狐憑きの嫁入り

しきみ彰

第1話

 赤い炎がぽう、と立ちのぼる。それは道を作るように少女の目の前に伸びていった。


 奥から、何かがやってくる。淡い光をまとった、美しい何か。それはだんだんと近づいて、少女の体を照らす。


 それは、ひとの形をした何かだった。


 しゃらん、しゃらん、と後ろに付き従う少年たちが持つ鈴の音が鳴り響き、美しい衣がたなびく。金色の髪が揺れていた。眉尻に施された紅が、凛々しい瞳を美しく彩っている。


 その見目はおよそ、ひととは呼べないほど美しい。


 少女は息をすることすら忘れて、彼の顔を見上げていた。

 そのひとは少女の前で止まると、かたばみの爪化粧が施された手を伸ばす。爪は長く伸びていて、まるで獣のようであった。

 そろりと、手が少女の顎をすくう。


「お前さん。わしが視えるのか?」


 少女はほうけたまま、ぱちぱちとまたたいている。それの何がおかしかったのか、男は笑った。口を開けて笑っていても下品に見えないのは美形の特権だと、少女は思った。


 男はまだ笑っている。

 少女はそのとき、ようやく気づいた。

 その頭に、人ではあり得ないものが生えていることを。


「……おみみ?」


 思わずつぶやけば、男は首をかしげてぴょこぴょこと耳を動かす。すると少女は、目をきらきら輝かせて満面の笑みを浮かべた。

 少女を抱き上げ、男は言う。


「面白い娘だ、気に入った。十六になったら迎えに行く。それまで待っていられるか?」


 男の言葉に、少女はこくこくと何度もうなずいた。


「うん、まってる!」


 きらきら、きらきらと。少女の周りがよりいっそう強く輝く。

 しゃらん、しゃらん、と、鈴の音が高く高く響いていた――



 ***



 狐憑きの娘。


 雅(みやび)は村の面々にそう言われながら、幼少期を過ごした。


 彼女がそんな風に呼ばれるのは、幼い子どもの頃から変なことを言う娘であったからだ。

 しかも彼女の周りでは、何かしらの不可思議なことが起こる。その対象は両の親ですら例外でなく、怒鳴ったり殴ったりしようとすれば何かが飛んできたり落ちてきたりした。そうなると手を出せやしない。


 それゆえに、村の人々は腫れものを扱うように彼女を扱った。そばにいれば何が起こるか分からないからだ。


 雅はいつもひとりきりだった。

 ひとり、与えられた山小屋に住んでいた。


 朝起きれば近くの川へ行き水を汲み、山菜や木の実、果実などを取って食べる。とはいうもののさほど多くなく、冬場などはてんで取れなかった。ときおり釣りをしたりもするが、魚が取れるのはそう多くはない。


 ゆえに雅はいつも、ガリガリのみすぼらしい姿。風に吹かれれば倒れてしまいそうなほど、その体は細い。にも関わらず死なない彼女に、村の者はたいそう残念がっていた。死ねば面倒なものがなくなると思っていたからだ。


 さすがの雅も歳を重ねると、自分の発言が周りにとって良くないものだと気づいた。

 自分という存在が、疎まれていることも。


 周りからは「狐憑きだ」「化け物だ」と怖がられ、ときには「死んでしまえばいいのに」と罵られる。今ではなくなったが、小さな子どものときに浴びせられた心なき言葉の数々は、雅の心を静かに確実に蝕んでいった。


 雅は思う。「死んでしまいたい」と。

 でもなぜか死ねない。ならば生きるしかない。しかし生きていくことは、彼女にとって苦痛そのものだった。


 彼女は次第に口を開くことも笑うこともなくなり、陰気な空気をまとう娘になっていた。




 そんな、ある日のこと。


 雅がふと目を覚ますと、何やら音がした。鳥たちがぎゃあぎゃあと騒ぎ、外の異常を知らせている。

 ひどく薄っぺらい寝床から出て、ぎしぎしとうるさい床を鳴らしながら外に出ると、熱い。目を慣らすためにまたたくと、高々と炎が上がっていた。


 それは、村がある方角だ。雅はぽかんと口を開いたまま、呆然とそちらを見つめる。


「……村が、燃えてる?」


 なぜだろうか。そう思ったが、そこから走って行くだけの体力はない。村への思い入れも皆無に近かった。


 ただなんとなく、体の力が抜けて。

 雅はそこに座り込んでしまう。


 ぽろりと、枯れたはずの涙が溢れ出した。

 涙は止めどなく溢れ、雅の襤褸(ぼろ)を濡らす。


(わたしもそろそろ、死んでしまいたい)


 村が終わる姿を見た雅が思ったことはそれだった。息をしていることすら辛い。人の温もりはおろか、人としての幸福など欠片も知らぬまま育った彼女は、死ぬことだけを安楽として生き続けてきた。


