第6話

目が覚めると周りはやけに暖かかった。俺は身体を「く」の字に曲げ少し固めのクッション生地の上に横たわっていた。

流行りのポップソングが起き抜けの頭を苛立たせる。何処だここ? 重い頭を抱えてゆっくり起き上がる。すると段々と昨日の記憶が端っこから蘇ってきた。

漫画喫茶である。

昨夜、山村さんと別れた後、俺は1人で適当な立ち飲み屋に入った。そこでもう2、3杯ビールを飲み、その後たまたま見つけたダーツバーに入り、知らない大学生とダーツ勝負をした。当然酔っ払いにダーツ等できる訳がなく、結果は惨敗だった。何だかやたらキツいお酒を飲まされた気がする。そもそも俺はダーツのルールすら知らないのだ。

その後も何処かに立ち寄った気がするが、あまり覚えていない。とりあえず今ここにいるのは確かだ。時計を見るともう午前11時だった。遅刻なんてレベルではない。もはや半休だ。

とりあえず残った小銭で支払いをする。小銭は昨夜、山村さんと別れた時と同じ額がポケットに入っていた。と、なると昨夜の山村さん以降はおそらくカードで支払ったのだろう。何枚かの領収書が反対のポケットから出てきた。合計するとなかなかな額になった。これ、切れるのだろうか? なんて見え透いた自問自答をする。まぁ来週には少しの原稿料が入る予定もある。なんとかなるだろう。

外に出るともうすっかり昼だった。人々は日常という大河をそのか細い腕で漕ぎ渡っていた。

携帯を見ると課長から数件、お客さんから数件の着信が入っていた。あーあ、やってしまった。とりあえず課長に連絡する。

「もしもし? お前今どこにいる?」

課長は直ぐに電話に出た。

「お疲れ様です。ちょっと急にお客さんに呼ばれて今京都にいるんです」

俺は自然に嘘をつく。自慢じゃないが、嘘をつくのは得意なのだ。

「そうか。うん、分かった。てっきりまた酔い潰れて何処かで寝てるんじゃないかと思ってな。うん、それならいい。まぁ頑張りなさい」

流石に付き合いが長いだけある。鋭い。俺は適当に笑って誤魔化して電話を切る。


何人かのお客さんに電話を入れていると、着信があった。藤伊工場長からだった。

「もしもし。お疲れ様です」

「おーう、久しぶりやな。お前何してるんや? どうせ何処かでサボってるんやろ」

「勘弁してくださいよー。丁度今、難解な案件をまとめてきたところです」

「絶対嘘や。俺には分かる。たまには京都に顔でも出せ」

「はい。そしたら今から行きます」

京都というのは京都工場のことを指す。うちの会社の工場が京都にあるのだ。そして藤伊工場長はそこの工場長なのだ。

「やっぱり暇なんやんけ。ほな待っとるぞ」

工場長は豪快に笑い電話を切った。


さて、ああ言ったからには京都まで行くか。丁度今日は特別な予定もない。俺はとりあえず京都を目指し阪急の改札まで行ったが、ポケットを覗くと京都まで行く交通費が足りない。26円。今時、駄菓子ですら買えないのではないか。仕方ないから近くの銀行へお金を下ろしに行く。

昼下がりの銀行は少し混んでいた。主に主婦層と見受けられるご婦人達がATMの前で長蛇の列を作っていた。みんなせっせと旦那さんの稼いだお金を暖かい御飯に変えて、その可愛い子供達に食べさせるのだろう。主婦というのも何かと大変そうだ。うちの配偶者も今頃、やや子を片手にフローリングの上にクイックルワイパーを滑らせているのであろう。

ATMの列の中には明らかに俺よりも若いご婦人もいる。そこで俺は昨夜のことを思い出した。山村さん……まさか結婚していたなんて。そしてソータの奴、いい加減な情報を流しやがって。許すまじ。

