第2話

体育館は暑かった。

何年振りかのバレーボールなのに思った以上に身体が動く。遠くを駆けるバスケ部員達の足元が揺らいで見える。

あれは蜃気楼か? それとも俺の頭が飛んでしまいそうなのか? おそらく後者だろう。俺はもう30分以上、コートを右へ左へボールを追いかけているのだ。それにしても動ける。予想の遥か上を行く俊敏な動きだ。

俺は中高とバレーボール部だった。あまり強い学校ではなかったが、練習は厳しかった。ある時は深夜2時まで練習させられたり、ある時は気象警報が発令されていて他の部活達が帰っていく中練習を続けさせられたり、またある時は文化祭、体育祭の後、同級生達が打ち上げに行くのを横目に体育館へ向かったり……

そして俺と俺の仲間達はその練習をもの凄く頑張っていた。贔屓目で見ても、もの凄く頑張っていた。

同級生は8人いたが、結局最後まで誰も辞めなかった。あの頃、何故あんなに純粋だったのだろう? 何も考えずにボールだけを追いかけられたのだろう? そこいらの修行僧達なんかよりずっと純粋な心を持っていた気がする。

右へ左へと追いかけていたボールが突然なくなる。それにつられて俺の足も止まる。

「集合!」

キャプテンの集合の合図で部員達が監督の元へ集まる。この合図がかかったら世界中何処にいても集合しなければならない決まりなのだ。

中高生の頃からもう何十年も経つが、監督は全然変わっていなかった。周りの同級生は最近もちょくちょく会っていて、もうみんな立派な中年の顔つきをしている。この雰囲気、懐かしいな。

監督が何かを話しているが、全然聞き取れない。動いている時は何ともなかったが、一度止まるとドッと疲れが身体の自由を奪う。俺は必死で監督の話に耳を傾けるが、やっぱり全然聞こえない。そうこうしているうちに監督の話は終わった。

「ありがとうございました!」

これも決まりの一つで、監督の話の後は必ずこの掛け声で締めくくられる。ささやかながらも部活動にはたくさんの決まり事があるのだ。

しかし掛け声の後、監督を見るとどうも様子がオカシイ。明らかに危ない目をしている。不甲斐ない試合をした後の爆発寸前の時の目だ。

監督は無言で部員の中から俺の同級生のKへ歩み寄る。このKは現在、西宮で歯医者をしており、昨年綺麗な奥さんももらっていた。そして次の瞬間、いきなり監督はKを思いっきり殴った。

「えっ……?」

余りに突然のことで俺は素っ頓狂な声を出してしまった。Kは殴られた勢いで床に倒れ、物凄い目で監督を睨みつけている。とても悔しそうな目だ。と思うと次の瞬間Kは練習用ハーフパンツのポケットから黒光りの拳銃を取り出し、迷わず監督に放った。

監督の身体が弾け、マネージャー達が悲鳴をあげる。俺はKの発砲にも驚いたが、「あ、マネージャーも来てたんだ」なんて考えていた。基本的に締まりがない人間なのだ。

監督は撃たれた身体を引きずり教官室に逃げ込んだ。と思うとすぐに豪快にドアを蹴飛ばして出てきた。その手には禍々しい散弾銃が握られている。

やばいと思った次の瞬間、監督は散弾銃を俺たちに向かって撃ちまくった。体育館に銃声と硝煙が溢れ、場は混乱に満ちた。俺は命からがら体育館倉庫に逃げ込む。他にも何人か一緒に逃げ込んだ部員がいたが、奴らは皆、ハーフパンツのポケットから拳銃を取り出し監督の散弾銃に応戦し始めた。

え? 何? みんなそんなん持ってるの? もしかして俺も……と思い自分のポケットに手を突っ込んだがくしゃくしゃになった使用済みのテーピングしか入っていなかった。

体育館の中に散弾銃の轟音が響く、その隙間を部員達が各々の銃声で埋める。そしてそれらは完璧な轟音になった。俺は体育館倉庫の陰からその様子を見ていた。ふと体育館を見渡すとバスケ部の連中は隣のコートでこんな銃撃戦が行われているにも関わらず、練習をやめていなかった。

相変わらず綿密なパスを交わし合い、たまに誰かがネットを揺らす。まったく、なんて奴らだ。

よく見ると走っているバスケ部員の中にいくつか知っている顔を見つけた。あれは誰だっけ? そうだあれは松岡充だ。他にも亀田大毅にノエル・ギャラガーもいる。一体何が起こっているのだ?

