幕間3日下部 晴香の場合


 2階建てのアパートの1階、6つの扉が横並びになっている、その手前から4番目の扉の前に2つの影が伸びていた。


 ピンポーンーー


「逃げるよ!」


「はいはい……」


 全力疾走で、近くの電柱の影に隠れる晴香と真紀。


「これって、軽犯罪じゃ……」


 真紀の呟きに、晴香は人差し指を口に当て『シー!』と黙らせた。


(ふざけんなよ……)


 なぜ、真紀がこんな犯罪紛いなことをしているかと言うと、相当に深い理由があるのだが解りやすく言うと。


 真紀が1人で行ってやると言えば、『抜けがけだ』と晴香が怒り出す。しかし、晴香には行く勇気などなく、その上2人でも無理だと言う。

 そこで、晴香が提案したのはインターホンを鳴らしてから、ダッシュで逃亡。隠れて観察し、出てきた彼の様子を見ようというものであった。

 つまり、ピンポンダッシュ。普通に、犯罪だ。


「「…………」」


 恋は盲目と言うが……晴香の場合は合法と非合法の境界すら見えなくなってしまうらしい。


 しかし、真紀も真紀でこんなことに付き合ってしまっている自分に対して『本当にこの子には甘いな……』と、我ながら呆れるのであった。


「出ないね……」


「そだね~」


 しかし、真紀はどんな的外れのことであっても真剣に取り組む。そんな晴香も嫌いではない。稀に今回のように暴走することはあっても。


「もう一回やってみよう、寝てるのかも」


「え~……」


 それから数度やったが中々、彼は出てこない。


「出かけてるんじゃない?」


 晴香は、本当に彼のことしか見えていない……実際、彼の部屋しか見ていないために周りの人が怪し気な目でにこちらを見ていることに気づいていないのだ。


「でも喫茶店に1時間以上いたよね、病気だったらそんな長時間出かけないと思うし、突然お家の用事で遠出することになったんだったら、学校に連絡してるはず……」


 これで、頭がいいから困りものだ。


 ふと、真紀が扉の方から目を離し晴香に目を向けると、彼女は片手にスマホを握ったまま、アパートの壁に書いてある文字を読んで、なにやらスマホに打ち込んでいた。


「なに見て……大家さんの番号!?」


「あっわたくし、日高見 雁矢の知り合いで、日下部 晴香と申します。

 先日、日高見が夜道で暴行にあい現在入院中なので日用品を取って来るよう頼まれたのですが、暴行された際に財布や鍵の入ったバックを取られたらしくって……」


 真紀は絶句した。そして思った、きっと親友は彼のためであったらどこえでも行くだろうと……それこそ、この世界ではないどこかであっても……。


「あと、10分くらいで来るって」


「これ、犯罪じゃ……」


 晴香は、なんの罪の意識もない無垢な表情でニコッと笑った。


 コイツ、少しも悪いことしてる意識ないんだろうな~と思いながら、総毛立つ真紀であった。



 待つこと10分。


 徒歩でやって来た、人の良さそうな初老の女性が、『私が、大家です』と名乗った。

 大家は、『カツアゲなんて怖いわ~」だの、『不運だったわね~』だの言うと、直ぐに鍵を開けてくれた。それだけでなく、スペアキーがないならこの鍵を貸すなどと言ってきたが、晴香はそれはそれは惜しそうに、『スペアキーは、部屋にあるので』と言って断った。

