第9話


 九月五日――。


 岐阜県飛騨市北部のとあるアパートの一室。最近は珍しくなった畳の部屋だ。エアコンがクォゥと静かな音を立てて、全力で仕事をしている。折り畳まれた段ボールがピンクのビニール紐で纏められ、部屋の隅に無造作に積み上げられていた。


 カーテンも掛けられていない大きな南向きの窓からは、夏の陽が強烈に差し込み、白い壁紙を一層白く照らしている。


 ――パチリ。


 駒音が響く。一人の男が盤に向かっていた。


 引っ越しの荷解きと簡単な整理が終わり、やっと一息ついた裕也が、独り、手筋本を片手に将棋を指していた。


 裕也には将棋の趣味がある。大学合格のお祝いにと父が譲ってくれた将棋盤と駒を実家からこちらに持ってきていた。


 父の自慢だった将棋盤は厚さ六寸、脚付の本榧盤で、駒は御蔵島柘植だ。父が若い頃、奮発して手にいれたそうだが、今では、大枚をはたかないと、とても入手できそうにない逸品だ。


 駒もそうだ。本柘植の綺麗な柾目に繊細で力強い水無瀬の書体が盛り上げられている。角が取れ飴色に光るよく使いこまれた駒が手に馴染む。最高級品に属する盤駒を裕也に譲ったのは、父の期待と喜びの現れなのだろう。


 何十年も経っているにも関わらず、本榧の盤からは、シナモンに似た甘い芳香が立ち上ってくる。この香りに接するとリラックスする。裕也は小さい頃から、この榧の香りが好きだった。


 ――兄ちゃん強すぎ~。また負けたぁ。


 高校の頃は智哉とよく将棋を指した。大抵は八つ年上の裕也が勝つのだが、智哉は時折とんでもなく鋭い手を指すことがあった。


 ――智哉、お前、なんでこの手を思いついたんだ?

 ――何でって、こっちがいいかなって。

 ――じゃあ、俺がここに指すって何故分かったんだ?

 ――兄ちゃんの指が攻めたそうに動いてたから。

 ――攻めたそうに動いても、指すとこまでは分からないだろ。読めたのか?

 ――なんとなく頭に浮かぶんだ。ここに指すって。


 裕也の問いに、智哉はいつもそう答えていた。


(あの感性に直感……そして観察力と洞察力。あれは天性のものだ)


 裕也は、智哉に自分にない才能の煌きを感じていた。確かに自分の学業成績は良かったが、試験で頭の良さの全てを測れる訳ではない。ペーパーテストでは、記憶力と計算力、読解力に論理的思考能力を測るのがせいぜいだ。直観力や洞察力を試験で測るのは難しい。


(あいつ、研究者になる気はないのかな……)


 裕也は、自分の将来について、余り考えていないようにみえる智哉を歯痒く思っていた。


(智哉が研究者になったら、どえらくなるのになぁ)


 シカゴ大に留学し、研究を続ける中で、裕也は化け物としか思えない頭脳をもった研究者を山程見てきた。しかし、そんな彼らでさえノーベル賞級の研究成果を出すのはほんの一握りだ。着眼点と発想力、そして感性。学校で習う知識を習得しているのは当たり前の前提で、その先にあるものが必要だ。裕也は自分にその才能が足りないと感じていた。そして、それこそが智哉に備わっていることも。