バスケコートの端に1人、寂しそうに立ちすくむ長い髪の男がいた。俺は一目でそれが誰か分かった。カート・コバーンだった。その手にはショットガンが握られている。俺は生唾を飲み込んだ。彼は虚ろな目でゆっくりとそれをこめかみへ当てる

「駄目だ! カート! それを引いちゃ駄目だ!」

俺は無我夢中で叫んだ。しかしその叫び声は無情にも轟音に掻き消される。轟音は完璧で、俺の声は圧倒的に無力であった。俺は伝えたかった。カートに俺の声を伝えたかった。指は引き金に掛けられ、今にも最後の壁を越えてしまいそうだった。

「カート! 駄目だ!」

その時、誰かが後ろから俺の肩を叩いた。あまりの驚きに俺は反射的に後ろを振り向いた。

「何してるんですか?」

そこにいたのは新入社員の廣子ちゃんと見慣れた応接室の壁だった。床にはペラペラの粗品のタオルが落ちていた。



こう見えて俺もそれなりに修羅場をくぐり抜けてきた。

だからもう、ちょっとやそっとのことでは全然動じない。今だってそうだ。俺は瞬間的に直面している状況と昨夜の出来事をその手で結んだ。昨夜、結局哀ちゃんの店で朝まで飲んでしまい、始発に乗って事務所に戻ってきたのだ。残っていた仕事を片付けようかと思ったが、その考えは3秒でシュレッダーの中でバラバラになって消えた。応接室の暖房を付けてソファに横になり、あんなにバカにしていた粗品を腹に乗せた。

そして今、目の前には奇妙な人間に直面して怯えきった廣子ちゃんがいる。

「おはよう」

俺は出来るだけ自然に言った。それ以外一体なんといえばいいのだ?

「お、おはようございます。あの、何してるんですか? ここに泊まってたんですか?」

「うん。ちょいとね、難解な仕事を抱え込んでてね。明け方までかかってしまったから仮眠を取ってたんだよ」

「えっ、そうなんですか! お疲れ様です。大変なんですねぇ」

「いやいや、まぁ日常だよ。今回はちょっと手を焼いたかな。はははは。廣子ちゃんは? なんで朝から応接室にいるの?」

「あっ、今週は私の部が掃除当番なんです。だから……」

だから……と言って言葉を濁した理由を俺はすぐさま理解した。廣子ちゃんと俺は同じ部だ。つまり俺も掃除当番なのだ。

「そうかそうか。いつもゴメンね。じゃ俺、そろそろ仕事に戻るよ」

なるべく気まずい感じを出さないように部屋から退散しようとする。

「あの……」

「ん?」

「なんかこの部屋、酒臭くないですか?」

「……」

なかなか鋭いところを突いてくる。そして間違いなく酒臭い。何故なら酒臭い俺が何時間もここで寝ていたからだ。

「そ、そうかな? 俺、鼻詰まってるからかよく分からないな。ではでは」

廣子ちゃんは少し疑わしげな目をしたが、俺はその視線をかいくぐり足早に応接室を出た。


まだ8時半だというのに事務所にはほとんどの社員が出社していた。まったくなんて真面目な会社だ。自分のデスクは昨夜のまま、やりかけの仕事が散らばったままだった。

「おはよう」

前の席に座る課長が眠そうな俺に声をかける。

「あっ、おはようございます」

「なんや。眠そうやな。いろいろ大変なのは分かるけどあまり無理するなよ。たまには早く帰って子供を風呂にでも入れてやれ」

「はぁ」

そこで俺は初めて昨夜、配偶者に何も連絡をしていないことを思い出した。きっと俺の飯は冷たくなってテーブルの上に置きっ放しにされているのだろう。レンジで蘇生され、誰かの胃袋に無事収まることをただただ祈る。配偶者の他に、うちには産まれてまだ半年足らずのやや子もいる。暖かい肌と甘いミルクのような匂い。課長の言う通り、たまには早く帰って風呂にでも入れてやろう。


何はともあれ仕事である。俺のメインの仕事は前述した通り、印刷物の営業マンである。

通知物関係を主に担当している。中島らもは著書「頭の中がカユいんだ」で「印刷会社の営業マンの仕事は謝ることだ。どんなに気をつけていても版下制作、製版、刷版、印刷、加工、どこかのプロセスでまるで僕を嘲笑うかのようにミスが混入してくる」と述べていた。

