第7話 異界の知識

 マリーナ・エズヘルは、引き攣っているかのような自分の顔半分から肩にかけての違和感と、どうしようもない消失感だけを噛み締めながら、ベッドの上で天井をじっと見つめていた。


「……ちくしょう。何が、天才だ……」


 冒険者という荒くれ者の多い仕事をしているマリーナは、いつしか癖になってしまった男勝りな口調で悔しげに吐き捨てた。


 若き天才、麗しき女魔法剣士。

 そう呼ばれてきたマリーナは、まだ十代後半にして冒険者としての実績を積み、五級の大台へと足を踏み入れた。辺境の村ナゼスへとやってきたのは、〈魔境の深林ネプラ・コルクス〉で自分の腕がどこまで通じるのかを試すためだった。


 ただの自惚れではないか、と歯噛みする。


 元々、女としての幸せを望むような性格はしていなかった。

 端に引っかかる程度の零落貴族家の代表、騎士爵家の次女ともなれば生活は貴族のそれとは似ても似つかない。幼い頃は市井の民と共に畑を耕し、男の子達と混ざって喧嘩しては生傷を作るといった有様。

 物心ついて、その腕白ぶりに手を焼いていた父が、剣を握らせて鍛えてやれば精神的に成熟するのではないかと思い付き、それがマリーナという少女に眠っていた才能を開花させた。


 生来より身体能力に優れ、母方の祖母と同じく魔法にも適正を持っていたマリーナのその才能と実力は大人達すら届かず、いつしかマリーナは半ば飛び出すように冒険者としての道を歩むようになったのだ。


 その結果、全てが上手くいっていた――行き過ぎていた。


 あれよあれよと五級にまで上り詰め、もっと強い敵と戦いたいなどと自惚れ、出会った魔物がバジリスクだったのだ。


「……こんな事になって命を拾うぐらいなら、いっそ死んでしまった方が良かった」


 マリーナの呟きは悲痛そのものであった。


 皮膚を溶かす火傷のような傷は見た目を醜悪にさせ、その上視界を半分奪われた。包帯の下の皮膚は未だにチクチクと痛み、眠ってしまおうにも痛みのせいで浅い眠りが続き、心は荒んでいく一方だ。

 沈痛な面持ちの村人を庇うように、冒険者なのだからと自分に言い聞かせるように告げてみせたものの、心のどこかで誰より絶望しているのはマリーナ自身であった。


 虚空に溶ける、彼女の本音。

 だが、そんな呟きを拾った者がいた。


「バカ言ってんじゃないよ、その程度の怪我で」


 ベッドの上で、突然聞こえてきた声にマリーナは驚いて顔を僅かに動かした。部屋の入り口に立っていたのは、いかにも魔法使いですとでも言わんばかりの外套を羽織った女性――ジネットであった。

 誰何しようと口を開きかけるマリーナであったが、「ほれ、男はすっこんでな」と振り返って乱暴に扉を閉めてみせたジネットの姿に思わず言葉を失い、そのままベッドの横にあった椅子に腰掛けるジネットを見つめた。


「……あなた、は?」

「喋るんじゃないよ。バジリスクの血を被ったら、火傷したみたいに怪我するからね。下手に喋ったら治りかけてる皮膚が剥がれて痛いだけだよ。治してやるから、包帯を取らせておくれ」

「な、治せるの……――?」

「喋らないで返事しな、バカな娘だねぇ」


 それは無茶な要求だと言いたいマリーナであったが、ジネットの瞳に呆れたような、それでいて優しい光が宿っている事に気付いて、今度はこくりと小さく頷くだけに留めた。


 張り付いている包帯を剥がす痛みに顔を歪ませてしまうものの、ジネットはそれに躊躇う素振りすら見せずに慣れた様子で包帯を外していく。


「やれやれ、若い娘が顔にこんな傷を負っちまうなんて。普通に考えれば、どうしたって痕が残っちまうね」

「……それは、しょうがないと――」

「――喋るなって言ってるだろうに。どれ、少し眠ってな」


 ぽうっと淡い光を放つ指先を額に押し当てられて、マリーナは酷く唐突な眠気に襲われた。


「村を守ったんだ、あんたはよくやったよ。心配せずに、ゆっくりとお休み」


 薄れていく意識の中で聞こえた声を、懐かしい母のようだと思いながらマリーナは一筋の涙を流しつつ、そのまま意識を深い闇へと沈めた。


「……さて、こいつは予想以上に酷い怪我だね」


 ゆっくりと寝息を立てるマリーナを見つめながら、ジネットは独りごちる。

 バジリスクの血によって溶かされるような傷は、マリーナの左眼の上から肩にかけて爪痕を残していた。まだそれ程の時間が経っていない傷の状態は、戦場で傷を見慣れている者でなければ血の気が引く程に悲惨だ。


