■頭蓋骨を抱く聖女

 


 そこは白で構成された場所。静謐で清潔で、精錬潔白を信条とした者たちが集う場所――。

 そして、もっとも汚い人間が住む場所。



「ダモクレスの剣って知ってる?」



 祭壇の前の、一際豪奢な椅子に座る女性が、流すように視線を向けながら男に問う。

 彼女の座る椅子は、派手と言う意味の豪奢ではない。精緻な細工が全体に施された、真っ白な椅子。



「いえ、知りません」



 神のみもとに一番近い位置。そこに座るのはたった一人だけだ。たとえ、神殿の教皇といえども座ることを許されない椅子。

 彼女の定位置。彼女の居場所。彼女の聖域。彼女の牢獄。そして、彼女の存在理由。

 ちょこんと椅子に納まる姿は、穢れを知らない少女の様で。けれどその膝の上には、それを打ち消すようにある一つの頭骸骨が、その存在を主張していた。



「ああ、やっぱりこっちの世界にはないんだね」

「そのダモクレスの剣、とは何なのですか?」



 真っ白な頭骸骨を撫でながら彼女はクスリと笑うと、真上に指先を向けた。

 男はその指先に促されるように、天井を見上げる。



「これは……」



 天井から下がる幾重にも重なる薄いベールに隠れるように、磨き研がれた三日月型の刃がぶら下がっていた。その真下には、彼女の座る椅子がある。



「これ、私の世界だとダモクレスの剣って話の状況に似てるんだ」



 目の前で行なわれる乱痴気騒ぎを冷ややかな目で見つめながら、再び頭骸骨を撫で始める。肩に落ちた髪をうっとおしげに彼女は掻きあげた。

 以前に短く切られてしまった髪は伸び、今では艶やかな黒色を取り戻した。ただし、顔の半分には火傷の跡が残っている。

 元通りの肌に戻るようにと、仲間たちが苦心していたが結果はこのとおり。結局、彼女の火傷の跡が、全て消えることはなかった。



「教えや教訓と言ったものでしょうか?」

「うん。いつ死ぬか判らない立場とか、戦々恐々としている状況の喩えだよ。まあ、こっちの世界だと聖女が力を持ってほしくないからって感じで、始末用な気がするけどね」



 自らの意思で、己の聖女としての肩書きを再び利用する彼女は今、何を考えているのか。

 顔を半分隠す薄いベールの向こうから、訪れる信徒に慈愛に満ちた笑みを浮かべ、お決まりの定型文を話す。繰り返される日常。変わることのない日々。

 変わってしまった彼女の日常、奪われた日常、失った大切な人、与えられた異常な日々とその役割。


 恐ろしいほど穏やかに微笑みながら、彼女は頭骸骨を持ち上げると、その冷たい骨の額に唇を落とす。

 ぞっとするほど真っ赤な紅。それがただの紅でないと、“彼ら”は気付くことが出来るだろうか。唇の上で乾き、パラパラと剥離するそれに。



「鰯って魚がいてね」

「イワシ? ですか」

「そう。鰯ってね、とっても弱いんだ。だから何百匹って集団で行動する。たとえ自分が死んでも、他の仲間たちが生き残れるように」



 そっと膝の上に頭骸骨を降ろすと、男のかつての主と同じ黒い瞳をまばたかせ、彼女は目の前に視線を戻す。



「弱者の恫喝って怖いんだよ。失う物が何もないから、後がないから、何でも出来る」



 ガラス球のような瞳は、確かに目の前の光景を見ているだろうに、そこに感情を伴わない。



『怖いよね……』



 男の耳に入ったのは、かつての主が話した異界の言葉。彼女と主の故郷の言葉。

 その言葉の意味は、男には分からない。彼女が来てから、主からよく聞いた言葉。その言葉で会話をしている時は、二人とも楽しそうだった。



「ねえ、あなたは私の傍にいてくれる?」



 目の前の信徒たちに向けるガラス球のような瞳が成りを潜め、男に向ける目には、ただただ不安が広がっていた。

 男は聖女である彼女の前に跪き、自身の手を差し出した。常ならば咎められる行為だ。だが、今この場に、それを諭す者はいない。

 彼女はそっと、その手を男の手に重ねる。痛み荒れた、傷の残る指先に男は口付けた。誓いと、忠誠をのせた契約の証。



「もちろん、貴女のお傍にずっといます。たとえこの身が滅びようとも」



 彼女は王ではないのだ。王が常に傍に置いていた聖女で、ただの人間だ。王の配下の者たちが、素直に指示に従う保証はない。

 だから、せめて、自分だけは彼女の味方であろうと誓う。

 一人異界で、孤独に苛まれた王の姿を、男は知っているから。


 まして彼女は、教会から虐げられていた。

 もとより彼女は、この世界の人間・・・・・・・を信用していない。



「その対価に捧げるのは、私の魂。対価が支払われるのは、私が死んだとき」

「はい」

「私が望むことはただ一つ。何があろうと、私の傍を離れないこと。そう、死して尚、別つことなく傍にいて」



 懇願にも取れる切な願を込めた彼女の声に、男は静かに微笑む。



「はい。誓いましょう。死して尚、別つことなく傍にいると」



 かつて主が救い、保護した彼女。その彼女を護ることが出来る、絶対的な庇護者はもういない。

 男は、彼女の膝の上にある頭蓋骨に視線を動かした。

 今から主は彼女になった、ならば男がするべきことはただ一つ――。


 聖女が静かに手を叩き、ゆっくりと口を動かす。

 鈴を転がすような声が広間に響くと、乱痴気騒ぎが一瞬で収まる。血と汗と体液にまみれた信徒たちが、姿勢を正し聖女にかしずき頭を垂れた。

 かけ声を、たった一言発すればいい。彼女がすべきことは、それだけだ。


 ――さあ、敬虔なる信徒よ。神の名を背負い、利用した神殿の者どもに裁きを下せ。


 不協和音の楽団が奏でる音楽のような、大量の足音。悲鳴は弦のズレた管弦楽器。拳を打つ音、剣が刺さる音。そのどれもが絶妙な加減で交わり、魔族にとっては不可思議な心地よささえ与えてくる。

