第5話

ユイと付き合い始めて1年近く経った頃でも、俺は相変わらずリカとも頻繁に連絡をとっていた。

変わらず学校のこと、友達のこと、テレビのこと、音楽のこと等の取り留めもない話をして、ユイの話は一度も出なかった。ユイに対して後ろめたさがなかったと言えば嘘になる。恋に対して初心者だった俺でも、流石にこれが普通ではないことくらいは分かっていた。

ユイが真っ直ぐに向き合ってくれていることが尚更俺の胸を抉った。しかし一方でリカへの想いだけはどうしても止められなかった。リカが他の誰かのものになるなんて絶対に嫌だった。このままずっと側にいてくれればそれでいいと思っていた。何年後も何十年後も同じように電話を掛け合って、他愛のない話をしていたかった。リカに対しての想いはセックスとは程遠い存在だった。しかしそれは疑いようもなく恋だった。

「リカとはどんな関係なの?」

珍しく部活のない土曜日の昼下がり、俺の小さなベッドの上、俺達は裸だった。この一言を口にするまでにユイの中でどれだけの葛藤があったのだろうか。

「友達だよ」

俺はそうとしか言えなかった。リカとの関係をユイに説明することなんて俺にはできなかった。

「毎晩電話してるんでしょ?」

「……うん、中学の頃からだよ」

「何でなの? 私じゃ駄目なの?」

「そういう問題じゃないんだよ」

「よく分からない」

「……」

「好きなんでしょ?」


俺は何も言えなかった。言える訳がなかったのだ。ユイと別れたのはそれから3週間後だった。悪いのはどう考えても俺だ。全部分かっている。恋は非常に微妙なバランスで成り立っている。まるで針の上の弥次郎兵衛のように。だから崩れるのも一瞬だ。

ユイのことは暫く尾を引いた。

リカのことが原因で別れたことは一目瞭然だったし、誰が見ても俺が悪者だった。ユイの所属していた部活の同級生からは総スカンをくらい、その一方で陰ではいろいろなことを言われた(ユイ自身は何も言わなかったようだが。周りがいろいろな想像をしたらしい)俺の胸も傷んでいた。今までになかったくらいユイの不在は堪えた。

付き合い始めた時と同様に、俺とユイが別れたことについてもリカはほとんど触れなかった。そして俺達は何もなかったかのように連絡を取り続けていた。いろいろなことがあったが俺はやっぱりリカのことが好きだったのだ。

そうこうしているうちに俺達も受験を意識しなければならない時期に差し掛かっていた。俺はその頃から優柔不断な性格で、進路という分かれ道を前にして「ふーむ」と欠伸をして迷っていた。でも迷うのも無理がなかった。俺には別にやりたいことなんてなかったし、なりたいものもなかったのだから。そうこうしているうちに部活も引退してしまった。そこに待っていたのは真っ白な日々だった。

一方でリカは早々に進路を決め、受験勉強を進めていた。中学の頃から話には聞いていたが、リカはずっと獣医になりたかったのだ。大学ではそのような分野に進むつもりらしい。

「リカならきっと受かるよ。元々、頭いいもんな。定期試験の成績だってだいたい学年トップ10には入ってるし」

「いやいや、凄く難しい分野なのよ。周りのレベルも高いの。現時点で模試の結果だけ見ると第一志望はなかなか厳しいわ」

「へぇ。リカでも難しいんだ。1日何時間勉強してるの?」

「だいたい10時間くらいかな」

「嘘だろ?」

「嘘じゃないよ。それくらいやらないと駄目なのよ」

リカは本当に頑張っていた。だから俺も何となく電話をかけるのが申し訳なくなり、夏を過ぎる頃には全く連絡を取らなくなっていた。

そんな日々の中で、俺にもだんだん大学に行きたいという気持ちが芽生え始めていた。と言うより周りに遅れをとって浪人生になることが急に怖くなったのだ。目標を持って浪人をするのならば良いが、俺は間違いなく自堕落な日々を送るだろう。そうなったらもう終わりだ。

目標は高く、関西4大私立の一角を志望校に掲げた。担任には冷めた目で見られ、友達からも無帽な挑戦を笑われた。なんせ俺は調子が悪ければ学年の中でワースト10に入るくらいの成績だったのだ。

机に向かう日々の中で、前にリカが毎日10時間勉強していると話していたことを思い出した。リカが10時間も勉強しなければならないなら、俺は一体何時間やればいいのだ? 無い頭が痛む。とりあえず俺は1日12時間を目標に机に向かった。最初のうちは苦痛であったが、続けていく内に不思議と身体が慣れてきた。多い日には1日に13時間以上机に向かった日もある。こんなに何かに集中をしたのは長い人生の中でもこの時くらいである。

