第3話

外に出ると少し雨が降っていた。俺は仕方なく鞄に忍ばせていた折り畳み傘を開いて堺筋線の駅を目指した。折り畳み傘は持ち運びに便利だが開くのが面倒くさい。さて、ラーメンだ。

平成大阪商人の間に「全ての道は天六へ通ず」という言葉がある。

ここで言う天六とは天神橋筋六丁目駅のことを指す。天六は大阪のキタ側にあり、地下鉄堺筋線、谷町線、阪急京都線の3つの線が交錯する駅である。天六の魅力は何と言ってもその飲食店のレパートリーの多さにある。流石は下町経済のど真ん中にあるだけあり、ランチも安く、またラーメン屋も多い。ほとんど激戦区と言っても過言じゃないだろう。そんな天六の魅力に惹きつけられ、毎日多くの大阪商人達がふらふらと天六へ足を運ぶ。俺もその1人である。

天六に着いたところで思い付きで後輩のソータに連絡してみる。

「もしもし」

ソータは直ぐに電話に出た。

「お疲れ様。ソータ今どこにいるの?」

「今ですか? 今は群衆で並んでるところですよ」

群衆は天六にあるソータのお気に入りのラーメン屋だ。どろどろの濃厚魚介スープが売りで、確かに美味い。タイミングによるが、凄く並んでいる時もある。そして思った通りだ。あの野郎やっぱり天六にいやがった。

「合流しようよ。群衆、結構並んでる?」

「そうですねぇ。後30分は入れなさそうです」

「結構並んでるなぁ。じゃもう諦めて天一(天下一品)行こうよ」

「えぇー。うーん、まぁそうしましょうか」

「了解。じゃそっちに迎えに行くよ」

「了解でーす」


裏通りに入り群衆の前まで行くと、店の前には15人はいるだろう長蛇の列ができていた。これはタイミングが悪かったな。混んでいる時の群衆だ。その列の後ろから3番目にソータがいた。

俺に気づくと奴はすっと列を抜け出した。1つ後ろの兄ちゃんが嬉しそうな顔をしてやがる。俺たちは裏通りを抜け大通りへ歩いていく。

「今日はあかん日やったな。あの列見てよく並ぶ気になったな」

「いやー、昨日結構飲んでしまって。身体がどうしても群衆を求めてたんですよ」

まぁやっていることについては俺と大した差はない。

ソータは俺より4、5歳年下の営業の後輩だ。がっしりとした長身の上になんとも言えないぼやっとした面を乗せた、まだまだ若い20代のフレッシュマンである。

中高時代、奴は頭を丸め、剣道に打ち込んでいた。女の子になんて目もくれず武道一筋な青春時代。腕前も中々のものだったらしい。高校を出ると奴は大阪にある国立大学へストレートで進学した。頭も悪くなかったのだ。そこから奴の急激な路線変更が始まった。大学に入学したての奴の心を掴んだのは他でもない「メタリカ」だった。大学で知り合った友人の1人に「これ、いいよ」と言われ何気なく借りた「メタル・マスター」が奴の生きる道を決めた。武道一筋で音楽なんて街で流れる浜崎あゆみを遠巻きに聴いていたくらいの奴に「メタル・マスター」は刺激が強すぎたのだ。それから奴はありとあらゆる中古メタルCDを買い漁り、ヘビィメタル専門の軽音サークルの門を叩いた。丸めていた頭髪は彼の情熱と比例して長くなり、全盛期には腰まで届いた。

奴が軽音サークルで結成したバンドは今でも定期的に活動している。2、3カ月に一度はライブを行い、合間にレコーディングも行っている。奴のパートはギターだ。

俺は先輩の好で何曲か奴のバンドに歌詞を提供した。彼等の作るヘビィな曲に俺の書いた甘美な歌詞が乗っかる。

それらは真っ赤な激辛カレーにぐつぐつ煮込んだ甘いおでんをトッピングするような、矛盾と攻撃性、そして少しの魅惑を抱えたアンバランスな芸術となっている。そもそも俺はヘビィメタルに対してあまり知識がない。歌詞を読んだこともほとんどない。それを承知で作詞を依頼してくる方がクレイジーなのだ。