 そんな傷を見つめて治療の算段を立てると同時に、ジネットはバジリスクの方が一枚上手だったみたいだ、と冷静に分析する。


 バジリスクは自らの血が他の生物にとって毒であると理解しているのだ。自ら斬られてもすぐに治る場所を差し出すように防御し、血で反撃するといった方法を取れる程度の知恵を持っている。

 本来、バジリスクを相手取るのであれば近接戦闘は避けるべきだ。

 魔法で頑強な鱗ごと身体を焼いてしまうか、或いは罠にかけて仕留めるか。部屋の隅に置いてある剣をちらりと見たジネットは、相性が悪すぎるだろうにと苦笑した。


「やれやれ。私もすっかりあの子に毒されてるねぇ。まさかアレを試す事になる日が来るとはね」


 銀色の髪を揺らして丸い瞳を興味に光らせるリアを思い浮かべながら、そうは言いながらもジネットは微笑んでいた。


「さて――ドイル坊、すぐに桶と清潔な手拭いを持ってきな。村の恩人とやらを治すよ」

「お、おう!」


 扉の向こう側のドイルへと声をかけたジネットは小さく深呼吸してから、気持ちを切り替えつつ表情を引き締め、懐からナイフを取り出した。


「持ってきたぜ……って、ジネットさん!? まさか、介錯してやろうだなんて……!」

「治すって言っただろうに、馬鹿たれ! ……ドイル坊、これからやる事は秘密だよ」


 戻ってくるなり慌てた様子で声をかけるドイルを一喝して釘を刺すと、ジネットは煌めくナイフの先端をマリーナの頬へと押し当てた。


 ――治りかけの傷をナイフで抉り取り、そこに治癒魔法を使う。

 こんな酔狂な真似を考えついた自分の娘とも言える存在もだが、その言葉の信憑性を信じきってしまっている辺り、自分もまた随分と変わったものだ。


 そんな事を考えながら、マリーナの手術とでも言うべきジネットの治療が始まった。






 ――――事の発端は、数年前だった。


 リアはジネットから様々な魔法についての知識を与えられたが、その際に最もリアが興味を――そして同時に、意外な発想を口にしたのが、治癒魔法の勉強をしていた時の話であった。


「――ねぇ、ジーネ? どうして治癒魔法で傷を治せるの?」


 それは子供特有の「どうして?」や「なんで?」の類ではなく、純粋に理解が及ばずに問いかけられた言葉であった。


「突然どうしたんだい?」

「んーっと、魔法は魔力が現象を引き起こすもの、っていうのはわかるけど、傷を治すっていうのはそういうのとはちょっと違うから、かなぁ?」


 リア自身、細かくその疑問を抱いた理由は理解できていない様子であったが、ジネットも昔、その違和感を抱いた経験があった。思わずジネットはリア――つまりは自分の娘とも言える存在が同じ違和感を抱いた事に頬を緩ませ、リアの頭を優しく撫でた。


 一般的な家庭ならば、この質問にはテンプレートとも言える答え――「神の御業」だの、「そういうものだから」だのといったあやふやな答えしか返ってこない。

 それもそのはずで、その細かい理由は知られていないためだ。「神の領分」などと言い張る教会の目もあってか、その理由を本当に調べようとするものはいない。

 そういった意味から、治癒魔法は別名では神聖魔法と呼び名を変えられていたりもするのだが、ジネットはその事をリアに伝えるつもりはなかった。


 何せジネット本人が、そんな世迷い言を信じるはずもなく、もっと信憑性のある言葉をとある存在から聞かされたおかげである。同時に、それを世間に広めるべきではないという釘を刺された事もあったのだが、リアならば問題はないだろうとジネットはあっさりと判断を下した。

 その相手とは、その質問がきっかけで加護を与えてくれた存在――『魔と叡智の神』アールア。リアを溺愛している神の一柱であり、ジネット自身が語らずともアールアがこっそりと教えかねないと思ったのである。