カッカと腹を立てている間に俺の順番になった。安っぽいカードを差し込み、残額を確認する。¥4,230。無意識にため息が溢れる。まぁいい、とりあえず京都に行って帰る分にはお釣りがくる。俺は4千円だけ持ってご婦人の間をすり抜け銀行を後にした。



京都工場に着いたらもう昼過ぎだった。お陰様で今日も電車でよく寝れた。暇な日の長時間の電車移動ほどありがたいものはない。

受付に行って入館カードをもらう。うちの工場は前述したような(結構前だが)個人情報絡みの印刷物をメインで行っているため、セキュリティには非常にうるさい。社員であるのにも関わらず入館カードを受け取るためにいろいろな証明書を提示したり書類を書いたりする必要がある。おまけに工場内もどの部屋に入るにもカードリーダーが必要で、誰が何処を通ったかも全てログで管理されている。もはや要塞である。

幾つかの関門を抜けてようやく事務所まで辿り着いた。工場長は事務所の一番奥の席に座っていた。俺は何人かの事務員さんに挨拶をして事務所の奥へ進む。

「お疲れ様です。ご無沙汰してます」

工場長はツンツンの銀髪を掻き毟り俺を見る。

「おう。来たか。お疲れさん。ん? もうこんな時間か。よし、チーでもしに行くか」

「はい」

工場長の言うチーとはチー=ティー=お茶=コーヒー=コーヒーでも飲もうと言う意味である。長い付き合いである。これくらいのナゾナゾなら難なく解ける。

俺達はまた幾つかの関門をくぐり抜け食堂へ場所を移した。

「好きなの飲め」

「ありがとうございます」

俺は80円の小さなカフェオレを選んだ。工場長は隣で真っ黒なコーヒーを選んでいた。

「元気しとったんか? なかなか顔出さへんからどうしてるんかと思ってたんや。お母ちゃんは元気か?」

「はい。お陰様で家族は2人とも元気に暮らしてます。最近は営業も小説もちょっとバタついてましてなかなか家にも帰れてませんが」

「そうか。その割に一昨日は哀ちゃんとこ顔出したそうやないか」

工場長も哀ちゃんの店の常連だった。多分哀ちゃんが連絡したんだろう。

「あの日は終電を逃してしまって。更に言うとあの日からまだ一回も家に帰ってません」

「お前なぁ。お母ちゃん大事にせなあかんぞ。特に今はやや子もおるんやから」

「はぁ。そうですね」

こんなマトモなことを言っているが、工場長は俺なんかと比べ物にならないくらいのヤンチャ男だった。

藤伊工場長は今でこそ製造部のトップだが、元々は営業部の出身で、俺の上司だった。ヤンチャ男としても営業マンとしても、工場長の実力は圧倒的だった。まず、ほとんど家に帰らない。年がら年中飲み歩いて、最後はだいたいサウナか東横インに姿を消す。俺も部下の時は相当連れて行ってもらった。他のグループはだいたい一週間に一回、朝に集まって朝会を開いて情報交換をするのだが、うちのグループは常に夜会だった。もちろん情報交換なんて格好いいことはやらない。ヨタヨタに飲んで、最後はスナックで歌って締める。これが藤伊グループのやり方だった。

営業としての伝説も凄まじかった。クレームで謝りに行っているのに新しい製品のプレゼンを始めたり、3億円の売り掛け金を回収し損ねたり、破天荒な男であった。

しかしその反面、非常に頭が切れ、営業成績は常にトップクラスであった。部下からの信頼もあったが、その破天荒なやり方から一部の上層部とは馬が合わず、数年前に営業部から製造部へ移ったのだ。

「まぁついつい遊んでまう気持ちも分かるわ」

と言って禁煙の食堂で煙草を吸う。

「ええ、ええ。工場長もお元気そうで何よりです。最近ラッパの方はいかがですか?」

「アホ、ラッパちゃうわ! トランペットや! しかしよう聞いてくれた。この前実は地域のオーケストラでコンサートをしたんや」

藤伊工場長はずっと前から趣味でトランペットを吹いている。時々コンサートにも出演して、その動画を見せてくるのだ。俺はトランペットのことはよく分からないが、工場長の演奏にはどこか好感が持てる。

