怪物の棲む屋敷
雨宮れん
第1話
目を覚ますと、そこは見知らぬ屋敷の中だった。
割れるように痛む頭を無意識に手で押さえつけながら、私はゆっくりと目を開けた。まだ意識が覚醒していないからだろうか、視界が霞んでいる。重たい体をどうにか起こそうとすると、頭の奥に響くような痛みが走った。それでも無理矢理体を起こし、指先で目をこすってから周囲を見渡した。
どうやら私がいるところは階段の踊り場らしく、左右と正面に下りの階段が、後ろには上りの階段が続いている。天井は高く、吊り下げられたシャンデリアには橙色の光がぼんやりと点いている。窓はシャッターまで全て閉め切られていて、明かりらしい明かりといえば頼りないシャンデリアの灯火と、ところどころ灯されている蝋燭の火くらいだった。空気は湿っていて、あまり良いとは言えない。
目を凝らして階段の先を見ようとしたが、薄暗いせいではっきりとは分からなかった。恐らくどこかしらの部屋に繋がっているのだろう。階段の数からして、ここが広大な屋敷の中であることは確かだ。それ以上のことはここにいるだけでは分からない。私は一旦周囲の観察を止めて、次に自分が何故こんなところにいるのかを思い返そうとした。
しかし、いくら考えてもここに来た経緯がまるで思い出せなかった。それどころか、自分に関する記憶すらあやふやになっているような気さえする。
落ち着いて考えよう。私の名前は、そう、エミリーだ。ついこの間、十五歳の誕生日を迎えた。両親と同じブロンドの髪が気に入っていて、ずっと髪を伸ばしている。昨日の晩ご飯はミートグラタンだった。昨日のことまでは思い出せる。それ以降の記憶が抜け落ちているのだ。
確か昨日は、食事を終えた後すぐにベッドに入った。何故かというと、翌日、つまり今日、友達と遊ぶ約束をしていたから。そこまで思い出したところで、私は違和感を覚えた。友達の顔と名前が思い出せない。
いい加減、頭が混乱してきた。ただでさえ痛い頭が、余計なことを考えたせいで悲鳴をあげているようだった。
とりあえず外に出よう。ここは、嫌な感じがする。
私は足に力を込め、どうにか立ち上がった。私の左右前後に伸びる四つの階段。外に出る以上、階段を上がるという選択はあり得ない。となると、左右と正面、どこを選ぶか。
玄関なら、正面だろうか。
安直な考えだが、こんなところで奇をてらっても仕方がない。私は右手で頭を押さえて、左手で手すりを掴み、ゆっくりと正面に伸びる階段を下り始めた。
長い階段をやっとの思いで下り切ると、玄関ホールのようなところに辿り着いた。階段の踊り場とは比べ物にならないくらい広い空間だったが、正面に扉があるのがどうにか確認できた。
私は、階段から扉に向かって敷かれている赤い絨毯の上を進んだ。目覚めた時に比べて、頭痛は幾分ましになっている。外に出たら、走って家に帰ろう。誘拐の可能もあるから、両親に報告をしなくては。
思考を巡らせているうちに、扉の前まで着いていた。自分の体の倍ほどはある大きい扉だ。金属でできた冷たいドアノブを両手で掴み、体ごとぐっと扉を押した。
開かない。
押して駄目なら引いてみろ。私はありったけの力を込めて扉を引っ張った。だが、扉は開かない。
何度か扉を押したり引いたりしてみたが、一向に開く気配はなかった。
「どうして……」
鍵が掛かっているのだろうかと扉を調べたが、鍵らしきものは見当たらない。こんなに大きな屋敷の扉なのに、鍵がついていないなんておかしい。この屋敷は、おかしい。
一旦扉は諦め、今度は窓から外に出ようと試みることにした。玄関ホールにある窓をいくつか調べてみたが、ガラスの向こう側は全てシャッターで締め切られている。そもそも窓自体にも何故だか鍵がなく、開くことすらできない。
溜め息を吐き、ガラスをなぞると、ヒビが入っていることに気が付いた。そうだ。開かないなら壊してしまえばいい。
流石に素手で窓を割るのは無理だから、何か使えそうなものはないかと辺りを見回した。すると、壁掛けの台の上でぼんやり光る燭台が目に止まった。これだ。燭台を手に取り、息を吹きかけて蝋燭の火を消す。
人の家の窓を割るというのはどうにも躊躇われたが−−今はそんなことを言っている場合じゃない。とにかく早くここから出たい。私は燭台を振り上げ、ヒビが入っている箇所に向かって力一杯打ち付けた。大きな音と共にヒビが広がる。もう少し。私はもう一度、ヒビに向かって燭台を打ち付けた。
バリンッという音を立てて、窓ガラスにギザギザの穴が空いた。それから四、五回ほど燭台を窓ガラスに打ち付け、どうにか人一人通れそうなくらいの穴を作ることができた。
燭台を床に置き、シャッターを調べる。今は夜なのだろうか、シャッターからは光の一つも漏れていない。上に押し上げようとしてみたが、びくともしなかった。例の如く、シャッターにも鍵はない。
硬いシャッターを燭台で壊すのは無理そうだ。打つ手がなくなり、私はその場にしゃがみ込んだ。まるで、この屋敷だけ外から完全に遮断されているみたいだ。一体、どうすれば。
途方に暮れていたその時。
ずる、と気持ちの悪い音が鼓膜を揺らした。
咄嗟に立ち上がり、振り返る。
ずる、ずる、と音は次第に大きくなっていく。
闇の向こうで、何かが蠢いているのが見えた。
“それ”は確実に私に近づいてきている。
逃げなきゃ。
何が近付いてきているのかは分からない。でも、逃げなきゃ駄目だ。そんな思いとは裏腹に、私の足はがくがくと震えるだけで動いてはくれなかった。
「ひっ……!」
蝋燭の薄明かりに照らされて、”それ”の姿が見えた。
“それ”はおどろおどろしい……泥の塊のような怪物だった。至る所にぎょろぎょろと光る目が付いている。ぐぱぁっと開く大きな口からは獰猛な牙が見えた。
激しく心臓が波打つ。捕まったら殺される。そんな考えが頭を過ぎった。
逃げなきゃ。逃げなきゃ。逃げなきゃ殺される!
反射的に後ずさってしまい、背中に壁が当たる。後ろには逃げられない。斜め向こうに、最初に下りてきた階段が見えた。一旦、踊り場まで戻って、どこか隠れられる部屋を探せば……。
考えている間にも、怪物はずるずると私に向かって来ている。
迷っている暇はない。情けなく震える足に爪を立て、どうにか私は走り出した。
「アア……ア……」
背後から、ぞっとするような咆哮が聞こえた。思わず振り返ると、怪物の体はどろどろと溶け出し、液体状になって、私の足元を捕らえようとするかのように追い掛けてきていた。
「いや……!」
恐ろしくなり怪物から目を逸らして、ひたすら走った。ずる、ずる、という不快な音がいつまでも耳から離れない。走っているうちに、治まっていた頭痛が復活してきていた。
息を切らしながら走って、ようやく階段に差し掛かった。勢いに任せ、そのまま階段を駆け上がる。酸素不足と頭痛が相まって意識が朦朧としてきていた。
「あッ……!」
足がもつれ、私はその場で盛大に転んでしまった。全身に痛みが走る。起き上がろうとしたが、恐怖で震えた私の体は言うことを聞いてくれなかった。
もう、走れない。
私は、涙に濡れる目を階段の下に向けた。
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