第4話

気が付いたら高槻の駅に着いていた。

俺は慌てて列車から降りたが、意外とドアは長く開いたままだった。さて、電車で仮眠を取ったお陰で頭はかなりスッキリしている。時刻は13時半、今から駅前の喫茶店で今日の提案資料を読み込む。後30分で山村さんが来てお客さんの所に行かなければならないのだ。

ホットコーヒーを頼み資料を開いてみる。分からない単語が幾つもならんで、マニアックなPRを繰り広げていた。営業なんて所詮、浅い知識しか持っていないのだ。

昔、隣の課の先輩営業マンがこんなことを言っていた。

「会社を作って商売をしようとするだろ? そんな時に何かできる奴は『俺は商品を開発するよ』『じゃ私はお金の管理をするわ』なんて自分の仕事をすぐに見つけられる。でもそんな中にも何もできねぇ奴がいるんだよ。そんな奴が『あのぅ、僕は何をすれば?』なんて言う。周りは自分の仕事があって忙しいから、うるせぇ! 何もやることがないならお客さんでも探してこい! なんて言われて外回りを始めるんだ。そのできない奴こそが営業の起源だよ。つまりは営業なんて持たざる奴がやる仕事なんだよ」

その時、我々は北新地にあるバーのカウンターにいた。彼はウイスキーのオンザロックを指でかき混ぜながらこんな話をしていた。俺は3杯目のテキーラハイボールを握りしめ、深く頷いた。非常に的を得た意見だと思う。

まぁ、時代が変わって営業という職種の捕まえ方も変わってきているとは思う。

学があるのに営業がやりたいという人も少なくはないはずだ。でも俺は自分のことを「持たざる奴」だと自覚している。学もない。文章を書くことは得意だが、営業の仕事ではそんなには使わない。詫状を書く時くらいだろう(使ってるじゃないか)でもそんな割り切りがあった方が仕事はスムーズに進むと思う。

そんな俺だが、仕事に対して良いところもある。それは物事をシンプルに考えられるところだ。と言うよりだいたいにしてみんな難しく考え過ぎているのだ。

全ての仕事には目的地がある。営業なんてもっとも分かりやすく、計画数字という形で目的地が印されている。じゃあ、そこにたどり着くにはどうすればいいか? 計画数字を達成するには売上を上げなければならない、売上を上げるためには仕事を受注しなければならない、仕事を受注するには提案をしなければならない、提案をするには訪問をしなければならない、訪問をするには行き先を決めなければならない、と道筋は自ずと見えてくる。

売りたい商品さえきまっていれば、商談なんて楽である。「計画数字を達成する」という目的地があり、その通過点に「売上を上げる」があり、その手前に「◯◯を売りたい」というポイントがある。こちらは「◯◯を売りたい」と言うポイントがはっきり見えているのだ、それを相手に伝えて納得させる。特に難しく考えることではない、だってこれはお客さんと俺とのただの「会話」なのだから。もちろん相手としては「いや、そんなんはいらないよ」という場合もある。となると今度はポイントを「□□を売りたい」に替えてみる。結果的に目的地にたどり着ければ道筋なんて幾らでも替えればいいのだ。神戸へ行くのに阪神電車で行くのか阪急電車で行くのかというのと同じだ。もちろん何で行くかによって混み具合や運賃は変わってくる。

有効な道筋と言うものもあるだろう。仕事も同じである。

できるできないは別にして、非常にシンプルなことだと思うのだが、どうもこれを複雑に考えてしまう人が多い。複雑に考え過ぎた挙句がんじがらめで動けない、なんて営業マンを俺はたくさん見てきた。

あと、たまにある営業マン研修みたいなものも良くない。大体にして偉そうな講師が当たり前の動作1つ1つに名前を付けて簡単なことを難しく説明する(あの偉そうな態度はおそらくマニュアルか何かで決まっているのだろう。みんな判を押したように同じような顔つきをしていやがる)

