第2話 世界間の境界と、女神の提案

 意識の淵から、水面に揺れる光に吸い寄せられるようにゆっくりと浮上するような感覚。

 生来の寝起きの悪さを持つリーリアであっても不快さや億劫さはなく、それこそまるで目覚める時が訪れたことを理解したかのような、自然な覚醒をもって、リーリア――梛野なぎの凛空りあは目を覚ました。


 凛空の視界の先には、一面の空を覆う金色がかった雲。

 薄い光を放つそれらを見上げて、ようやく凛空は自分が仰向けに横たわって眠っているのだと気付いてゆっくりと周りを見回して、ぽつりと呟いた。


「草原……?」


 凛空が呟く通り、そこは穏やかな風が流れる大地が、空を漂う雲と似た雲海の上に浮かんでいるかのような場所だった。


 ――ここはどこなのか。

 一体どうして自分は今、再び目を覚ましたのか。


 そんな疑問が頭の中に浮かんで困惑しそうなものだが、凛空の心は凪いでいた。

 まるで自分の眠った場所はここで、目が覚めたのは当然なのだと認識しているかのような、当たり前と取れるような感覚が確かに凛空の胸にはあったのだ。


 ゆっくりと身体を起こして、ふと視界に入った自分の身体と、その特殊とも言える服に気付いて、ようやく自分の身体を見つめた。


 動かなくなり、細いチューブで栄養素を補っているような骨と皮だけの現実の身体とは異なり、MSOのプレイヤーと同じ身体をしているようで、視界の隅に映った髪は紛れも無くMSOのアバターと同じ、銀色の髪。

 身に纏っているのは、意識がなくなる寸前に抱き締めた、ニーズヘッグ討伐報酬の『蒼黒の軍団服』。黒に近い青いロングコートには白い刺繍が施されており、銀色の金具があしらわれている服。


「……これ、MSOの中、なのかな……?」


 凛空が愛していたMSOの中では、コマンドを指定するためのシステムメニューを開く必要がある。本来ならいつも視界の隅にある小さな丸を注視して意識を集中させることで開けるものなのだというのに、その小さな丸は存在していない。


「ん、んん……? まだMSOの中にいる、よね?」


 改めて、凛空はその疑問を口にした。

 仮想世界こそが自分の世界であるとさえ言える凛空だからこそ、体感している感覚が現実と仮想世界の区別については、ひどく曖昧だ。


 凛空にとっての現実は、病院のベッドの上で天上を見上げる他ない。

 病気の進行によって自らの意志で身体を起こすこともできない自分が、こうして座り込んで思考に耽っているという点。さらに、骨と皮だけとも言える身体ではないという点も考えれば、これは現実ではないのだろうと納得している。


 けれども仮想世界ならば、こうしてメニュー画面を呼び出すこともできないというのは、一体何がどうなっているのか。


「梛野凛空、ですね」

「――うひゃいっ!?」


 突然後ろからかけられた声に身体を跳ねつつも、凛空は慌てて振り返った。


「……えっと、どちら様ですか?」


 見覚えのないアバターだ――などと思いつつ、凛空は目の前に佇んで柔和な笑みを浮かべる美女を見上げながら訊ねた。

 薄っすらと金色がかる空と同様の色合いの、長い波打つような白金色の髪。青い海を思わせるような瞳は笑みによって細められ、豊満な胸元が広く空いているにも関わらずに、卑猥さすら感じさせない純白なドレスに身を包んだ、外国人の美女が、そこにはいた。


 日本という国に暮らしてはいるものの、凛空にとっては黒目黒髪よりもこうした西洋系の顔や髪色などを目にすることが多かった。もっとも、それは仮想世界の話だ。顔の造形を大きく変更してしまうと、表情が不自然になったりという点から、どうしても誰もが日本人らしい顔立ちにはなるのだが、それぞれに理想もあってか、MSOのプレイヤーの多くは僅かな修正を加え、世界観に合う顔を作り上げる。

 そういう意味では、外国人らしい顔を見ても、それに驚くような環境ではなかった。


 もっとも、凛空だけではなくとも、今の科学力では国という枠などあってないような代物であり、仮想世界では出身国など誰も気にするようなものではない、というのも付け加えておくべきだろう。

 エネルギー消費を抑えるべく、今では仮想世界の中に会社を構えている企業も多く、わざわざ現実での行き来をするのは時代遅れとまでされているのだ。


 そんな背景はともかく――目を丸くしていた女性は楽しそうに笑った。


「ふふふ、驚かないのですか? 私は実名を呼んだのに」

「はぇ……? えぇっと、MSOから移動してるみたいですし、海外のお医者さんじゃ? そういう人が相手なら、大体名前は知られてますし……」


 病気の進行具合を確認したり、医師の診察結果を聞くのも仮想世界のやり取りとして常態化している凛空にとって、見知らぬ相手が自分の名前を知っているという状況に対する不安や驚きが培われる環境で育っていない。