この本が出版されたのは1986年だが、それから約30年経った今でも印刷会社の立ち位置というものはまったく変わっていない。中島らもの言うことはある意味では圧倒的に正しい。

参考までに俺の今携わっている仕事について簡単に説明したいと思う。

同仕様で文面の違う通知物をエンドユーザー各15社に送付するというものだ。


(仕様)


15社

計100,000枚

送付用封筒 …… 長3封筒、片面スミ1色、各15社分刷り分けあり。


・帳票①封入・印字物1枚目(申込書) …… A3、片面印字、両面スミ1色印刷、DM折り加工あり、各15種刷り分けあり。名寄せ※あり


・帳票②封入・印字物2枚目(案内文) …… A4、片面印字、両面フルカラー印刷、巻三つ折り加工あり、各10種刷り分けあり、選択封入あり。


・帳票③封入・印字物3枚目(委任状) …… A4、片面印字、片面スミ1色印刷、巻三つ折り加工あり、各9種刷り分けあり、選択封入あり。


・同封④封入物4枚目(返信用封筒)

長3封筒、片面スミ1色、巻三つ折り加工あり、各15種刷り分けあり。


以上、4種の印刷物を作成して、それぞれをマッチング※封入した通知物を郵送、もしくは宅配便(信書便)で発送。


※名寄せ……同帳票で複数枚封入があること。AさんにはA①ー1+A①ー2という要領で対象者毎の称号が必要


※マッチング……それぞれの帳票に個人情報が入っており、それらを対象者毎に合わせて封入すること。Aさん宛通知物、A①+A②+A③+A④という要領で対象者毎に称号が必要



以上である。最近の印刷会社は印刷だけでなく、このような後加工まで一手に請け負う。

この仕様を見て「これはちょっと危険なのでは……」なんて思った貴方、春になったらエントリーシートに適当な文句を書き、是非弊社の門扉を叩いてほしい。貴方には見込みがある。

逆に「えっ、何? 別に簡単なことじゃないの?」なんて思った貴方。豆腐の角に頭をぶつけて他の会社へ就職することをお勧めする。弊社のエントリーシートは「メーヴェ」と名付けた紙ヒコーキにでもして窓から飛ばすといい。

前述した仕様について危険視される部分が複数ある。

まずは基本的なところだが、マッチング・名寄せがあることだ。個人情報の管理にナーバスな昨今の世の中、帳票の入れ間違いが一番怖い。例えば、Aさんに対してA①+A②+A③+A④という内容の通知物を送らなければいけないところをマッチングミスでA①+B②+A③+A④という内容で送ってしまったとする。もうこれでアウトである。Bさんの個人情報の流出。お陀仏である。

名寄せにしてもそうだ。A①ー1+A①ー2とならなければいけないのにA①ー1しか入っていなかったとする。当然、ではA①ー2は何処へ行った? という話になる。これが他人の封筒に入っていたら、これもまたお陀仏。見つからないなんてことになったらそれもそれで厄介だ。部屋の中でゴキブリを見失ってしまった後のような気持ち悪さがそこには残る。

次に刷り分けの種類が多い。封筒も帳票も、仕様(サイズ、用紙規格、色数)がまったく同じでそれぞれ印刷内容が少しずつ違うのだ。このことによって、入れ間違いの可能性が生まれる。これは非常に危険だ。A社の社員に送る通知物がB社の封筒で届く。そう、お陀仏だ。西内まりやのファンクラブ会報がトレンディエンジェルのファンクラブ(あるのか?)の封筒で届いたら君だって怒るだろ?

その他にも印刷色、納品先指示、版下内容等、隠れた危険はまだまだある。印刷会社の営業マンの日常はこれを一つずつ潰すこと、そして潰しきれなかったらすぐに謝りに行くこと、これに尽きる。俺も今まで錚々たる数の詫びを入れてきた。菓子折のレパートリーも年齢の割には豊富だ。

しかし、印刷会社だって馬鹿じゃない。前述したようなミスを起こさないように様々な設備を導入し、人員を配置している。そしてそれらに指示を与えるために営業は深夜までの残業を余儀なくされるのである。ありがたいことだ。お陰様で配偶者からは早くも「母子家庭」扱いを受けている。

何かと愚痴っぽい文章になってしまったが、俺は別に自分の仕事が嫌いな訳ではない。どちらかと言えば好きかもしれないくらいだ。ただ、仕事の説明を文章にすると何故か愚痴っぽいものになってしまうのだ。不思議である。

