彼女はその日、
ケー/恵陽
彼女はその日、
水差しの倒れる音にまどろみから覚醒した。
気がつけば眠ってしまっていたようだ。ラグラスは音のした方を振り向き、腕を伸ばした。
「何処へ行くつもりだ」
腕は少女へ辿り着く。ラグラスの腕を必死に剥がそうとしているがまだ幼い少女にそれは敵わない。見るからに栄養の足りていない少女は、それでも抵抗する。逃げようともがく。
「何処へ行こうとあたしの勝手だ。どうせ此処にいても殺されるなら、自分で命を絶つ」
顔に憎悪を滾らせる少女に、ラグラスは嘆息した。
「せめて私を殺そうとした理由を教えてくれないか」
「……何故」
「知りたいからだ。私の国民が何を求め、何を望んでいるのか」
少女は困惑した様子で、まじまじとラグラスを見た。
それは数刻前のことだった。
城の一部は一般の人にも公開されている。運がよければ名の知れた官吏に会うことも出来る。また王にだって会えるだろう。
だがそれは簡単なことではない。一目見る程度なら通り過ぎる彼らくらい見れるだろう。だが会話をしようとするのなら、挨拶を交わそうというのなら、それはなかなか難しいことだ。けれど難しいが、無理ではない。時間に余裕があるのならずっと待てばよい。彼らが少しの時間を持てる時を。
そして彼女は待っていた。これがもっと長く待つことになっていたならば、彼女はいづれ諦めていたことだろう。しかし彼女はある意味運がよかった。二日待っただけで、彼女は好機を手に入れた。
「国王様」
襤褸を纏った彼女はラグラスに笑顔で近付いた。そこには殺気の欠片も見えなかった。国王を見つけて喜んでいたのは真実だったからだ。
そして微笑を返し、目線を合わせようとした国王に、彼女はナイフを突きつけた。真っ直ぐに心臓目掛けて飛び出すナイフ。当たったと思ったのも束の間、国王に届く前に彼女の体は地面に落ちた。
そして気付けば彼女はベッドに寝かされていたのだ。捕まってしまえば殺されるだけだと眠っているラグラスをいいことに、逃走しようとしていたのだ。けれど、物事はすべて都合よくはいかない。
「君は私を憎んでいるのかい?」
ラグラスは彼女の腕を掴んだまま、目線を合わせた。今度はちゃんと同じ高さになった。
「だって……母さんは死んでしまったわ。お医者様に看てもらえなかった」
ほろほろと零れる滴を必死に拭う彼女は、まだ幼い少女だった。
「母さんはお医者様に看て貰えれば死ななかった。でもお金がないのだもの。どうしてお金が必要なの? 本当に必要な人はきっと母さんみたいな人よ。王様は、皆を助けてくれるのじゃないの? 違うの? 違うのなら、そんな王様あたしは要らない」
少女の目にラグラスは清潔な布を押し付ける。
「だから……殺そうと思ったの」
くぐもった声が言った。布を押し付けたラグラスの腕に触れる。掴む。そして力を込める。けれど彼は抵抗をしなかった。する必要もないほど、彼女の力は弱々しかった。
「私を殺したいならそうしても構わない」
ラグラスが少女に腕を捕まれたまま告げる。少女の口からは嗚咽が漏れた。
「ただ簡単に殺されてやるつもりはない」
ラグラスは少女の腕をやさしく解いて、布を彼女自身に握らせた。ごしごしと顔を擦る幼い少女へ、王はただ微笑んだ。
◆◆◆
「リューン様」
少女が振り返った。
濃い青の服を着たリューンと呼ばれた彼女は、困った顔をして使用人のリネンに歩み寄る。手に持っていた雑巾はリネンに奪い取られてしまった。
「そういうことはわたくしたちがやります。貴女にされては困ります」
「リネンさん、あたしは客人じゃないんだって。様はいらないし、それにやることがないの」
リューンはラグラスを殺そうとした。それなのに城へ留まっている。自分を殺したいなら城へ居ればいいといわれ、ぼんやりしている間に自分の部屋が出来ていた。それを拒む理由はなかった。帰る家はない。待つ人も居ない。そして国王への憎しみはまだ燻っていた。
「そういわれましても、わたくしどもには客人と伺っております。どうか、使用人の仕事をとらないでください」
そうでなければ自分たちが叱られてしまうとリネンは訴える。リューンは仕方なくわかったと頷いてその場を離れた。