例えば「コーヒーを飲む」という動作を「腕を曲げる」「コップを持つ」「コップを持ち上げる」「コップに口を付ける」「飲む」と段階を分けて名前を付けているようなものだ。連中のやっていることはそういうことなのだ。そりゃ真面目な人間は立ち止まっていろいろ考えてしまう。

そういうとこに対して俺みたいな「持たざる奴」という人種は強いのかもしれない。複雑に考える頭もないのだし、何よりやるしかないのだから。


えーと、提案書である。分からない単語を調べて紐解いていったら何となく概要が見えてきた。まぁ細かい部分のフォローは山村さんがいるから大丈夫だろう。

14時過ぎに提案を開始して、普通に考えたら……まぁ15半には終わるな。しかしそれでは早い。ここから事務所まで約1時間強だ。直帰しようと思うと最低でも17時終了くらいまでは引き延ばさなければいけない。もちろん俺1人であれば何時だろうと勝手に帰る。でも真面目そうな山村さんと一緒に帰ろうと思うと、やはり17時終了が理想的だ。居酒屋が開くのもそれくらいの時間だ。そう、今夜は山村さんと楽しい夜を過ごすのだ。

俺はホットコーヒーを啜り綿密に営業プランを考えた。俺は馬鹿で学もないが、頭は悪くないのだ。少し経った頃に、改札から出てくる山村さんが見えた。時間を見ると丁度14時だ。俺も喫茶店を出る。

「お疲れ様」

なるべく優しい声で山村さんに話しかける。

「あっ、お疲れ様です。ぎりぎりですいません。待たせちゃいました?」

今日の山村さんはカラフルなスカートに黒のコートを重ねていた。そして、いつもの黒のロングヘアーに茶縁の眼鏡。あんな話を聞いた後なので不思議と意識してしまう。恋というものはそういうものだ。夜が楽しみでならない。

「いや、全然。喫茶店で資料に目を通したかったから早く来たんだ。丁度良かったよ」

さり気なくできる男をチラつかせる。こういうところが男の男たる愚かな部分である。

「良かったです。行きましょうか。お客さんのところはここから直ぐなんですか?」

「うん、すぐだよ。5分くらいかな」

俺達は並んで駅からの道を歩く。行き道、俺は今夜の店をリサーチしていた。途中、いくつかの居酒屋やカフェがあった。頭の中で整理する。何度も言うが、頭は悪くないのだ。馬鹿なのだ。

不意に冷たい風が山村さんの黒髪をすり抜ける。彼女は一瞬だけしかめっ面をした。彼女は一体今、どんなことを考えているんだろう? 一瞬だけ俺もそんなことを考えた。



商談は計画通り進んだ。俺は30分で身に付けた拙い知識と持ち合わせていたボキャブラリーを使って兎に角話しまくった。

自分で勢いよく話し、余熱をお客さんに、山村さんに振る。会話は盛り上がり、商談としてもなかなか上手くいった。思いもよらず金になる仕事になりそうだ。そこまでやる気があった訳ではなかったのだが、儲けものだ(ある意味ではやる気まんまんであったのだが)外に出ると既に日は暮れ、時刻は17時15分であった。


「お疲れ様。すっかり遅くなっちゃったね」

「そうですねー。よく喋られるんですね。普段事務所ではあまり話さないんでびっくりしましたよ」

「ん、まぁ。仕事やからね。でも話がまとまって良かった。ありがとう」

「いえいえ、私なんてほんのフォローだけだったんで」

「この時間だと事務所帰ったらだいぶ遅くなるなぁー。このまま帰ろうか? 話もまとまったし軽く飲みに行こう。奢るよ」

「えーっ、いいんですか? それじゃ軽く行きましょうか」

素敵な笑顔である。俺の笑顔はいやらしく見えていないだろうか? 見えていたとしても仕方ない。現実いやらしいのだから。全て計画通りである。できればこのまま寝床まで転がり込みたい。