「これや。見てみい」

と言って携帯で動画を見せてきた。画面の中でオーケストラが演奏している。その中に工場長もいた。どこにいても目立つのだ。正直上手いのか下手なのか分からないが、何となく心地良かった。

「何となく心地良いですね」

俺はいたって正直に感想を言った。

「せやろ。せやろ。芸術や思わんか? その何となく、が芸術やねん。分かるか?」

「分かります」

本当は半分くらいしか分かってなかったが、言いたいことは伝わった。芸術っていうものは難しいように見えて簡単なもののようにも思える。だってそれは街中の色々なところに隠れているのだから。すれ違った特急列車の向こうにも、何気なくカメラを向けた夕景にも、会って15分でのセッションにも。芸術はコソっとその背後に隠れている。

かつて俺は「夜の歌」という短編小説を書いた。その短編小説で俺はこう述べている。

「芸術について思うことは、それはあくまで一瞬の出来事であり、継続的に続くものではないという事だ。明日の朝になったらそれは夜が見せる高揚感のように、裏口からすっと消えてしまう」

小説のストーリー自体は今思えば稚拙であったが、この表現についてはなかなか良く書けたと思う。芸術に対しての俺の思いが強く出ている。俺はいつもそのような一瞬のキラキラを、まるで桶の中で逃げ回る金魚を掬うように集めて、細々と小説を書いているのだ。そろそろ止そう。中途半端な表現者の思想ほど格好悪いものはない。見たまえ、だから俺は格好悪いのだ。

ただ、俺の良いところは中途半端で終わりたくないと強く思っているところだ。歌が上手いと囃し立てられカラオケでバラードを熱唱する馬鹿とは違う。そういう自分は何だか好きだ。


「おい。この動画、送ってやろうか?」

「えっ?」

「いや、オーケストラの動画」

「あっ、はい。じゃあ。寝る前に聴きます」

「よし。それでなんやけどな。代わりといったらナンなんやけど……」

この流れ。もしや、来たか。

「何ですか?」

「うん、ちょっとな。金貸してほしいねん」

俺は鼻で笑って有り金を全部机に置いた。¥2,830。ATMで引き下ろした金額からここまでの交通費と駅前で食べた立ち食いうどんの金額を引いた額だ。

「これで有り金全部です。工場長、完全にお願いする相手を間違えてますよ」

「むむぅ。お前、一応売れてる作家なんやからもっと持っとけよ……今夜駅前のスナックにツケてる分を一部でも返さなあかんねん。呼び出されとってな。2千円だけでも貸してくれんか?」

2千円貸すと残金¥830か。ギリギリ帰れるかどうか怪しい。しかし、あまり寝ていなかったしチマチマした計算をするのが面倒くさかった。

「いいですよ。きっと返してくださいね」

「おお! ありがとう! ツケの一時金、2千円で許してくれるかな……」

「もうこれ以上はありませんよ。ツケ、幾らあるんですか?」

「12万円」

「……」


その後、俺は工場長と作業場へ行き、検品作業用の椅子に座り動き続ける機械達をぼーっと眺めていた。

高速プリンターは物凄い速さで上質55の紙を巻き上げて暴力的な勢いで墨文字を印字していた。隣の封入機では機械的にか細いアームが巻き三つ折り済の封入物をレールに乗せており、それらは順番にお行儀よく定型封筒へホールインワンしていく。愛おしくなるくらい安定したペースで作業は進む。

機械の作業音が正確なリズムを刻んでいた。その音はメトロノームより正確で電子音より機械的だった。眠くなりそうだとも思ったが、眠気は全然やって来なかった。隣を盗み見ると工場長も虚ろな目で流れていく製品達をジッと見つめていた。