 そんな凛空の事情を知っているのか、女性は寂しげな笑みを浮かべた。


「……凛空。私は、あなたをずっと見ていました」

「……ストーカーさんですか?」

「ち、違いますっ! 神の一柱である私がそんな真似……! あれ? でも、ずっと見ているって確かに、一歩間違えたら……いえっ! そんなはずありませんっ!」


 何やら自分の存在を犯罪者扱いされた女性の自問自答はともかく、凛空は小首を傾げた。


「神の、一柱……?」

「コホン、そうです。私はあなたとは異なる世界の神の一柱。死と生を巡る輪廻を司る神、アスレイアです」

「おぉー!」

「……う、疑わないのですね」

「え? 違うんですか? やっぱりストーカーさん?」

「いいえ! 神です! やっぱりってなんですかっ!」


 声をあげて怒ってみせる神――アスレイアの態度が可笑しくて、凛空はくすくすと笑うと、ふっと目を細めた。


「じゃあ、わたしは死んじゃったんですね」

「……えぇ、そうです」


 その姿を見て、アスレイアは再び悲しげに表情に影を落とした。


 死を受け入れ、遠くに遺してしまった家族を思い、自らの死を悲嘆するでもなく受け入れる。それは、まだ十代の少女が「自らの死」に対して抱くような、正しい反応ではないが、ひどく凛空らしいとアスレイアは思う。


 アスレイアは一つ咳払いすると、凛空の顔をまっすぐ真剣な眼差しで見つめて、凛空の名を口にした。


「梛野凛空。私はあなたの運命に介入しました」

「えっと、どういう意味ですか? そのかいにゅー・・・・・って」

「……あぁ、そうでしたね。あなたはあまり難しい言葉を言い回すのは苦手でしたね」

「むぅ、バカにしてますか?」

「ふふふ、ごめんなさい。バカにしているわけじゃないのです。そう、ですね。では、少し友達とお喋りするように話をしましょうか。凛空ももうちょっとぐらい自然に話してくれてもいいですよ?」

「あ、だいじょぶです。わたし、こういう喋り方の方が慣れてますー」


 他者との接触に使う凛空の口調は、病気の発病からずっとこの砕けた敬語を使ってやり取りするしてきたのだ。家族以外に対しては誰にでもこんな口調で話すため、堅苦しくもなければ丁寧過ぎるほどでもない。


「……そう、分かりました。では、ゆっくりと順を追って話しましょう」


 アスレイアはゆっくりと、あくまでも凛空の理解できるような言い回しを意識しながら語り出した。


「先ほど、私は自らを神と呼称しました。神という存在については、凛空もおぼろげながらに理解していますね?」

「えーっと、実在してるか分からないですけど……全知全能、的な……? あ、でも本当にいるのかは分からないです」

「ふふふ、あなたの世界は神々の手を離れて育った世界ですからね。そういった解釈――感想を抱くのも無理はないでしょう」


 また笑われた、と頬を膨らませる凛空を他所に、アスレイアは続けた。


「神とは本来、世界の安寧を見守る存在です。必要以上に手を差し伸べたりもしませんが、未曾有の危機に陥った際には手を貸すこともあります。しかしその反面、時には大氾濫を引き起こして文明を回帰させるのもまた、神の役割と言えるでしょう」

「ほへぇ……」

「難しい事はともかく、そういうものだと理解していてくれれば構いませんよ」

「はーい」


 素直に返事をする凛空に再びアスレイアはくすくすと笑って、ふと寂しげに表情を歪めた。


「私の管理する世界は、ちょうどあなたが遊んでいたゲームの世界に酷似しています。魔物と呼ばれる存在、魔法、王が支配する国々。もっとも、科学文明が発達しているあなたの住んでいた世界とは少々異なった世界ではありますが……」

「じゃあ、魔法文明とか?」

「そうですね、さしずめそんな所でしょう。もっとも、生活は地球の近世から中世に近いものがありますが、そこは凛空がゲームで楽しんでいた世界観に近いとも言えるでしょうね」

「あっ、ファンタジーな世界?」

「ふふふ、そうですね。あなたの見解も、そう間違ってはいないでしょう」


 凛空の表現も言い得て妙で、確かに凛空が想像するファンタジー要素といえば「剣と魔法の世界」。アスレイアは凛空の魂を経て日本での暮らしに関する知識や、凛空の思考を理解した上で肯定してみせた。