 音色にあわせるように、彼女は椅子の上でゆらゆらと上半身を揺らす。まるでその腕に抱いた頭蓋骨を、あやすように。

 一際甲高い悲鳴に、何かが潰れるような音が聞こえてくると、彼女がニタリと嗤った。


 さあ、勇者よ。神の神託を受けにくるがいい。

 聖女はここで待っている。この、血と肉の祭宴を開いて。


 捧げは神殿に仕えし神官たち、給仕係は血にまみれた敬虔な信徒、案内係は廊下に佇む物言わぬ骸たち。

 さあ、最高の宴を用意した。早く来ねば料理はなくなり、捧げ者は生き絶える。信徒は自らの命をもってして、聖女が望む供物となり果てる。


 血と肉で赤く染まる広間に続く扉が開いたとき、彼女にとっては意味のある、真の宴が始まるのだから――。


 ゆっくりと開いた扉の先の光景に、“彼ら”の仲間の女が一人、悲鳴を上げた。

 その声に、信徒たちが一斉に視線を向ける。

 神聖な場にあるまじき異様な光景に、彼らは各々の武器を構え警戒する。だが、この場所に来たのであれば、それはもはや無意味だ。彼女は彼らを生かすつもりがないのだから。


 この血肉にまみれた場には酷く不釣合いな、慈悲深き笑みを浮かべて、彼女がその手の頭蓋骨の口元に唇を重ねた。

 ゆっくりとその頭蓋骨から唇を離すと、塗られた紅が剥離した、彼女の唇が弧を描く。

 そして――



れ」



 彼女は穏やかな声音で、無慈悲な一言を告げる。

 その腕に、男のかつての主の頭蓋骨を抱きながら。


 新たに加わる怒号と悲鳴を耳に入れながら、彼女は背もたれに体を預けた。

 勇者たちから投げ付けられる批難の声もどこ吹く風、彼女は静かに目を閉じ頭蓋骨を撫でる。

 眼前の喧騒など知らぬと言わんばかりの仕草に、男は嗤う。


 きっと彼女はあの時、壊れてしまったのだろう。

 その頭蓋骨の、本来の持ち主が彼らの手により殺された時に。

 そして今、彼らは後悔していることだろう。


 勝者としての優越感から、彼女を生かしておいたことに。


 神殿から知らされていなかったのだろう。彼女がかつて聖女と呼ばれていたことを。

 そう。その気になれば多くの人間を無条件にかしずかせ、頭を垂れされる聖女だということに。


 言うことを聞かぬ聖女。邪魔な聖女。おめおめと魔族に奪われた聖女。

 神殿の連中も愚かだ。あのまま捨て置いてしまえばよかったものを。

 始末しようと動いた結末がこれだ。本当に、愚かとしか言いようがない。


 ただの信徒に、勇者たちが剣を向けることに難色を示すのは目に見えていた。

 物量戦になれば、彼らが圧されるのは容易に想像できる。そのための捨て駒信徒だ。

 別の国で聖女として振る舞い、かつての国で行なわれた非道を切々と嘆き訴える。国の上層部や民に、あの国は悪しき国だと植え付け信徒を増やす。


 後は簡単だ。神殿の連中が事態の対処に動くまで待つ。最後の仕上げに、“あの”勇者たちが来れば宴は完成だ。

 信徒の群を割り、一人の男がこちらに駆けて来る。血に染まる剣を振る様は、とても勇者には見えない。



「貴様! 聖女だというのに、なぜ魔王などについた!!」



 ……駆けて来た勇者は、男のかつての主に止めを刺した人間だ。

 気だるげに目を開いた彼女が、視線だけを男に向けた。

 一歩、彼女を庇うように男が前へと出る。背後で、彼女が大きく息を吸う。



「きゃああぁぁぁっ!!」

「なっ!?」



 背後から上がる彼女の悲鳴に、一瞬勇者がたじろぐ。

 その叫びに、広間の空気がガラリと変わった。

