第3話 熾天使の要求




 ――〈魔境の深森ネプラ・コルクス〉に連れて行かれるぞ。




 それはセナルア大陸の子供なら誰もが一度は聞いたことのある、いわゆる恐怖の象徴ともなっている深い森林を使った、大人が子供に言うことを聞かせるために使う言葉だ。


 かつて〈魔境の深林ネプラ・コルクス〉から、魔物を率いた魔族がこの森に身を潜め、その地から人族――主に人の名がつく種族を指した、〈普人族ヒューマン〉や〈獣人族セリアン〉、〈森人族エルフ〉など――の住まう地へと侵略を開始。辛くも勝利を収めたものの、濃度の以上に高い魔力が漂うこの地の魔物は、外の世界の魔物以上に強力な存在であり、到底人が住めるような地ではないとされる場所である。


 そこに「一人の魔女が住んでいる」と噂されるようになったのは、辺境の村で生まれ育った大人が、まだ子供の頃の話であった。


 曰く、その魔女は強大な力を持ち、〈魔境の深森ネプラ・コルクス〉の魔物達が外に出ないように日々戦っている、世界を救った英雄の一人である。

 曰く、その魔女こそが魔族の首魁であり、世界を混沌の渦へと叩き落とそうとした、世界を呪った魔王そのものである。


 まるで正反対ながら、いずれにせよ絶対的な力を持った存在でなければ住めないような地であることには変わりなく、魔女と呼ばれる女性は畏怖されつつも、しかし辺境の村に〈魔境の深林ネプラ・コルクス〉でのみ取れる素材を用いた薬などを時折売りにやってくることから、感謝もされているという奇妙な立ち位置にあった。


 そんな魔女が住んでいるのは、一本の巨大な木のうろの中であった。

 螺旋状に木の外側を削った階段が設けられた、不思議な木の家である。






 ――――その日、時刻は昼頃。

 森を覆う木の枝葉の隙間から、直上にある太陽の光が線状に伸びてくる森の中。不気味すぎるほどに、鳥や獣、虫の鳴き声すら聞こえないほどに静まり返っていた。


 うろの中からその様子に気付いた魔女は、ゆっくりと扉から姿を現した。


「……不気味過ぎるったらないねぇ。さて、一体何がおでましになるんだい?」


 黒い外套に身を包み、灰色の長い髪を揺らして姿を見せた女性。顔には僅かながらに年齢を思わせる程度の皺などもあるが、まだまだ初老と言うにも程遠く、若い頃は誰もが振り返るような美女であっただろうと窺い知れるような、目鼻立ちのはっきりとした顔立ち。


 彼女こそ、この森に住まう魔女――ジネットである。


 巨木の周りはぽっかりと穴が空いたように空間が広がっている。

 気配を感じ取り、長い杖を構えてその場所をじっと睥睨していたジネットは、ゆっくりと姿を見せた不気味の正体を見つめ、思わずくすんだ青色の瞳を丸く見開いた。


「――三対の純白の翼……熾天使、かい?」


 ゆっくりと、布に包まれた何かを抱いて姿を見せたのは、紛れも無く実在こそすれど、その姿を人目に見せることのない存在。それでもなお、その姿が知られているのは、三対の純白の翼を持つ熾天使の姿絵と、姿を見せた際に一体何が行われているのかが語り継がれているからである。


 神の造形物と表現されている天使。

 こうして姿を見せたのは女性であり、確かにその見た目はあまりにも整い、誰もが目を瞠ることだろう、とジネットは未だ遠くにいながらも熾天使の顔を見て、そう判断を下した。


「……〈神の代行者〉が、どうしてこんなところに? まさか私を討とうってのかい?」

「――討滅する必要があるのなら、すでにこの森ごと消していますよ。『魔と叡智の神』アールア様の加護を受けし者、ジネット」


 遠く、未だ姿が見えただけだというにも関わらず、思わず口を突いて出た一言に返ってきた返事。まるで目の前に立っているかのような声に、告げられた内容にジネットは思わず身体を震わせ、強張らせた。

 足を止めてこちらを見上げている熾天使の姿はしっかりと確認すると、ジネットはゆっくりと自らの調子を取り戻すように呼吸を繰り返した。


「……ふぅ。やれやれ、笑って済ませられるってんなら歓迎してもいいんだけどねぇ。あいにく、熾天使相手じゃ笑えやしないねぇ」

「別に一介の魔女程度を愉快に笑わせるつもりもありませんが?」

「微笑みながら、ずいぶんな物言いじゃないか」


 微笑みながら明確な拒絶を口にしてみせる熾天使に、ジネットは嘆息しつつ木の外周に作られた階段を降り、熾天使はゆっくりと歩み寄って、ようやく普通の会話ができる程度の距離までに近づいた。