作業は何も機械だけが行っている訳ではない。1台1台に数人にオペレーターが付いて常に機械を調整しながら作業を進めているのだ。彼らは皆、緑の制服を着てそれぞれ紙のテンションを確かめたり封入物の補充をしたりしていた。作業音のリズムを聞きながら彼らを見ていると、だんだん彼ら自身も機械なような気がしてくる。それだけ彼らの動きは正確で無駄がないのだ。無駄なことしかしない俺とはえらい違いだ。


3時間くらい経っただろうか。急に工場長が立ち上がり言う。

「そろそろズラかるか」

結局今日は1秒も仕事をしなかった。


工場長はもう少し事務処理をしてからスナックへ行くとのことだった。俺は金も無いしもう帰ろうと思い、事務所の前の廊下で別れることにした。

「悪かったな。急に呼びつけて」

「いや、全然いいですよ。いつでも呼んでください」

ちょっとバツが悪そうに工場長が目を伏せて言う。

「なぁ、お前も一緒に行かんか? あの、駅前のスナック。どや?」

「嫌です」

俺はノータイムで答えた。引き際を見誤ってはいけない。ビジネスマンの基本である。



工場から外に出ると、辺りはもう夕方だった。こうしてまた1日が終わるのか、なんて思って駅までの道をとぼとぼと歩いていると、後ろから唐突にゴツいクラクションを鳴らされた。驚いて振り返ると銀色のバンが俺を照らしている。

「おーい! 乗りや」

見ると、うちの会社の専属ドライバーの小谷さんだ。

「びっくりしましたよ。お疲れ様です」

「おう。とりあえず乗りや」

小谷さんは一見すると下っ端のヤクザのようで、濃いサングラスをかけた強面の男だ。ゴツい身体付きで、アッパーカットを決め込んでいる。初対面で街中で会うなら、無条件で道を譲りたくなるような男だが、根は優しく何かと俺を贔屓してくれていた。

「ありがとうございます。助かりました」

「いや捕まえられて良かった。工場長にさっき帰った言われて慌てて追いかけてきてん」

「? 何かあったんですか?」

「うん、あんな、久々にちょっと三ツ星に挨拶行きたい思ってな。どや? 行かへんか?」

三ツ星とは木屋町にあるホテヘルのことだ。小谷さんと俺はそこの常連なのである。特に小谷さんは無類の風俗好きで、三ツ星を始めとして木屋町、雄琴、太融寺と様々な風俗スポットに沢山の行きつけを持っている。

「三ツ星ですか……たまにはいいですねぇ」

「やろ? ほな行こや」

小谷さんは前に一度、三ツ星の女の子に手を出したことがバレて、店から厳重注意を受けているのだ。だから何となく1人で行きにくいため俺を誘うのだ。気持ちは分かる。

「うん、ただ一つ問題が……」

「なんや?」

「830円しか持ってないです」

問題はいつも分かりやすい形ですぐ側にある。

「お前なぁ……うーん、しゃあない今日のところは出しといたるわ。やから行こう」

「是非、行きましょう」

俺も風俗は大好きだ。金が何とかなるならば俺を引き止めるものは何もない。三ツ星か、いつ振りだろうか。もう半年近くは行ってないかもしれない。と言うことはもう半年もあいつに会っていないのか。


「よし、決まりや! ほな行くで!」

小谷さんがくるくるとハンドルをまわす。車は駅とは反対方向を向いて加速していく。ビルの間から夕焼けが少し見えた。その色は忘れかけていた情熱の色と何処か似ていた。

下腹部にピンク色の妄想が入り込んでくる。俺はそれをぐっと堪えて窓の外を流れる景色を眺める。カーラジオからはライムスターが流れていた。小谷さんがそれに合わせて鼻歌を歌う。

直に夕日は沈む。だか心配するな。朝になったら太陽はまた昇るのだ。今日やらなかったことは明日やればいい。もちろんその気があればの話だが。

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