しかしその様なアンバランスな芸術が俺は嫌いではない。固定概念なんてものはどんどん壊していけばいいのだ。その方が人生は何倍も楽しい。

大通りを少し行くとお目当の天一が見えてきた。思えば朝から何も食べていない。時刻は12時を回っている。こちらは群衆とは違い、いつも並ばずにすぐ入れる。

「いらっしゃいませー」

店員さんの元気な声が店内に響く。俺はそんな店員さんにニッコリとピースサインを送る。もちろん2人という意味だ。もう酒はちゃんと抜けている。

「天津飯セット、こってり、レギュラー麺で」

俺はメニューを開かずクールに注文する。これが俺のフェイバリットなのだ。

「あー、じゃ俺もそれで」

ソータも便乗する。俺は営業の仕事を始めてからありとあらゆる場所へ行き、ありとあらゆるラーメンを食べてきた。その中には良いものもあったし悪いものもあった(結局は音楽と同じなのだ)濃厚なスープ、アッサリなスープ、太い麺、細い麺、石焼、奇抜なトッピング、大盛り、小盛り、魚介、鶏ガラ、家系、中華麺、カップラーメン、どれもそれぞれに良さがある。俺はその中でも天一のこってりはトップクラスのクオリティだと思う。そして自称、天六一の天津飯好きの俺にとってこの天津飯セットはまさにフェイバリット+フェイバリットの奇跡のダブルスなのだ。


「で、最近バンドはどんな感じなの?」

「お! よくぞ聞いてくれました! ついこの前、来月京都でライブをやることが決まったんですよ。これ、チケットです。良かったら是非」

ソータは俺にライブのチケットを2枚くれた。チケットには何だか怖い顔をした男が印刷されていた。よく見るとソータだった。

「ありがとう。きっと行くよ。じゃ最近はライブに向けて練習してるの?」

「そうですね。でもやっぱりみんな働いてるんでなかなか日程が合わなくて……今から本格的に詰めていく感じですね」

「そっか。大変だね」

俺は何回かソータのバンドの練習を見学したことがある。みんな高い演奏技術を持っており、同じメンバーで長くやっているため息も合っている。いいバンドなのだ。バンドには不思議な迫力がある。特にライブではそれが如実に表れる。それぞれの楽器を鳴らしているだけならば何てことないのに、それが重なると一気に音は深みを増し、聴くものを惹きつける。これは一種のマジックだ。

しかし、もちろんただ音を重ねればいいわけではない。それは綿密な計算があってこそのマジックなのだ。それだけにバンドというものは難しい。

恥ずかしながら俺もかつて、一度バンドを組んだことがある。


あれは大学4回生の時だ。周りが就職活動真っ只中の頃、俺は例によってふらふらとした生活を送っていた。

昼は眠って体力を蓄え、夜から雀荘へ繰り出す、麻雀の勝ち分と親からの細やかな仕送りでなんとか食い繋いでいるような毎日だった。

ある日、俺はゼミの教授の勧めでとある就活セミナーに参加することになった。いつになってもなかなか就職活動を始めない俺を教授も見兼ねていたのだ。

着慣れないスーツを着てセミナー会場へ行くと、そこには目をギラギラさせた意識の高そうな就活生ばかりが集まっていた(思えばこの頃から意識高い系という民族が嫌いだった)みんなして胡散臭そうな講師の言葉を必死で高そうなシステム手帳に書き込んでいやがる。俺はそんな連中が気に食わず、結局セミナーが終わるまで鉛筆一つ机に出さなかった。

ほとんどのセミナーがそうであるように、講師の話は最低限の常識をスパイスとした根性論だった(だから結局、メモを取ろうが取らまいが、大事なのはそれをやるかどうかなのだ)だが、そんな中でも一つだけ俺の心を打った言葉があった。それは実にシンプルな、

「自分のやりたいことをやりなさい」

と言う言葉だった。それを聞いた時俺は「あっ、バンドやろう」と思ったのだった。


音楽は昔から好きだった。俺は邦洋問わず様々な音楽を聴いていた。相対性理論にドゥービー・ブラザーズ、ズットズレテルズにシカゴ、キャロルキングにブランキージェットシティ。同世代の中では知識もある方だったと思う。誰かとバンドを組むことはなかったが、暇さえあればずっと家に転がっていた親父のギターを弾いていた。

何故「音楽」だったのだろう。あの頃、俺はもう小説を書き始めており、一部ではそれなりの評価も受けていた。でもあの胡散臭そうな講師の話を聞いた時、俺の頭に浮かんだのは「音楽」だった。バンドだったのだ。