「それで……一体なんの用なんだい?」

「この方を、あなたに面倒見てもらえと我らが主より仰せつかっております」

「……赤子、かい?」


 優しく抱き締めた赤子に目を向けてみれば、先程までよりも深い笑みを浮かべた熾天使が赤子の頬を指でつんつんと突きながらあやしてみせる。

 微睡んでいた赤子を起こすような真似をして、泣かれたらどうするつもりなのかと口にしようとしたジネットであったが、赤子はジネットの予想を裏切って、丸く紫色の瞳を開けると、にへらと笑ってみせた。


 その様子に安堵の息を吐いたところで、ジネットはふと我に返った。


「って、ちょいと待っておくれ。いきなりそう言われて、はいそうですかって赤子を預かれってのかい? 自慢じゃないけどね、私は子育てなんてしたことないんだよ。そもそも赤ん坊なんて、こんな辺鄙なトコで育てるもんじゃないだろうさ!」

「あぁ、あなたに拒否権はありませんよ? アールア様からも許可は得ていますし」

「あ、アールア様から許可って……外堀から埋めるような真似するんじゃないよ! 大体、何者なんだい、その赤ん坊は!」

「我らが主の寵児です」

「神の寵児、ねぇ。別段珍しくもないけど……って、ちょいと待ちな」


 慌てふためく様子から一転、ジネットは僅かに顔を蒼くしながら続けた。


「……あんた達――熾天使ってのが主として仕えるのは、確か私達の世界に加護を与えている神の中でも最上位、最上級神だったね……?」

「えぇ、そうです。この子――リアこそあの御方より愛され、見守られ、望まれて産まれた愛しき寵児。我ら熾天使のアイドルです。……リアを不幸な目に合わせようものなら世界を滅ぼしますよ?」

「重すぎる愛だよ、そんなの! そんな危なっかしい子供を私なんかに預けるつもりかいっ!?」

「えぇ、もちろんです。あの御方がそうお望みなのですから」

「今日ほど神に真意を問い質したくなったのは初めてだよ……!」

「敬虔な信徒のおつもりですか? なら教会で全財産……いえ、このリアの養育費以外の全てを注ぎ込めば良いと思いますが」

「そういう意味じゃないよ……。まったく、熾天使がこんな無茶苦茶な存在だなんて知らなかったよ」


 はぁと重いため息を吐いて、ジネットは胸に抱かれた赤子――リアを見つめた。


 産まれて間もない、という程でもない。

 しわくちゃな赤子らしい顔ではなく、産まれて少し時が経った程度には丸い顔をしているようだ。

 先程からつんつんと熾天使の細い指に頬を突かれる度に、どこか楽しそうに微笑んでいるように見える。


「アールア様はこの赤子について何か仰っているのかい?」

「可愛い、と」

「そんな感想聞きたくて訊いたわけじゃないよっ! そうじゃなくて、私がこの子を見ることについてだよ!」

「羨ましい、と」

「……本気かい?」

「えぇ、それも真実です」


 会話が成り立たないと言うべきか、成立させるつもりがないのではないかと言いたげにジネットは熾天使を睨めつけた。


「拒む権利はないのかねぇ……」

「それはそうでしょう。それにあなたもそろそろ後継が欲しいのではないですか?」

「……その事もアールア様から聞いているのかい」


 僅かに頷いて、熾天使は赤子のリアから視線を逸らして、ふとジネットをじっと見つめた。


「どうしたんだい、急に黙りこんで」

「これから二十年の内に、世界には動乱が起きるでしょう」

「動乱? まさかまた魔族が侵攻してくるなんてことが起こりそうなのかい?」

「それはどうでしょう。今代の魔王はどうやら無駄な争いを避けたがっているようですが……。もちろん、あなた達の争いについて、熾天使である私達はあまり関与する事ではないとして見ていましたので」

「見ていました、ねぇ」

「えぇ、過去の話です。今ではリアの全ての行動に全ての熾天使が目を光らせていますから。初めてのはいはいを見逃すまいと」

「この子にプライバシーってモンはないのかいっ!?」


 熾天使の役割は、あくまでも神の代行者――つまり、事情を知る必要もなく、下された命令をこなせば良いと考える者が多かった。


 多かった、と表現する理由はリアにある。


 これまで地上に興味を持たなかった熾天使達も、至上の主であるアスレイアの寵児であり、これからも見守っていくという意向を耳にして以来、今やリアの一挙手一投足でさえ天上世界から見守られ、それに付随して地上の情報が徐々に集められている。

 アイドルというリアの前世の知識から得た存在について知られ、リアはまさにその熱狂を一身に背負っているのだが、もっともリア本人の意識は休眠状態になっており、およそ自我が芽生えていると言える生後半年までは、まだリアの意識らしい意識もなく、熾天使達から向けられる好意も、当然ながらに熾天使とジネットの会話についても理解などしていない。


「……ま、ともあれだよ。険しい戦いを終えて時間が経てばどうなるか。予想していたとは言え、当たっちまうとなんとも言えないねぇ。自分を褒めるべきか、それとも嘆くべきか、なんとも反応に困るよ」


