第8話

 エンリコ・フェルミ原子核科学研究所LHC物理学センター。


 アメリカのシカゴから西に三十キロ、バタヴィア近郊に位置するこの研究所は、世界最大規模の物理学研究所である。


 東京ドーム六百個分もの広大な敷地のほとんどは自然保護区となっており、バッファローが放牧されている。世界各国の百五十三もの研究所から、三千人を超える研究者が集まり、従業員やスタッフを加えると総勢は六千人を超える。彼らはここで日夜研究に没頭していた。


 一九六七年に創設されたこの研究所はアメリカの「国立加速器研究所」を前身とし、一九七一年に「原子炉の父」であるエンリコ・フェルミ博士を讃え「エンリコ・フェルミ原子核科学研究所」と改められた。以来、この研究所ではクォークの発見やニュートリノに関する研究など目覚ましい成果を上げている。


 その研究所の一角で、一人の若い日本人研究者がプレゼンをしていた。彼の名は桐生裕也。智哉の兄だ。大学卒業後、粒子研究のためシカゴ大学に留学したのだが、担当教授のフレデリック・サイラスからLHC物理学センターに行くように指示を受け、半年前からこちらに移っている。


 裕也が参加しているのは、二週間に一度行われる定例のミーティングだ。しかし、ここでは、参加者との交流を促すことで、新たな発想と相互作用を引き出すという狙いから、スライドを使ったプレゼンは禁止されている。ミーティングは専らディスカッションによって進められ、質問があればその都度ホワイトボードに板書する。


 裕也はいくつかの質問に、数式をホワイトボードに書きつつ丁寧に答えていた。一通り質問が終わり一瞬の沈黙が生まれたのをみた裕也は、静かにマジックを置いてプレゼンを終えた。


 参加者の賞賛と拍手が裕也を包む。裕也はエンリコ・フェルミ研究所ではまだ新参者なのだが、アメリカでは優れた発表は素直に評価する気風がある。


「グッドだ。ユウヤ。中々興味深い結果だね」


 ミーティングを主催している初老の教授が、一通りの講評と上々の評価を下す。この日の裕也のプレゼンはニュートリノに関するものだったが、新たな知見を示唆するものとして注目されたようだ。


 ミーティングルームから退出しようとした裕也をその教授が呼び止める。


「ユウヤ。ドクター・サイラスが来ている。君に伝えたいことがあるそうだ」

「オーケー。サンクス、プロフェッサー」


 不肖の弟子の様子でも見に来たのかな、と少々不遜なことを考えながら、裕也はサイラスの研究室に向かった。



 ◇◇◇


 エンリコ・フェルミ研究所の敷地中央に位置する一つの建物。ウィルキンソンホールと呼ばれるその建物は、地上に近づくにつれて幅が広がる独特のテーパー形状をしている。


 その建物の中の一番広い研究室。二つの大窓から高い角度で自然光が入ってくる。天井は高く、壁は白に統一されていた。作り付けの本棚には資料とみられる文献や書籍類が所狭しと並べられていたが、何故か日本の古い週刊漫画雑誌の背表紙も混ざっている。


 一人の男が机に向かっていた。


 面長の顔に知性を感じさせる広い額。古風なウェリントン型の眼鏡を掛けたサイラスは現在取り組んでいる論文の仕上げに取り掛かっていた。


 彼のメインの研究室はシカゴ大学にあるのだが、LHC物理学センターにも研究室を持っている。


 サイラスはもう退官近い年齢なのにも関わらず、研究意欲は衰えるどころか増々高まっている。退官後はアドバイザーとして研究所に残るよう要請されていた。


「ドクター、裕也です」


 開けっ放しのドアをノックして裕也は挨拶した。手にしたペンをペン立てに収めると、サイラスは椅子ごと向き直って、嬉しそうに声を掛ける。


「元気そうだな、ユウヤ、何よりだ。こちらにはもう慣れたか」

「いえ、まだですね。ここは人が多いし広すぎます。日本とは何もかも違います」


 裕也は少しおどけたポーズを取ってみせた。しかし、明るくてユーモアのある裕也は、こちらでも直ぐに受け入れられたし、コミュニケーションには何の問題もなかった。裕也がおどけてみせたのは、きっとユーモアの範疇なのだろう。


「そうか。ユウヤ、君は若いから大丈夫だ。心配する必要はない」


 そう言ってサイラスは研究室の真ん中に置かれた来客用のソファーに座るよう勧めた。裕也はサイラスに断りを入れ、備え付けの全自動ミル付き珈琲メーカーで珈琲を二杯淹れ、テーブルの端にその一杯を置くと、もう一杯を右手に持ったまま零さないよう気をつけて、珈琲を置いた側の反対側のソファーにゆっくりと腰かけた。


