第7話
周りがやけに賑やかだった。窓の外には世界各国から集まった観光客の面々。そこはもう四条通りだった。あまり寝ていなかったから寝オチしていたのか。隣を見ると、相変わらずの上機嫌で小谷さんがハンドルを握っている。
「もう着くで」
「あい」
眠気まなこを擦り、これから盛り上がっていくであろう街に目を慣らす。そうこうしているうちに車は裏通りに入り、ひっそりとした駐車場にその身を収めた。
「よーし、行くか!」
小谷さんはすっかりご機嫌だった。俺達は裏通りを抜けて歓楽街へ入る。目立たない廃ビルの4階、ここに三ツ星の受付がある。俺達は慣れた足取りででエレベーターに乗り込んだ。ここのエレベーターは兎に角遅い。乗る度に俺はハードボイルドワンダーランドのエレベーターを思い出す。「速度が遅いせいで、方向の感覚というものが消滅してしまった。それは下降していたのかもしれないし、何もしていなかったのかもしれない」というアレだ。まして我々は下半身に多大な妄想を抱えている。遅く感じるのは必然かもしれない。
「いらっしゃいませ。ってアレ? 小谷さん達じゃないですか」
エレベーターの向こうにはピンクのシャツを着た店長がいた。店長もすっかり俺達の顔を覚えているのだ。
「よう、よう。久しぶりやな。ええ娘いるかい?」
と上機嫌の小谷さん。
「ええ、ええ。そりゃあもう。今なら待ち時間なしで行けますよ」
「おっ、どんな感じ?」
「この娘なんてどうですか? ペロンちゃん。もう身体はアレでコレで他のお客さんからの評判いいですよ」
と店長は艶めかしい目つきでこちらを見ている女の子の写真を出してきた。中々可愛い娘だ。
「うーん。お前、この娘のこの腹回りのとこ、加工しとるやろ? 俺の目は誤魔化せんぞ。他見せろ」
「もー。小谷さんには敵わんわ。ほなこの娘はどうです? カリンちゃん。ええ娘ですよ」
店長はまた別の写真を出してくる。同じような目をした女の子だ。この娘もなかなか可愛い。
「うーん……よし、今日はこの娘にするわ」
「ありがとうございます」
2人はなんだか物凄く楽しそうだった。
「あの、今日はにぃなちゃんいます?」
俺が口を挟む。
「にぃなちゃん、いますよ。待ち時間なしで行けます」
「じゃ、僕はにぃなちゃんで」
「ありがとうございます」
やっぱり店長は物凄く楽しそうだ。俺と小谷さんは別々に店を出て、指定されたラブホテルへ向かう。
俺は何度来てもラブホテルという寝床が好きだ。このけばけばしい建物の中には何組ものカップルがいて、それぞれがそれぞれの部屋でセックスをしているのだ。欲望の館。誰もが妄想と、多少の後ろめたさを抱えてランプの付いたスイッチを押して中に入る。それは背徳的で最高にエッチなことのように思えた。
10分後ににぃなが来た。
「よう」
俺はまだ寒そうなにぃなに声をかける。
「来るなら先に連絡くれたらいいのに」
にぃなが厚手のコートを脱いで中に入ってくる。コートの下には細い括れとその上に実る豊満な乳房を強調させるピチっとしたシャツを着ていた。
「急に行くことになったんだよ」
俺は毒リンゴのように赤いソファーに腰掛けていた。
「あんたはいつも急ね。でも久しぶり。会いたかったわよ」
「誰にでもそう言ってるんだろ? 今の今まで俺の顔も忘れてたくせに」
「あらあらヒドい。あんたのこと、本当によく思い出してたわよ。忘れないようにと思ってたのかもね」
嬉しいことを言ってくれる。脱いだコートをベッドに置いてにぃなは俺の横に座ってニヤっと笑う。にぃなは笑うと垂れ目になるのだ。
「元気そうだね」
「うん、なんせ年末でかき入れどきだからね。お陰様で忙しくしてるわよ」
「それは良かった」
「あんたは相変わらず疲れた顔してるわね」
「元々こんな顔なんだよ」
そんな風に見えてるのか。俺はちょっとショックだった。にぃなは少し笑うとソファから腰を浮かし俺の耳元にキスをした。
「ねぇ、あまり時間が無いし始めない?」
「うん」
にぃなは俺の服を順番に脱がしていった。細い指が身体に当たる度に俺は久々の快感を得ていた。あまり意識し過ぎるとそれは身体から突き出してしまうので、ちょっと違うことを考えるようにした。にぃなが跪いて俺の最後の1枚を剥がす。気が付いたら2人共何も着ていなかった。
にぃなは跪いたまま俺の突き出した妄想を唇で包んだ。
「おい、おい。シャワーまだだけどいいの?」
「いいのよ。私、あんた好きだから」
にぃなはそれを口に含んだまま動かした。俺は特に反対する理由もないのでそのまま妄想がトロけていくのを楽しんだ。
少ししてにぃなが身体を起こして俺に抱きつく。
「ねぇ。本当に好きなのよ。私、あんたのこと本当に好きなの」
「うん、ありがとう」
俺は思っていたよりずっと強い力でにぃなを抱きしめていた。
にぃなと特別な関係になったのはもう2年も前だ。俺達はもともとはただの客とただの風俗嬢だった。俺と小谷さんが三ツ星に通いだした頃のある日、俺は何となく写真で見たにぃなを指名した。今日と同じようにラブホテルの入り口に現れたにぃなは写真とは少し違ったが、垂れ目の素敵な女の子だった。そして凄くエッチだった。