 熾天使から告げられた未来の予言めいた言葉に、ジネットは目を大きく見開いてから、寂しそうに目を細めて告げた。


 現在、このセナルア大陸内では大きな争乱は起こっていない。

 もともと魔物という外敵がいるため、それぞれの国同士で領土を奪い合うような余裕があるわけでもなく、国家間での戦争といえば思想や種族の対立によって、時々小競り合いが起こる程度といったのが近年の実情である。


 大きな争いと言えば、およそ五十年と少し前。

 この森から魔族が姿を見せたものの、それも当時の勇者と呼ばれる者や協力者によって討伐された。

 ジネット本人もその一人として名を馳せた人物であるものの、やれ英雄だ、やれ貴族だと祭り上げられることを拒み、魔物の動きを調べると周囲に告げて以来、この森に引っ込んでしまったのである。


「権力と栄華、憎悪と欲望。ありとあらゆるもんが溢れてるのが世の中とは言え、世知辛いねぇ。神様だってそんなの望んじゃいないだろうに」

「魔の者達との戦いについては確かに、神としても多少なりとも手を貸してきましたが、人同士の争いについてとなると、神によって様々です。争い、種の存続を賭けた戦いは進化のためには必要である、という『戦と鍛錬の神』ツェリ様の考えも、『愛と慈愛の神』フィナ様の不安はもちろんですが……」


 そこまで言って、ここにきて初めて熾天使は困ったように目を閉じて嘆息した。


「『死と輪廻の神』であらせられるメルディス様は、忙しくなりそうだと言いながら腕まくりなさっておりました」

「まるでお祭りの準備にやる気を出しているような姿が彷彿とさせられる言葉だね、それは」

「えぇ。まさにその表現が正しいかと」

「……なるほどね。神は愛せど手は出さない、かい」


 この世界で、神の存在は確かに人々に知られている。

 神の加護、寵愛、庇護など、ありとあらゆる神の影響を受けることによって、その才能が大きく伸びたりすることもあり、それらは教会に行きさえすれば確認することもできる。

 しかし神は、この世界を見守りこそすれど、過度な干渉はしない。

 ジネットの言う通り、神はよほどの事態――それこそ、世界を破滅に追い込むような何かが起こらない限り、世界に対して関与しないのだと名言されている。


 ――なのに、この子に関しては別なのかい。

 ジネットはそんな事を思いながら、熾天使の抱くリアを見つめた。


「……世界そのものを庇護なさっていると言われている最上級神が、寵愛を注いで生まれた子供、かい。まぁそう言われれば、普通の町に託すわけにもいかないだろうねぇ。名前さえ知られていない最上級神の寵愛を受けてるなんて知られたら、国を揺るがす騒ぎになっちまうよ」


 そもそも最上級神――つまりはアスレイアの名を知る者は、この世界の中でも限られている。それはひとえに、アスレイアは世界に直接的な干渉を行うつもりなどなく、他の神々のように依代を用いて地上へとやってきたり、地上の巫女などに神託を告げるような真似もしないためだ。


 神託を与えてくれる神が時折口にする、自分達の上位の神の存在。

 そして何より、ジネットの目の前にいる熾天使の主という言葉から、アスレイアは最上級神とのみ存在が知られ、そう呼称されているのである。


「まぁ事情は分かったさ。でもね、さっきも言った通り私は子育てなんてしたこともないんだよ。言っておくけど、最高の教育をしろなんて言うつもりならお断りさせてもらうよ」


 もはや断る余地はないと腹を括ったジネットの答えを聞いて、熾天使は真剣な顔でジネットに向かって頷いてみせた。


「〈銀珠の魔女〉ジネット。特に難しい要求はありません」

「普通に食わせて、当たり前の知識を与えて育ててやればいいってのかい?」

「えぇ、そうです。ですが、強さもまたこの方に与えてもらいたいのです」

「強さ?」

「はい。この方が自分の道を自分で歩めるように。危険を自らの力で跳ね除け、理不尽な要求を突き返せるだけの強さを」


 ただ猫可愛がりをしていれば良いという訳ではないのだと、熾天使はそう告げた。


 この〈魔境の深森ネプラ・コルクス〉ならば、確かに並の強さでは生きていけないような危険な地だ。本来ならば、こんな危険しかないような地で赤子を育てるなどあり得るわけがない。


 ――しかし、熾天使がそれをしろと言うのなら。

 ――最上級神の寵愛があるという、決して常人のそれではないのなら。


 ジネットは僅かに逡巡した様子で瞑目してみせると、ゆっくりと目を開けた。


「――分かったよ。この子は、私が育ててやるさ」


 かつての英雄の一人、〈銀珠の魔女〉ジネット。

 彼女はこうして、半ば強引ながらに一人の家族を押し付けられるはめになったのであった。

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