 それなら鍵は用が済んだら返してくれればいいと言われ、鍵と一緒に名刺を貰い、今は彼の家の玄関にいる。


 ーー防犯意識が低すぎる。


 真紀の口から、思わずに溜息が出た。


「ゴクリ……」


「家のもの持って帰っちゃダメだからね!」


 真紀は今更ながら思う。彼が休んでいる理由を調べるために、なぜ家に入る必要があるのだろうかと。


 しかし、もう遅い……遅すぎた。


 晴香は、既に警察犬のように慎重かつ真剣な雰囲気を全身から放ちながら、どこかの部屋に入って行ってしまった。


「残り湯だー!! あっため直すのかな~、ジュルリ……」


 浴室にいるようだ。


 なんとしてでもこの恋の暴走列車を元の路線に戻さなくては……と、真紀は切実に思った。



 やはり、日高見 雁矢は不在であった。


「制服も、通学用バックもない」


 晴香の言う通りだ、学生である彼が持っているはずの制服、通学用バックそれに幾つかの教科書がこの部屋にはない。


「誘拐なんじゃ……」


 真紀の頭のなかに最悪の可能性が浮かんでくる。


 以外なことに、晴香は取り乱すことなく事細かに留守電などをチェックしていた。


「これ……駅前の交番の電話番号だよね?」


「いや、解んないけど……」


 普通そんなもの知らない。

 しかし晴香ならば、身分の解るものを無くすことがあるかもしれないと、念のため覚えていてもおかしくないだろうと真紀は納得した。


「電話してみよう……」


 なぜ、好きな人と面と向かって話す勇気はないのに、こういう度胸はあるのか……。



「通学用バックが届いてるって言ってた」


 通学用バックを置いたまま気付かないことがあるだろうか? それとも、取りに行けない事情がある?


「本当に、事件に巻き込まれてるんじゃないの!?」


「登校中に? 人の目もあるのに?」


「でも交番からの連絡が昨日の昼だよ、これって昨日から1度も家に帰ってないってことじゃない?」


「解んない……なにかがあったのは確かだと思うけど……バックの中に携帯もあるらしいから自発的な行動とは考えにくいし……」


「通報しようよ」


「家の用事があったのを突然思い出したのかもしれないよ? もう少し調べれば、手帳や家族への連絡手段が見つかるかもしれない。それにもし通報して、早とちりだったら日高見くんに迷惑が掛かっちゃう」


 晴香は言うが、本当にそうだとは思っていないだろう。どんな急用であってもバックや携帯を忘れるなど考えられないし、晴香自身、自発的な行動ではないと言っていた。

 その様子から、どうするべきか決めかねていることが真紀には解る。



 カレンダーや手帳を見てもこれといった情報はなかった、通話記録にも目ぼしい記録はない、携帯を調べたいが本人でないので無理。


「残ってるのは、これだけかー」


「う……うん」


 晴香は、瞳を爛々と光らせながら積み上げられたノートを見ているが、真紀は気が進まない。今更だが人のプライベートを覗き見るのは気が引ける、それにこれは日記だ、決して読まれて嬉しいものではないだろう。しかし、緊急事態だし仕方がないと自分に言い聞かせる。


 幾つの頃から書き溜めているのだろうか? 大学ノートの表紙には『日記 1』から始まり『日記 67』まで記してあった。


「なにか、重要な用事だったなら日記に書いてあってもおかしくない」


 晴香は、『日記 67』を手に取る。


 内容は、今日あったこと、勉強や生活習慣などで改善すべき点、そして最後には自分を卑下するかのようなことや誰かを心配するようなことが、毎日欠かすことなくビッシリと書かれていた。

 彼の真面目さが伝わってくる。


 数ページめくったところで晴香の手がパタリと止まった、晴香は読むのが早いので真紀も急いで読み進めるとその理由を理解し、思わずノートを閉じた。


「ダメだよ! これ以上はダメ!」


 真紀は訴えるが晴香は日記を離そうとしない。


「まだ、日高見くんがいなくなった理由が解ってない……それにこのままじゃ日高見くんが誤解されたままだよ……」


「……」


 真紀は、なにも言えなかった。このままではあまりに彼が不憫すぎる、真紀は諦めたようにその手を退けた。




 結局、彼が消えた理由は解らなかった。

 2人は警察に通報することに決めたのだが、その際、日記だけは持ち帰ることにした。


 真紀が言う。


「本当に、勝手に持ってっちゃっていいのかな?」


 晴香が決然と答える。


「警察が捜査に来たらきっと見られちゃう、それにこの日記を渡さなきゃいけない人がいる」


 親友の強い決意の篭った声に、真紀も『そうだね』て言って強くうなずいた。



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