リューンが城に来て数日経ったが、事情を正確に把握しているのは側近の数人だけのようだった。特に先王の頃から仕えていたというハトは胡乱な目でリューンを見る。
と、背後から軽い足音が聞こえてきた。音は軽いがかなり慌てている様子だ。自分には関係ないと思っていると肩に手を置かれ、振り向かされた。
「貴女! なんでこんなとこに居るんですか!」
「げっ」
ハトのことを考えていたからだろうか、見つかってしまった。思わず漏れた悲鳴に耳ざとく彼は反応する。
「なんですかその反応は。貴女ね、大人しく部屋にこもってくれればよいものを。王に会ったりしてないでしょうね。いいですか、わたしは貴女を信用していません。此処にいるのも家がないという国民を路頭に迷わせてはならないという王の慈悲からくることを忘れないように」
髪が半分白くなってきているにも関わらず、ハトはこの城で一番元気に思えた。この数日過ごした中で一番会うのが彼である。
「王様は?」
そしてその理由の大半が同じであった。
「……今、捜しています」
そう、王であるラグラスは仕事を放り出して時々居なくなってしまうらしい。リューンのところに居るのではとハトが最初にやってきた時は驚いた。けれど納得もした。リューンが知っている王の話はよいものばかりではなかった。
四年前、先王の跡を継いだのがラグラスだった。彼は側室の子どもで、自分も周囲からも王になれるとは思っていなかった。その為遊ぶことばかりに精通していた。放蕩の限りを尽くしていた三十の歳に、けれど先王は亡くなったのだ。王となった彼は確かに今、ある程度真面目に国を治めている。しかし王になれたのも、実は裏取引があったという話だ。
町には彼とよく似た人物が見かけられている。それはラグラスが真面目に国を治めていない証だと聞いた。だから、リューンは国王を要らないと思った。
随分乱暴な理由だが、リューンには判断する思考が残っていなかった。母が死んだことはそれだけ衝撃が大きかったのだ。
「王を見つけても貴女は近付かないように。わたしに教えて下さい。いいですね」
「……はい」
睨みつけてくるハトにリューンは嘆息する。見つけたとしても何も話すこともない。
リューンの力では何も出来ないことに気付いてしまった。たかだか十四の娘に何が出来るというのか。目が覚めて、自分の力が足りないこともラグラスの力が大きいことも知ってしまった。何よりナイフは奪われてしまった。ハトが鼻息荒くリューンを置いていくと、すぐにその背は見えなくなった。
リューンは暫くその場に立ち尽くしていた。
肩に手が置かれたのはそれから数刻が経った後だ。振り向くと微笑むラグラスが、居た。
「ハト、もう行ったね。あいつは真面目でいい奴なんだけど時々窮屈なんだ」
ラグラスはリューンの髪に手を突っ込んで、わしわしとかき回した。リューンは不服そうな顔をして、その手を払いのける。
「やめてよ」
「はは、ごめん。城はどうだい。此処は色々なものがあるから、面白いと思うよ」
笑う王に苛ついた。彼からすればリューンが自身の子どもでも可笑しくない年齢だろう。だからといって彼女はその扱いをよしとしない。
「あたしは客人じゃない。ただの居候だ。城に置く気なら使用人にすればいい」
それが嫌なら放り出せばいい。殺そうとしている相手を城に住まわせるなんて何を考えているのか。
「それは駄目だよ。君は僕の大事な一人の国民だ。使用人じゃない」
「何を言っているの?」
リューンには意味がわからない。だがラグラスはただ笑って、思い出したように城の一角を指差した。
「君は読み書きは出来る?」
「簡単なものなら読むのは、出来るわ」
「だったら、書庫へ行ってみればいい」
そこへ行って何が変わるのか、リューンにはわからなかった。
◆◆◆
リューンの服はラグラスに与えられた物だ。初めに着ていた服は丁寧に洗われたあと、部屋の隅に大事に置かれている。あれも、初めは真っ白なワンピースだった。けれど次第に汚れていった。それをリューンは恥ずかしいとは思わない。
「そうだな。私も昔母上がくれた人形を大事にとってある。もうボロボロだけどな」
懐かしそうに目を細める王様はリューンの前を陣取って、行儀悪く足を組んでいる。
「何故、貴方は此処に居る」