 なぜか今日は、終われる気がした。

 寒空の下、雅は力なく横たわり目をつむる。


「もう、つかれた、よ」


 冷たい、痛い、辛い、眠い。

 様々な感情がまぜこぜになったまま、雅の意識は沈んでいく。


 意識を失う間際、奥底に眠っていた幸せな記憶が、ふと芽を出した。


 しゃらん、しゃらん、と鈴が鳴る。

 高く高く鳴り響く。

 かすれゆく幻聴を聞きながら、雅は意識を手放した。













 次にやってきた目覚めは、ぬくぬくとした温かさに満ちていた。それは、普段使っている寝床などとは比べものにならないほど温かい。

 軽く身じろげば、何かがぎゅっと抱き着いた。


 驚いて目が覚める。

 視線だけを上げれば、そこにはなんと男がいた。


 またたき、首をひねる。驚きのあまり悲鳴をあげる、などという展開にはならなかった。彼女にはそんな感情すらない。


 ただ、男の顔はひどく美しくて。思わず見惚れてしまう。

 長いまつげは金色で、髪も金。頭からはぴょこりと耳が生えている。狐の耳に似たそれは、どこか見覚えがあった。


 乏しい記憶を引っ張り出した結果、雅は思い出す。


(前会った、お狐さま)


 十六になったら迎えに行く、と言ってくれた、例の男だった。そんなものいるはずがない、と村人たちに否定され続けたため、すっかり忘れていた。でも目の前にいるのは確かに、あの日のお狐さまだった。


 雅の心に、わずかながらも幸福感が湧き上がる。

 しかしここからどうしたらいいのか分からず固まっていると、男のまつげが震えた。


「……みやび……起きたのか?」


 ぴょこぴょこと、耳が揺れる。雅の視線はそれに釘付けだ。

 そんなことも知らぬまま、男はぼんやりと目を開けた。そこには、雲ひとつない空の色が広がる。


「……おはよう、ございます……?」


 雅が言えたのはそれだけだ。しかし男はそれを聞き、嬉しそうに笑う。


「おはよう、雅。そろそろ起きて朝餉にするか」

「あ、は、い。えと」

「ああ、名前は言うてなかったな」


 男はひとつ前おくと、雅の痩せこけた体に擦り寄る。


「カラク。カラクだ」


 からく、と雅は何度か口ずさむ。そして頷いた。


「カラク」

「そうだ」


 さっそく朝餉にしよう。

 その言葉とともに、雅は甲斐甲斐しく抱き上げられた。



 ***



 それから雅は、カラクの屋敷で暮らすことになった。

 前の暮らしとは真逆な、なんとも豪勢な生活の数々。ガリガリの体は痛ましいからと、ご飯の時間は四度も設けられた。はじめのうちはごくごく少量しか食べれなかった雅だが、次第に量も増えていく。細い体は少しずつだが確かに、肉をつけ始めていた。


 着るものもすっかり変わり、襤褸は絹になった。初めは肌触りが良すぎて違和感を覚えていたが、着続ければ慣れる。ただ、床につくほど長い衣はダメだった。毎回踏んでしまう。結果カラクは、雅にそれらを与えなくなった。


 カラクとの生活は、雅にとっては異質そのものだった。

 そもそもここがどこなのかすら、彼女には見当がつかない。

 大きな屋敷にいるのはふたりだけだが、ご飯はすぐに出てくるし着物もある。どの部屋も毎回綺麗だ。


 はじめの頃は口を開くことが少なかった雅は、幼かった頃の好奇心を取り戻すのように、カラクになんでも聞いた。

 だってカラクは、何を聞いても優しく答えてくれるのだ。

 それはもう、なんでも。


「ねえ、カラク。カラクはなあに?」

「わしか? わしは狐の神様だ」

「ふうん。じゃあ、どうしてわたしを、たくさんお世話してくれるの?」

「雅がわしの嫁だからだな」

「……お嫁さん?」


 縁側で茶を飲みながらした質問は、ここで暮らし始めてから半年ばかり過ぎた頃に出てきたものだった。その体はすっかりふくよかになり、年相応に柔らかくなっている。

 それより前までは疑問を浮かべることすらなかった雅にとって、それは人間らしい生き方の第一歩だ。


 だからか。

 カラクの行動に、疑問が増えてきた。


 カラクは、雅を徹底的に甘やかすからだ。


 着物を着るのだって、ご飯を食べるのだって、はたまた体を洗うときだって。カラクがすべてやってくれた。まるで依存して欲しいと言わんばかりに、カラクは雅に甘い。どろどろに甘い。それは過保護という概念を超えていた。


 寝るときだっていつも一緒だ。ただカラクと一緒に寝ていると、とても心が安らぐ。尻尾なんかもふもふしていて、ついついずっと触っていたくなってしまうのだ。それは彼女があまりにも孤独だったからであろう。反動というやつだ。


