素敵な闇

@hitsuji

第1話

気が付いたら時刻はもう23時半だった。うっかりしていた、後30分で日付が変わる。

いつもなら行きつけの飲み屋で誰かの「じゃあそろそろお会計に……」なんて一言を待ってハイボールでも啜っている時刻である。暖かい居酒屋の冷たいお酒。世はもう忘年会シーズンである。偉いさん達はと言うと、早々に仕事を切り上げ街へ繰り出して行った。当然俺も、と言いたいとこだが、しかし今日は違った。

ここは賑やかな居酒屋の一角なんかではなくエアコンも消された寒々しい事務所だ。もう俺しかいない。

俺の属している会社は一応、まっとうな会社である。小綺麗な事務所。大きな窓からは悠然と横たわる堺筋が見下ろせるが、消防車が何台も通った時か雨が降りそうな時しか窓の外なんて見ない。多分それは俺だけではないだろう。

一人なのをいいことに俺はラジオを聴きながら仕事をしていた。珍しく坂本慎太郎がラジオに出ていた。この人の声は不思議だ。こんなにぼぉっとした感じなのに、どこか知的である。しかしインタビュアーは困るだろうな。話の間が持たないのだ。変な緊張感がラジオからひしひしと伝わる。

俺は本物の天才というのは坂本慎太郎みたいな人を指すのだと思う。寡黙にコツコツと自分の思うことをやって、それを決してひけらかさないのに、評価をされる。だいたい、アルバムを出すたびにミュージックマガジンは高評価を出してくれ、確実に年間トップ5には入ってくるのだ。俺なら間違いなく調子に乗る。しかし当の本人は何を聞かれても「はぁ」とか「まぁ」とかしか言わない。なかなか出来ることではない。本物の天才にとって、言葉なんて必要最低限のピースがあればいいのだろう。しかしインタビュアーは困るだろうな。

何はともあれ23時半である。終電は23時45分。さて、もうそろそろここを出なければまた応接室のソファに一晩お世話になることになってしまう。夏場ならばまだいいが、この時期は流石に辛い。横になることはできるのだが、掛け布団がないのだ。あると言えば何かの粗品でもらったペラペラのハンドタオルくらい。タオルケットにもなりゃしない。

諦めて俺は戸締まりをして電気を消す。前に電気とエアコンを消し忘れたまま帰った社員がおり、問題になったのだ。電気を消し忘れていないか、再度確認する。エアコンはまだ俺がいるにも関わらずとっくの昔に眠りについていた。誰の仕業だろう? ずいぶん親切な輩がいたもんだ。

時計を見ると時刻は23時37分、いよいよ本格的に急がなければならない。

エレベーターで一階まで降りる。天の助けか、奴は呼んだらすぐに現れた。まるで金斗雲のようだ。一階まで急降下する。エレベーターが開いた瞬間、俺は駆け出す。最後に帰る人間が事務所の鍵を警備員室に返却する決まりなのだ。記帳することが意外と多く、これがなかなか面倒だ。

警備員のおっさんがゆっくりと台帳を渡してくる。俺は急いでいたので、それを剥ぎ取り、芸能人のサインみたく走り書きでサインをしてビルを後にする。あのおっさんは確実に俺のサインを解読出来ないであろう。なんせ俺自身でも読めないのだから。それに、もう一度書けと言われても書けない。


外に出たら満天の星空ー、とまではいかないが珍しくそこそこ星が出ていた。綺麗だった。

綺麗なものを綺麗だと感じられる心が自分にまだあることに今日も感謝して、俺は地下鉄への帰り道を急ぐ。なんとか間に合いそうだ。

道の途中に、飲み会帰りと思われる若者三人組が歩いていた。男男女の組み合わせで、女は後ろ姿からだがなかなかの美人だと見受けられた。キュッと上がったパンツスーツ、無造作に首に巻かれたマフラー。肩にかかる黒い髪。これは何としても顔を拝まねば。

俺は何気ないスピードで三人を追い抜き前に回る。すぐに振り向くのもヤラシイので、改札のところで定期を探すフリをして、さり気なく振り返ってやろう。改札まで怪しまれない程度に距離をとって1、2、3で振り返る。

するとやはり、思った通り! なかなかの美人さんである。よしよし、わざわざ回り込んだ甲斐があった!