 悪しき国の人間が、聖女を殺しに来た人間に変わった瞬間だった。勇者たちに向けられる敵愾心に、容赦がなくなる。



「やはりそうだ。この国で神のお声を告げる聖女様を殺しに来たんだ」

「そうだ。こいつらは悪しき国の人間だ」

「聖女様を護らねば」

「神の加護を受けたお方を助けねば」



 ゆらりと武器を握り直す信徒が、彼らを囲う。もはや逃げ場は無いに等しい。神に敬虔な信徒たちを全滅させれば、きっと逃げることも出来るだろう。

 だがそれをすれば、彼らはただの大量殺人者だ。ここで聖女を殺しても、聖女を殺した大罪人だ。

 さあ、短い時間で精一杯知恵を巡らせればいい。どの道彼らには、選択肢など残されていないのだから。


 なぶり殺しにされるまでの間に、彼らは必死に懇願するのだろう。『どうか助けてください』と。男のかつての主とは大違いだ。仲間を護り、彼女を庇い、最後まで戦い抜いた王と違い。

 人間は、なんと哀れな生き物か。愚かで、哀れで、脆弱で。愛しき存在と思えるのは、間近で見て来たかつての主と彼女だけだ。


 勇者の足の骨が折れる音が、勇者の絶叫とともに響いた。忍び寄った信徒が、勇者の足を打ち砕いた。傾いだ体勢でも、勇者が剣を振るう。その切っ先は、足を砕いた信徒の胸を貫く。

 己が役目を果たしたと、満足そうな表情で倒れていく信徒に彼女は微笑む。



「旅逝くあなたに、神のご加護があらんことを」



 どうっと、音を立てて床に倒れた信徒は穏やかな笑みを浮かべていた。

 その間にも、別の信徒が勇者に剣を向ける。ある者は腹を薙ぎ、ある者は腕を切りつけ、ある者はその腹を蹴りつける。

 やがて信徒の遺体が並ぶ床に這い付くばった勇者が、掠れた声で助けを求めた。震える指先を彼女に向けながら、慈悲を求める。なんと滑稽な姿か。



「彼は、そんな無様な姿は見せなかったよ」



 背後から聞こえた言葉は、事実上の死刑宣告だ。そっと後ろを窺えば、彼女が慈しむように頭蓋骨を撫でながら、椅子から立ち上がる所だった。

 道を開けるように、けれど勇者を警戒しながら男は脇へと動く。

 ゆったりとした足取りで、勇者の前に立つと、彼女は常に持ち歩いていた護身用の短剣を取り出した。



「あ……お前、聖女だろ……なぜ、そんな、ことを……」



 手に持った短剣は、彼女が城に来たときに王が渡した物だ。万が一のとき、身を護るためにと渡したその短剣。



「あなた勇者でしょ? だったら聞いた話が真実か、ちゃんと調べておくべきだよね」



 片腕に抱いた頭蓋骨を見ながら、彼女は言う。

 勇者の傍に膝をつけば、彼女の白い服がみるみる赤く染まっていった。その服が、頭蓋骨を抱く彼女には逆に似合うと思う自分も、どこか壊れているのかもしれない。


 血溜まりに浸した指先で、彼女が唇をなぞれば、真っ赤な紅が引かれる。

 “折り鶴”という、王の故郷の紙細工の形が柄に彫られた短剣を、彼女は握り締めた。


 今、ようやく、彼女の復讐が終わるのだ。

 孤独な彼女の、唯一の理解者を奪った者たちへの復讐が。

 彼女が腕に抱いている、頭蓋骨となった我らが王を殺した勇者を……。


 短剣を握る腕を、彼女は躊躇うことなく勇者に向けて振り下ろした。


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終わる世界で歪む祈り手 酉茶屋 @3710_hatori

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