「私の管理する、魔法を魔法として受け入れ、現実のものとして扱う私の管理する世界。そしてあなたの生きる、人々の歩みに世界を委ね、神々が魔法の存在を抹消されてしまった世界。本来ならば交わるべきではない世界であったはずの二つの世界ですが……――」


 一度言葉を区切り、アスレイアは真剣な面持ちで告げた。


「――世界と世界の境界を越えて、私の世界の者があなたの世界の住人を利用するといった手法を取ったのです」

「わたしたちの世界の住人を利用、ですか?」


 穏やかな口調から一変して、冷たい鋭さをも思わせるような物言いで告げられたアスレイアの言葉に、凛空は思わず目を丸くした。

 その様子を見てはっと我に返ったアスレイアは、一度瞑目して小さく嘆息すると、再び表情を柔らかなものへと戻した。


「先程伝えた通り、そちらの世界からは確かに魔法は消えたのです。けれど、その源であった魔力は存在したまま。豊富な、消費されることのない魔力を身に宿したまま生きるそちらの世界の住人は、私の管理する世界に存在する人々とでは比べようもないほどに、強大な魔力を有しています。そうした者を召喚し、利用しようと企む者がいるのです」

「……それって、誘拐とかになるんじゃ……?」

「えぇ。決して戻ることのできない誘拐、とでも言うべきでしょう」

「……ひどい、そんなの……」


 家族に会いたくても、自分の意志では会えない。

 生前の境遇から、そういった者の気持ちが凛空には痛いほどによく分かる。


「そこで、先程私があなたの運命に介入したと言った件に関係してきます」

「え? あっ、はいっ」

「……忘れてないですよね?」

「……あはは?」


 痛いところを突かれた、と凛空がから笑いしながら誤魔化してみせると、アスレイアは呆れたように苦笑を浮かべた。


「私の世界の者があなたの世界の人間を利用しようと考え、それを実現させた。そのおかげと言うのもおかしな話ですが、私はそちらの世界で凛空を見つけ、その姿を見守ってきました。あなたが死んでしまうのを惜しく思いながらも、本来ならば手を出すような真似はできませんでした」


 ――しかし、とアスレイアは続けた。


「あなたの死の直後、私の世界の者が再びそちらの世界の人間を再び召喚しようと考えました。その白羽の矢は――凛空。あなたのお姉さん、梛野亜里沙さんです」

「――ッ、そんなのダメだよッ!」


 穏やかで、どこか抜けているとでも言うべき凛空が初めて激昂を露わに声を荒らげた。


「……わたしが死んじゃったのは、しょうがなかった。お父さんもお母さんも、お姉ちゃんだって、心のどこかでは受け止めてたし、わたしもそれを受け入れてた。だけど、お姉ちゃんまでいなくなるなんて、そんなの……」


 重い病気に罹り、医療とVR技術の先進国である日本であっても凛空の命を救うことはできなかった。超高額とも云えるだろう医療費を必要とするVR技術を用いる代わりに、病気の進行度を調べるモニタとして契約することで両親の金銭面での負担を減らすことに同意し、そのおかげもあって延命できたが、助からなかったことを嘆くつもりはない。


 それどころか、自分の命を延命し、姉である亜里沙と共にMSOで遊べたりと、望外の喜びを得られたと思っている。


 だが、家族は違う。

 凛空が苦しみ、死に直面する中で、家族である両親や亜里沙が、凛空が死を受け入れているとは言え、それを受け入れられるはずもない。

 凛空が死に、姉である亜里沙までアスレイアの世界へと連れ去られようものなら、残された両親も、両親を残す亜里沙にとっても不本意極まりないだろう事は、凛空にも容易に想像できる。


 大好きな家族がそんな思いをするなど、凛空にとっても看過できるはずもない。


「一つだけ、それを阻止する方法があります」

「ほ、ホントですか!?」

「えぇ。こうして話している最中にも召喚は行われていますが、今ならば召喚の術式に割り込み、その野望を阻止することも可能です。そして同時に、その唯一の阻止の方法こそ――凛空、あなたです」

「……へ? わたし?」


 目を丸くして自分を指差した凛空に、アスレイアは頷いて答えた。


「神である私とて、直接人々の住まう世界に干渉することはできません。ですが、その力を宿らせた依代を送り込みさえすれば、世界間の境界は補強され、二度と世界間の召喚などという暴挙も引き起こせなくなります。その依代となり得る存在こそ、穢れなく力強い、真っ直ぐな魂。それがあなたですよ、凛空」