その時、ホームの方から地下鉄が走り出す音が聞こえた。こうして俺の帰路は無情にも断たれた。


前置きが長くなった、これはそんな俺の大したことのない冬の物語だ。



堺筋を逆に向かい、長堀の地に降り立ったのは日付を少し越えた頃だった。ここから心斎橋の方へ少し歩いたところに行きつけのスナックがある。とりあえず一杯飲んでから今日の身の振り方を考えようという作戦だ。引き返して応接室のソファのお世話になる気にはどうしてもならなかったのだ。まぁしかし矢沢永吉的に言えば、結論から言おうか? 「帰れない」と言うことである。

カランカランとスイスの牛達が首に付けるカウベルのような重厚な音を鳴らして、俺はスナック「哀」へ入る。店内は例によってガラガラだ。


「あら、あんた久しぶりじゃない!」

哀ちゃんの声が店内に響く。本当によく通る声なのだ。哀ちゃんはこのスナックのママだ。歳は俺より5、6歳程上なくらいなので、スナックのママとしては若い方だ。もともとは俺の会社の上司である山根さんの愛人で、俺はその関係で哀ちゃんと知り合った。そして二人が別れた今も俺は度々この「哀」へ足を運んでいる。

「なかなか儲かってなくてね。貧乏暇なしというヤツだよ」

「よう言いますわー。水割りでいい?」

「いや、一杯だけビールをもらえるかな?」

「はい、分かりました」

壁の時計を見るともう0時半近い。なんなら上手いこと言って今夜は哀ちゃんに面倒を見てもらおうか、なんて案も頭に浮かんだが止めた。山根さんとはこれからも上手くやっていきたい。いくら別れた後とは言え、ややこしい話は御免だ。女絡みのトラブルというものは情けない上に粘っこい。靴の裏で踏みつけたガムのようだ。俺はそんなくだらない案をオシボリで拭いてくしゃくしゃに丸めた。

ビールを飲むと頭がパリッとしてくる。丁度、リポビタンDを飲んだケインコスギのように。

「哀ちゃん、変わらず? 元気してた? 今日もガラガラやけど大丈夫なの?」

「私は相変わらずよ。昼の仕事が忙しくてね。夜の仕事はちょっと下降気味なのよ。まぁ私が本気を出したらまた客足は戻ってくるわ」

戻ってくるわ、なんてよく言いやがる。戻るも何も俺が通い始めた2、3年前から全然客なんて入っていないのだ。でも俺はもちろん何も言わない。まぁ昼の仕事が忙しいというのは本当なのだろう。哀ちゃんは昼は船場でスーツ屋の仕事をしている。それに小学校を出たばかりの子供を抱えており、母子家庭というものは何かと大変なのだろう。知ったことではないのだが。

「そういうアナタも最近どうなのよ? 仕事は調子いいの?」

「んー、まぁまぁかな。忙しいは忙しいよ」

「忙しいのが一番よ。ありがたいことね。あっ、小説もちょくちょく読んでるわよ」

「それはありがとう」

ここで俺の仕事のことについて書こうと思う。先ほどまでいた事務所、会社が俺の基本的な職場だ。俺はそこで印刷物の営業をしている。

そして俺はそれとは別に、小説などの文章を書く仕事をしていた。縁あって幾つかの雑誌に定期的に小説やエッセイを掲載しているのだ。ささやかながら、本も何冊か出している。つまり、兼業農家ならぬ兼業小説家なのだ。

「今もまた新しい小説を書いてるの?」

「うーん、書かないといけないんやけどね。来週末締め切りでお願いされてるのが一つあるんやけど、まだ全然イメージが固まってないんだよ」

「それってマズくない?」

「うん、マズい」

だって世の中の半分以上がマズいことだろ? 要はそれをどう料理するかだ。生きるっていうのはそういうことだろ?

