幕間1 日高見 愛莉矢の場合
ーー晴香が消えた……。
今朝のことだ、真紀が学校に行くと、いつもは自分よりも早くに来ているはずの晴香の姿がなかった。
その時点で真紀の脳裏には一抹の不安がよぎっていた、しかし最近は忙しい日が続いてるので、こんなこともたまにはあるのだろうと自分に言い聞かせていたのだが、朝のホームルームで担任の女性教師が『晴香さんは、どうしたのかしら?』と呟いたとき、右手は通学用バックを掴んでいた。
その日、真紀は無断で学校を早退をした。
真っ先に向かったのは晴香の家だ、インターホンを鳴らすと、すぐに焦った様子で晴香の母親が出てきた。
そこでハッキリと事態を把握した真紀の第一声。
「警察、呼びましょっか」
目一杯に、怒りを孕ませた笑顔でそう言ったのだった。
車に揺らされながら、ボンヤリと真紀は雨雲を見上げている。
晴香のお母さんの話によれば。昨晩、彼女が家に帰ってきたのは確からしく、外出する姿は見なかったらしい。
警察は、深夜に出かけたのだろうと話していたが、そうだろうか? 彼女に限って、そんな愚かな真似をするとは真紀には到底思えない。
「心配ですね……」
真紀の隣、運転席でハンドルを握る工藤さんが、ポツリとそうこぼした。
正直に言うと、真紀はそこまで心配はしていない。だって、彼女のことだ。
どうせ、彼の所に行ったのだろう。
くらいにしか感じない。
それは、しばらく彼女に会えないとなると寂しいし、あの
出会って10年が経つが、この程度で動揺しているようじゃ体がいくつあっても足りない。
むしろ真紀の心のなかは、無断で早退してしまったことへの後悔と、先生に怒られるかもしれないという緊張で、いっぱいいっぱいであった。
※ ※ ※
考えてもみれば、面妖なこともあるものだ。
まさか、平々凡々な自分が毎日のように御屋敷に通いつめ、お金持ちのお嬢様とこうして2人きりで会うことになろうとは。
少し前の自分に言ってやったらどんな反応をしただろうか? ウソウソと適当にいなしていたかもしれない。
と言うことを真紀は、ここに来るといつも思うのだ。
「グェ……うぁ……グァ……うぅぅぅぅぅぅ」
ーー面妖なこともあるものだ……。
真赤に腫れた眼窩でこちらを見上げてくる少女、呆れのあまりに溜息すら漏れてくる。
彼女こそが、日高見 雁矢の2つ下の妹、日高見 愛莉矢その人である。
撫でたくなるほど艶やかで美しく長い黒髪を持つ少女だ。小さな顔にくっ付いている、スッと通った鼻と少しだけ鋭い目は、少し彼のものに似ているような気もする。服装に関しては、Tシャツにショーパンとラフな出立ちではあるものの、一つ一つの所作は美しく、彼女の教養の高さを伺わせる。
ーー伺わせるときもあるのだ。
「グスン……アァ……真紀ざん」
へたりこんで泣き崩れている彼女の前には、1冊のノートが置いてある。
いつもの光景だ。
日を増すごとに涙でノートがシナシナになっていくという変化はあるが。
「愛莉矢ちゃん、また読んでたんだ」
真紀は微笑すると、いつものようにスポーツ飲料を彼女に手渡した。
『涙が枯れるまで泣く』という言葉を聞いたことがあるが、彼女に関しては、かれこれ1週間以上、泣き続けている。
「ありがどうございまず」
「今度は一体、なにが書いてあったの?」
「ご……これです」
彼女は、そう言ってノートを手渡してきたが、読んでしまっていいのだろうか? という迷いが芽生た、しかし実の妹が見ていいと言っているのだ、つまりはOKだと自分に言い聞かせた。
日付を見れば、なんと3年前、雁矢が中学1年生、愛莉矢が小学5年生のときのものだ。
真紀は、涙で所々薄くなっている文字に目を通し始めた。
20○○年 5月 7日
昨日、小学校で体力測定があった。との情報を得たので愛莉矢の体力測定の結果を調べたところ、なんとすべての項目において俺を凌駕していた。
流石は、俺の妹である。勉強くらいしか取り柄のない俺とは、大違いの出来過ぎた妹だ。
愛莉矢ならば、将来なににだってなれるだろう、それだけの能力を彼女は持っている。
俺は、彼女の前に立ちはだかるもの、すべてを社会的に抹殺するだけだ。
「……いや、中学生の文章じゃないよね……。
それに、なんか怖いんだけど……どうやったら、体力測定が終わった次の日に、結果が解るの?
どうやったら、妹に立ちはだかるすべてのものを、社会的に抹殺しようだなんて物騒な考えになるの?」
真紀は、全身が粟立つ感覚を覚えた。
顔を上げれば、涙を必死に堪えるように眉間にシワを寄せる愛莉矢の姿がある。
「次のページも読んでみてください」
身体は拒絶反応を起こしているが、この状況でイヤだなんて言えるはずもない。
真紀は、小さく嘆息するとページを巡った。
20○○年 5月 8日
失敗した、やはり安易に顔を合わせるべきではなかった。愛莉矢を怒らせてしまった。
そういえばクラスに、愛莉矢と同級生の妹がいる奴がいた。名前はなんだったか……まぁ、あいつの妹が愛莉矢に俺の体力測定の結果を教えたのだろう。偶々、廊下をすれ違った愛莉矢が、妙に得意気な顔でこちらを見てきたものだから笑って返したら、声を
『勉強が出来るのがそんなに偉いのか!?』 『なんでお父さんとお母さんは、あんたのことばっか構うの!?』
あとはずっと、俺のことが『嫌いだ』と言っていた。
でもさ……愛莉矢、でも俺はあの人達のことを『お父さん』『お母さん』だなんて呼んだことがないんだよ。
あのときの、愛莉矢の顔を俺は、一生忘れることはないだろう。
(やっぱり、読まない方がよかった……)
真紀は、そっとノートを閉じる。
しかし、後悔と罪悪感は閉じ込めることができなかった。
顔を上げると、そこには俯いて、爪が白くなるくらいにTシャツを強く強く握りしめる愛莉矢の姿があった。
「お父さんとお母さんは、頭のいい兄さんばかりに構っていたんです。私、そのことがずっと羨ましかった。
だから、始めて兄さんに勝てるものができて、私、本当に嬉しくって……これで、お父さんとお母さんにも構ってもらえると思ったのに……笑われて、馬鹿にされてるって勘違いして……グスン……兄さんの気持ちも知らないで……酷いことばかり言って…………」
彼女の涙が、再び床を濡らしている。
最新に会った頃は、自分の兄のことを『あの人』と呼んでいたのだ、やっと2人が戸籍の上だけじゃない、互いに互いのことを思える本当の兄妹になれたのかと思うと嬉しくなる。
真紀は唯々、俯いて、小刻みに震える彼女の身体を抱き締めるのだった。
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