 ちなみにこの時、天界では「私! 私が教えたい! ジネット、私に言わせて!」と大騒ぎしていた神がいたりもするのだが、ジネットはそのお告げを堂々と聞こえないフリをしてみせた。先生役を譲るつもりはないのである。


「生きとし生ける者はみな、魂魄を持っているんだ」

「こんぱく?」

「そう、魂と言ってもいいだろうね。想い、存在の根源とも言える、目に見えないものだけれどね、そういったものを生き物は持っていてね。治癒魔法は、その魂魄の活動を促す魔法なのさ」


 どこかから「ジネットのばーか! ケーチ!」と叫ぶと声に僅かに青筋を立てつつも、ジネットは丸い目で自分を見上げているリアへと続けた。


「魂魄はね、その存在の「状態」を記憶して形取る。治癒魔法を使うことで、肉体という魂魄の器を、魂魄の保管している「完成した状態」に再生させるのさ。意味が分かるかい?」

「ん、んん……? つまり、魂魄に保存した状態に肉体を上書きしてるって思えばいい?」

「……上書き、ねぇ。あぁ、それは言い得て妙な表現かもしれないね」


 リアの理解力の高さは、ついリアが歳相応の子供らしく見えている普段を忘れさせるような代物であり、思わずジネットは目を丸くしながらそう答えた。

 本来ならば学者でさえ首を捻り、熟考し、ようやく辿り着けるような説明であるにも関わらず、しかしリアにとってはその表現が最も理解しやすかった。パソコンのデータを保存した状態に戻すようなもの、という下地となる知識があったからだ。


「ジーネ、治癒魔法は腕とか足とかがなくても治るってこと?」

「魂魄が変わる前ならそれも可能だね。ただし、大きな傷を回復させるには、激痛を伴う上に体力も酷く消耗しちまうんだ。簡単じゃあないねぇ」

「そうなんだ……ん? 魂魄が変わる?」

「四肢のいずれかの欠損ともなると、魂魄もまたその形に変わっちまうのさ。そうなると治癒魔法があったってリアの言うような上書きは難しいんだよ」

「そっかぁ。でもそれなら、どんな傷でも傷を負ったばかりなら治せるってことだよね?」

「どういうことだい?」

「んーとね、怪我をして治った後に傷跡が残っちゃうでしょ? 魂魄が「完成した状態」の情報を書き換える前なら、治癒魔法で元通りになるってことだよね?」

「……なるほどね、確かにそうも聞こえるかもしれないねぇ。でも、火傷とかなんかだとどうしても痕が残ってしまうからね。リアもそういう怪我には気を付けるんだよ、女の子なんだからね」

「うん、わかった。――でも、火傷とかだと痕が残るって、どうして?」

「さてねぇ。そればっかりは私もよく分からないんだけどね、どういう訳か火傷をそのまま治癒魔法で癒そうとしても、その痕が残っちまうんだよ」

「んんー……?」


 理解できないといった様子で首を傾げてリアが唸る。


「魂魄の情報が上書きされてなくても、傷が治らない……。それってつまり、傷の再生を邪魔するか、できない何かがあるってことなのかな……? 地球あっちでも火傷の痕とかは残っちゃってたけど、それって確か細胞が死んじゃってるから、だよね? 治癒魔法はあくまでも「魂魄に保管されている状態への上書き」なのに、それが難しいの……?」


 ブツブツと一人で呟いてみせるリアに、ジネットは「あぁ、また始まった」と苦笑を浮かべつつも、その先の答えに興味があるようでじっと続きを待っていた。

 しばし一人問答が続いた後で、リアが「あっ」と何かに気付いたかのように目を大きくした。


「――魔法の働く要素と、生物としての再生能力……?」


 一つの仮説に行き当たり、リアは興奮した様子でジネットを見上げた。


「ジーネ、もしかしたら治せるかもしれないよ!」

「どういう事だい?」

「んとね――」


 リアの仮説はこうだ。

 まず前提として、人や生物は自己治癒能力とでも言うべきか傷を修復する力を持っている。治癒魔法は確かに「魂魄に保管された情報に肉体を再生させる」かもしれないが、それはあくまでも動物の持つ自己治癒能力を急激に促進させ、本来ならば時間をかけて回復するはずの傷を、「半ば強制的に回復させる」といったものであるとすれば、火傷などの傷が痕になってしまうのもおかしな話ではない。