なんて思ってみるが、今回は本当にマズい。なんせ来週末締め切りで、まだ一行も書けていないのだ。本当はこんなところで飲んでいる暇なんてなく、帰って小説を書かないと行けない。


「ね、ね、今日は何を歌う?」

「えっ? 早速かい? まだ一杯目だよ」

「いいじゃない。たまになんだから」

と、言って哀ちゃんは充電していたカラオケのリモコンを俺の前に出してきた。哀ちゃんと俺は少し歳は離れているが、何故か音楽の趣味が合う。ストライクゾーンが似ているのだ。だから哀ちゃんと会うといつもカラオケをせがまれる。

以前俺が酔っ払って何の気なしにスキッドロウのアイリメンバーユーをカラオケで入れた時、彼女はえらく感動した。

「これ、私の一番好きな曲なのよ!」

「えっ、あっ、そう?」

「嬉しいなー。こんなん歌う人、私初めて見たわ。いやー、嬉しいなー」

「あぁ、ありがとう」

一つ付け足すと、「歌う」と「歌える」というのはまた別の話だ。あの日俺は酔っ払っていた。冷静に考えて、あんなキーの高い曲、俺には歌えない。

「リッ、メンバァ、イエスタァデェイィー」

俺のアイリメンバーユーは断末魔に近い不気味なものだった。出来ることならセバスチャン・バックに菓子折りでも持って謝りに行きたい。それでも哀ちゃんは深く頷いて感動していた。

「ええわぁ、やっぱりええわぁ」

今思えば哀ちゃんもかなり酔っていたのかもしれない。それか酷く疲れていたかだ。そのどちらかしか考えられない。ただ、その後話をすると確かに音楽の趣味は近かった。酔っ払っている時の音楽討論は楽しい。普段は背中がムズムズしてしまい、なかなか言えない曲に対する恥ずかしい批評を惜しげも無く披露できるからだ。まるで渋谷陽一になったかのように酔っ払っい達は音楽を斬る。


さて、俺はカラオケのリモコンを覗き込む。レパートリーの少ない人間によくあることだが、とりあえず履歴ページから入る。


「とんぼ」長渕剛

「渚にまつわるエトセトラ」パフィー

「ICHIZU」やしきたかじん

「リライト」アジアンカンフージェネレーション

「中央フリーウェイ」松任谷由実


むむう……客層が読めない。どういう面子で来たらこんな履歴が残るんだ? スナックに来たらたまにこういうことがある。


「ラストクリスマス」ワム!

「EMANON」サザンオールスターズ

「ファッションモンスター」きゃりーぱみゅぱみゅ

「ノーホエア・マン」ビートルズ


……


「接吻 kiss」オリジナルラブ


うん、まぁこんなところだろう。メロウな音楽が室内に溢れる。まるで音のプールに飛び込んだようだ。

「あら、メロウねぇ……」

ふふふ、哀ちゃん、やはり分かってるじゃないか。俺は気持ち良く田島貴男に成り切る。

生きていて良かった。本当にそう思う。素敵な言葉や音楽に触れることだけがこの世に生きている喜びなのである。


「哀ちゃん」

「はい?」

「水割りを用意していただけますでしょうか?」

「そうこなくっちゃ!」

冷たい水割りを胃に流し込み曲の余韻に浸る。これもスナックの一つの楽しみ方なのである。

「ほいじゃ、私も歌っちゃいましょうかね!」

「いいね、いいね。どんどんいっちゃってよ」

客がいようと御構い無しに哀ちゃんもガンガン歌うのだ。哀ちゃんの一番のフェイバリットは洋楽ロックである。ミスタービッグやエアロスミスが特にお気に入りだ。その上、ハイスタンダードやブランキージェットシティ等、邦楽ロックにも精通しているジャジャ馬娘なのである。イカした奴だ。

リモコンの指令を受け画面が敏感に反応する。


「猟奇的なキスを私にして」ゲスの極み乙女。


……えっ?


「これ、いいのよぉ! ハマっちゃて最近毎日聴いてるの」

「あっ、うん。いいよね。ゲス乙女……」

いや、ゲス乙女がどうこうじゃなくて、俺はあんたの路線変更に驚いたんだよ。いつものウォークディスウェイはどうした?