 ――ブーン、ブーン。


 サイレントモードにしっぱなしの携帯がちゃぶ台の上で震えた。実家の母だった。


『裕也。どう、引っ越しは終わった?』

『ちょうど終わったとこだよ』

『そう。そっちの様子はどう』

『そっちに比べたら田舎だけど、一応市内だからね。車さえあれば特に不便はないよ』

『仕事はいつからなの?』

『研修生扱いだからね。仕事なのかは微妙だけど、一応明日からだよ。智哉はどうしてる?』

『相変わらず、部屋に閉じこもって勉強してるわ。高校ってそんなに勉強しないといけないの?あんたは殆どしてなかったじゃない』

『人それぞれだよ。ガリ勉もいいけど、たまには友達作って遊んでこいって言ってやってくれよ』

『そうね。あぁ、でも智哉ったら、今度の土曜日友達を連れてくるっていってたわ。勉強会やるんだって』

『友達作っても勉強か。あいつらしいといえばらしいが……。ま、もてなしてやってくれよ』

『そうよね……裕也は週末には帰ってこれるの?』

『分からないな。帰るにしてもちょっと様子を見てからになるよ』

『そう、そっちでも気をつけるのよ。ちゃんと食べるもの食べて』

『分かってる。じゃあ』


 携帯を切って、ちゃぶ台に置く。裕也はページを開いたまま伏せていた将棋本を手に取り、また盤に向かう。相手の『金将』を本の通りに急所に指す。次の行には「次の一手を考えよ」とあった。裕也はしばらく考えてから、駒に手を伸ばす。クロスさせた中指と人差し指に挟まれた『銀将』がピシリと高い音を鳴らした。



 ◇◇◇



 岐阜県飛騨市神岡町――。


 富山県との県境に近いこの地には、かつて東洋一の鉱山として栄えた神岡鉱山があった。しかし、二〇〇一年六月に鉱石の採掘が中止され、現在その跡地は廃墟となっている。


 しかし、硬い岩盤で囲まれた鉱山の地下は外界の影響をほとんど受けない。そこの環境が素粒子観測に最適だと東京大学宇宙線研究所が観測施設を設置して以来、ここで最先端素粒子研究が行われている。


 国道四十一号線沿いにある研究所の外観は、最先端というには少々粗末な二階建と三階建の建物だ。さして広くもない裏手門向かって右手の礎石にはめ込まれた「東京大学宇宙線研究所神岡素粒子研究施設」のプレートを見なければ、それとは分からずに通り過ぎてしまうだろう。


 だが、ここから南に十数キロ下った二十五山と呼ばれる山のてっぺんから、六百五十メートル下の地下に、『ウルトラカミオカンデ』がある。


『ウルトラカミオカンデ』とは素粒子のひとつであるニュートリノの検出器である。その本体は深さ四十八メートル、幅五十四メートル、長さ二百五十メートルの円筒形の二つのタンクから成る。先代の「スーパーカミオカンデ」の二十倍にも及ぶ容積百万トンのタンクには超純水が蓄えられている。


 ニュートリノは殆ど質量を持たず電磁力も働かないため直接観測することは難しいのだが、大量の水の中を通過するとニュートリノが放出する光子が水によって減速され「チェレンコフ光」と呼ばれる青白い光が取り残される。それをタンクの内側の壁に設置された九万九千本もの大型の超高感度光センサーで捉えるのだ。


 裕也は、シカゴ大からの研究生として八月から此処に来ていた。


「桐生さん、UKウルトラカミオカンデの結果が出ました」


 太っちょ眼鏡の若い男が分厚い観測データを持って駆け寄ってくる。この男は日浦二郎。東京大学工学部の院生で裕也の一年後輩にあたる。日浦は、卒業後直ぐにシカゴ大学に留学した裕也に続いて同じ研究室に入ったのだが、三回生の時分から研究室にちょくちょく出入りしていたこともあって、裕也とは顔見知りだった。それだけにシカゴ大学に留学した裕也と再会できたことを喜んでいた。


「これで三回目だね」

「そうです」

「しかしこの値はいくらなんでも……有り得ないな」


『ウルトラカミオカンデ』が捉えた「チェレンコフ光」が描くドーナツ状のパターン解析図をなぞりながら裕也は呟いた。ニュートリノの観測は非常に難しく、先代の「スーパーカミオカンデ」の二十倍の感度を誇る「ウルトラカミオカンデ」でも一日に数個程度が精々だ。ところが日浦が持って来た観測データはその百倍以上の値を示していた。三本のピーク線は互いに数ヶ月ほどの間隔を開けて、出現している。


「ホームステークやグランサッソでもピークは出てないんだったよね」

「そう聞いてます」


 世界には「ウルトラカミオカンデ」以外にもニュートリノを観測できる施設がいくつかある。代表的なものは、アメリカのホームステーク鉱山の二ュートリノ望遠鏡やイタリアのグランサッソのトンネル内の観測施設などがそうだ。その他にも、南極のアムンゼン・スコット基地の地下二千四百五十メートルの氷の中にセンサーを埋め込んだアイスキューブ・ニュートリノ観測所がある。