 要するに、治癒魔法による傷の回復は、「再生」という現象ではなく「早送り」に近い現象を引き起こさせているのではないか、という考え方である。


 拙い言葉遣いで何度も言い直しながら説明されて、ジネットもようやくリアが言いたい事を理解したようで、驚きに目を瞠った。


「そういう事かい……。なるほどね、確かに間違ってはいないかもしれないね……。でも、もしもリアの言う通りだとしても、火傷は治らないんじゃないかい?」

「うん、そのまま魔法をかけたら難しいと思う。でも、細胞が死んじゃってる部分を切り取ってから治癒魔法をかけたら、「魂魄に保管されてる状態」まで回復するんじゃないかな?」

「き、傷を抉り取る、のかい……?」


 思わずジネットも、リアの発想には言葉を失った。それはまるで、どこか人を人として見ていないかのような発言に聞こえてならなかったのだ。

 とは言え、何もリアの心が歪に歪んでいるという訳でもない。

 リア自身、自分の身体をモニターとする事で入院費用を相殺したという過去もあってか、傷や病気については悲壮感を抱くよりも、いっそ医師に近い程に達観している部分があるのだ。


 リアの言う「傷を抉り取る」という発言は、幼い子供故のぞっとするような猟奇的な発言にも聞こえかねない言葉であったが、リアの感覚はそういったものとは異なる、手術に近い考えであった。


 勘違いされたと気付いたリアは、慌てて手を振って説明をした。


「ち、違うよ、ジーネ! 深い眠りに落ちてると、痛みの信号とかが遮断されるの。だから、余計な痛みを受けずに済むの! 魔法で眠らせてる間に手術をして、傷口を切り取ってから治癒魔法をかければいいんじゃないかって思ったの!」

「あぁ、そういう事かい……。脅かせないでおくれよ」

「わたしだって起きてる人にそんな事できないよ!?」


 それは確かにとリアを知るジネットは納得する。


「……なるほどねぇ。確かに、試してみる価値はあるのかもしれないね……」






 ――――空はすっかり闇に覆われ、星々が輝いていた。


 部屋の中を魔法で清潔な状態にしていたジネットは、ようやく処置が終わったと一息吐くと、血に染まったナイフを机の上に置いて、部屋に備えつけられていた窓を開け放った。

 充満していた鉄錆のような血の独特な匂いが、春の冷たい夜風に運ばれていく。

 ようやく新鮮な空気を吸える事に、ジネットも思わず深呼吸してしまう。


「やれやれ……どうにかなったね」


 ベッドの上で静かに寝息を立てるマリーナへと振り返り、ジネットはリアから時折聞かせてもらう異世界――地球側の知識について、改めて実感した。


 火傷の傷は、もしも治せたとしても傷跡まで消えたりはしない。

 それがこの世界の常識であり、治癒系の魔法の限界であるとされている。


 しかしそれは今日――この瞬間に塗り替えられた。


 ベッドの上には穏やかな表情で寝息を立てているマリーナの姿があった。その顔にはすでに先程までの酷い火傷にも似た傷跡はなく、綺麗に整った顔があった。


 本来ならば新たな発見に歓喜されそうなものではあるが、しかし薄暗い部屋の中で夜空を見つめていたジネットの表情は、決して晴れやかなものではない。


「持っている知識が違えば、発想は普通のものとは変わってくる。異界の知識ってものがあるせいで、あの子は色々と苦労しそうだねぇ……」


 怪我人の傷をナイフで抉り取るなど、邪神崇拝のそれだと糾弾されかねないような所業に聞こえてしまう。もしもこの事実を無闇やたらに知られれば、まず間違いなく邪教徒扱いされて教会からは危険視されるだろう。

 いくらジネットとて、リアを信じ、最上級神の寵児であると知らなければ、リアの異界の知識を耳にして「やってみる価値はある」などと考える事もなく一蹴していたような発想なのだから。


 果たしてこれから先、鬼が出るか蛇が出るか。


 いずれにせよ、リアの常人離れした考え方や知識のせいで、何やら厄介事に巻き込まれてしまわないか心配になるジネットであった。


 当然、この時のジネットはリアの将来を心配するばかりで気付いていない。

 部屋の中でナイフを取り出したジネットを見て、ドイルが「やっぱりあの人は魔女だ」などと改めて恐怖を再認識させてしまっているという事を。


 もっとも、ジネットは自分に対する評価など一切気にする事もないが。

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