「お兄さん、こんなんなんてどう?」
なんて言って他の娘ではちょっとやってくれなさそうなことをやってくれる。面白がって俺は三ツ星に足を運ぶ度ににぃなを指名した。俺の方が少し歳上なのだが、俺はいつも骨抜きにされた。どんなに頑張ってもベッドではにぃなに敵わないのだ。
5回目に指名した時、俺達は初めて交わった。当然、三ツ星のような店では禁止されていることである。
「連絡先教えるから今度からは外で会おうよ」
にぃなはベッドに寝転がって俺の背中に向けてそう言った。俺はその時ベッドに座ってシャツのボタンを留めていた。
「嬉しいよ。でも止めとく」
「なんで? お金もバカになんないでしょ?」
「うん、でも止めとくよ。こういう風にして会うからこそ官能的でいいんだと思う。何かこういう関係って素敵じゃない? 濹東綺譚みたいで」
「知らないよ」
「知らない? 永井荷風。まぁ兎に角、こうやってにぃなと会うのが楽しいってことだよ」
「ふーん」
「また来るよ」
「あんたって変わってる」
そう言ってにぃなは笑った。いつもの垂れ目の笑顔だ。
俺達は素早くシャワーを浴びてベッドへ入り込んだ。俺はにぃなのか細い足を開いて薄毛の向こうに突き出した欲望を差し込む。とても気持ちが良かった。1つになるということは何て素晴らしいことなのだろう。俺は泥濘の中で欲望をゆっくりと動かした。にぃなの吐息が漏れ出すと、欲望はその動きをだんだんと早めていく。俺達は無我夢中で求め合った。何も意味が無いと知っていても互いの身体を強く抱きしめた。
珍しくにぃなが先に果てた。果てたにぃなを見て俺も果てた。時間はまだ少し残っており、俺達は裸でベッドに並んで横になっていた。
「ねぇ、今はどんな小説を書いてるの?」
「今は何も書いてないよ。来週中に1つ書かないといけないんだけどまだ全然まとまってないんだ」
「来週までってやばいやん」
にぃなが笑う。そしてもうすぐまた別れがやってくることを感じ、俺にキスをする。
不意ににぃなが囁くように歌う。オリジナルラブの「接吻 kiss」だ。
「俺もこの前、スナックでそれ歌った」
「最近この曲好きなのよ。なんか歳を重ねる度にこういう悲し気な曲が好きになってきてる気がするわ」
「その気持ちは分かるよ。多分、歳を重ねる毎に悲しさに耐えられる心ができてきてるんだろうね」
「そういうものかしら?」
「そういうものだよ」
外に出ると辺りはもう真っ暗だった。ラブホテルのけばけばしい灯が必死で闇への抵抗を続けていた。ラブホテルの前、いつも出てすぐのところでにぃなと別れる。
「また来てね」
「うん」
不意にコートのポケットに手を突っ込むとくしゃくしゃになった短冊みたいな紙が出てきた。ソータのバンドのライブチケットだった。
「これあげるよ」
俺はチケットを1枚にぃなに差し出す。
「何これ? 誰? 何だか怖そうだけど」
チケットには怖い顔をしたソータが印刷されているのだ。
「今大阪で一番流行りのメタルバンドだよ。今度京都でライブするらしいんだ。是非行ってみてよ」
「ふーん。何だかよく分からないけどありがとう」
にぃなはあまり興味が無さそうにチケットを鞄にねじ込んだ。
にぃなと別れた俺は1人阪急京都線へ乗り込んだ。小谷さんはどうやら先に帰ってしまっていたようだった。駐車場へ行くともう車は無かった。
家へ帰ろう。自然にそう思えた。家には配偶者とやや子が待っているはずだ。久しぶりに2人の顔が見たい。
電車が動き出し、通過する駅をいくつか見送ると、不意に頭の中に詩の断片が浮かんだ。俺は手早くそれを手帳に書き記す。
「本当の気持ちなんて誰にも分からないものなんだ
僕はここにいるし 君もここにいる
柔らかい身体と桃色の唇
それだけで十分です
優しい人になりたいな
誰にも迷惑かけないように
長い髪に指を通してささやきかける
時間もお金もないんだけれど
今度はどっかで夢の続きを」
まだ断片だがなかなか良い詩だ。完成したらソータのバンドに提供してやろう。そしてライブで沢山の観客の前で歌ってもらうのだ。その中ににぃなの姿もあればいいな、と思った。
電車が地上に出た。窓の外にはネオンに彩られた街が流れていた。美しかった。その美しさは俺の前を過ぎ去っていった様々なものに似ていた。それは遠く昔に結成したバンドのように、哀ちゃんの歌うポップソングのように、村上春樹のように、新幹線のホームで見たリサの唇ように、藤伊工場長のオーケストラのメロディーのように、にぃなの垂れ目の笑顔のように、俺の書いてきた小説のように、ひっそりとした輝きを放っていた。
過ぎ去っていったもの、選べなかったものは皆美しい。それらはいつでも心の闇を照らす。素敵な闇を照らす。
家へ帰ろう。兎に角今は家族の顔が見たい。俺はゆっくりと瞳を閉じて、阪急京都線のシートへ溶けていった。
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