バンドをやると決めた時に真っ先にメンバーとして頭によぎったのは後輩の赤井であった。

赤井は背が高く痩せていて、ぱっと見た感じバレーボールでもやっていそうなのだが、実際はスポーツはからきし駄目で麻雀だけが取り柄の男だった。そんな奴だが、趣味でずっとベースをやっていた。奴も俺と同じで誰かとバンドを組むでもなく、暇さえあれば自室で1人黙々と弾いているようなアングラ野郎だった(意外とそういう奴は多いのかもしれない)

昼下がりの大学のカフェテラス、俺は少し緊張した面持ちで赤井を誘ったが、

「あぁ、いいですよ」

と恐ろしくライトな返事が返ってきた。拍子抜けしたがとりあえず嬉しかった。

「後1人はメンバーが欲しいなぁ。赤井、誰か心当たりある?」

「うーん、あっ、シロさんなんてどうですか?」

シロは俺と同級生の男だった。ゲームと漫画が好きで、二十歳を超えてもまったく女っ気がなく、授業以外はだいたい自宅に閉じこもっている、簡単に言うとアングラ野郎である。そして俺の親友だ。

「えー、あいつ楽器なんてできんの?」

「なんか先月、通販でウクレレを買ってましたよ」

「ウクレレ?」

「そう、ウクレレ」

「なんでまたウクレレ?」

「いや、分からないです」

俺達はその足でシロの一人暮らしの家を訪ねた。すると確かに新品のウクレレが部屋の壁に立てかけてあった。

「シロ、ウクレレ弾けるようになった?」

「うん、ちょっとだけやけどね」

「シロさ、俺と赤井でバンド組むことにしたんだけど、シロも一緒にやらない?」

「いいね。やるやる」

こうして、ギター、ベース、ウクレレという異色バンドが結成された。


俺達のファーストセッションはそれから3日後、赤井の実家で行われることになった。赤井の家は大阪の大正で自営業をしており、広々とした車庫がある。夜まで会社の車は帰ってこないので、昼間はガランとした空きスペースになっているのだ。都合のいいことにシャッターを締めると音も漏れない。

大正の川沿いをシロと歩いて赤井の実家を目指す。奴の肩にはウクレレ、俺の肩にはギターがそれぞれ掛けられていた。

俺は浮足立っていた。これから行うセッションで俺の人生が決まるかもしれない。そうだ、俺はやりたいことをやるのだ。就活なんてしている場合ではない。きっと俺達の音楽を待っている奴がいるはずだ。そんなことを考えていた。


「いらっしゃい。待ってましたよ」

赤井の実家は大きくて立派だ。何回か来たことがあるがいつも感心する。早速車庫へ案内されると壁に青いベースが立てかけられていた。テンションがぶち上がる。

「いいね、いいね。早速やろうか」

シロの奴もようやくテンションが上がってきた。そこで赤井が長身にベースを引っ掛けて言う。

「ところで、何の曲やります?」

「え?」

「いや、曲……」

「そりゃ3人なんだからハイスタとかじゃないの?」

と、俺。

「えーっ、ハイスタなんて俺全然知らないですよ」

と、赤井。

「えっ、じゃあモンパチとか? それかグリーン・デイ?」

「いやいや、そういうパンクじゃなくてもっとオシャレな感じでいきましょうよ。フリッパーズとかピチカート・ファイヴみたいな」

俺はその時、初めて赤井がガチガチの渋谷系好きなことを知った。

「俺は逆に渋谷系は弾けないなぁ。シロは?」

「俺は辻あやのしか弾けないよ。一曲だけやけどね」

「……」

明らかな方向性の違いだ。早くも俺達は壁にぶつかった。少しの間気まずい沈黙が車庫を支配した。仕方がないので俺は力いっぱいギターをかき鳴らして叫んだ。

「もういいよ! 方向性やジャンルなんて関係ない! 俺達の今ある音楽を鳴らそうぜ! 俺はパンク、赤井は渋谷系、シロは……辻あやの! 交わったことすらないこの3つが混ざりあったらきっと芸術になる。いくぞっ!」