「え……えーっと? わたし、そんなに穢れなく真っ直ぐな魂なんて持ってないですよね?」

「いいえ。幸か不幸か、病魔に冒されたあなたは生きることや死ぬこと、家族に対する温かい想いを育んできました。気丈に振る舞い、家族を元気づけてきたあなたの魂は、世を生きる上での打算や裏切りといった、人同士の穢れの伝染から隔離された存在だったのです」


 人と人によって成り立つ社会では、損得や打算、それぞれの感情によって人を容易に裏切りもすれば、傷つけもする。その度に人は、個人の差異はあれど憎しみを覚え、怒りを覚え、やがて自らもまた染まっていく。それがそのまま、魂の穢れとなってしまうのだ。


 アスレイアがその真実を告げないのは、当然ながらに凛空には少々難しい話だろうと踏んだからではあるのだが、噛み砕いた説明を聞いてもいまいち凛空はピンと来ないようで、小首を傾げて困った様子で眉を顰めていた。


「それでは、少し話を変えてみましょう。凛空、あなたが仮想世界の中で操っていたリーリアとして、本当の意味で新しい人生を歩んでみたいと、そう思っていましたね」

「あ……っ」


 それは確かに、凛空も願った事がある。

 確かにMSOの中では色々楽しいこともあった。それでも、ふとした時に「自分はいつまで生きていられるのか」といった不安が脳裏を過ぎる事も珍しくはなかったのだ。

 凛空もいくら自分の死を受け入れていたとは言え、このまま自由に生きることができたら、それがどれだけ幸せな事なのだろうか、と夢想したくなる日がなかったと言えば嘘になる。

 生きていけるのであれば、生きたいと思わずにはいられなかったのだから。


「あなたが私の提案を受け入れてくれれば、その願いを叶えながら、さらにはお姉さんを救える。これはそういう提案なのですよ、凛空」

「……えっと。つまり、アスレイア様の世界でわたしは生きていけるってこと、ですか?」


 異世界に転生する、というジャンルのライトノベルの存在は凛空も知っていた。もっとも、死を間近に生きてきた凛空にとって、死後にそんな幸運が訪れるなどとは信じるには至っていなかったが。


「厳密には、リーリアというあなたが操っていたアバターになり得るだけのポテンシャルを持った赤子としての転生となります」

「あ、赤ちゃんですか?」

「えぇ。もっとも、ゲームのようなステータス調整やスキル調整といった機能までは存在していませんが、先程言った通り、あなたの魂もまた強大な魔力を持っています。その素質を活かせば、私の世界でも群を抜いた強さを得ることができるでしょう」


 そもそもそれだけのポテンシャルを持つ力を持っているからこそ、アスレイアの世界へと誘われるのだ。そこに更に神によって創られた肉体を持つと考えれば、凛空は間違いなく世界最高峰の力を持ち得るだけの可能性があると言える。

 そうは言われても、凛空にはそれがいまいちピンと来ないのか、小首を傾げるばかりであった。


「……もしわたしが断ったら、お姉ちゃんが連れ去られちゃうってことですよね?」

「いいえ、必ずしもそうではありません。難しいかもしれませんが、あなた以外の他の適合者を見つけさえすれば、まだ対処はできるはずです。ですが、私はあなたに――凛空に新たな生を与えたいと思っています」

「……わたしに? どうして、わたしなんかにそこまでしてくれるんですか?」

「簡単な話ですよ。わたしは凛空、あなたの願いを叶えてあげたいと、常々そう思っていたのですから」


 にこやかに笑って、アスレイアはそう言い切ってみせた。


 アスレイア――女神でさえ眩いと思えてしまえるほどの明るい魂を持ち、大病に苦しみながらも自分の苦しみより家族の悲しみを拭いたいと、病気に抗ってきた。

 必ず、大なり小なり人の魂が穢れていく世界で、穢れを知らぬまま育った魂。それはある意味では、女神だからこそ見たいと思ってきた魂の形であるとも云えたのだ。


 しかし――同時にアスレイアは、複雑な気持ちも少なからず抱いていた。


 本来であれば、死者の魂をそのまま転生させるという行為は不可能。

 それを可能にできてしまった原因こそが、世界間に生まれた僅かな歪のおかげであり、それこそが今回の召喚という名の誘拐による産物なのだから。


 凛空にただ転生を促してみても、元の世界を――最愛の家族を遺して、意気揚々と転生できるような性格をしているはずもない。仕方なく真実を告げてみたが、これではまるで脅しのようだ、と思えてならない。


