況はピッタリだと思わないかい?」

「バカなこと言ってる余裕があるなら、さっさと仕事しなさいよ。盟主様の命令を怠るような真似、いくら[怠惰の罪源スロース]だからって許されるわけないじゃない」

「確かに命令に背くわけにはいかないって事ぐらい、ボクも分かってるさ。あの御方の命令なんだし? でも、いくら暗部を担ってるからって、今回の任務はどうにも気が乗らないなぁ」

「あんたは何を命令されてもやる気なんてないでしょ。というか、言葉が過ぎるわよ。盟主様のお考えを私達が理解しようなんて考え、痴がましいにも程があるわ」

「……羨ましいね、まったく。そんな風に真っ直ぐ信じ続けるだけでいられるなんて、ね」

「何よ、何か言った?」

「いいえー、何もー。あー、帰りたい」


 皮肉の混じる呟きは少女には届かなかったようであった。


 彼らがいるのは〈魔境の深林ネプラ・コルクス〉。

 方角こそ違えど、ナゼスから見てリアとジネットの家へと進んだ更にその先に広がる森の深部。空は周囲の鬱蒼のした木々によって覆われ、一切の陽の光さえ届かない薄暗い一角だ。


 そんな二人の目の前には、大きな山のような黒い影が丸まっていた。


「冒険者と接敵したみたいだけれど、どうやら無事みたいね。私達に敵意を向けるような素振りもないし、実験は成功ね」

「そうだねー。いやー、おめでたいおめでたい。じゃあ帰ろうか?」


 目の前の黒い山を見つめていた赤髪の少女が、ついにその言葉に青筋を立てた。


「……あんたね、いい加減にしなさいよ? 盟主様の指示だから我慢して一緒に行動してるとは言え、そういう態度続けるんなら――殺すわよ」

「……へぇ? キミが、ボクを? やめといた方がいいよ。キミとボクとじゃ相性が悪すぎるよ。もちろん、キミにとっての、ね?」

「ハッ、どうだか。あんたもろとも全て燃やして消してあげるわよッ!」

「無理無理。なんなら、キミを氷に閉じ込めてあげるよ。そうすればボクもうるさいキミの金切り声を聞かずに済むからね……ん? 名案かもしれない。これで静かに怠けれるなら、悪くないや」

「――そこまでにしておきなさいな、二人とも」


 背後から聞こえてきた声に、少年は嘆息を、少女は舌打ちをしつつも一触即発の空気を霧散させた。


「フフフ、二人共可愛いわね。そんなに緊張しなくても、あなた達をどうこうするつもりはないわよ?」

「そもそもボクはキミがどっち・・・を好むのか、甚だ疑問でならないけどね――[色欲の罪源ラスト]」

 

 少年の胡乱げな視線と言葉を向けられて、声の主は「あら、失礼ね」と言いながらしなを作って頬に手を当てた。


「美少年と美少女だもの、迷っちゃうのもしょうがないでしょう?」

「そういう意味じゃないわよ! あんたの性別、どっちか分からないのよ!」

「フフフ。さて、どっちかしらね?」


 立っているのは一見すれば女性にも見え、しかしよくよく見れば顔の整った男性にも見える。ならば声で判別しようにも、女性と男性の中間といったところ。どうにも判然としない中性的な〈普人族ヒューマン〉であった。


「どっちでも愛せるわよ?」

「どっちにしてもボクは愛せないけどね」

「コイツと同感ってのもなんだか気に喰わないけど、私もだわ」

「もうっ、つれないのねぇ」


 困ったように眉を寄せる[色欲の罪源ラスト]を前に、困っているのはこっちだとでも言いたげな少女とは裏腹に、少年は再び気怠げにため息を吐いた。


「それで、キミが来たって事は新しい命令が下ったって考えていいのかい? ボクとしてはもう帰っていいって指示以外はお断りなんだけども」

「フフ、他の所でも実験は成功しているから、あなたのご希望通り、よ。ここは放棄して構わないそうよ」

「コイツはどうするのよ?」

「そうねぇ、連れ帰れって命令は特に下りてないし……」


 目の前の黒い山――バジリスクを親指で指差して問いかける少女へと答えつつ言葉を濁した[色欲の罪源ラスト]が、唇の下にしなやかな指を当ててぞくりと寒気がするような笑みを浮かべてみせた。


「――面白いこと考えちゃった」

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