どうやら彼は書庫を隠れ場所の一つにしていたようで、言われるがままリューンが訪れると既に待機していた。そしてリューンの邪魔をするかのように話しかけてくる。簡単な読みしかできない彼女は絵本を見つけたところだ。売っているのを見たことはあるが、自分で読んだことはなかった。
「言っておくが私は仕事をしていないわけじゃないんだぞ」
「していないとは言わないが、あたしの前ではいつもしていない」
「それは執務室じゃないしね。君とは単純に色々話してみたいんだ」
どうしてかラグラスは笑う。笑うと目尻に皺が寄って、若くはない彼の年齢を教える。リューンは段々その顔にほだされてきたのを感じていた。
「読み書き、もうちょっと出来たらと思わない? 私が教えてあげるよ」
返事をする前に隣にやってきて、彼は胸元から出した紙にさらっと文字を書いた。見せられた文字は、リューンの名前だ。
「これはリューン。私はこっち、ラグラス。それから城はこれ、書庫はこう……」
淀みなく動く彼の手に、リューンの目がひきつけられる。自分の名前と簡単な単語くらいは知っている。けれど話す言葉はわかっていても、読むことや書くことは別だ。
「リューンはきっとすぐ覚えられるよ」
その根拠が何処から来るのかわからない。けれどラグラスは楽しそうに目尻に皺を寄せていた。
書庫に通うのはそれからリューンの習慣の一つになった。ラグラスは居たり居なかったりだが、およそふた月でリューンは絵本から子ども向けの文学書へ読むものが変化していった。
「この国がいつ生まれたか知っている?」
時折、ラグラスは思い出したように質問をぶつけてくる。
「三百年前からでしょう? 歴史書を読んだわ」
「うん。そう」
彼はリューンの答えが合っているとそう言って笑い、彼女の髪をわしわしとかき回した。
「やめてよ」
癖のようなその行動にリューンは苛立った。幼子のように扱われることが腹立たしかった。
「あなたはどうして王様になったの?」
リューンからも何度か質問をした。答えをもらえないこともあったけれど、その時はまた後で同じことを訊ねた。
「必要に駆られて、というやつだ」
「やめたいと思わなかったの?」
「思っているよ。今も。でも、父は私にと指名した。そしてその期待を裏切るほど、国を嫌ってはいなかった」
わかるようなわからないような、そんな答え。
「君は、私をもう殺さないの?」
不意を突かれた質問に、リューンは無言を貫き通した。
リューンは城に来てから知った。まず知ったのは城の中での生活。国王と側近が安穏と暮らしているわけではないこと。毎日ラグラスを捜しているハトも、他の役人に捜されていること。役人たちへの受け答えが的確であることを理解したのは、もう少し後のことだ。
次に言葉。読み書きが出来るようになると、本を読むことを出来る。知識を増やし、そして人の話している内容を正確に知る事が出来た。
更に物事を知れば、自分の考えも生まれた。リューンは知らなかったことを知って、戸惑った。たとえばラグラスが国王になった後に何度も死に掛けていたことだ。リューンが手を下さなくても本当は死んでいなかったかもしれないのだ。
リューン自身は一度目が失敗した時点で諦めていた。でもまだもう少しという思いもかすかにあった。城に居ればその機会も訪れるかもしれないと、ぼんやり考えていた。
でも――。
「あなたを殺す理由がなくなった。こう言ったら、あたしは此処をでなくてはならない?」
ラグラスは王様だ。無知であったことをリューンは知っていた。言葉の上だけでなくその含むところも知った。いづれかの本で書いてあった、王はすべての国民の命を背負っている。リューンはその言葉に強くひきつけられた。
「好きなだけいればいい。私がいいという間は構わないよ。君も私の民だ」
ラグラスは言うのだ。我儘な孤児の言葉を真剣に聞いて返してくれる。それを嬉しいとリューンは思ってしまった。
物事を知っていけばいくほど、リューンはラグラスのことを知った。国をどういう方向に導いているのか知っていった。彼は不真面目ではない。寧ろ逆だった。真面目すぎるほど真面目に彼の国民を守ろうとしていた。ただその手はまだすべてに行き渡っていない。
けれどその理想はわかる。リューンはわかった。ただ、皆が笑ってくれる国にしたかった。それがラグラスの成そうとしていることだ。