そこからの半年は孤独だった。まるでゴールのないマラソンを走っているようだった。

起きたら走って夜になったら寝る。そしてまた起きたら走っての繰り返しだ。一人で机に向かっていると不意にいろいろなことを思い出してしまう時がある。自分すら忘れていた遠い日の記憶。誰かに聞いてもらおうとも思ったが、俺は誰にもそれを話さなかった。

ユイのこともよく思い出した。それはだいたいいつも夜中にやってきて、小さな針となって俺の心の弱い部分をチクチクと刺した。そしてリカに会いたかった。

センター試験が終わった後、久しぶりにリカと電話をした。

「駄目だった。変に緊張しちゃって思うように解けなかったわ」

久しぶりに聞くリカの声は明らかに疲れていた。

「あんまり無理するなよ。身体壊したら元も子もないよ」

「でもここで無理しないと受からないのよ? 仕方ないじゃない」

「そりゃそうかもしれないけど……」

何だか歯切れの悪い電話だった。それから受験が終わるまでまた暫くリカと連絡は取らなかった。


驚くことに俺は無帽と思われた第一志望の大学に見事に合格した。この時ばかりは担任も親も、俺を見る目が変わった。俺自身はなんだかドッと疲れが出て喜ぶ気力もなかった。リカは第一志望の大学を諦め、滑り止めにしていた東京にある大学への進学を決めた。俺はそれを人伝で聞いた。


卒業式の空は青かった。やはり卒業式はこうでなければいけない。湿っぽい雨なんかだとそれだけで気分が滅入る。みんな思い思いの友達と写真を撮って思い出を刻む。泣いている子達もいる。こういう時、男は不器用だ。泣くことなんてできないから無駄にはしゃいでみせるが、その笑顔もどこかぎこちない。

写真撮影も少し落ち着いた頃、後ろから声を掛けられた。ユイだった。

「せっかくだから写真撮ろうよ」

「うん」

ユイと話をするのは1年半ぶりだった。別れて以来一度も話をしたことがなかったのだ。

「いろいろあったけど、何だかんだあなたと出会えて良かったわ」

2人で写真を撮った別れ際、ユイは少しはにかんだ笑顔で言った。

「うん、ありがとう。俺もそう思ってるよ」

そう言って別れた。ユイとは卒業してからもちょくちょく連絡を取っていた。今は東京で司法試験の勉強をしているらしい。


卒業式の日、結局リカとは話ができなかった。もともとクラスも違ったし、何だかんだばたばたしてしまった。帰り際、人いきれの中でリカの姿を遠くに見た。俺が手を振ったらリカも気付いて手を振り返した。久しぶりに見たリカは少し痩せていた。でも元気そうだった。


卒業式が終わり大学が始まるまでの少しの間、俺は入学式用のスーツを買ったり、最寄り駅でのアルバイトを探したりと、着々と来るべき大学生活の準備を整えていた。

リカのことはずっと気になっていた。当たり前だが、東京の大学へ進学するということは東京へ行くということだ。東京と大阪、簡単に会える距離ではない。

そんなある日、部屋の片付けをしていると、教科書の間からリカと撮った写真が出てきた。日付を見ると高2の秋頃だった。2人でできたばかりの大型ショッピングモールに映画を見に行った時の写真だ。

写真の中には屈託のない笑顔の2人がいた。何だか分からないが無性に泣きだしそうになった。たまらなく愛おしかった。

俺の中で何かが音を立てて弾ける。それは搾りたてのグレープフルーツジュースのように甘くて酸っぱい何かになって心の中から溢れ出した。

そして俺は久しぶりにリカに電話をかけた。リカは留守番電話に繋がるかどうかのところで電話に出た。

「もしもし? 久しぶり」

「うん、久しぶり」

声が聞けてとりあえず安心した。

「どうしたの?」

「いや、どうしてるかなって。リカ、今日会える?」

「うーん、実は今日から東京に行くんだ」

「今日から? 教えてくれればいいのに」

「何となく、気を遣うかなって思って。なかなか連絡できなかった。ゴメンね」

優等生だったリカは第一志望に合格できなかった。そして劣等生だった俺が第一志望に合格した。追いかけたレベルは違えど思うところは確かにあった。

「今どこにいるの?」

「音、聞こえるかな? 今、新幹線のホームなの。予約した新幹線を待ってるのよ。後30分で来る」

「ちょっと待てよ。ちょっと待て。30分でそっちに行く。だからちょっと待ってて」

リカの返事を聞く前に俺は春物の上着を羽織り家を飛び出した。買ったばかりの原付に跨り新大阪の駅を目指した。原付は機嫌のいいエンジン音を吐き出しアスファルトの上を転がる。