行き道でリサーチした中の一軒に入る。魚が美味しそうな居酒屋だった。「2人で」と伝えるとカウンターへ通される。何かの雑誌で女の子を口説く時は正面より横並びの方が良いと読んだことがある。俺もカウンターの方が好きである。好都合だ。

山村さんがコートを脱ぐ。

「こっち、掛けようか?」

「あっ、すいません。じゃお願いします」

俺の黒いロングコートに山村さんの綺麗なコートを重ねて壁に掛ける。何だか急に親密な関係になれた気がした。

「こうやって飲むのは初めてだね」

「そうですね。むしろ今まであんまり話したことなかったですからね。だから本当のこと言うと今日はちょっと不安だったんですよ。2人で行くのに全然話が続かなかったらどうしようって。でもいらない心配でした」

山村さんはそう言ってまた素敵な笑みを浮かべる。

「そっか。俺事務所でそんなにムスっとしてる? あんまり話さないイメージかな?」

「うーん、いつも忙しそうですよね。怖い顔してデスクに向かっているか、せかせか早足で歩いてるってイメージです。小説の仕事もあるし忙しいんだろうなぁって思ってました」

「あー、そうか。うーん、まぁ確かに忙しいは忙しいかな」

そんな真面目な人間に見えているのならば良かった。本当は酔ってしんどいとか早く少年ジャンプを立ち読みに行きたいとかそんな感じなのに。でも意外な印象を抱いているところを見ると、これは本当にソータの言う通りなのかもしれない。

しかし小説で思い出した。来週末に締め切りの仕事を今日も何一つやれていない。嫌なことを思い出してしまった。こんな好機はなかなかないのだ。目の前の恋に集中しなくては。

運ばれてきた生ビールで乾杯をする。

「お疲れ様」

「お疲れ様です」

マグロユッケとたたきキュウリも追って運ばれてくる。美味そうだ。

「山村さんは休みの日は何してるの?」

「私は音楽聴いたり本を読んだりって感じですね。基本的にインドアなんですよ」

「へぇ。でも俺も休みの日って同じような感じだよ。どんな音楽が好きなの?」

「音楽はー……いろいろ聴きますけど、スキャンダルとか好きですねぇ」

「スキャンダルかぁ」

俺の弱いジャンルだ。しまった。

「後は、ラルクとかも好きです」

「あぁ、ラルクね。スマイルとかリアルはよく聴いたなぁ」

ラルクなら少し知っている。

「その頃のアルバムは私も好きです。アウェイクもよく聴きました。音楽はどんなのを聴くんですか?」

「そうだなー。一番好きなのはドナルド・フェイゲンかなぁ。後はフィッシュマンズとかRCとかも好きだね。ゆらゆら帝国とか」

「……あんまり分からないですねぇ」

「ちょっと古いかもなぁ。でもすごくいいよ。良かったら今度貸すよ」

「ありがとうございます! 私、人の勧めるものはどんどんチャレンジしていきたいと思ってるんです。そうしないと何だか独り善がりな人間になっていってしまいそうで」

「いい心がけだね。そういうのって大事やと思うよ。と、いう訳で俺にも今度スキャンダル貸してよ。実はあまり知らないんだ」

「はい、是非!」

いい子だ。本音で話せる子が一番なのだ。建前の会話なんて、するだけ時間の無駄なのである。そしていい感じだ。ひしひしとメイクラブの予感が顔を出し始めた。


この歳になるともう、いけるかいけないか、途中からだいたい分かってくる。

ここで言う、いける、いけないとは勿論セックスのことだ。いつ頃からだろうか? 俺は恋とはイコール、セックスだと考えるようになった。恋にはいろいろな手段や関係性が確かにある。でも括れば結局はセックスなのだ。そしてそれ以外は何もない。それだけを求めて人々は今日も街を、海を、インターネット上を、学校を、会社を彷徨い歩くのだ。丁度今の俺の様に。


