第2話

「……?」

 −−そこには、何もいなかった。

 ただ、下へ続く階段が伸びているだけだ。

 いつの間にか、ずるずるという怪物が蠢く不快な音も消えている。

 私は上体を起こし、呆然と階段の下を見つめた。怪物は消えたのだろうか。それとも、まだ玄関ホールにいるのだろうか。もちろん、また玄関ホールまで下りて確認しようという気はない。よろよろと立ち上がり、まだ震えている足を必死に動かして、踊り場まで戻ってきた。

 正面の階段の方をもう一度確認したが、怪物が追ってくる気配はない。ひとまず、助かったとみていいのかもしれない。私はその場に座り込んで安堵の息をついた。

 しかし玄関から出られないとなると、別の出口を探さなければいけない。左右の階段を交互に見る。どちらとも、闇が広がっているばかりだ。あまり進む気にはなれない。それに、下には怪物がいるかもしれない。

 だとしたら、階段を上がって家主を探してみようか。こんなところに住んでいる人間なんて絶対に普通じゃないだろうけれど、あんな訳の分からない怪物よりはましな気がした。

 どうにか考えがまとまってきた。上に進もう。私は、立ち上がろうとした。


「やあ。待ってたよ」


 突如、真後ろから声が降ってきた。

 驚いて振り返ると、いつからそこにいたのか、私と同じ年頃の男の子が立っていた。

 私を見下ろす少年の綺麗な茶色の髪は、前髪だけがやたら長く、目を全て覆い隠してしまっている。口元にはにやにやした笑みが貼り付けられていた。

 私は立ち上がって、警戒するように少年から一歩後退した。すると少年は首を傾げた。

「どうしたんだい? 野良猫みたいに警戒して」

 その例えの意味はよくわからなかったが、そんなことはどうでもいい。

「あなたは誰?」

 喉から絞り出した声は掠れていた。

「ここはどこ? あなたが私をここに連れてきたの?」

 矢継ぎ早に出てくる私の質問に、少年は再び首を傾げた。

「うん? じゃあ順番に答えていこうか」

 少年は人差し指を立てた。

「アナタハダレ。僕は誰でもない。君を案内するためだけに生み出された存在だからね」

 少年は内緒話をするかのように、人差し指を唇に添えた。

「ココハドコ。ここは、フォスター伯爵の屋敷」

「フォスター伯爵?」

 私は聞き返した。

「その人が、私を誘拐した犯人?」

「いいや」

 少年は相変わらず口角を吊り上げたまま首を横に振った。

「君をここへ連れてきたのは、フォスター伯爵でもなければ僕でもない」

「じゃあ、誰が」

 少年は、人差し指をすっと私の口元に近付けた。

「答えは君が見つけなければならない」

 その瞬間、ふっと少年の姿が消える。

「え……!」

「君が求める答えは、この屋敷の中にあるよ」

 背後から少年の声。反射的に振り返ると、少年が私のすぐ後ろに立っていた。驚いて後ずさる。

「あなた、何者なの……?」

「僕は、君の案内人だよ」

 少年は、笑みを貼り付けたまま答えた。私はまじまじと少年を見る。

 私の常識を超えた存在ではあるものの、少年に敵意はなさそうだった。怪しさ満点なのは間違いないけれど。それに、さっき階段を上がろうと決めたのだって、人を探す為だ。せっかく人に会えたのだから、ひとまず彼を頼ってみることにしよう。

「私、外に出たいの。玄関以外に出口はない?」

「ないよ」

「えっ……」

 あまりの即答っぷりに、言葉を失う。

「嘘でしょ。だって、玄関扉だって開かなかったのに、ここの屋敷の人はどうやって出入りしてるの?」

「ここにいるモノたちは、外に出る必要はないからね」

 少年は肩をすくめた。

「どういう意味?」

「さてね。きっと見ればわかるよ」

 それ以上答える気はないのか、少年は笑みを貼り付けたまま口を閉ざしてしまった。

 ここで少年と問答を繰り返す意味はあまりなさそうだ。彼は私の質問に答えているようで、肝心なことは何一つ答えてくれていない。

「じゃあ、自力で出口を探すよ。あなたは、これからどうするの?」

「僕は君の案内人だからね。ちゃんと後ろをついていくよ」

 案内人なのに、後ろをついてくるとはどういうことだろう。普通は先導してくれるんじゃないのだろうか。

 でも、さっき見た怪物のことを思い返すと、一人だとどうにも心細い。変人でもいないよりはましだ。あの怪物と違って、見た目は普通の男の子なんだし。

 そう自分に言い聞かせ、私は少年に一歩近付いた。

「私はエミリー。あなたは?」

「僕? 僕は」

 笑みは浮かべたままだったが、少年は少しだけ返答に困っているようだった。

「僕は誰でもない。故に名前もない」

「……? じゃあ、なんて呼べばいいの」

 癖なのだろうか、少年は首を傾げた。

「強いていうなら、僕は影のような存在だからね。シャドウとでも呼んでくれればいいよ」

「……そんなのでいいの?」

「呼び方なんて、些末な問題さ」

 少し気になったが、彼がいいと言うのなら、それ以上口を出すことでもない。

「じゃあ、よろしくね」

 奇妙な案内人は、私の言葉に何も答えずにんまりと歯を見せて笑った。

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