俺はステイゴールドのリフを演る。そして叫ぶ。赤井も負けじと何か弾いてる。何のフレーズか分からなかったが、ダーバダダバダバーなんて歌ってやがるからおそらく恋とマシンガンなんだろう。恋とマシンガンのベースラインを俺はよく知らない。シロの奴も何か歌ってる。これは黄金の月か。シロ、それはスガシカオの曲だよ。辻あやのはカバーしてただけだよ。必死で弾いているが、ウクレレはまったく聴こえない。

何曲かやったところで赤井が「一旦止めません?」と驚くほど低いテンションで呟いた。

俺はその目を見た瞬間、「あ、これはだめだな」と思った。その後、誰が言うでもなく楽器を片付け、3人で赤井の部屋でシャーマンキングを読んで帰った。結局シロのウクレレの音色は一度も聴けなかった。

その後、俺は何となく就活を始めて、何となく今の会社に入った。バンドはあれ以来組んでいない。

この経験で俺が学んだことは「若さとは情熱。ただし、その熱の向かう方向性が正しいとは限らない。ハイスタのリフに乗る恋とマシンガンの歌詞のように、夜空に光る黄金の月のように」ということだ。「ウクレレの音は小さい」と言うのも1つの学びであった。



「天津飯セット2丁お待ちぃ!」

所は戻り、現在の天六。俺達はやっとラーメンにありついた。熱々の濃厚こってりスープを胃に流し込み、麺の歯応えを確かめる。やはり飲んだ次の日の天一は最高だ。そして天津飯。こちらも良い。ドロっとしたあんと卵を堪能する。

「天一、やっぱ美味いですね」

ソータの奴もやっと落ち着いた様子だった。

「うん、ソータ、昼からどこ行くの?」

「僕は昼からは吹田です。約束は14時なんで余裕で間に合いますよ」

吹田にソータの根幹得意先がある。午前中は使い物にならないことが多いが、一応俺達も昼からはちゃんと働く。

「そうかー、俺は14時に高槻だよ」

「高槻? そんなとこにお客さんありましたっけ?」

「いや新規なんだよ。この前飛び込みで行って、今日は2回目の訪問なんよ。営業企画の山村さんと行く」

うちの会社の営業は基本的には1人で外回りをしているのだが、特別な商品を売り込む時には専門知識を持った営業企画の人間と同行してお客さんに行くことがある。今日がまさにそのタイミングで、俺は予め営業企画に同行をお願いしていた。山村さんは俺より1つ歳下の女の子だ。黒の長い髪、茶縁眼鏡でキリリと決めたなかなかの美人である。仕事もできる子だ。

「そうなんですか。へぇー、山村さんね。へぇー……」

天津飯を頬張った奴の目が何故か意味深だった。

「え? 何? 何かあるの?」

「いや、まぁ……知らないなら……」

「なんだよ、言えよ。気になるだろ。あっ、もしや、俺嫌われてる?」

そうだとしても文句は言えない。年中酒臭いし、社内態度が良くない自覚くらいあるのだ。

「いやいや、気づいてないんですか?」

「だから何が?」

「嫌われてなんてないですよ。むしろその逆です」

「逆?」

レギュラー麺を口へ運ぶ手が止まる。

「えっ? どういうこと?」

「まったくもぉー、鈍いですねぇ」

ソータがニンマリ笑う。気持ちが悪い。

「えっ? 山村さんが俺のこと? まじで?」

「どう見てもそうですよ! 俺、けっこう前から思ってましたよ。ほんま隅に置けないですねぇ」

「まじで? 全然気づかなかった」

本当に気づかなかったのだ。

「仕事してる時もめちゃ意識してますよ。分かりやすいなぁって思ってましたもん」

ソータがまたニンマリと笑う。やっぱり気持ち悪い。

「そ、そうか。よし」

「よし?」

俺は最後のスープを飲み干した。これはいいことを聞いた。

「うん、そろそろ行こう」

「えっ、もう行くんですか?」

「当たり前だろ。仕事だよ仕事!」


俺達は足早に天六を後にして、地下鉄へ乗り込む。堺筋線は心地よいリズムで揺れ、俺達を眠りのチャンネルへ導く。

2駅先で乗り換えがある俺はウトウトする感情を欠伸で放出してやり過ごす。ソータは乗り換えが無いので隣で早くも寝息を立て始めていた。

眠るソータをそのままにして、俺は阪急電車へ乗り換え京都方面を目指す。気が付くともう雨は上がっていた。

さて、楽しい営業同行になりそうだ。

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