しかし官能的で甘美な歌詞だ。ある種のポップとエロの邂逅。今の若者達に受けるのも頷ける。

哀ちゃんの歌うゲス乙女を聴きながら、俺は昨今のロック事情について考える。とにかく思うことは、圧倒的なカリスマ的存在が減ったこと、そしてシーン全体から、またはリスナーから、それを目指すことに対する諦めが感じられることだ。

以前のロックシーンは時代は違えど、いつも何人かのカリスマ達に支えられていた。忌野清志郎に氷室京介、尾崎豊に桜井和寿、そのような人々だ。そしてそのようなカリスマ達がメディアへ積極的に露出を続け、それぞれにメインカルチャーを作っていった。今から2、30年程前の話だ。

0年代に入った頃からだろうか? メインカルチャーを作り得る音楽家達は自らをサブカルチャーと定義し、表に立つことを極端に嫌った。

それは先の時代でメインカルチャーというものをあまりにもアイドル化させてしまったメディアにも原因があると思われる。要するに当時、サブカルチャーというものは悪ぶっていて格好良く思えたのだ。

チャートの上位に食い込む音楽家達がこぞってメディアに出て来ない。メディアに残ったのはアイドルと先の時代の重鎮達だけだ。これにはタモリも困ったのではないだろうか。

俺はこういった流れはバンプオブチキン以降、加速していったのではないかと考える(ただし、藤原基央は本物のカリスマだ。演奏技術や芸術性なんて抜きにして、彼の発する日本語は本当に強い。大衆音楽にとってこれ以上に大事なことがあるのだろうか? バンプオブチキンは間違いなくメインカルチャーを作り得るバンドだ。かつて自らのことをポップザウルスと定義した桜井和寿のように、望もうが否が強いカリスマはどうしても前へ押し出される定めにある)

メインカルチャーを作るカリスマが不在のまま、サブカルチャーは多くの才能で盛り上がった。それはメディアも無視してはいられない状況だった。

いつしかメディアはサブカルチャーに焦点を当て、サブカルチャーであった存在をメインカルチャーへ昇華させた。今まで時代の穴埋め、補強を担っていた存在が時代を作る存在へ変わっていったのだ。サブカルチャーはメインカルチャーに比べ、リスナーとの距離が近い。

自分達と何ら変わり無さそうな人間が時代を作る。当然リスナー達は「ん? これなら俺も出来るのでは?」なんて思うのだ。氷室京介は無理だけど、星野源なら……なんて思うのだ(失礼な話だ)ゲスの極み乙女。なんてまさにそんな時代の最新型だと思う。

要するに明らかなカリスマでなく、どこにでもいそうな兄ちゃん、姉ちゃんがシーンを作る時代になったということだ。それは悪いことでもあるし良いことでもある。

ただ、どんな時代でも良いものもある、悪いものもある。これはYMOが「増殖」で言っていたことだ。また、音楽は良い・悪いじゃなくて、好き・嫌いでしかない。と言うのは岡村靖幸の言葉である。俺はこの二つの考え方こそが音楽に対する最も的確な見解だと考える。つまりは難しく考え過ぎないことだ。

酔いが回ってきたみたいだ。難しく考え過ぎないことを難しく考えている。馬鹿だ。今の俺の頭の中は互いの尾に噛み付き合ってシックスナインをしている2匹の蛇のようになっている。レントゲンでも撮って諸君に見せてやりたい。

哀ちゃんがゲス乙女を歌い切るまでに、俺は無意識に持っていた水割りを空にしていた。

「あらあら、いいペースじゃない。おかわりでいい?」

「いや……」

「違うのにする? ウイスキーもあるけど」

「シャネルズを入れてくれ。ランナウェイがいい。それとおかわりを」

俺は空のグラスを差し出す。

「そうこなくっちゃ!」


時計はせかせかと午前1時を指していた。1時の時計の形を見ると街中のOLお嬢さん達なんかは「昼休みの終わり」なんて連想をするのではなかろうか。

しかし俺は違う。俺が1時の時計の形から連想するのは「引き返せない夜」「終わらない宴」こんな言葉だ。

水割りのグラスが冷たい汗をテーブルへ運ぶ。ドロリとした空気とナッツの香り。

いい夜というものはこのようにして更けていくものだ。

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