春の風はまだまだ寒く、俺の春物の上着は圧倒的に無力だった。身体はすぐに冷たくなったが、心はもっと冷たかった。

リカがいなくなる。

怖かった。こうなることはずっと分かっていたはずだ。いつも問題を先延ばしにしてしまう。俺の悪い癖だ。国道を真っ直ぐに走りながらホームで新幹線を待つリカの姿を思い浮かべた。寂しそうな瞳でスーツケースを抱くリカ。そしてリカとした何百という話を思い浮かべた。それらは変わらず輝いていたが俺の身体を温めてはくれなかった。

大急ぎで来たが、新大阪に着いた時にはもう既に50分が経過していた。原付は思ったよりも遅かった。買いたてだったので分からなかったのだ。慌ててホームへ走る。

エスカレーターを上り切った時、ホームから新幹線がすり抜けていくのが見えた。


リカ!


そこにはもうリカの姿はなかった。俺は愕然とした気持ちで荒れた呼吸を整えた。

間に合わなかった。行ってしまったのだ。なんでいつもこうなんだ。俺はいつも後になってから大事なことに気づく。そしてその時にはもう既に全てが終わってしまっているのだ。


「遅いよ」

聞き覚えのある声に弾かれて振り向くと、そこにリカがいた。大きなリュックを背中に背負って、見慣れない口紅をしていた。その口紅は妙に色っぽかった。そこにいるのはもう中1の教室で俺の前の席にいた小さな女の子ではなかった。立派な1人の女性だった。

「リカ」

「うん」

「ずっと好きだった。多分初めて会った時から」

「知ってるよ。あなたのことは大体知ってるから」

「うん」

「それであなたも私のことは大体分かってるんじゃないの?」

「うん、分かるよ」

「私も好きよ。ずっと好きだったの」

「うん」

俺はリカの唇から目が離せなかった。今すぐキスしたいくらいだった。

「いつも遅くてゴメンな」

「ほんとだよ」

リカが優しく微笑む。まるで全てを許すように。

「元気でな。絶対に忘れないよ」

「うん、私も忘れない」


俺たちはそれから15分くらいベンチに座り久しぶりに他愛のない話をした。そして次に来た新幹線でリカは東京へと旅立って行った。別れ際、リカの瞳は少しだけ潤んでいた。しかしそれは雫にはならない。

リカが行ってしまった後、俺はベンチに座って消えてしまった魂のことを考えた。リカとはそれから一度も会っていない。噂で聞くところによると今も東京にいて普通に働いているらしい。



と、以上が俺の儚い恋の思い出である。今思い出してもやはり胸がキュッとなる。しかしそれは悪いものではない。誰にだって1つくらい忘れられない恋があるだろう。

その後大学に入ってからは俺も人並みに汚れた。悪いことだってしてきたと思う。たくさんの女の子と知り合い、いろいろなタイプの恋があることを知った。俗っぽく言うと「酸いも甘いも知った」ということだ。そしてあんな甘い恋はもう無いと思った。

その結論が先ほど述べた「恋イコール、セックス」ということなのである。なんだかな。


つまり簡単に言うと、今夜、山村さんとやれそうな予感がビンビンとするのだ。そして俺は今、物凄く山村さんとやりたいと思っている。ごたごた言わず最初からそう言えばいいのに、と思っているそこの貴方。それじゃ俺はただの下衆ではないか。物事には順序というものがある。


「楽しいですねぇ。ちょっと飲み過ぎちゃいましたよ」

山村さんが頬を赤らめて笑う。

「そうだね。山村さん結構お酒飲めるんだね。ささ、もう一杯いこうか。すいませーん、芋のお湯割り2つくださーい」

時刻はもう22時である。すごくいい感じだ。俺も頬が少し赤くなってきた。冬の居酒屋の暖かさは好きだ。寒い街を通り抜け逃げるように飛び込み暖かい部屋でお酒を飲む。これ以上の冬の幸せがあるのだろうか。