「あたしに手伝えることはない?」
口をついて出た言葉は自分でも意外なものだった。
「君が笑ってくれることが一番の手伝いだ」
けれどラグラスは受け流す。子どもの自分が恨めしいと思ったことはその時ほどなかった。リューンはハトたちのような戦力にならない。そう断定されたのだ。
落ち込みを見せることなく、彼の民は笑顔でただ返答をした。
◆◆◆
気付けば、彼女は半年も城に居座っていた。ハトや他の側近たちにも馴染んでしまった。相変わらずの書庫通いにラグラスと過ごす一時。
「君は変わったね」
ラグラスが彼女の読書の手を止めさせる。
「何が?」
変えさせたのはきっと貴方だ、と彼女は思う。
「初めて君を見たときは哀しかったな。私はまだ皆を幸せには出来ていないと思い知らされた」
王様はリューンの髪をわしわしとかき回す。以前はすぐに払いのけていたその手を、彼女は振り払えなくなっていた。
「私は君を見て、君が笑うようになって、素直に嬉しいと思ったよ」
ぐしゃぐしゃになる髪のその下で、リューンはこそばゆい思いを感じた。その感情の意味する所を彼女はまだ知らない。まだ名前に気付いていない。
「そ、そういえばハトがさっき捜していたわ。そろそろ行ってあげてはどう」
耐え切れなくなったリューンがハトの名前を口にする。途端にラグラスの気分が沈むが、休憩は十分にとれたようだ。
「仕方ないな」
ぼやきながらも王は立ち上がる。そして残される民に彼は小さく手を振った。
ハトは最近リューンに対して怒ることが少なくなった。ある程度認められてきたということなのだろうか。リューンが知識を得たからか。けれど、知識を得た後何をすればいいのかが彼女はわからない。どうすれば使えるかがよくわからなかった。
そんなある日、ハトと例の如く遭遇した。
「貴方は初めよりだいぶマシになりましたね」
これが彼なりの褒め言葉ということもこの頃はわかってきた。じろじろと品定めをする視線を向けてくる。首を傾げただけでリューンはそれに応えた。
その時はよくわからなかった不躾な視線の理由に彼女は少し後になって気付くこととなる。
その日は偶々執務室の近くを通った。普段はあまり近寄らないようにしていたのに本当に偶々。
だから話が聞こえてしまったのは誰かが扉をわずかに閉めそびれていたからだろう。
漏れ聞こえた単語にリューンは足をとめてしまった。
「后?」
「そうですよ。貴方もいい年齢なんですから、跡継ぎを作ってもらわないと」
それはラグラスとハトの声だった。后が居ないことは国民の間でも不思議がられていた。齢三十四にもなる王が一人の妃すらも居なかった。誰か他の国から娶るのだろうかとリューンは思った。歴史書を見ると今までの王はほとんどがそうであった。
「それはまあ、仕方ないが……相手は決まっているのか」
「いえ、候補はおりますよ」
ハトの声が一層高くなる。昂ぶっているのがわかる。
「候補……? それは私に選択権はあるのか?」
「……后にしたい娘がいるのなら、いいしょう。聞くだけ聞きましょう」
慌てた様子のラグラスは、ハトの了解を得るや早速口を開いた――が、それを聞いてリューンは突然の動悸に見舞われた。
盗み聞きをしていた罰なのかと一瞬考えた。けれどそうではないのだろう。ただただ心の臓がドクドクと音を立てる。逃げるように執務室を後にし、それから回廊に一人佇む。呼吸を整える。
嘘ではないだろうか。幻聴でありはしないか。リューンはひたすら自分に問い掛ける。しかし耳に残るラグラスの声は間違いようもない。彼はその名を幾度も呼んだ。聞き間違えることなどありえない。
耳が熱い。頬が熱い。リューンは両手で髪の上から耳を押さえた。俯く視界は滲み、困惑が浮かぶ。その表情の意味を知らない。リューンは知らなかった。けれどたった今、気付いた。彼女のすべてが物語る。
歓喜で震える体。
熱く歪む視界。
火照る頬。
耳の奥に響く、ラグラスの声。
――伴侶にするならリューンがいい。
彼女はこの日、恋を知った。
彼女はその日、 ケー/恵陽 @ke_yo_
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