そんな俺にも恥ずかしいくらい恋に夢中になった頃があった。

それは俺がまだ恋イコール、セックスなんて考えを持たず、恋は恋として孤立したどこか崇高な存在として考えていた頃だ。

俺は中学高校と中高一貫の私立学校に通っていた。宝塚にあるぼのぼのとした校風が売りの学校である(部活は厳しかったが)俺は親の仕事の都合で、中1の夏にこの学校へ転校してきた。

転校生というものが珍しかったのか、当時はちょっとした注目を集めた。他のクラスからわざわざ俺を見に来る奴もいた。当の俺は別に何も気にしていなかった。転校はもう3回目だったし、そういう扱いに慣れてしまっていたのだ。熱りがすぐ冷めることも知っていた。

俺の席は窓側の一番後ろ、教室の端だった。正方形だった席配置に一つ席が追加されたようなイメージである。俺が来るまで多分この席は存在しなかったはずだ。一つ前の席には女の子が座っていた。背が低くて可愛らしい女の子だ。転校して来たばかりの俺に転校以前のノートを見せてくれる優しい子だった。

それが俺の初恋の相手、リカだ。俺は産まれて初めて恋というものを知った。


リカと俺は直ぐに仲良くなった。席替えして席が離れても、学年が上がってクラスが別れても、何かと会って話をした。そして中3になった頃からは、買ったばかりの携帯電話で夜な夜な電話をしていた。

「今日、数学の授業でこんなことがあったのよ。ね、聞いてる?」

「聞いてるよ。あの先生、やっぱりどこかおかしいよな」

「ほんとそうよねぇ。あっ、もうこんな時間! 明日は朝から科学なのよ。だからもうそろそろ寝るね」

「うん、おやすみ」

「おやすみ」

他愛のない話は毎日続いた。今日俺がかけたら明日はリカが電話をかける、という感じだった。

俺は出会ってすぐの頃からリカのことが好きだった。ずっと好きだった。リカと話をしていたら幸せだった。リカとメールしていたら幸せだった。リカの顔が見れたら幸せだった。誰かに対してそんな気持ちになることは初めてだった。何を引き換えにしてもリカのことを失いたくなかった。

疑いようもない恋だった。

高校に上がって直ぐの頃、同じクラスだったユイと仲良くなった。ユイはリカとは間逆のタイプで強豪運動部に属する活発な女の子だった。ユイは毎日俺にメールをくれた。この頃、俺はリカとユイの二人共と毎日連絡を取っていたのだ。

ユイは良い子だった。そして何と無く流れで俺はユイと付き合うことになった。こういう言い方をすると勘違いをされるかもしれないが、俺はユイのこともちゃんと好きだった。大事にしたいと思っていたし、一緒にいると楽しかった。でもリカへの想いだけはどうしても消えなかった。

ユイと付き合いだしたことについて、リカはほとんど何も言わなかった。ユイとのことに触れたのはただ一度きりだった。

「ユイと付き合い出したらしいね」

「うん、ほんの一昨日からだよ」

「そう、良かったね」

これだけである。ユイと付き合い出してからも俺とリカは毎日連絡を取っていた。


初めてのセックスはユイとだった。俺達は俺の小さな部屋の小さなベッドで小さく細やかなセックスをした。

それはユイにとっても初めてのセックスだった。全てが終わった時、白いシーツの上にユイの赤い血が落ちているのを見た時、自分の中で初めて恋とセックスが繋がった。それまでそれらは俺の中で全く間逆の存在だった。純情と不純、白と黒、天国と地獄、聖書とエロ本、愛と裏切り、慈愛と嫌悪、前向きと後ろめたさ、そんな立ち位置だった。

ユイとのセックスはそれらの真ん中を見事に射抜いていた。それはとても素敵なことだった。俺は汗をかいた身体でユイを抱きしめた。ユイの柔肌をもの凄く愛おしく感じたことを今でも覚えている。


リカと俺の仲が良いことは周知の事実だった。そしてそれは当然悪い噂になり、ユイの耳にも届いた。当たり前のことだ。

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