 不思議なことにニュートリノの異常ピークは、ここ神岡町の「ウルトラカミオカンデ」だけで観測され、その他の観測所では検出されていなかった。


 無論、超新星爆発などで大量のニュートリノが発生することはあるが、その場合は複数の観測施設でニュートリノが観測される。一ヶ所でだけしか観測されることは有り得ない。


 だが、裕也が覚えた違和感はそれとは別の所にあった。


「ピークを出したニュートリノの進入角は、百八十度だね」

「えぇ。不思議ですね。最初のピークからどれも水平方向です」

「KEKから連絡はあったかい?」

「ここ一年、ニュートリノビームは一切発射していないそうです」

「ふむ……」


『ウルトラカミオカンデ』のタンク内壁は、その全面に超高感度光センサーが取り付けられている為、どの場所のセンサーがニュートリノを捉えたかを調べることで、ニュートリノがどの方角からやってきたのかが分かる。通常ニュートリノはあらゆる方向から飛んでくるため、統計的には特定の方角からだけニュートリノが観測される事はない筈なのだが、日浦の持って来たデータはその常識を強く否定していた。


 確かに、先代の『スーパーカミオカンデ』が稼働していた時代には、KEK――筑波にある高エネルギー加速器研究機構――の持つ陽子加速器で人工ニュートリノを「スーパーカミオカンデ」に向かって打ち込む実験が行われたことがあった。しかし、そのプロジェクトはとっくの昔に終了している。


(水平方向からのニュートリノが突出しているということは、ここに近い地上の何処かか、その延長線上の宇宙から大量のニュートリノがやってきていることになるんだが……)


 裕也は右手で左頬をポリポリ掻きながら、しばし考えていたが、答えはでなかった。



 ◇◇◇



 裕也と日浦が考え込んでいると、少々乱暴にドアを開けて、二人の男が入ってきた。


「桐生。お前のリクエスト持って来たぞ」

「モテ光と二晩徹夜してデータを纏めんだ。後で奢れよ」


 裕也が帰国したときに成田まで迎えにきた佐藤と剣崎だ。


「代金は成田で払った筈だが」


 裕也が抗議すると剣崎がその理由を説明した。


「予算オーバーだ。俺たち二人を三十時間拘束して三千八百円はないだろう」


 裕也は笑って承諾した。


「それは手間かけさせてしまったな。まぁ座ってくれ。今はお茶しかないが」


 お茶を用意しようとした裕也を日浦が制してお茶を持ってくる。紙コップに注いだ粗末なものだったが、十分に冷えていた。


 佐藤と剣崎は、同じ神岡鉱山の池ノ山地下二百メートルに設置された低温重力波観測望遠鏡「かぐわ(KAmiokaGravitationalWAve)」を担当している。


「かぐわ」は重力波を観測するために新たに設けられた観測施設だ。長さ3キロのトンネルをL字形につなげた構造をしている。


 観測は中心部からレーザーを二方向に同時に発射し、トンネルの端に設置された鏡で反射して戻ってくるまでの時間を計測する。もしも重力波が届いていれば、トンネル内の空間が歪んで伸縮し、それぞれの方向からレーザーが反射して戻ってくるまでの時間に僅かな差を生じる。それを観測することで重力波を検出するのだ。


 裕也は成田で佐藤と剣崎に、過去数ヶ月の重力波観測データを見せて貰えないかと頼んでいたのだが、早速用意してくれたのだ。


「少々量はあるがな」


 といって佐藤はUSBメモリを裕也に手渡す。


「少々ってどれくらいだ?」

「画像データ三百枚に、テキストで千頁くらいかな」


 裕也は聞き違えたのかと思い、念のため確認した。


「纏めたんじゃなかったのか?」

「纏めたさ。十分の一くらいにな」


 佐藤は赤い眼で何度も瞬きしながら、何でもないことのように答えた。裕也は体力自慢の剣崎と一緒にデータを纏めた佐藤のタフネスに感嘆し、その誠実さに感謝した。


「佐藤、剣崎、ありがとう。ゆっくりと分析させて貰うよ。夕飯はコメダでいいかな?」


 裕也は車で少し北上した富山インター近くのコメダ珈琲を提案してみたのだが、佐藤と剣崎は口を揃えて即座に却下した。


「源ます、だ」


 魚好きの裕也は鱒寿司弁当でも悪くないな、と思った。

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