 サイラスは珈琲を淹れてくれた礼を裕也にいうと、自分もソファーに腰を下ろす。


「で、教授。何かありましたか」

「これを見てくれ」


 単刀直入に問いかける裕也にサイラスは一部のレポートを渡す。


「これが何か分かるかね」

「ニュートリノ振動の観測データのようですが、ちょっと変ですね。カウントが多すぎる」

「やはりそう思うかね」


 レポートのサマリ部分をざっと見た裕也は即答する。レポートのグラフには二本のピーク線が見て取れた。


 サイラスは深く頷いた。


「ユウヤが指摘するように、ここ数ヶ月ニュートリノの観測値に異常が見られている。現地に行って詳しく調べてきてくれないか」

「私がですか」

「うむ。君に行って貰うのが適任だろう。コミュニケーションも全く問題ないと思うが」


 ニヤリと笑ったサイラスに裕也はウインクで応えてみせた。


「喜んで行かせていただきますよ。ドクター」


 裕也が手にしたレポートの作成元の欄には「東京大学宇宙線研究所/UltraKamiokande」と記されていた。



 ◇◇◇



 ――九月二日。午後三時。成田空港。


「まだまだ暑いねぇ。こっちは」


 荷物受け取りのベルトコンベアからバッグを担いだ裕也は独りごちた。


 裕也はシカゴ大のサイラス教授の命を受けて、ニュートリノの調査の為、帰国したのだ。


 その裕也の元へ、大学時代同じ物理学の研究室だった同期二人が迎えに来ていた。三人は立ち話もなんだから、と近くの店に寄ることにした。


 この同期の二人は、ウルトラカミオカンデのある東京大学の神岡素粒子研究施設に研究者として勤務している。


 一人は佐藤弘光、もう一人は剣崎学といった。


 細面のすらりとした顔立ちの佐藤は、ともすれば歌舞伎役者と間違えそうだ。佐藤は百九十センチ近い長身と抜群のスタイルで学生時代はモデルのバイトをやっていた色男だった。


 一方、剣崎は同じ研究者であるが、こちらは根っからのスポーツマンであった。大学在学中にプロボクサーのライセンスを取得し、ゴルフもシングルの腕前だ。今でも時間があればボクシングジムに通っている。佐藤に「モテ光」という綽名を付けたのも剣崎だ。


 三人は席につくと、店員から冷えたおしぼりを受け取ると、ビールをジョッキで注文した。


「久しぶりだな、佐藤。剣崎」


 裕也は時差ボケした様子も見せず弾んだ声でいった。


「お前もな。とりあえず乾杯しようや」

「田村研同期の再開を祝して、乾杯!」


 佐藤も剣崎も顔を綻ばせる。


「桐生、向こうはどうだ?」


 ビールに一口つけた、佐藤がニヤリとする。


「いやぁ、やっていることは大して違わないんだが、スケールが違うな。人も金も桁が違う」

「やっぱりな」


 佐藤が頷いたのを見て、今度は裕也が問い返す。


「そっちはどうなんだ。ウルトラカミオカンデは」

「そりゃ、UKウルトラカミオカンデは世界と張れるさ、でも田舎だぞ」

「鉱山の街だろう、それなりなんじゃないのか」

「それは昔の話だ。今は廃墟だよ。あ、リサイクル工場がまだ動いてたかな」


 ほらみろと言った顔をした裕也に佐藤は止めを刺した。


「そんな期待しても無駄だよ。何かしたけりゃ富山に出るしかないな」


 ウルトラカミオカンデがある岐阜県飛騨市神岡町は、岐阜県ではあるが富山との県境に位置し、飛騨市内に行くのと富山に出るのと大して違わない。買い物など半分は富山の生活圏だ。


「で、桐生、なんでいきなり戻ってきたんだ」

「そうだ。まだ向こうにいって一年も経ってないじゃないか。さては首になったか」


 佐藤に続いて、冷えたビールをぐいと飲み干した剣崎が言った。


「そうじゃない。ウルトラカミオカンデのニュートリノ観測データに異常値が出てるから詳しく調べてこいってさ」


 裕也が答える。


「ああ、そういえば、日浦がそんなこといってたな」


 佐藤が思い出したように言う。日浦は三人の一つ後輩で、裕也達が在籍していた研究室に所属している。


 暫くおいて、裕也はビールをあおってから、二人に向き直った。


「そこで、ちょっと頼みがあるんだが……」


 佐藤と剣崎は昼飯代と引き換えに裕也の頼みを請け負った。

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