 なんでもかんでもカラクにやらせてしまうのは、雅に羞恥心というものがないからだ。そんなものが芽生える前に、雅はひとりぼっちになってしまったから。


 雅は湯呑みを両手で抑えながら、こてりと首をかしげる。前よりも伸びた髪がさらりと揺れた。ガサガサだった髪は艶を帯びている。毎回風呂のときに洗われ、香油をすり込まれるからだ。


「わたし、カラクのお嫁さんだったの?」

「そうだ。わしが認めたおなごだからな」

「じゃあ、十六のときに迎えに行くっていうのは、何か意味があったの?」


 言った瞬間、雅はしまったと目を見開いた。カラクが、妙に痛ましい顔をしたからだ。

 彼は時折こんな顔をしては、ふらりとどこかへ行ってしまう。何をしているのか分からないけど、そういうときこそそばにいたかった。


(だってカラクは、わたしが不安なときにそばにいてくれたもの)


 だから雅は、カラクが逃げないように袖をきゅっと捕まえる。彼が身じろぐのが分かった。

 でもひとりにしたくなくて、雅は矢継ぎ早に言う。


「言いたくないなら、言わなくていい。でも、どこかへ行かないで。カラクがひとりで何かを抱え込んでいるの、わたし嫌い。……ねえ、カラク。わたしじゃ頼りにならない?」


 少しためらったが、手を重ねた。冷たい。そしてとても大きい。雅の小さな手ではおさまりきらないほど大きな手だった。

 しかしその手を包み込むように、雅はめいっぱい両手を広げる。

 するとカラクが、静かに口を開いた。


「……迎えに行くのが遅くなって、すまなかった」


 雅ははたりとまたたいた。

 見上げれば、抱き寄せられる。その感覚にひどく安堵しながら、彼女は次の言葉を待っていた。


「すぐには迎えに行けなかったのだ。十六にならぬと、お前の体が持たぬ。でも雅があんなふうな生活を送るくらいなら、わしの元に連れてきた方がマシだった」

「……わたし、今、幸せだよ?」

「そりゃそうだ」

「カラク、大好きだもの」

「……そりゃあそうだ」

「……カラクは、わたしのこと嫌いなの?」

「いや。好きだ、大好きだ、愛してる。もう二度と、人の世などには降ろしたくないくらい」

「うん、ならいいや」


 胸の内側に宿るこの感情が一体なんなのか、雅には分からない。でも大切だとは思う。

 人生で楽しいことなんて何一つなかった雅が唯一楽しいと思えたことには必ず、カラクの姿があった。

 心地良い感覚に身を委ねながら、雅は着物の裾を握る。カラクからはいつも、いい匂いがした。


「カラク、好き。わたしも、好き。これじゃあだめ?」

「……いや。それが良い」

「うん。じゃあわたし、立派なお嫁さんになるね」

「もう十分にできた嫁だよ、お前さんは」


 そう言い、カラクは雅に口づける。

 カラクは薄く開いた雅の唇から、舌を差し込んだ。


 彼は、互いの舌を絡め合い、息継ぎが出来なくなるほどの深い接吻が好きだ。

 終わった後、雅はいつもくったりしてしまう。喉の奥からくぐもった声が出るが、カラクはいつも嬉しそうにそれを聞いていた。

 今日はいつもよりねっとりと、そして長く、接吻をする。


「ん……ふ、ふぁ……っ」


 気がついたときには、雅は抱き上げられていた。風呂に入るのであろう。いつもこの展開だった。

 今日も今日とてカラクにすべてを任せて、雅は一日過ごす。

 その生活はとても満ち足りていた。


 ――雅の〝好き〟がカラクの〝好き〟と同じになったのは、それからさらに十年ほど、月日を重ねてからだった。













 それから雅はお狐さまの嫁として、子どもを三人もうけた。人の身でありながらすっかり人ならざる者に変わったが、雅自身は気にしたことがなかった。カラクに連れてこられてから歳をとっていないのだが、彼女にとってそれは微々たることらしい。

 あまりにも無知な少女はすっかりお狐さまに惚れ込み、その身を賭けてまで生涯を共にした。


 裏の界隈ではあのお狐さまを射止め、あまつさえ制御できてしまう雅のことを『お狐さまの花嫁さま』と呼び、ひっそり崇めていたという。





 狐の嫁入り。

 曰く、祝言。

 曰く、天気雨。

 曰く、曰く……。


 意味はそれぞれある。

 が、狐憑きの嫁入りには、ひとつの意味しかなかった。


 それは、狐の神様に愛されてしまった娘の嫁入り。

 その娘のことを不幸と思うか幸福と思うかは人それぞれ。

 しかし当の本人が幸せだと言うのなら、間違いなく幸せなのであろう。


 今宵もまた、お狐さまのお通りの音が響く。

 しゃらん、しゃらん、と鈴が鳴り、暗闇の中に鬼火が灯った。奥からゆっくりと、仲睦まじい夫婦が現れる。


 そのお通りを視ることが叶った者には、様々な幸福が訪れるのだとか――

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