 そう思うと、アスレイアは決して自分が優しさだけで提案しているのではないと痛感させられて、思わず表情に影が落ちる。


「アスレイア様、悲しいんですか?」

「え?」


 そんな些細な表情の変化に、凛空は気付いていた。


「その、ふとした時の悲しそうな表情、お母さんとかお父さんとかもわたしに気付かれないつもりで、たまに浮かべてたんです。だからわたし、そういう顔に気付くの得意で」

「……そうですね。これはきっと、あなたを生かしてあげたいという私の我儘でもあるのですから」

「ううん、そんな事ないと思います」


 今度ばかりは、アスレイアが目を丸くする番であった。


「ぜーーったい叶うはずないって思ってた夢を叶えてもらえる。それに、お姉ちゃんを、お母さんとお父さんを、私が助けてあげられる。どっちも叶うなんて、わたしにとってはすっごく嬉しいことですよ」

「……凛空……」

「アスレイア様、ありがとうございます! わたしの願い、叶えてくれて――うわっぷ」


 笑みを浮かべながらそう口にする凛空の言葉はしかし、アスレイアによる抱擁によって遮られた。


 ――何が神か、何が願いを叶えるというのか。

 アスレイアは今、無力な自分を悔いてしまわぬようにと声をかけてみせた凛空の心遣いに、思わず愛しさが込み上がってきて、思わず凛空を強く抱き締めていた。


「むむぅ……、胸が大きくて柔らかい。お姉ちゃんも大きかったし、大人の女性って感じがしていいなぁ」


 けたけたと笑いながら口にしてみせる凛空に、アスレイアは謝罪の言葉を口にしかけて、ぐっと呑み込んだ。その言葉を口にするのも、感謝の言葉を口にするのも、凛空の想いを無視することになってしまうだろう、と。


 ゆっくりと身体を離していくアスレイアを見上げて、凛空は相変わらずの笑顔から「あっ」と声をあげて何かに気付いたように続けた。


「アスレイア様。赤ちゃんから生きるってことは、記憶が消えちゃうんですか?」

「いいえ、そうではありません。記憶は魂と共に残していくことができますよ」

「じゃあ、誰かの子供として生まれる、とか?」

「それもありません。というのも、あなたのアバターを基準にして肉体を構成するので、人の子として生まれるというのは難しいのです」

「それって、赤ちゃんで放り出されちゃうんじゃ……」

「いいえ、赤子の状態で、私の使いがあなたの育成に相応しい人物に預ける、という形になるでしょう。私の使いがあなたの身体が成長するまで育てるというのも考えましたが、知識はあっても知恵がないままでは、赤子のあなたに危険が及んでしまいますからね。幸い、アテがありますので」

「……そっか。なら、良かった」


 凛空にとって、家族は姉と両親だけだ。それ以外の家族を今から手に入れると言われても、はいそうですかと受け止めるのは難しい。

 そういった意味では、背景を知ってくれている人物なら凛空も文字通りに第二の家族に対して、妙な気を使ったりもしなくて済むというものである。 


 しかしこの時、凛空は一つの勘違いをしていた。

 それは、凛空は確かに赤子として預けられるのだが、その背景の全ては語られず、ただ『天使が預けた子供』という扱いになってしまうことになるなどと、この時の凛空が知る由もなかった。


「あ、転生したら何すればいいんですか? お姉ちゃんを守るために、何かしなくちゃいけないなら……」

「心配せずとも大丈夫ですよ。凛空の魂に付随させた私の力が、世界に届くことに意味があるのですから。ですから、気にすることはありません。そうですね、強いて言えば、楽しく、健やかに生きてほしい、といったところです」

「そうなんですね。良かった、何かしなくちゃいけないのに赤ちゃんだったらどうしようかと思いました」


 そう笑って告げる凛空に、アスレイアは一度咳払いしてみせた。


「では、問いましょう――凛空。

 あなたが選ぶべき道は、二つの一つ。

 輪廻へと戻る道か、或いは、私の世界で新たな人生を生きてみるか、選ぶのです」


「はいっ!

 わたしは、アスレイア様の世界に行ってお姉ちゃん達を守って、せっかくのもう一度の人生を楽しく健康的に生きます!」


 お互いに雰囲気を作って言い合うと、そのまま小さく笑い合ってみせた。


「分かりました。では、凛空。私はいつでもあなたを見守っていますよ」

「また会ったり、お話したりできますか?」

「えぇ、もちろんです。私の作ったあなたの身体なら、神託を使って声をかけられると思いますから」

「はいっ、じゃあ連絡待ってますね!」


 それがどういう意味を持つのかもまた、この時の凛空が知る由もなく。







 ――――ともあれ、こうして梛野凛空は異世界へと転生することになるのであった。

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