仕事に対して「意識が高い系」という奴らが世の中にはいる。俺はどうにもそういう連中が苦手だ。奴らはいつも自分は頑張ってる、仕事がデキるということを周りにアピールしたがるのだ。俺はそんな話を耳にする度に「へぇ……」と後期トリビアの泉のように哀愁ただよう相槌で話を逸らすようにしている。

これは持論だが、本当に凄い人間は自分のことを「凄い」なんて言ったりしない。何故なら自分が言うまでもなく周りが「凄い」と言ってくれるからだ。結局、誰も自分のことを「凄い」と言ってくれない人間が自分のことを「凄い」なんて言い出すのだ。そんなことをしても自分の価値を下げるだけなのに、奴等は何故それに気づかないのだろう? 頑張っている自分と言うものはそんなに可愛いのだろうか?

そしてまた、その様な「意識が高い系」共は周りの人間を見下しがちな傾向にある。「俺はこうこうこうで凄いことしてるんだぜ。君はそうそうそうなのかい? あー、いいね、そういうのって楽そうで」なんて具合だ。まったくもって余計なお世話である。

頑張っているならそれはもちろんいいことなのだが、それをひけらかすのが気に食わない。俺が思うに仕事なんて結局は個人技でパーソナルなものなのだ。だから職場の中で「あの人は楽そうでいいなぁ」なんて言っている連中のことも俺は理解できない。だから何だ? と言う話だ。

もし君もそのように楽な仕事をしたいのであれば直ぐに異動願いでも出せばいいのだ。楽な仕事をしている人もそれなりに大変なはずだ。

職場に毎日机に向かい文庫本を読んでいる女の子がいる。彼女は仕事ができない訳ではないが、立場的に任せられる仕事が少ないのだ。だから彼女はやることがなくて毎日文庫本を読んでいる。そんな彼女を周りは陰で非難する。「いいわねぇ、毎日楽そうで」「ちくしょー、俺もあのポジション行きたいぜ」なんて言われている。

だがしかし、よく考えてくれ。きっと彼女も辛いはずだ。なんせ毎日毎日、事務所に来ても仕事なんてほとんどないのだ。ある意味で暇な時間というものは忙しい時間よりもずっと辛い。彼女は毎日ぐっとそれに耐えているのだ。有り余る時間への抵抗として文庫本に手を出したが、会社という組織の中では明らかにエヌジイな行為である。本人もそれくらい理解しているだろう。言うなればいつ誰に雷を落とされても文句を言えない状況なのだ。気が気ではないだろう。そしてもちろん、そんな彼女に会社での明るい未来は待っていない。

さて、そんな彼女に対して裏で陰口を叩いていた君たち、

「楽そうでいい」

本当か? たぶんそれなりにしんどいぜ。人に嫌われると言うことは幾つになっても悲しいことだ。

「羨ましい」

へぇ。じゃあ明日にでも異動願いを出せばいいじゃないですか。その代わり、そんなことしたら君の未来が、明るいマイホームが永遠に闇の中へ消えて行ってしまいますぜ、旦那。

結局それは彼女自身の問題であって他人の入り得るところではないのだ(この場合、彼女の上司は別である。上司には管理責任がある。そしてそれが上司の仕事なのだ)彼女は楽な仕事と引き換えに大事なものを失っている。「俺なんて仕事も忙しい上に人間関係でも上手くいってねぇよ!」なんて言っているそこの貴方。そういう文句は上手く纏めて別の会社の面接官にでも聞いてもらえばいい。貴方の熱意はきっと届くはずだ。

俺は別に彼女のことをフォローしているわけではない。もちろん社会人としてのルールというものはあるし、ルールを破ることはいけないことだ。

つまりは陰口と余計なお世話というものが嫌いだということだ。特に「意識が高い系」の余計なお世話というものが。

たまに「お前、仕事に命かけてんのか?」的な意識も高い上にお熱い方もいらっしゃる。俺は思う。みんなそれぞれに仕事をして、その見返りにお給料をもらい生活をしているのだ。だから望もうが望むまいが、仕事には命がかかっているのだ。だからそんな当たり前のことをドヤ顔で言うのは止めてほしい。俺はそんな奴が嫌いだ。カボチャの次くらいに嫌いだ。


そんなくだらないことを考えながら俺は先程の通知物の手配を進めていた。時計を見ると時刻はもう11時半。いけない、いけない。つい集中してしまっていた。そろそろラーメンでも食べに行こう。

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