「楽しい方なんですねぇ。私、前から一度お話したいなって思ってたんです。今日は本当に良かった」

「いやいやこちらこそ。俺も前から山村さんと話してみたいって思ってたよ」

何度も言って恐縮だが、すごくいい感じだ。

「あの、小説はいつ頃から書いていらしたんですか?」

「うーん、大学生の時からだから、ハタチくらいからかなぁ」

「私も昔、小説を書いてたんですよ」

「あっ、そうなの? どんな話を書いてたの?」

「主にファンタジーものを書いていました。今となっては恥ずかしいんですけど、当時はすごく自信があったんです。でもいろいろと応募したんですけど結局駄目でした」

「へぇ、ファンタジーものか。俺はそういうの書けないから羨ましいよ」

「いえいえ、でも自分の本を出すってどんな感じですか?」

「うーん、小説って結局は自分の内面露呈だからね。それを大々的に発表してる訳だからちょっと気恥ずかしくはあるよ。でもその反面、1人でも多くの人に読んでもらいたいとも思ってるよ。自分の生きた証でもあるからね」

俺はごくごく正直に答えた。

「そうなんですね。でも羨ましいです。私も結構真剣に小説家になりたかったから」

小説家なんて言われると背中が痒くなる。俺はただ単に文章を書くのが好きでたまたまそれが上手く評価されただけなのだ。

文章を書き続けていると段々と内向的になってくる。本当の自分なんてものは文章の中にしかいないような錯覚に陥るのだ。それに他人の小説を読むことも少なくなってしまった。いいものを読むと自信を失くしてしまうし、中途半端なものを読むと自分が書いた方がマシだ、なんて思ってしまう(あんなに好きだった村上春樹なんてもう何年も読んでいない。レベルが違いすぎて本当に自信を失くす)

ただ、俺は愛憎入り混じってはいるが自分の小説が好きだ。同じ様に俺の書いた小説を好いてくれる人がいることにも毎日感謝をしている。ありがたいことである。そしてイザという時、小説家という肩書きは意外とモテるのだ。


ここで俺は少し尿意を催した。

「ちょっとお手洗い」と言って席を立つ。結構な量を飲んだが頭は冷静だった。身体も思うように動く。ここまで何1つ手抜かりはない。

小便器に向かい排泄をしながら俺は今夜の寝床のことを考えた。大通りを反対車線へ少し入ったところに派手な寝床がある。すでにリサーチ済みだ。俺は寝床にある大きなベッドを思い浮かべた。枕元にあるたくさんのスイッチを思い浮かべた。泡立つ風呂と変な形の椅子を思い浮かべた。後少し、もう少しだ。そしてここからが勝負どころだ。


すっきりとした身体で席へ戻る。すると山村さんの様子が何やらおかしい。随分神妙な面持ちをしている。

「山村さん? どうしたの?」

「あの……」

「大丈夫?」

飲み過ぎて気持ち悪いのだと思った。実際、結構な量を飲んでいるのだ。しかも女の子はそういうことをはっきりと言いづらい。

「いえ……あの……」

と言って何やら鞄からガサゴソと出して来た。それは俺が以前書いた小説だった。

「あれ? これ?」

山村さんが強い視線でこっちを見る。その目は何かを決めた女の目だった。

「実は、旦那がファンなんです。サインいただいていいですか?」

ずっこーん。どこか古臭い効果音だが、本当にそんな感じだったのだ。俺は思いもよらぬ衝撃で倒れそうだった。

「う、うん。いいよ……」

「やったー!」

山村さんは本当に嬉しそうだった。鞄からサインペンを取り出して俺に差し出してくる。俺はヨッポドそいつで腹でも切りたい気持ちだったがぐっと堪えて差し出された本に自分の名前を書いた。今の俺、どんな顔をしてるんだろう? 目は点で鼻でも垂れてるんじゃないか? 間抜けだ。世界一間抜けだ。

「本当にありがとうございます」

「う、うん。全然いいよ。て言うか旦那さん……山村さん、結婚してたんだね」

「そうですよ。去年結婚したばかりです。ずっと前から旦那に頼まれてたんですけど、どうしても声が掛けれなくて。あー、本当に良かったです」

「あ、それは良かった。うん、良かった」

俺はもう茫然自失していた。俺の寝床が……俺の泡風呂が……。

その後、少しして店を出た。山村さんが丁寧に終電がもうすぐなことを教えてくれたのだ。女の子に支払いをさせる訳にもいかず、お会計は俺がした。手元には真新しい領収書と幾らかの小銭だけが残った。

「本当に楽しい夜でした。ありがとうございます」

山村さんが改札で手を振っている。少し赤い頬が可愛い。

「うん、こちらこそ。おやすみ」


山村さんを見送った後、俺は再び夜の街へ身を投げた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る